膠着状態
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「よど号ハイジャック事件」の記事における「膠着状態」の解説
このあと、よど号の副操縦士が犯人グループの隙を見て、機内にいる犯人の数と場所、武器などを書いた紙コップをコックピットの窓から落とし、犯人のおおよその配置が判明した。韓国当局はこの情報をもとに特殊部隊による突入を行うことも検討するが、乗客の安全に不安を感じた日本政府の強い要望で断念する。 日本政府は、ソビエト連邦や国際赤十字社を通じて、よど号が人質とともに北朝鮮に向かった際の保護を北朝鮮政府に要請した。これに対して北朝鮮当局は「人道主義に基づき、もし機体が北朝鮮国内に飛来した場合、乗員および乗客はただちに送り返す」と発表し、朝鮮赤十字会も同様の見解を示した。しかし、韓国にとって、前年に発生した大韓航空機YS-11ハイジャック事件の乗員乗客がこの時点で解放されていなかったこともあり、よど号をその二の舞として人質の解放がなされないままに北朝鮮に向わせることは、絶対に避けなければならないことであった。 日本政府はさらに、犯人グループが乗客を解放した場合には、北朝鮮行きを認めるように韓国側に強く申し入れ、韓国側は最終的にこれを受け入れた。なお、よど号には日本人以外の外国籍の乗客としてアメリカ人も2人搭乗しており、北朝鮮に渡った場合、「敵国人」であるアメリカ人が日本人に比べて過酷な扱いを受ける懸念があったため、アメリカ合衆国連邦政府が善処を求めている。
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膠着状態
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「1953年の国際連合事務総長の選出」の記事における「膠着状態」の解説
常任理事国は3月23日に協議を行ったが、候補者について合意に至らなかった。パンディットと指名を辞退した2人の候補者を外し、候補者リストは6人に絞られた。 3月24日に開かれた安全保障理事会では、ソ連のアンドレイ・ヴィシンスキー外相が到着するのを待つことにした。しかし、3月27日、ヴィシンスキーは次の安保理会合への出席を辞退し、安保理では投票が行われなかった。
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膠着状態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/18 09:21 UTC 版)
7月3日、ワシントンが到着し結成されたばかりの大陸軍の指揮に就いた。兵士や補給物資が遠くメリーランドからも送られてきた。塹壕がドーチェスター・ネックに掘られ、ボストンの方向に拡張された。ワシントンはイギリス軍が兵を引いていたチャールズタウン半島のバンカーヒルとブリーヅヒルを占領させた。しかし、この行動もイギリス軍との睨み合いに何の変化ももたらさなかった。 膠着状態の打破と、包囲戦に倦んできた兵士に対する対策を兼ねて、カナダ侵攻作戦が計画され、8月16日第1遠征隊が西側ルートから、9月25日第2遠征隊が東側ルートから発進した。このカナダ遠征の結果は、大陸軍の損失の他に何の成果も得られないままに、1776年秋に終了した。 その後何の変化もなかったが、ヘンリー・ノックスがワシントンに、タイコンデロガ砦で捕獲した大砲を持ってくれば戦局を変えられると提案した。ワシントンはノックスを大佐に任命し、大砲移送の任務を与えた。その移送は牛に曳かせたソリを使い、経路はタイコンデロガ砦を出てハドソン川の西岸を下ってオールバニーに至り、そこで川を渡って東に進んでバークシャーを経由してボストンに入るものだった。総延長は約300マイル (480 km)あり、12月5日に出発して56日間を要した。1日あたりの平均行程は5.4マイル (8.6 km)、つまり普通の徒歩行程ならば2時間で着く距離を1日かけて進んだことになる。総重量60トンにもなる大砲を載せたソリで凍りついたコネチカット川を渡ったこともあった。1776年1月24日にケンブリッジに帰還した。
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