加藤の乱
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加藤の乱(かとうのらん)は、2000年11月に第2次森内閣打倒を目指して、与党・自由民主党の加藤紘一・山崎拓らが起こした、一連の倒閣運動。
注釈
- ^ もし離党に至った際に、加藤派自体《特にベテラン》がついてこないとの計算があったと言われる。派内説得にあたる際も、再三「離党」は絶対に無いと説得している。また、加藤には保守本流という自負が強く、自民党自体を否定していた訳ではない。保守本流の自負心が強いのは他の宏池会ベテランにも言えることなので、離党が派内事情的に非現実的であるという認識があった。
- ^ ここが計画的なものだったのか、評論家たちに煽られて突発的に言ったものなのかが真相が明らかになっていない。
- ^ 小沢は1993年の内閣不信任決議採決において派閥を率いて不信任票を投じ、その直後の解散総選挙において自民党を離党し、非自民政権を樹立させている。
- ^ 過去には1993年の嘘つき解散時の内閣不信任決議採決で2閣僚が辞表を提出した上で不信任票を投じた例がある。
出典
- ^ 佐藤優 『交渉術』 文春文庫、2011年6月10日、244-248頁。ISBN 978-4167802028
- ^ 佐藤優 『交渉術』 文春文庫、2011年6月10日、248頁。ISBN 978-4167802028
- ^ 『平成政治史 2』, pp. 140–141.
- ^ 五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行 『森喜朗 自民党と政権交代』 朝日新聞社、2017年10月5日、263-264頁。ISBN 978-4022503381
- ^ “命がけの乱、負けても存在感 そして菅氏は旧敵と組んだ”. 朝日新聞. (2020年9月18日)
- ^ “ドライマティーニ密談で蘇る「加藤の乱・血判状」の記憶 自民ベテラン4人が語り合った「ポスト安倍」への夜”. FNNプライムオンライン. 2020年9月19日閲覧。
- ^ 岸田ビジョンー分断から協調へ. 講談社. (2020年9月15日)
- ^ a b c 竹中治堅 『首相支配--日本政治の変貌』 中央公論新社〈中公新書〉、2006年5月25日、135-136頁。ISBN 4121018451
- ^ “〈加藤紘一氏死去〉保守本流 地方から問う”. 河北新報 (2016年9月11日). 2016年9月12日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2019年1月29日). “【話の肖像画】日本体育大理事長・松浪健四郎(72)(7)”. 産経ニュース. 2023年12月21日閲覧。
- ^ 山崎拓 『YKK秘録』 講談社、2016年7月19日、202-204頁。ISBN 978-4-06-220212-1
- ^ “加藤紘一氏 第2話:「靖国問題」 / 日本の将来を提言する / 特定非営利活動法人 言論NPO”. 特定非営利活動法人 言論NPO. 2021年11月9日閲覧。
- ^ “話の肖像画 日本体育大理事長・松浪健四郎”. 産経新聞. (2019年1月21日) 2023年3月3日閲覧。
- ^ “「そんなに私が悪いのか!?」”. 衆議院議員 高市早苗. 2023年3月3日閲覧。
加藤の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:34 UTC 版)
詳細は「加藤の乱」を参照 2000年11月21日、衆議院本会議において森内閣不信任決議案が野党から提出された。当時宏池会会長で自民党の次期総裁候補の一人と目されていた加藤紘一は、森不信任は国民の多数が支持すると考え、YKKの盟友、山崎拓とともに、それぞれ自派を率い党の方針に反して本会議を欠席した。このとき、加藤は渡邊恒雄と自民党重鎮等が集まる懇談に出席した際、政権内の内閣参与である中村慶一郎がいる前で反乱の意向を明らかにしたため、この情報はただちに森に筒抜けとなった。YKKの残る1人で、森派会長を務めていた小泉純一郎は率先して加藤の倒閣の動きを党内で拡散して加藤に近い若手の動きを牽制、野中広務らも猛烈な切り崩し工作を展開した。結果、宏池会で加藤に従った者は一部に留まり、内閣不信任決議案は否決された。
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加藤の乱
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「加藤の乱」も参照 2000年(平成12年)、小渕が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任。小泉は清和政策研究会(森派)の会長に就任した。第2次森内閣組閣では安倍晋三が内閣官房副長官に、中川秀直官房長官のスキャンダル辞任後の後任に福田康夫が、それぞれ小泉の推薦を受けて就任した。 この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森内閣は森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、森の失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。このころの小泉は公明党との協力に批判的で、2000年6月の衆院選で公明党候補が多く落選したことについて野中幹事長が「大変なご迷惑をかけた。万死に値する」とコメントしたことを、猛然と批判している。森内閣の支持率は2000年11月には18.4パーセントを記録し、これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一・山崎拓が公然と森退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せ、特に加藤は小泉の同調を期待したとされる。しかし森派の会長だった小泉は森支持の立場を明確にし、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。 加藤はマスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けたが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派(宏池会)が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。
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