蛮社の獄とは? わかりやすく解説

ばんしゃ‐の‐ごく【蛮社の獄】

読み方:ばんしゃのごく

《「蛮社」は洋学仲間の意「蛮学社中」の略》天保10年(1839)江戸幕府尚歯会渡辺崋山高野長英らに加えた言論弾圧事件モリソン号事件などにおける幕府政策批判した罪などにより、崋山国元での蟄居(ちっきょ)、長英永牢処された。


蛮社の獄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/20 00:16 UTC 版)

蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年[1]5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英渡辺崋山などが、モリソン号事件江戸幕府鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど処罰された。


  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020年12月2日閲覧。 
  2. ^ 鹿児島県史』
  3. ^ a b c d e f 田中『「蛮社の獄」のすべて』
  4. ^ 山脇悌二郎「天保改革と長崎会所」(『日本歴史』248号、1969年1月)


「蛮社の獄」の続きの解説一覧

蛮社の獄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 15:53 UTC 版)

鈴木春山」の記事における「蛮社の獄」の解説

天保10年1839年4月9日春山が康直の参勤伴って江戸詰めとなってまもなく、同年5月14日、「蛮社の獄」が起こった渡辺崋山が捕えられ、長英逃亡小関三英自害し春山自宅蘭書などを押収されたものの、春山自身逮捕免れた5月18日春山偶然に自首前の長英会い獄中記鳴音』と後事託されたという。春山江戸で崋山救済のために奔走し例え事件受けて出府した田原藩儒・伊藤鳳山とともに掛川藩儒である塩谷宕陰合議でどこかへ救援依頼する書面作成画策したり、牢内の渡辺崋山手紙やり取りするなどしていることが崋山の画友である椿椿山の蛮社の獄についての書留録『麹町一件日録』に見える。その後崋山蟄居のために国許・田原護送された際には先立って帰郷し獄中での衰弱回復すべく治療に当たり、画商紹介して崋山の画を売る、話し相手となり時に元気づけるなど、積極的に世話をした。しかし、こうして春山国事犯蟄居中の崋山堂々と交渉持ち救援していることを藩内にはよく思われていなかったようで、隣藩・吉田藩吉田善伸は「田原には困った山が三つあるとのこと崋山春山、いま一人近年お抱え儒者伊藤鳳山)である」という風聞流れてきたことを書き留めている。結局春山天保12年1841年)の夏ごろには出府し、崋山寂しがらせている。10月11日崋山蟄居していた自邸自害した春山江戸でこれを知り10月27日、蛮社の獄の際の救援活動知遇得た崋山の師で儒学者松崎慊堂にこのことを報告している。

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蛮社の獄

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高野長英」の記事における「蛮社の獄」の解説

天保8年1837年)、異国船打払令基づいてアメリカ船籍商船モリソン号打ち払われるモリソン号事件起きた。翌天保9年1838年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山とともに幕府の対応批判している。意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し内輪回覧供した(ただし、長英想像超えてこの本は多く学者の間で出回っている)。 天保10年1839年)、蛮社の獄が勃発長英幕政批判のかどで捕らえられ奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢終身刑判決下って伝馬町牢屋敷収監。牢内では服役者の医療努め、また劣悪な内環境の改善なども訴えた。これらの行動親分肌気性から牢名主として祭り上げられようになった獄中記に『わすれがたみ』がある。 弘化元年1844年6月30日牢屋敷火災による「切り放ち」に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人そそのかして放火させたとの説が有力である。切り放ち後、長英は再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路詳しく不明ながらも、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた。高野家座敷文化財として公開されている。後に、一時江戸入って鈴木春山に匿われ、兵学書翻訳を行うも春山急死鳴滝塾時代同門二宮敬作案内伊予宇和島藩伊達宗城庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩兵備洋式化に従事した主な翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台愛南町久良)は、当時としては最高の技術結集したとされる。しかし、この生活も長く続かず暫くして江戸戻り、「沢三伯」の偽名使って町医者開業した。このとき、江戸では既に長英人相書き出回っていたことと、医者になれば人と対面する機会多くなり、誰か見破られることも十分に考えられたため、逃亡生活最中硝酸で顔を焼いて人相変えていたとされている。 嘉永3年1850年10月30日江戸青山百人町現在の東京南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所踏み込まれ捕縛された。何人も捕方十手殴打され、縄をかけられ時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠護送する最中絶命したという。

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蛮社の獄

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花井虎一」の記事における「蛮社の獄」の解説

鳥居耀蔵から『戊戌夢物語』の著者として渡辺崋山探索命じられ小笠原貢蔵は、花井から情報得て崋山無人島渡航計画しているとして告発した。しかし、取り調べが進むにつれて花井証言つじつま合わない点が見つかり、花井直接取り調べあたった町奉行大草高好から叱責を受けることにもなった。そして吟味方中島嘉右衛門取り調べによって 崋山ルソンハワイアメリカ渡航する計画立てた証拠は無い 大塩平八郎同情し、その計画事前に知っていたというが、その証拠は無い 海外渡航企画していた人たちとは知り合いではない オランダ商館長ニーマン述べた幕政批判紹介する文章書いたというが、その文章過去起きた出来事について書いたのである ということ、そして無人島渡航計画花井提案したことが明らかにされた。幕府批判したという文書も、途中で書くのを止めてしまいこんだもので、花井以外の人には見せていないものだということ渡辺証言から分かった渡辺崋山田原藩蟄居という処分下されたが、本来極刑下されるところだったのを減刑されたのは、渡辺師匠である松崎慊堂老中水野忠邦上申した赦免建白書」が決め手となった。その建白書には、「崋山一人物(花井虎一)の讒言によって罪に陥れられた」とも書かれていた。渡辺花井虚偽告発によって取り調べ受けたことは知っていたが、花井のことは少しも意に介しておらず、天を怨まず、人をとがめず、心中には一点憤りもないと書き残している。 無人島渡航計画に関わっていた者たちは、無量寿寺住職の順宣は100日の押込それ以外の者は吟味中に獄死しており、拷問受けて死んだものとみられる。しかし、讒訴をした花井は、自ら訴え出たのは奇特なことであると鳥居擁護され誣告罪にもならず「お叱り」の処分受けただけで、天保12年4月には学問所勤番50俵3人扶持)に抜擢された。

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蛮社の獄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 06:39 UTC 版)

小笠原貢蔵」の記事における「蛮社の獄」の解説

相州備場の見分後、当時小人目付だった貢は、鳥居耀蔵から老中水野忠邦の命であるとして『戊戌夢物語』とその著者思われる渡辺崋山身辺調査、そしてモリソン号調べるよう命じられた。貢納戸口番花井虎一からの情報得て高野長英翻訳に基づき渡辺崋山が『戊戌夢物語』を執筆した報告したその際に、無人島渡航計画江戸市中で企まれていることもあわせて報告した渡航計画再調査命じられた貢は、常州無量寿寺に赴き、渡航計画は寺の住職である順宣・順道父子小笠原諸島行き、島にある珍しい植物奇石手に入れ売却しようとしたものということを突き止めた海外渡航外国人との接触目的したものではなく、また幕府にも正式に渡航許可申請しており、渡辺関与していたという事実も無かったが、貢はこの計画渡辺加わっていると報告した。 これらの他に、モリソン交易要請拒絶され場合沿岸官舎民屋焼き払い日本沖を航行する船の通行妨害するつもりでいたという報告行なった。これは、天保9年1838年)に江戸参府したオランダ商館長ヨハネス・エルデウィン・ニーマン申し立て元にした情報だったが、これは取り上げられることはなかった。 「小笠原家文書によれば、貢天保10年4月19日江戸城鳥居から蘭学者外国称美するような本を著述していることを調べるよう命じられたとあり、同文書に収録され取調書には、渡辺崋山高野長英無量寿寺住職の順宣やその息子順道たちの名前が列記されている。渡辺崋山に関しては、文武優れ書画秀でた人物であり、物静か一度会った人々親しみを持つようになるとも書かれていた。そして外国との交易肯定的で、外国船が浦賀沖合長期碇泊するようなことがあれば、江戸物資入荷しなくなり幕府交易認めざるを得ないであろう述べた記されている。 渡辺崋山は、自身への告発に対して当初当惑していたが、6月9日牢獄から出した鈴木春山の手によれば告発者が小笠原貢蔵であること、その背後鳥居耀蔵がいることにすでに気付いていた

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