こぶん‐しょうしょ〔‐シヤウシヨ〕【古文尚書】
古文尚書〈巻第三、第五、第十二/〉
主名称: | 古文尚書〈巻第三、第五、第十二/〉 |
指定番号: | 5 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1951.06.09(昭和26.06.09) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 紙背元秘抄 |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 唐 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 唐時代の作品。 |
古文尚書
主名称: | 古文尚書 |
指定番号: | 479 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1949.05.20(昭和24.05.20) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 自正和元年至正和三年清原長隆伝授奥書 |
員数: | 13巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 孔子が政教に関して編述した「書経【しよきよう】」の唐代初期古写本で、隷古字【れいこじ】という古体の文字を交えて書かれている。この種の旧鈔本は中国では早く散逸したが、わが国に古く伝来した本巻や東洋文庫本等によって旧本尚書の内容が知られ、学界に注目される稀本となっている。この神田家本は巻第六の大部分を存し、東洋文庫本は巻第三・五・十二を伝える(国宝)。さらにこの僚巻が御物本にあり、巻第三・四・八・十・十三が四巻に収められている(九條家伝来)。これらにはいずれも平安中期を下らない朱・墨・角筆の訓点があって、国語学的にも注目されるとともに、その伝来の古さを示している。紙背には室町時代書写とみられる元秘抄【げんぴしよう】(高辻長成編)がある。 |
古文尚書〈巻第六/〉
主名称: | 古文尚書〈巻第六/〉 |
指定番号: | 264 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1970.05.25(昭和45.05.25) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 紙背元秘抄 |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 唐 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 唐時代の作品。 |
古文尚書〈巻第十一/〉
書経
古文尚書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:39 UTC 版)
漢代、「今文尚書」以外にも『書経』が発見されることがあったが、これらはしばしば漢代の通行字体ではなく、秦代以前の文字で書かれたものであった。これを「古文尚書」と呼ぶ。「今文尚書」は学官に立てられた公的な学問であったため、その師授系統は比較的明白であるが、「古文尚書」は漢代を通して民間で研究が進んだ書であり、歴史書の記述も錯綜している。以下の例がある: 孔子家伝本 孔子の十世の孫である孔安国が「古文尚書」を今文に写定すると、「今文尚書」にない十余篇があった(『史記』儒林伝)。 中古文本 劉向が欧陽氏・大小夏侯氏の「今文尚書」と校訂する際に用いた、宮中の図書館が所蔵していた「古文尚書」のこと(『漢書』芸文志)。 河間献王本 古典収集を好んだ河間献王劉徳が伝えた「古文尚書」のこと。 張覇百両篇本 張覇が伝えた102篇の「古文尚書」が世間に伝わっていた。成帝のとき、これを宮中の書と比べたところ偽書であると分かった(『漢書』儒林伝)。 劉歆が宣揚した孔子壁中本 劉歆の「移太常博士書」に、景帝のとき、魯恭王劉余が孔子の旧宅を壊して宮殿としようとしたところ、壁の中から「古文尚書」を得た。これは「今文尚書」には存在しない16篇を含んでおり、後に孔安国がこれを伝えたが、巫蠱の獄のため普及しなかった、とある(『漢書』楚元王伝)。 それぞれの本の関係は定かではないが、一般には孔子家伝本・中古文本・孔子壁中本が同一であるとされ、一般に前漢の「古文尚書」というと孔安国・劉向・劉歆に関わるこの本のことを指す。 前漢の宣帝のとき、劉歆が「古文尚書」を学官に立てるよう要求したが、退けられた。この要求は、新の王莽の時に実現したが、その後、後漢の光武帝のときに再度廃された。
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