順道とは? わかりやすく解説

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じゅん‐どう〔‐ダウ〕【順道】

読み方:じゅんどう

[名・形動ナリ

順当な道すじであること。また、そのさま。

「路は—なれども宿の逆川(さかは)と云ふ処に泊る」〈海道記

順当な道理であること。また、そのさま。

「何か差し置きお盃頂戴致すが—なれど」〈浄・近江源氏


じゅんどう 【順道】

朝鮮高句麗仏教伝えた中国の僧。朝鮮初め仏教伝えたという阿道の別名が順道だったとの説もあるが、別に阿道渡鮮二年前三七二年、中国前秦王の符堅が、高句麗使節と僧順道と仏像経巻送り、のち阿道も来たので小獣林王三七五年肖門寺(肖文寺)を建てて順道を住まわせ、伊弗寺を建てて阿道を住まわせたといい、これが朝鮮仏教始まりとの説もある。順道は東晋の人との説もある。(生没年不詳)→ 阿道

順道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 05:26 UTC 版)

順道
法名 順道
生地 中国前秦[1]
没地 不詳
寺院 肖門寺(省文寺)
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順道(じゅんどう、朝鮮語: 순도生没年不詳)は、高句麗にはじめて仏教を伝えた中国前秦[1]インドもしくは西域に出自をもつとみられる[2]

概要

三国史記』巻十八によると、高句麗小獣林王二年(372年)、前秦皇帝苻堅が高句麗に使いを派遣し、順道とともに仏像経文を送ったので、小獣林王はただちに謝使を遣わして前秦入貢した[1]。これが、高句麗にはじめて仏教が伝えられた公式記録であり、『三国史記』は「海東仏法の始なり」と特記している[1]

小獣林王四年(374年)には僧・阿道高句麗に渡来した。小獣林王は、翌年、順道のために肖門寺(省文寺)を、阿道のために伊弗蘭寺を創建したという[1]

一然は、『三国遺事』巻三「又按元魏釋曇始(一云惠始)傳云。始關中人。自出家已後。多有異跡。晉孝武大元年末。齎經律數十部。往遼東宣化。現授三乘立以歸戒。蓋高麗聞道之始也。」と記載しているが、「傳云」は、慧皎が撰した『高僧伝』ではなく、覚訓が撰した『海東高僧伝』を指しており、一然は『海東高僧伝』によって曇始の存在を知っている[3]。一然は、『三国史記』と、『海東高僧伝』の説く曇始説との矛盾に関し、『東史』にみられないとして曇始説を否定、『東史』である『三国史記』を採用し、曇始と阿道墨胡子摩羅難陀の年代・事蹟の類似から、阿道・墨胡子・摩羅難陀の中のいずれかの変諱と考えている[3]

高麗時代の1215年高宗2年)に覚訓が撰した『海東高僧伝』は、順道は前秦ではなく、東晋から高句麗へ渡ったという説も紹介している。

史料

三国史記高句麗本紀巻十八から小獣林王の項全文

小獸林王,〈一云小解朱留王。〉諱丘夫諱丘夫,故國原王之子也。身長大有雄略。故國原王二十五年,立為太子。四十一年,王薨,太子卽位。二年,夏六月,秦王苻堅,遣使及浮屠順道,送佛像、經文。王遣使廻謝,以貢方物。立大學,敎育子弟。三年,始頒律令。四年,僧阿道來。五年,春二月,始創省門寺,以置順道;又創伊弗蘭寺,以置阿道。此海東佛法之始。秋七月,攻百濟水谷城。六年,冬十一月,侵百濟北鄙。七年,冬十月,無雪,雷,民疫。百濟將兵三萬,來侵平壤城。十一月,南伐百濟。遣使入苻秦朝貢。八年,旱,民饑相食。秋九月,契丹犯北邊,陷八部落。十三年,秋九月,星孛于西北。十四年,冬十一月,王薨。葬於小獸林,號為小獸林王。 — 三国史記、巻十八

海東高僧伝巻一から

釋順道。不知何許人也。邁德高標。慈忍濟物。誓志弘宣。周流震旦。移家就機。誨人不倦。句高麗第十七解味留王〈或云小獸林王〉二年壬申夏六月。秦符堅發使及浮屠順道。送佛像經文。於是君臣以會遇之禮。奉迎于省門。投誠敬信。感慶流行。尋遣使迴謝。以貢方物。或說,順道從東晉來。始傳佛法則秦晉莫辨。何是何非。師既來異國。傳西域之慈燈。懸東暆之慧日。示以因果。誘以禍福。蘭薰霧潤。漸漬成習。然世質民淳。不知所以裁之。師雖蘊深解廣。未多宣暢。自摩騰入後漢。至此二百餘年,後四年。神僧阿道至自魏〈存古文。〉始創省門寺。以置順道。記云以省門為寺。今興國寺是也。後訛寫為肖門。又剏伊弗蘭寺。以置阿道。古記云興福寺是也。此海東佛教之始。惜乎,之人也,之德也。宜書竹帛以宣懿績。其文辭不少概見。何哉。然世之使於西方。不辱君命。必侍賢者而能之。則特至他邦肇行未曾有之大事。非其有大智慧,大謀猷。得不思議通力。其何以行之哉。以此知其為異人。斯亦法蘭,僧會之流乎。 — 海東高僧伝、巻一

考証

高句麗小獣林王二年、中国前秦苻堅が使節とともに僧・順道を遣し、仏像経文を高句麗に齎したことを以って高句麗仏教の最初とする見解がある[4]。この見解は、『三国史記』に依拠しており、朝鮮史料『三国遺事』『海東高僧伝』『東国通鑑』も等しく『三国史記』を踏襲している。しかし、4世紀の高句麗仏教に就いて語る史料が、12世紀成立の『三国史記』ということは奇妙であり、木村宣彰は、順道による仏教伝来説は、『三国史記』編纂による「事実に非ざるものを事実の如く仮作したもので史実としての可信性の乏しい…捏造譚[4]」「12世紀に至って王命によって『国史』として『三国史記』を編纂する際に一種の事物起源説話として仮作された[5]」とする。崔致遠が撰した『鳳巌寺智証大師寂照塔碑』は、「昔、朝鮮三国が鼎立して存したとき、百済で蘇塗之儀を行なっていたのは、あたかも中国で金人(仏像)を甘泉宮に祀ったようなものである。その後、西の東晋の曇始が始めて(仏教を伝えるため)(高句麗)に之ったのは、あたかも(西の天竺の)迦葉摩騰が東の中国に入り(仏教を伝えた)のと同じである。また高句麗の阿度が南の我が新羅に来て(仏教を伝え)衆生を教化したのは、中国に於いて江南へ始めて仏教を伝えた康僧会の如くである」と述べ、高句麗に始めて仏教を伝えたのは『三国史記』の順道ではなく、東晋の曇始であると主張している[6]。順道による仏教伝来説は、12世紀に至って出現した『三国史記』を根拠としており、それ以前に遡ることは不可能、しかも中国史料によって傍証できない。崔致遠の説く曇始の仏教伝来説は、『三国史記』よりも古く、さらに中国史料によって傍証される[7]慧皎が撰した『高僧伝』は、「釈曇始,関中人,自出家以後多有異迹,晋孝武大元之末,齋経律数十部往遼東宣化,顕授三乗立以帰戒,蓋高句驪開道之始也」とあり、孝武帝太元末年、曇始が遼東へ往き経律数十部を齎して民を教化し、三帰依五戒を授けたことを以って「高麗開導之始也」としている[7]。また『高僧伝』は、曇始が太元末年に関中を出て遼東に赴き、その後、義熙年間に高句麗から関中に還り、長安近くで開導したと伝えており、慧皎も明確な証拠を有した上での立言とみられる[7]。高句麗と遠く離れ、交流の少ない江南で編まれた『高僧伝』が、殊更に曇始による高句麗往化を記すのは証拠が存するものとみられるが、『高僧伝』は、崔致遠の主張と符合している。また、神清が撰した『北山録』も「晋の曇始、孝武末(東晋也、帝位に臨み、深く仏法を奉り、苻堅の兵至り、謝玄破る也)、遼東に適き、高麗開導の始也。後に三輔に還り(三輔、咸陽県、昔秦皇此に殿観を置く)、三輔の人、之を宗仰す。」と記載しており、曇始による高句麗開導を記録している。さらに、曇始が始めて仏教を高句麗に齎したということは『法苑珠林』にも認められる[8]

高句麗では、小獣林王代太学が建てられ、儒教教育をおこなったとされるが、太学や儒教と対を成す仏教前秦の順道の高句麗入国によって齎されたように、高句麗の太学の整備も中国系移民の関与が想定され、中国系移民は高句麗の対内的・対外的国家的発展に多方面で活躍した[9]。一方、中国系移民の役割があっても、太学の設置や儒教教育が可能だったのは、中国朝鮮に設置した植民地である楽浪郡帯方郡の郡民という基礎的土台が存在していたことが大きく、太学の設置や儒教教育を整備できたのは、それらを受容できるほど社会が発展していなければならず、それには、中国王朝の支配を長期間経験している楽浪郡・帯方郡民を高句麗が接収できたことが大きい[9]。この関係を垣間みれるのは高句麗における仏教受容と太学設置である。順道の高句麗入国の3年後、高句麗は肖門寺と伊弗蘭寺を建立し、各々順道と阿道を住まわせており、高句麗では、仏教受容をめぐって殉教者(異次頓)をだした新羅のような葛藤が起きなかった可能性が高い。その背景には、仏教を信奉していた楽浪郡・帯方郡民を通じて仏教受容の土台が形成されていたからであり、また、貴族の子弟教育を通じて官吏を養成する太学設置も高句麗社会の漢文化が高水準に達していなければならず、これにも楽浪郡・帯方郡民を接収できたことが大きい[9]

脚注

  1. ^ a b c d e 薗田香融 (1989年3月). “東アジアにおける仏教の伝来と受容”. 関西大学東西学術研究所紀要 (22) (関西大学東西学術研究所): p. 4 
  2. ^ 인도 불교문화의 우리나라 전래グローバル世界大百科事典https://ko.wikisource.org/wiki/글로벌_세계_대백과사전/동양사상/동양의_사상/인도의_사상/인도의_정치·경제사상#인도_불교문화의_우리나라_전래 
  3. ^ a b 木村宣彰『曇始と高句麗仏教』大谷大学佛教学会〈佛教学セミナー 31〉、1980年5月30日、37-39頁。 
  4. ^ a b 木村宣彰『曇始と高句麗仏教』大谷大学佛教学会〈佛教学セミナー 31〉、1980年5月30日、33頁。 
  5. ^ 木村宣彰『曇始と高句麗仏教』大谷大学佛教学会〈佛教学セミナー 31〉、1980年5月30日、39頁。 
  6. ^ 木村宣彰『曇始と高句麗仏教』大谷大学佛教学会〈佛教学セミナー 31〉、1980年5月30日、35頁。 
  7. ^ a b c 木村宣彰『曇始と高句麗仏教』大谷大学佛教学会〈佛教学セミナー 31〉、1980年5月30日、36頁。 
  8. ^ 木村宣彰『曇始と高句麗仏教』大谷大学佛教学会〈佛教学セミナー 31〉、1980年5月30日、37頁。 
  9. ^ a b c 이성제. “5호16국·남북조 상쟁기 이주민과 고구려·백제”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221123050319/http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.edeah.d_0002_0010_0040 



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