藤原彰子とは? わかりやすく解説

ふじわら‐の‐しょうし〔ふぢはら‐シヤウシ〕【藤原彰子】

読み方:ふじわらのしょうし

上東門院(じょうとうもんいん)


藤原彰子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 14:33 UTC 版)

藤原 彰子(ふじわら の あきこ/しょうし、988年永延2年)- 1074年10月25日承保元年10月3日))は、日本の第66代天皇一条天皇皇后中宮)。後一条天皇後朱雀天皇の生母(国母)、女院院号上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。


注釈

  1. ^ 一条天皇国母藤原詮子藤原道長が姉弟関係であったことにより、一条天皇は彰子の従兄にあたる。
  2. ^ 数え。実年齢は11歳。
  3. ^ 当時の検非違使別当藤原実資のため『小右記』にこの事件の詳細が見られる。
  4. ^ 検非違使が里居していた定子の御所(二条北宮)に押し入り、藤原隆家を捕縛し、伊周は逃走したという[6]
  5. ^ 『権記』では大江匡衡が定子を僧でありながら帝の寵愛を受けた則天武后にたとえ、『小右記』長保元年十一月七日条では定子を「風態の変わった僧侶」として「横川の皮仙」になぞらえて記している。
  6. ^ 皇后(中宮)位に在職しているものが並立していた例は一条天皇治世初期の藤原遵子藤原定子の例がある。しかし、一人の帝に二人の皇后(中宮)が立つのはこの時期が初めてである。
  7. ^ 蔵人頭である藤原行成が、明帝の御代、子供のいない馬皇后章帝を養育させた故事をもって度々一条天皇に彰子に敦康親王を養育させるよう進言していたという[14]
  8. ^ 彰子は当時まだ幼少で懐妊の可能性が薄く、藤原道長は姪である定子の子にあたる敦康親王を後見することで朝廷における発言権を確保しようとしていたとされる。
  9. ^ 敦康親王を養育していたのは実母・藤原定子の妹である御匣殿であったが、彼女は一条天皇の子を懐妊する最中に逝去した[18]。彰子はそのあとを引き取ったものと推察できる。
  10. ^ 彰子が「気分が普通ではなく、いつも眠くて、月の障りが先月も今月も来ていない」と訪ねてきた一条天皇に訴え、天皇が彼女の懐妊に気づく描写がある[23]
  11. ^ 一条天皇は敦成親王を腕に抱いたとき、「敦康親王のときはこのように華やかに祝われなかった」「皇位を継ぐものには外戚となる人がいてこそ張り合いのあるもので、その人がなければどうしようもない」と安堵しつつも複雑な心境を漏らしている[25]
  12. ^ 高階明順、高階光子は伊周の母・高階貴子のきょうだいであり、源方理は伊周の妻の兄弟であった。
  13. ^ 道長にとっては、敦成、敦良の二皇子が生まれた以上、はやく一条天皇に譲位してもらいたかったとする[32]。道長は一条天皇崩御の卦が出たとして権僧正慶円と大声で涕泣し、その声が病床の天皇の耳に聞こえて天皇はショックを受け、重病となったという[33]。そのことで一条天皇の譲位の話が進んでいったとする[34]
  14. ^ 後世の文献には、一条天皇の死後、彰子が道長と共に天皇の遺品を整理していた際、「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し(天皇が正しい政を欲するのに、道長一族の専横によって国は乱れている)」と記された天皇の手記を見つけ、道長がこれを焼き捨てたという記述が見える[35]
  15. ^ 「后宮(彰子)、丞相(道長)を怨み奉り給うと云々」と彼女が激怒している記述がある[34]。彰子が父の道長に敦康親王を無視して敦成親王立太子に向けて動くことについて諫言し、父の道長が彼女に反論している様子が描かれた記述もある[40]
  16. ^ この「」を示すのは、『権記』の記述に基づいて皇后定子の可能性もあるとする[32]。ところが皇后定子とすると、彰子が目の前にいるにもかかわらず、だいぶ前に亡くなった人物について口にするのは状況的にも難があり、和歌の意味が取れない箇所もある[44][45]
  17. ^ 「はかない身の私が風の泊まっているところ(現世)に君を置いて塵の世(この世)を出ていくことが悲しい」と意味が取れる。
  18. ^ 「故院に先立たれた私の心も知らないままに撫子を手に取った我が子をみるにつけても、涙が溢れる」と意味が取れる。
  19. ^ 樋口健太郎は藤原道長の摂政就任と辞任、更に太政大臣任命の決定が幼少の天皇や摂政(道長)本人ではなく、母后である上東門院(藤原彰子)が決定していることを注目し、摂関政治に致命的な打撃を与えたとされる白河法皇による摂政・関白に対する人事権行使は上東門院(藤原彰子)の先例に由来するとみている[48]

出典

  1. ^ 服藤 2019, p. 2.
  2. ^ 朧谷 2018, pp. 14–15.
  3. ^ 服藤 2019, p. 3.
  4. ^ 倉本 2000, p. 139.
  5. ^ 倉本 2000, p. 199.
  6. ^ 『小右記』長徳二年五月一日条
  7. ^ 黒板 1994, pp. 93–95.
  8. ^ 倉本 2000, pp. 138–143.
  9. ^ 『小右記』長徳三年六月二十二日条、『権記』長保元年八月十八日条[注釈 5]
  10. ^ 倉本 2000, pp. 125–145.
  11. ^ 黒板 1994, p. 101.
  12. ^ a b 『権記』長保二年正月二十八日条。
  13. ^ 服藤 2019, p. 27.
  14. ^ 服藤 2019, p. 273.
  15. ^ 服藤 2019, pp. 27–28.
  16. ^ 倉本 2000, p. 141.
  17. ^ 黒板伸夫『藤原行成(人物叢書)』吉川弘文館、倉本一宏『摂関政治と王朝貴族』吉川弘文館参照[注釈 8]
  18. ^ 『栄花物語』
  19. ^ 東海林 2017, p. 90.
  20. ^ 東海林 2017, pp. 72–101.
  21. ^ 『御堂関白記』寛弘四年正月十一日条。
  22. ^ 朧谷 2018, p. 62.
  23. ^ 『栄花物語』巻八「はつはな」
  24. ^ 服藤, p. 53.
  25. ^ 『栄花物語』巻八
  26. ^ 『御堂関白記』寛弘五年九月二十五日条。
  27. ^ 服藤 2019, p. 57.
  28. ^ 朧谷 2018, p. 70.
  29. ^ 倉本 2003, pp. 174–175.
  30. ^ 服藤 2019, pp. 62–63.
  31. ^ 朧谷 2018, pp. 76–78.
  32. ^ a b 『一条天皇〈人物叢書〉』吉川弘文館、2003年
  33. ^ 『藤原彰子〈人物叢書〉』吉川弘文館、2019年
  34. ^ a b 権記寛弘八年五月二十七日条
  35. ^ 古事談』『愚管抄
  36. ^ 朧谷 2018, p. 89.
  37. ^ 服藤 2019, p. 74.
  38. ^ 倉本 2003, p. 194.
  39. ^ 黒板 1994, pp. 176–177.
  40. ^ 『栄花物語』巻九
  41. ^ 服藤 2019, pp. 74–75.
  42. ^ 倉本 2003, pp. 196–197.
  43. ^ 倉本 2003, p. 197.
  44. ^ 服藤 2019.
  45. ^ 朧谷 2018.
  46. ^ 朧谷 2018, p. 92.
  47. ^ 服藤 2019, p. 77-78.
  48. ^ 樋口健太郎「院政の確立と摂関家-上東門院と白河院の連続性に注目して-」『中世摂関家の家と権力』校倉書院、2011年。 
  49. ^ 扶桑略記』『百練抄』など。
  50. ^ 『栄花物語』布引の滝
  51. ^ 『中右記』『古事談』など。
  52. ^ 『小右記』
  53. ^ 権記
  54. ^ 女房一覧 平安時代中期(4)”. 2023年9月30日閲覧。
  55. ^ 『平安時代史の研究』東京堂出版、1979年、78頁。 
  56. ^ “見上愛、大河初出演 『光る君へ』で藤原彰子役「とてもうれしく思いながらも緊張」”. マイナビニュース (マイナビ). (2023年5月23日). https://news.mynavi.jp/article/20230523-2685782/ 2023年5月23日閲覧。 


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藤原彰子(ふじわら の しょうし)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 00:57 UTC 版)

姫のためなら死ねる」の記事における「藤原彰子(ふじわら の しょうし)」の解説

定子従妹定子紫式部特別な愛情抱いている。好意抱いた相手依存しがちで、紫式部自分以外の人間のことを考えるのは許せないと本気で考えている。定子紫式部親しく接する者には、相手がだれであろうと強い敵愾心露わに実力行使辞さない清少納言定子から引き離すために、定子との距離ができる原因であることから恨み抱いている主上結託したり、紫式部目当て女房志願した菅原孝標女清少納言を倒す戦力になると判断し登用するなど、気に入らない相手でも自らの欲求満たすために利用できる判断すれば柔軟に対応する利己的かつ合理的な性格持ち主

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