長崎海軍伝習所
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長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、安政2年(1855年)から江戸幕府が海軍士官養成のため長崎で実施した海軍伝習のことをさす名称。組織としての長崎海軍伝習所なるものは存在はしていない[1]。 幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された。
- 1 長崎海軍伝習所とは
- 2 長崎海軍伝習所の概要
- 3 参考文献
- 4 関連文献
長崎海軍伝習所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:10 UTC 版)
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出(嘉永6年7月。西洋式兵学校の設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く)、意見書は阿部の目に留まることとなり、目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。 同月から洋学所創設の下準備、1月23日から4月3日にかけて勘定奉行石河政平と一翁が命じられた大阪湾検分調査の参加を経て7月29日に長崎海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。この時の伝習生には矢田堀鴻(景蔵)、永持亨次郎らがいる。しかし、海軍知識はほとんど無かったため、本心では分野違いの長崎赴任を嫌がっていたが(8月20日の象山宛の手紙より)、幕府の期待に応えない訳にも行かず、10月20日に船で長崎へ来航、以後3年半に渡り勉強に取り組むことになる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っているためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。 海舟の学問成果については賛否両論で、藤井哲博は海舟の成績は悪く安政4年(1857年)3月に一期生が江戸へ戻ったのに海舟が長崎に残った点を挙げて落第したと書いたが、松浦玲は藤井の記述に反論、安政3年(1856年)6月に海舟が伝習所の成果に見切りをつけて江戸へ帰府の伺いを提出し、翌4年1月に江戸に軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設することを幕府が考案、帰府が決まった所、一転して残留に変更したことを詳細に記し、落第留年ではないと主張している。しかし、海舟が頻繁に船酔いに苦しんでいたことと、思うように勉強がはかどらなかった(特に数学が苦手)ことは事実であり、海舟が船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上する理由があった。いずれにせよ、海舟は安政4年の時点ではまだ江戸へ戻れず、更に2年を長崎で過ごすことになる。 この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、安政5年(1858年)3月と5月に海舟は薩摩を訪れて斉彬と出会う。2人は初対面ではなく藩主になる前の斉彬が江戸で海舟と交流していたが、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。 同年から始まった安政の大獄で推薦者の一翁が左遷されたが、長崎にいる海舟に影響は無く、大獄を主導した大老井伊直弼の政治手法や大獄の一因である南紀派と一橋派の政争を批判する余裕を見せている。8月に外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、10月と11月にそれぞれ永井と水野に宛ててアメリカ行きを希望、2人から了解の返事を取り付け、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになる。
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長崎海軍伝習所
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安政4年(1857年)、長崎に赴任した木村は長崎海軍伝習所の取締に就任する。赴任当初の伝習所は多くの生徒が丸山の遊郭などの悪所に入り浸るなど風紀が乱れており、奉行所も彼らを別格扱いして特に取締りは行っていなかった。 木村は長崎奉行・岡部長常と協力して風紀の引き締めを行い、宿舎の狭い部屋に大人数を押し込めておくことによるストレスが悪所通いの一因と見て、伝習所近辺の空き屋敷を借り上げるなどして生徒の住環境の改善を併せて行った。また、それまで長崎周辺の狭い海域に限られて行われていた訓練航海を、他藩の領海を含めた広い海域で行えるようにし、生徒の操艦技術の向上に寄与した。 また、伝習所においてペルス・ライケン、カッテンディーケらオランダ人教官らと交流できたことは、後年の渡米の際に役立つことになった。長崎を去る際、木村は厚誼の礼として家伝の太刀をカッテンディーケに贈っている。伝習所では薩摩藩主島津斉彬、佐賀藩主鍋島直正の2名と個別に会合して諸藩の海軍事情を探り、特に斉彬の器量の大きさに関心したという。 安政6年(1859年)5月、木村は海軍伝習所の閉鎖に伴って江戸に帰り、目付に復帰する。一橋派と南紀派の争いが激しくなる中、木村はいずれにも属さずに目付局にいながら、外国御用立合、神奈川開港取調を経て召し出され、大老井伊直弼の下に軍艦奉行並を仰せつけられた。井伊は、安政の大獄にあたって同僚の岩瀬忠震1人を狙いうちにしたため岩瀬は蟄居となり、その上、家禄も取り上げられた。
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長崎海軍伝習所
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嘉永6年(1853年)のペリー来航、翌年の日米和親条約締結と、アメリカの砲艦外交に慌てた幕府首脳部は、早急に蒸気軍艦を持つ必要を痛感した。そこで、長いつきあいのあるオランダに相談を持ちかけ、軍艦購入と、その軍艦の乗組員を養成するための長崎海軍伝習所設立が決まったのである。注文されたのはコルベット2隻で、1隻100,000ドルだった。ともに キンデルダイク(Kinderdijk)造船所で建造され、先にヤッパン号(咸臨丸)が出来上がって回航された。それから一年足らず、安政5年(1858年)、エド号(朝陽丸)が長崎に着いた。咸臨丸を回航して来日し、そのまま第2次伝習教師を務めていたカッテンディーケは、次のように記している。 「10月9日、我々は長い間待ちわびた暗輪スクネール船エド(のち朝陽丸)、また1ヶ月後にはナガサキ(のち電流丸)の長崎入港を見た。この美しい立派な二船は、さきの咸臨丸とともに、日本政府のために、オランダにおいて建造せられたものである。右のうちエド号のほうは、将軍家のために、また長崎号のほうは肥前侯のために造られた」(水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』p133) さらにカッテンディーケによれば、この2隻を回航してきた船長は、どちらも若妻をともなっていて、帰りの便船を待つ間長崎に住んだので、見慣れないその衣装が大評判になったという。 1ヶ月あまり後、カッテンディーケはこのエド号で、筑前福岡を訪れる。しばらくの間、エド号、つまり朝陽は長崎に留まったが、翌年早々、伝習生だった勝海舟などを乗せ、江戸へ向かった。
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