夫婦関係
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東京に出てきてわずか4年で亡くなったため、残された記録は少ないが、後年、曾孫の利泰が世田谷の自宅で唯一残る満寿子の手紙を発見した。利通が京都で幕府打倒の密謀に奔走している頃、薩摩での日常の細々とした報告の手紙であった。利通からは息子2人の米国留学を心配する妻をなだめる手紙や、欧米視察の際、旅先から妻を想う歌を詠んだ手紙が残されていて、愛妻家であった事がうかがえる。利通は厨房で五目寿司を作ることもあったという。大久保家には満寿の霊代として、小さな指輪が残されている。
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夫婦関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 14:05 UTC 版)
崇徳院は女房兵衛佐局を深く寵愛し、聖子とは疎遠であったという説があるが、これは的確でない。崇徳天皇の在位中、聖子は常に天皇と同殿しており、譲位後も、しばしば上皇が聖子の御所へ御幸、もしくは聖子が上皇御所へ行啓している。ただし、保延6年(1140年)9月2日、兵衛佐局が崇徳の第一皇子(重仁親王)を産むと、聖子とその父である関白・忠通は不快感を抱いたという(『今鏡』第八、腹々の御子)。 保元の乱の後、崇徳院が讃岐国へ配流になった際に兵衛佐局が同行したのに対し、皇嘉門院が同行せずに都に留まったのは、立場の相違に由来するものであって、寵愛の程度によるものではない。たとえば、後世の後鳥羽上皇の配流に際しても、随行したのはそれほど身分が高くない女房で、院の寵愛篤い修明門院はお供していない。貴人の配流に際し、身の回りの世話をするために、近侍していた人々がお供をした。皇嘉門院のように、只今の女院、かつて天皇の正妃・母后として中宮・皇太后の尊位にあった女性は、上皇とほぼ同等の身位にあり、上皇に随侍する立場にない。女院は、同行しないというより、通例では同行できないのである。 父・忠通は摂関家の体面を粉々に潰した保元の乱において、辛うじて勝者となっている。忠通の後ろ盾によって、保元の乱以後も皇嘉門院は朝廷で尊重された。
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