長崎海軍伝習所とは? わかりやすく解説

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長崎海軍伝習所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 06:18 UTC 版)

長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、安政2年(1855年)から江戸幕府海軍士官養成のため長崎で実施した海軍伝習のことをさす名称。組織としての長崎海軍伝習所なるものは存在はしていない[1]幕臣雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された。


  1. ^ 金澤裕之『幕府海軍の興亡』慶應義塾大学出版会、93ページ
  2. ^ 藤井(1991年)、20頁。
  3. ^ 藤井(1991年)、25頁。
  4. ^ 藤井(1991年)、150-151頁。
  5. ^ 藤井(1991年)、155頁。


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長崎海軍伝習所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:10 UTC 版)

勝海舟」の記事における「長崎海軍伝習所」の解説

嘉永6年1853年)、ペリー艦隊来航いわゆる黒船来航)し開国要求されると、幕府老中首座阿部正弘幕府決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書幕臣もとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに海舟も海防意見書提出嘉永6年7月西洋式兵学校設立正確な官板翻訳書刊行の必要を説く)、意見書阿部目に留まることとなり、目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇得たことから安政2年1855年1月18日異国応接掛附蘭書翻訳御用任じられ念願の役入り果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。 同月から洋学所創設下準備1月23日から4月3日にかけて勘定奉行石河政平と一翁が命じられ大阪湾検分調査参加経て7月29日に長崎海軍伝習所に入門した伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね伝習生オランダ人教官連絡役も務めた。この時の伝習生には矢田堀鴻(景)、永持亨次郎らがいる。しかし、海軍知識はほとんど無かったため、本心では分野違い長崎赴任嫌がっていたが(8月20日象山の手紙より)、幕府期待応えない訳にも行かず10月20日に船で長崎来航以後3年半に渡り勉強取り組むことになる。長崎赴任してから数週間聴き取りもできるようになった本人語っているためか、引継ぎ役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。 海舟の学問成果については賛否両論で、藤井哲博は海舟の成績悪く安政4年1857年3月一期生江戸へ戻ったのに海舟が長崎残った点を挙げて落第したと書いたが、松浦玲藤井記述反論安政3年1856年6月に海舟が伝習所成果見切りをつけて江戸へ帰府伺い提出し、翌4年1月江戸軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設することを幕府考案帰府決まった所、一転して残留変更したことを詳細に記し落第留年ではないと主張している。しかし、海舟が頻繁に船酔い苦しんでいたことと、思うよう勉強がはかどらなかった(特に数学が苦手)ことは事実であり、海舟が船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上する理由があった。いずれにせよ、海舟は安政4年時点ではまだ江戸へ戻れず、更に2年長崎で過ごすことになる。 この時期当時薩摩藩主・島津斉彬知遇得ており、安政5年1858年3月5月に海舟は薩摩訪れて斉彬と出会う2人初対面ではなく藩主になる前の斉彬が江戸で海舟と交流していたが、後の海舟の行動大きな影響与えることとなる。 同年から始まった安政の大獄推薦者の一翁が左遷されたが、長崎にいる海舟に影響無く大獄主導した大老井伊直弼政治手法大獄一因である南紀派一橋派政争批判する余裕見せている。8月外国奉行永井尚志水野忠徳遣米使節建言すると、10月11月それぞれ永井水野宛ててアメリカ行き希望2人から了解返事取り付け安政6年1月5日朝陽丸乗って1月15日帰府幕府から軍艦操練所教授頭取命じられ新たに造られ軍艦操練所海軍技術教えることになる。

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長崎海軍伝習所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 03:18 UTC 版)

木村芥舟」の記事における「長崎海軍伝習所」の解説

安政4年1857年)、長崎赴任した木村は長崎海軍伝習所の取締就任する赴任当初伝習所多く生徒丸山遊郭などの悪所入り浸るなど風紀乱れており、奉行所も彼らを別格扱いして特に取締り行っていなかった。 木村長崎奉行岡部長常協力して風紀引き締め行い宿舎の狭い部屋大人数押し込めておくことによるストレス悪所通い一因見て伝習所近辺空き屋敷借り上げるなどして生徒住環境改善併せて行ったまた、それまで長崎周辺の狭い海域限られ行われていた訓練航海を、他藩の領海含めた広い海域行えるようにし、生徒操艦技術の向上寄与したまた、伝習所においてペルス・ライケンカッテンディーケオランダ人教官らと交流できたことは、後年渡米の際に役立つことになった長崎を去る際、木村厚誼の礼として家伝太刀カッテンディーケ贈っている。伝習所では薩摩藩島津斉彬佐賀藩鍋島直正の2名と個別会合し諸藩海軍事情探り、特に斉彬の器量大きさ関心したという。 安政6年1859年5月木村海軍伝習所閉鎖伴って江戸帰り目付復帰する一橋派南紀派争い激しくなる中、木村はいずれにも属さず目付局にいながら外国御用立合神奈川開港取調経て召し出され大老井伊直弼の下に軍艦奉行並を仰せつけられた。井伊は、安政の大獄にあたって同僚岩瀬忠震1人狙いうちしたため岩瀬蟄居となり、その上家禄取り上げられた。

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長崎海軍伝習所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 01:09 UTC 版)

朝陽丸」の記事における「長崎海軍伝習所」の解説

嘉永6年(1853年)のペリー来航翌年日米和親条約締結と、アメリカ砲艦外交慌てた幕府首脳部は、早急に蒸気軍艦を持つ必要を痛感した。そこで、長いつきあいのあるオランダに相談持ちかけ、軍艦購入と、その軍艦乗組員養成するための長崎海軍伝習所設立決まったのである注文されたのはコルベット2隻で、1隻100,000ドルだった。ともに キンデルダイク(Kinderdijk)造船所建造され先にヤッパン号(咸臨丸)が出来上がって回航された。それから一年足らず安政5年(1858年)、エド号(朝陽丸)が長崎着いた咸臨丸回航して来日しそのまま第2次伝習教師務めていたカッテンディーケは、次のように記している。 「10月9日、我々は長い間待ちわびた暗輪スクネール船エド(のち朝陽丸)、また1ヶ月後にはナガサキ(のち電流丸)の長崎入港見たこの美しい立派な二船は、さきの咸臨丸とともに日本政府のために、オランダにおいて建造せられたものである。右のうちエド号のほうは、将軍家のために、また長崎号のほうは肥前侯のために造られた」(水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』p133) さらにカッテンディーケによれば、この2隻を回航してきた船長は、どちらも若妻ともなっていて、帰り便船を待つ間長崎住んだので、見慣れないその衣装が大評判になったという。 1ヶ月あまり後、カッテンディーケはこのエド号で、筑前福岡訪れる。しばらくの間エド号、つまり朝陽長崎に留まったが、翌年早々伝習生だった勝海舟などを乗せ江戸へ向かった

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