大抜擢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/12 05:04 UTC 版)
346年、前涼の全盛期を築いた張駿が亡くなり、息子の張重華が後を継いだ。これを好機と見た石虎は涼州刺史麻秋・将軍王擢・孫伏都らを前涼へ侵攻させた。王擢は武街を攻略して護軍曹権・胡宣を捕らえ、七千家を超える民を雍州へ強制移住させた。さらに、麻秋・孫伏都は金城を攻略し、太守張沖を降伏させた。涼州は大混乱に陥り、前涼の民は恐怖におののいた。張重華は国内の兵を総動員し、征南将軍裴恒を総大将にして後趙軍を迎撃させると、裴恒は広武まで進んで砦を築いたが、敵の勢いを恐れて戦おうとしなかった。 この事態に、涼州司馬張耽は張重華へ「国家の存亡は兵の如何にあり、兵の勝敗は将にかかっております。多くの者が将軍を推挙しておりますが、彼らは皆古くからの宿将であります。かつて、漢の功臣である韓信は年功の故を押しのけて抜擢されました。名君と呼ばれる人物は、過去の勲功にとらわれず真に才覚を持った人間に大事を任せるものです。今、強敵が攻めてきており、諸将は進んで戦おうとせず、人心は動揺しております。この国難に当たって使える者は、主簿の謝艾を置いて他におりません。彼は文武の才を兼備しております故、必ずや後趙を撃退することでしょう」と進言した。そこで、張重華は謝艾を召し出して方策を尋ねると、謝艾は「七千の兵卒が在れば、撃退して見せましょう」と答えた。張重華はこれに大いに喜び、謝艾を中堅将軍に任じ、五千の兵卒を与えて麻秋の迎撃を命じた。 謝艾が兵を率いて振武から出陣すると、その夜に2羽の梟が鳴いた。これを聞いた謝艾は「六博によると『梟を得る者は勝つ』と言う。今、梟が鳴いたのはまさしく吉兆である。この戦、必ず勝てるであろうな」と喜んだ。謝艾軍はそのまま進撃して麻秋率いる後趙軍と激突すると、これを散々に打ち破った。この戦いで将軍綦毋安を始めとして五千を超える首級を挙げ、後趙軍を退却させた。 功績により、福禄県伯に封じられた。 7月、ある官吏が、司兵趙長を西郊に派遣して秋を迎えるための儀式を行う事を議した。謝艾はこれに反対し、春秋の義に則り、国に大喪があった時は蒐狩の礼を省き、年を越えてから改めて行うよう勧めた。だが、別駕従事索遐らの反対により容れられなかった。
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