上横手雅敬
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上横手 雅敬(うわよこて まさたか、1931年〈昭和6年〉3月7日 - )は、日本の歴史学者。専門は、日本中世政治史・日本中世社会史。学位は、文学博士[1]。京都大学名誉教授。和歌山県出身。
- ^ 上横手雅敬『日本中世政治史研究』 京都大学〈文学博士 乙第1788号〉、1971年。hdl:2433/213635。NAID 500000396514 。
- ^ 上横手雅敬 編『中世公武権力の構造と展開』吉川弘文館、2001年、298頁。ASIN 4642028056。ISBN 978-4642028059。 NCID BA52834774。OCLC 754580022。全国書誌番号:20196985。
- ^ 元木泰雄『院政期政治史研究』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、1996年、381頁。ASIN 4784209018。ISBN 978-4784209019。 NCID BN14178094。OCLC 36838138。全国書誌番号:96056972。
- ^ 美川圭『院政の研究』臨川書店、1996年、284頁。ASIN 465303284X。ISBN 978-4653032847。 NCID BN15677056。OCLC 675335834。全国書誌番号:97049497。
- ^ 上島享『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会、2010年、949頁。ASIN 4815806357。ISBN 978-4815806354。 NCID BB03041388。OCLC 743310077。全国書誌番号:21813053。
- ^ 『花筐』2000年、149頁。[要文献特定詳細情報]
- 1 上横手雅敬とは
- 2 上横手雅敬の概要
- 3 業績
- 4 門下生
- 5 外部リンク
上横手雅敬
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上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河法皇が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している 。 任官問題 頼朝が義経を平氏追討に派遣しなかったのは、無断任官に対する制裁などではなく、京都の治安維持に義経が必要であり公家側の強い要望があったからである。後白河院は義経の治安維持活動に期待して検非違使・左衛門尉に任じた。しかしその結果、義経は後白河院の側近に編成されたことになり、幕府への奉仕が不可能になったため、それが頼朝の怒りを招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経を鎌倉で拘束せず京都へ帰したのは、院御厩司に補され院の側近となった義経を利用して後白河院を挑発するためであった。頼朝は後白河院を頼朝追討の宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果、多くの政治的要求を突きつけることに成功したのである。 判官贔屓と吾妻鏡 また伝説の義経像には陰影があり感傷的であるが、実像に近いと思われる『平家物語』の義経像は明るく闊達な勇者であり、何の陰りもない。ところが幕府編纂の『吾妻鏡』は、反逆者であるはずの義経に対して非常に同情的であり、義経の心情に立ち入っている記述が多く見られ、「判官贔屓」の度合いが強い。頼朝については弟達への冷酷さを隠そうとはせず、静御前の舞の場面では、凛然たる静と政子に対し、狭量で頑迷な頼朝という描写は悪意的なものがある。また、義経を讒言した梶原景時を悪人として断じている。景時は北条氏によって幕府から追放された人物である。『吾妻鏡』は「判官贔屓」の構図を作り、源氏から政権を奪った北条氏の立場を正当化していると見られる。
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