留守氏とは? わかりやすく解説

留守氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:31 UTC 版)

留守氏(るすし)は、日本氏族藤原北家道兼流を称した[1]。後に伊達氏より養子を迎え、江戸時代には水沢伊達家と呼ばれる。仙台藩一門第三席


  1. ^ a b 『余目氏家譜』
  2. ^ 佐藤秀成「奥州惣奉行と陸奥国統治」『鎌倉幕府文書行政論』吉川弘文館、2019年2月 P196-198・202-204・210-211.
  3. ^ 斎藤子爵記念会 1941, pp. 85–86


「留守氏」の続きの解説一覧

留守氏(鎌倉時代から戦国時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:31 UTC 版)

「留守氏」の記事における「留守氏(鎌倉時代から戦国時代)」の解説

源頼朝奥州合戦後、陸奥国留守職を務めた伊沢家景家祖とし、家景の子家元以降留守氏を称す子孫代々岩切城拠点活動したが、陸奥国内の大半北条氏所領となると留守職は次第形骸化していく(ただし、北条氏国守地位次第形骸化していき、同国統治については引き続き留守氏が実務担ってたとする説もある)。 南北朝時代においては当初南朝方として活動し元弘3年1333年9月北畠顕家より陸奥諸郡の奉行に任ぜられたが、建武3年1336年1月に顕家が義良親王奉じて霊山へ移ると、他の奥州諸勢力同様に北朝方に転じた正平6年/観応2年1351年)に観応の擾乱勃発すると、留守家冬は足利尊氏方につき、岩切城畠山高国迎え入れて足利直義方の吉良貞家と戦うが、岩切城陥落する。この敗戦によって留守氏は壊滅的打撃被り吉良方に加勢し国分氏所領多く切り取られてしまった。これ以降両者宮城郡支配権をめぐり長きわたって争うことになる。 後に奥州探題大崎氏介入受けた留守詮家が切腹追い込まれる伊達氏救援請うが、その代償として伊達氏から次々と養子送り込まれ14代郡宗・16景宗18代政景)、16世紀前半までには、次第伊達氏傘下へと組み込まれていった天正18年1590年)、18代・留守政景小田原征伐に参陣しなかったため、奥州仕置によって留守氏は本領没収され以後は甥の伊達政宗仕えた

※この「留守氏(鎌倉時代から戦国時代)」の解説は、「留守氏」の解説の一部です。
「留守氏(鎌倉時代から戦国時代)」を含む「留守氏」の記事については、「留守氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「留守氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「留守氏」の関連用語

留守氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



留守氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの留守氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの留守氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS