浦上四番崩れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 06:07 UTC 版)
浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)は、現在の長崎市の浦上地区で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模な隠れキリシタン(キリスト教徒。当時のキリスト教は禁教であり犯罪行為であった)の摘発事件である。長崎で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件浦上崩れの4度目。
- ^ 五野井隆史『日本キリスト教史』吉川弘文館、1990年8月1日、100-110頁。ISBN 9784642072878。
- ^ 遠藤周作『女の一生〈1部〉キクの場合』新潮社、1986年3月27日、320頁。ISBN 978-4101123233。
- ^ “長崎キリシタン弾圧・拷問の表に出てこない残酷な真実”. エキサイト. トカナ (東京都港区: サイゾー). オリジナルの2021年4月28日時点におけるアーカイブ。 2021年4月28日閲覧。
- ^ 家近良樹『浦上キリシタン流配事件―キリスト教解禁への道』吉川弘文館、1998年1月1日、200-211頁。ISBN 978-4642054348。
- 1 浦上四番崩れとは
- 2 浦上四番崩れの概要
- 3 概要
- 4 参考文献
- 5 脚注
浦上四番崩れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:40 UTC 版)
1869年(明治2年)、マキたちはキリスト教弾圧「浦上四番崩れ」により、岡山県の離島、キリスト教徒の受難地である鶴島へ送られた。マキたちは殉教の覚悟で、ほぼ着の身着のままで、家も田畑もそのままで村を出た。 鶴島ではマキたちは、荒地の開墾に加えて、拷問や飢餓などの苦難に耐えた。食事は毎食、小さな器の粥1杯のみで、皆が栄養失調に苦しんだ。空腹時は、海岸で海藻や貝をとって飢えを凌いだ。この最中、1871年(明治4年)にマキの父、妹が相次いで死去した。 1873年(明治6年)に禁制が廃され、浦上山里村へ帰郷した。拷問、飢餓、病気による死者は600人を超え、帰郷できたのは約3千人であった。
※この「浦上四番崩れ」の解説は、「岩永マキ」の解説の一部です。
「浦上四番崩れ」を含む「岩永マキ」の記事については、「岩永マキ」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 浦上四番崩れのページへのリンク