古歌
『今物語』第44話 随身下毛野(しもつけの)武正が、女雑仕から「『鳩吹く秋』とこそ思ひまゐらすれ(『鳩吹く秋』と思い申し上げます)」と呼びかけられた。これは、「み山いでて鳩吹く秋の夕暮れはしばしと人を言はぬばかりぞ」という古歌をふまえた表現で、女雑仕は武正に思いを寄せて、「しばらくおとどまり下さい」と言いたかったのだった。武正は古歌を知らず、「女雑仕に罵られた」と誤解して、怒って行ってしまった。
『十訓抄』第7-29 梅の咲く平経盛邸を源頼政が訪れ、「我が宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひのほかに君が来ませる」という古歌をふまえて、「『思ひのほかに』参りてこそ侍れ」と言った。取次の侍は古歌を知らなかったので、「思はざるほかに参りて侍り」と主人経盛に伝えた。経盛は不得要領のまま頼政に対面し、しばらくして頼政は辞去した。
『常山紀談』巻之1 蓑を借りに行った太田持資(後の道灌)に、女が山吹一枝を差し出す。「みの一つだになきぞ悲しき」の古歌を知らぬ持資は、要領を得ず怒って帰る。
『英草紙』第1篇「後醍醐の帝三たび藤房の諌を折く話」 後醍醐帝が「逃水のにげかくれても世を過すかな」の古歌を速水下野守に与える。万里小路藤房はこれを古歌と知らず帝の御製と誤解して、「速水」と「逃水」の関係が不審である、と難ずる。帝は立腹し藤房を追放する。
★2.古歌にある言葉。
『今物語』第43話 「ある人」が自分の詠んだ歌を集めて、三位大進(=藤原清輔)に見せた。その中に「はへる(=侍る)」という語があったので、三位大進は「『侍る』は、歌では使わない」と指摘した。すると「ある人」は、「古歌にまさしくあり」と言って『古今集』を開き、「山がつのかきほにはへる(這へる)青つづら(=山人の家の垣根に這う青つづら)」の歌を示した〔*「ある人」は『古今集』の歌を、「かきほに侍る」と誤解していたのである〕。
『宇治拾遺物語』巻1-10 秦兼久の「去年(こぞ)見しに色もかはらず咲きにけり花こそものは思はざりけれ」の歌を、治部卿通俊(=『後拾遺集』の撰者)が批判した。「『花こそ』は女児の名前のような言葉で、歌にはふさわしくない」というのである。それに対して兼久は、「四条大納言(=藤原公任)の『春来てぞ人も訪ひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ』は、秀歌として人口に膾炙しているではないか」と言った。
『土筆(つくづくし・どひつ)』(狂言) 男が土筆を見て「つくづくしの首しほれてぐんなり」と詠んで笑われ、「我が恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風騒ぐんなり」という古歌がある、と主張する。これは慈鎮の歌で、正しくは「風騒ぐなり」であった。次に男は、芍薬を詠んだ古歌があると言って「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと芍薬の花」と詠ずる。これは王仁の歌で、正しくは「咲くやこの花」であった。
『袋草紙』上巻「雑談」 平兼盛の屏風歌「衣打つべき時や来ぬらん」の「らん」の言葉づかいがおかしい、と紀時文が難ずる。兼盛は、同様の「らん」の使い方をした名歌、時文の父貫之の屏風歌「今や引くらん望月の駒」を引き、これは如何にと問う。時文は口をつぐむ〔*『古今著聞集』巻5「和歌」第6・通巻188話、『十訓抄』第4-11に類話〕。
「古歌」の例文・使い方・用例・文例
古歌と同じ種類の言葉
- >> 「古歌」を含む用語の索引
- 古歌のページへのリンク