番組の歴史
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「三枝きよし興奮テレビ」の記事における「番組の歴史」の解説
開始当初は『三枝やすし興奮テレビ』と題して、三枝と横山やすしの2人が司会を担当していたが、やすしはその後二日酔いで出演を無断欠席したために1988年10月をもって降板。その後しばらくは三枝が単独で番組を進めるようになり、番組自体もしばらくは『三枝の興奮テレビ』と題して放送されていたが、やすしが不祥事により吉本興業との専属契約を解除された1989年からは替わって相方の西川きよしが出演するようになった。その結果、以後は最終回まで『三枝きよし興奮テレビ』と題して放送された。ただし、きよしが番組に参加するようになってからも、たびたび『三枝の興奮テレビ』と題して放送されることがあった。これは、当時国会議員で多忙だったきよしが、国会への出席や公務でしばしば番組を欠席することがあったためで、きよしの欠席時にこの単独タイトルを使用していた。ごくまれに坂田利夫がきよしの代理で来ることがあったが、その際には『三枝利夫興奮テレビ』というタイトルを使っていた。
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番組の歴史
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それまで17時台は、ローカルニュース番組の『かんさいニュース1番』を放送していたが、『かんさいニュース1番』の生活情報などの部分を独立させた上で、更に内容を充実して放送した。 なおこの番組タイトルは、元々『かんさいニュース1番』の1コーナーのタイトルであった(その時代の内容は関西各局リレーニュース)。 2007年度は金曜日を廃枠とし、『テレビ de ぼやき川柳』と『GO!GO!KAN-POP』を編成、週4日の放送としてより生活情報色を強めた内容にリニューアルした。 更に11月1日、番組立ち上げ前から関わっていた、MCの濱中博久アナウンサーが卒業することが発表され、『もっともっと関西』としての放送も終了した。それと同時に、特別編成と大相撲による3週間の休止(3週間は異例の長さ)を挟み、秋鹿真人・近藤泰郎両アナウンサーを新メインとして迎え、タイトルも『もっともっと関西2!』に改めて再スタートした。 それまでは非公開だったが、『もっともっと関西2』になってからはBKプラザスタジオからの公開生放送を随時行った(自由見学。木曜のみ放送前に配布される整理券が必要)。新聞のテレビ欄には『ももかん2』として表記されていた。 この2度にわたるリニューアルにもかかわらず、結局2008年3月6日の放送を最後に終了した。
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「TBSラジオ エキサイトベースボール」の記事における「番組の歴史」の解説
東芝ナイター↓黄桜ゴールデン・ナイタージャンルプロ野球中継 放送方式生放送 放送期間1958年5月4日 - 1961年9月24日(東芝時代)1962年5月6日 - 9月30日(黄桜時代) 放送時間日曜 20:00 - 21:00→19:30 - 21:40(東芝時代)日曜 19:15 - 21:40(黄桜時代) 放送局 日本 ラジオ東京→東京放送 テーマ曲『コバルトの空』(作曲:服部逸郎) 提供東芝清酒黄桜 特記事項:ラジオ東京最初のレギュラー編成による、プロ野球中継。 テンプレートを表示 モロゾフナイター↓木曜ナイタージャンルプロ野球中継 放送方式生放送 放送期間1959年5月7日 - 9月24日(モロゾフ時代)1960年5月5日 - 1961年10月5日 放送時間木曜 20:00 - 21:00(モロゾフ時代)木曜 20:00 - 21:00→20:00 - 21:40 放送局 日本 ラジオ東京→東京放送 テーマ曲『コバルトの空』 提供東邦酒造(モロゾフ時代)日本電気→伊藤ハム(木曜ナイター時代) テンプレートを表示 フェザー・シルバー・ナイター三菱ダイヤモンド・ナイター↓日曜薄暮ゲームジャンルプロ野球中継 放送方式生放送 放送期間1962年4月22日 - 9月30日(フェザー / 三菱時代)1963年4月11日 - 1965年10月10日 放送時間日曜 16:20 - 18:55 放送局 日本 東京放送 テーマ曲『コバルトの空』 提供フェザー安全剃刀(フェザー時代)フェザー安全剃刀→三菱グループ(三菱商事・三菱石油)(日曜薄暮時代) 特記事項:1.『三菱…』のタイトルは大相撲中継期間に放送。2.試合の無い時は『ダイヤモンド・ハイウェイ』を放送。 テンプレートを表示
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番組の歴史
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「生中継ふるさと一番!」の記事における「番組の歴史」の解説
2005年10月3日 - 「スタジオパークからこんにちは」(スタパ)の放送時間を拡大し、その第1部として放送開始。NHKの不祥事が相次いだことにより視聴者の信頼回復のために実施された改革の一環として、2004年4月から1年半、月曜日~金曜日の帯番組として放送されていた「お昼ですよ!ふれあいホール」を改編で終了させスタートした。 「スタパ」が休止となる祝日は単独番組扱いとなり、「生中継ふるさと一番!」のタイトルのみで放送。使用される表示テロップも「スタパ」で使われているものとは別のものを使用していた。 金曜日はこの時から現在に至るまで「金曜バラエティ」を放送。 2006年4月3日 - 「スタパ」から独立。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 15:56 UTC 版)
2009年1月1日の14:30 - 16:00に当番組初の元日特番が放送され、2010年からは毎年1月1日深夜に放送(MBSおよび一部のJNN系列局)。 2009年1月30日放送分より、ハイビジョン制作で収録が行われている。それ以前のSDTV制作では、地上波デジタル放送ではサイドバー付きのワイドSDTVで、サイドバーの左下に「ごぶごぶ」のロゴマークが入っていた。ただし、2012年現在でも一部放送局では画角4:3のサイドカットで放送されており、同じMBS制作の『痛快!明石家電視台』と同様の措置が取られている。 再放送は制作局の毎日放送では不定期に行われており、最初の再放送は、2010年3月22日の16:53 - 17:50に放送され、以後土曜日や日曜日の午後の編成が空いた時間帯を中心に再放送されており、画面左上には常に次回通常放送の内容が告知されている。 2010年9月22日に番組初の2枚組DVD-BOX「ごぶごぶBOX」が発売された。MBSの系列CS放送のGAORAでも、同年10月2日より放送開始となった。 2011年6月までは、月1回放送されていた。放送日についての備考としては、2007年4月発行の公式情報誌『MBSドクホン19号』では毎月第4金曜日と記載されていたものの、編成の都合で第3金曜日に放送することもあるので、番組の最後に次回の放送日を告知する。2011年6月25日の放送のエンディングで、毎月一回から二回放送になることが発表された。その際、東野にスタッフから花束を渡され番組卒業を匂わせるドッキリが仕掛けられた。 2012年2月24日放送分で、毎週火曜日のレギュラー放送になることが発表された。その際、ロケ地周辺(MBS本社のある茶屋町周辺)に告知ポスターや宣伝カーを用意し、一人だけ知らされていない東野がそれらに気付いたらロケ終了という趣向だったが、東野は番組開始数分で気付いてしまい、残り時間は当番組のスタッフである、繁澤公(演出家)のナレーションによる総集編となった。 2012年4月3日からレギュラー放送開始、直前の23:50 - 23:55枠で『東野幸治のもうすぐごぶごぶ』も同日より開始されたが、こちらは7月24日で終了。同年8月14日からは本編開始時刻が5分前倒しされたが、本編放送時間はこれまでと変わらず60分のままで、最後の5分間に「東野幸治のもうちょっとごぶごぶ」というエンディングコーナーが、前述の『もうすぐごぶごぶ』に替わって設けられた。 2012年10月30日放送分を以って放送回数100回目を迎え、番組初の生放送を吉本興業東京本社より行った。 2014年3月25日放送分において第1回からレギュラーだった東野幸治は、朝日放送の「教えて!ニュースライブ 正義のミカタ」の司会を担当することになったため一旦卒業し、翌週4月1日より田村淳が浜田の相方を務めることになった。 毎日放送の2016年春の番組改編で2016年3月29日をもってレギュラー放送は最終回を迎え、後継番組は、浜田雅功(ダウンタウン)が引き続きレギュラー出演する「ケンゴローサーカス団」(後にケンゴロー)が同時間帯から放送された。 レギュラー放送終了以降は不定期にスペシャル番組として放送され、スペシャル番組第一弾として2016年8月20日(19日深夜)0:30 - 1:30に「帰ってきた!ごふごぶ2016夏」が放送された。 2017年4月18日放送のエンディングで再びレギュラー番組(第6期)として復活することを発表した。また、4月25日放送分で相方となるパートナーがロケ(2週分の放送)ごとに交代されるゲスト制になることが明らかとなった。ゲストは近畿地方出身もしくは近畿地方で主に活躍している者・浜田と過去に番組で共演した事がある者が選ばれている。2018年1月1日の正月SPでは、現在のレギュラー放送非ネットの局も同時ネットで放送された。 第6期ではロケ当日の相方が誰であるかは、浜田には一切知らされず、後ろを向いている相方ゲストのもとに浜田が出向き対面する事で知るサプライズ形式となっている。視聴者には番組ラストの次週予告や、YouTubeの吉本興業チャンネルの予告映像などにてヒントが与えられる。 ただし相方との対面時には幾度か例外が発生しており、第338回の葵わかな出演回では、ロケより以前に葵が浜田に対面した際にごぶごぶに参加する事を話してしまっており、サプライズとならずツッコミを受けていたり、第344回の藤山直美出演回では、藤山の復帰番組ということでロケ当日の「ちちんぷいぷい」に乱入しており、事前にゲストが誰であるかが判明しているため、特例として予告映像にも顔出しで登場している。 2020年には、年頭から新型コロナウイルスへの感染が拡大していることに伴って、ロケの中断や収録方法の変更を余儀なくされている。大阪府・兵庫県から両府県の往来自粛要請が出された3月19日以降は、屋外でのロケが困難になったため、3月31日・4月6日の放送分は、ハイヒール ・モモコが相方として出演した2019年4月放送回の再放送に充てた。 4月13日から5月26日までは「総集編」を編成。回ごとにテーマを設けた再放送で、オープニングとエンディングの部分だけ、浜田単独の出演で新たに収録した映像を使用していた。ただし、淳の出演する『ロンドンハーツ』(テレビ朝日制作)が2019年4月改編から放送枠を火曜日の深夜に移動(関西地方では朝日放送が24:30 - 25:32に遅れネットで放送})しているため、淳が出演した回の映像では「大人の事情」として淳の顔が隠されている。 6月2日放送回から、スタジオ限定で収録を再開。7月21日放送回から東京でロケを再開したが、大型の観光バスで移動しながらトークを収録、不特定多数の人間との近接的な接触を避けるようにする、店内での着席時には飛沫を防ぐアクリル板を設置する、着席時には浜田と相方の間隔を空けるなど、感染予防策を可能な限り講じている。また、ロケの模様を収録した映像の放送に際しては、「感染防止対策に徹底しながらロケを行っています」という字幕を繰り返し挿入している。 貴乃花光司(放送上の名義は「貴乃花親方」)を相方に迎えた8月4日放送回から、屋外でのトーク収録を極力控えることなどを条件に、関西地方でのロケも再開した。観光バス内での収録も継続することから、毎日放送のアナウンサー時代に当番組へ数回出演していた豊崎由里絵(浜田が司会を務める『プレバト!!』の元・アシスタントでアミューズ所属のフリーアナウンサー)を、バス内での進行役に起用。再開前までは浜田が屋外で相方に投げ掛けていた視聴者からの質問を、バスによるロケ先の移動中に豊崎がまとめて紹介している。ただし、観光バスを移動に使用しないロケや、関西以外の地方(東京都内など)のロケでは、従来どおり浜田と相方のみでトークを収録。米倉利紀を相方に迎えた10月6日放送回からは、毎日放送の現役アナウンサーから若干名が、ロケに応じて進行役を交互に担当している。 2010年~2020年まで、正月SPは必ず1月1日の23:30からのスタートだったが、2021年は1月1日に「それSnow Manにやらせて下さい」の初の全国ネット放送が編成されたため、従来どおりの編成が不可能になったため、1月2日の23:30開始となった。 2021年2月9日の放送分から2021年11月23日の放送分までは新型コロナウィルスの影響で浜田と相方は東京からリモート出演になり、その中継をつなぎながら若手芸人たちが関西で週替わりでリポーター出演をした。 2021年11月30日の放送分から10ヶ月ぶりに関西ロケを再開した。(ロケ再開と、リモート収録の時は、サプライズ形式で、相方の顔に「誰?」と言うモザイク処理をしていたが、ロケ再開後は、それが廃止されている。)
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番組の歴史
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「TOKIO HOT 100」の記事における「番組の歴史」の解説
1988年10月2日 「PIONEER TOKIO HOT 100」として正式に放送開始(当時のスポンサーはパイオニアの一社提供)。番組中に流れるカウントダウンボイスはこのころから変わらず使用されており、当時制作チームにいたピストン西沢らが制作したものである。当日は翌週の第1回チャート入りが予想される楽曲で構成。 1988年10月9日 第1回チャート発表。第1位はPHIL COLLINSの『A GROOVY KIND OF LOVE』。 1988年10月14日 日本テレビで同タイトルの番組が放送開始。FM発のTV番組として話題になり、1990年9月まで放送。 1989年1月8日 前日の昭和天皇の崩御により、この回が唯一放送休止に。この回の第1位はBON JOVIの『BORN TO BE MY BABY』。 1989年9月3日 プリンスの『バットダンス』が番組史上初となる10週連続1位を達成。同年の年間チャートでも1位を獲得。 1993年1月 ホイットニー・ヒューストンの『I WILL ALWAYS LOVE YOU』が前述のプリンスの記録を塗り替える11週連続1位を達成。 1995年10月1日 冠スポンサーがパイオニアからサッポロビールになるのに伴い、番組タイトルが「SAPPORO BEER TOKIO HOT 100」となり、テーマソングや一部番組ジングル、ロゴのリニューアルを行った。 1999年5月30日 TLCの『NO SCRUBS』が1位に。これで通算12週目のNO.1となり、通算では歴代最多NO.1記録となる。 2000年4月16日 椎名林檎の『虚言症』が邦楽初の1位になる。 2002年1月20日 LOVE PSYCHEDELICOの『STANDING BIRD』が1位を獲得。HOT POPPERで1位となった曲(後述)としては番組史上最高となる96位から95ランクアップ。 2002年4月7日 番組リニューアル。チャート発表が過去の100位→1位カウントダウンスタイルから、100位→41位の下位パート、40位→1位の上位パートに分け、シャッフルして発表する形式に変更。また、楽曲チャート以外に書籍や雑貨などの売上げランキングを紹介するようにもなる。同時に女性ナビゲーターが加わりツインナビゲート制となる。 2004年10月3日 クリス単独での進行に変更。同時にランキングも100位から順に紹介するようになった。 2006年1月1日 2005年年間チャートにて、Def Techの『MY WAY』が、邦楽(J-POP)としては初のNo.1ソングになる。 2006年1月22日 マドンナの『HUNG UP』が11週連続1位となり、前述のホイットニーが持っている連続1位の歴代タイ記録に並ぶ。 2007年12月2日 放送1000回を迎える。1000回目のNO.1はALICIA KEYSの『NO ONE』。 2009年4月5日 冠スポンサーがサッポロビールから日本マクドナルドになるのに伴い、番組タイトルが「McDonald's TOKIO HOT 100」となった(同時期にZIP-FMの『ZIP HOT 100』でも冠スポンサーになっている)。あわせてテーマソングや一部番組ジングル、ロゴのリニューアルを行った。なお、当番組名における冠スポンサー名部分の読み上げは通常英語読みであるが、この時期のみ「マクドナルド」と日本語読みであった。 2011年3月13日 2日前に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)を受け、4月一杯まで番組内容を一部変更。また、13日は特に地震の余震の関係上ゲストも呼ばず、4時間楽曲を中心としたオンエアとなった。 2013年4月14日 サカナクションの『ミュージック』が1位を獲得。シングルセールス・オンエアポイントが抜群だったことから1月27日から4週連続1位、その後4週間首位から退くものの、アルバムセールス・それによるオンエアポイントも再び増加し、3月24日から再び4週連続1位を獲得。通算で8週間1位となった。日本人アーティストで通算としては最長の記録となり、同年の年間チャートでも2位を獲得した。 2013年12月31日 2013年年間チャートが、9:00-17:55に「YEAR END SPECIAL "TOKIO HOT 100 THE ANNUAL COUNTDOWN SLAM JAM 2013"(イヤーエンドスペシャル - ジ・アニュアル・カウントダウン - )」として放送された。 2014年1月25日 サカナクションの『グッドバイ』が1位を獲得。3位には両A面シングルのもう片方の曲『ユリイカ』がランクインし、TOP3に2曲ランクインさせた。同じアーティストがTOP3に2曲以上入るのは番組史上初。 2014年10月5日 冠スポンサーが日本マクドナルドからOlympicグループになるのに伴い、番組タイトルが「Olympic TOKIO HOT 100」となり、テーマソングや一部番組ジングル、ロゴのリニューアルを行った。 2015年6月28日 星野源の「SUN」が7週連続1位となり、2008~2009年と年をまたいだMR. CHILDREN『エソラ』、宇多田ヒカルが持つ日本人アーティストの最長連覇記録であった5週連続1位を更新。日本人アーティスト最長連覇記録を樹立した。同年の年間チャートでも3位を獲得。 2015年10月4日 冠スポンサーがOlympicグループからクレディセゾンになるのに伴い、番組タイトルが「SAISON CARD TOKIO HOT 100」となる。テーマソングや一部番組ジングル、ロゴのリニューアルを行った。なお、オープニングとエンディングにかかるジングルはRIP SLYMEのDJ FUMIYAが製作。 2015年12月31日 2013年と同様、年間チャートを9時間放送した。 2016年1月17日 DAVID BOWIEの『LAZARUS』が1位を獲得。1月10日にボウイが亡くなったことを受け、各番組で追悼オンエアが集中。その結果、番組史上初となる初登場1位となった。 2016年1月24日 SUCHMOSの『STAY TUNE』が1位を獲得。デビューから1年以内で1位を獲得したアーティストは2005年のDEF TECH『MY WAY』以来11年ぶり2組目。 2017年1月1日 2016年の年間チャートを放送。RADWIMPSの『前前前世』が年間No.1に。2005年のDEF TECH『MY WAY』以来、邦人アーティストが年間1位を獲得するのは11年ぶりのことで、史上2組目のアーティストとなった。 2017年1月15日 BRUNO MARSの『24K MAGIC』が3度目の首位返り咲きで通算7度目の1位に。3度目の首位返り咲きはACE OF BASE『ALL THAT SHE WANTS』、THE OFFSPRING『PRETTY FLY』に並ぶ歴代1位。 2017年1月22日 ONE OK ROCKの『WE ARE』が1位を獲得。ONE OK ROCKが1月11日に発売したアルバム『AMBITIONS』が大ヒットしていることなどから、2016年ののDAVID BOWIEの『LAZARUS』(前述)に次ぐ歴代2組目の初登場1位アーティストとなった。 2017年5月21日 ゲスの極み乙女。の『シアワセ林檎』が2位に。ニューアルバム『達磨林檎』のセールスポイントが加算され、初登場100位(2017/5/14付)から98ポイントアップとなり、NORAH JONES、ZAYNの持つ97ポイントアップ(どちらの曲も100位→3位)を塗り替え、HOT POPPER史上最も順位を上げた曲となった。 2017年5月28日 NULBARICHの『IT'S WHO WE ARE』が1位に。2005年のDEF TECH『MY WAY』、2016年のSUCHMOS『STAY TUNE』に続き、デビューから1年以内で1位になった3組目のアーティストとなった。 2017年6月4日 平井堅の『ノンフィクション』が5位に。これで通算72曲目のエントリーとなり、歴代最多エントリーアーティストとして記録を更新した。 2017年6月11日 平井堅の『ノンフィクション』が1位に。これで通算17曲目のNo.1ソングとなり、歴代最多No.1アーティストとして記録を更新した。 2017年7月2日 放送1500回を迎える。NO.1はKATY PERRY FEAT. MIGOSの『BON APPETIT』。 2017年10月15日 HI-STANDARDの『THE GIFT』が2位に。ニューアルバム『THE GIFT』のセールスポイントが加算され、前述のゲスの極み乙女。の『シアワセ林檎』と同様、初登場100位(2017年10月8日)から98ポイントアップし、HOT POPPER史上最も順位を上げた曲となった。 2017年11月26日 AbemaTVにAbemaRADIOチャンネルが開設されるのを受けて、この日にSPECIAL2チャンネルでプレ配信を行い、翌週の12月3日よりAbemaRADIOチャンネルで正式にサイマル配信を開始。 2018年10月7日 放送30周年を迎える。この日は六本木ヒルズ界隈で「J-WAVE 30th ANNIVERSARY FESTIVAL "TOKYO SOUND EXPERIENCE"」開催中であったことから、高橋優をゲストに迎えたパートで「J-WAVE MUSEUM」から公開生放送が行われた。 2019年1月1日 レギュラーチャート30年分を再集計した「究極のJ-WAVEヒット中のヒット100曲」をカウントダウンする9時間の新春特番『J-WAVE 30TH ANNIVERSARY SPECIAL SAISON CARD TOKIO HOT 100 30 YEAR ULTIMATE COUNTDOWN』を放送(9:00〜17:55)。 2019年3月3日 あいみょんが2月13日にリリースした『瞬間的シックスセンス』から6曲同時チャートインを果たし、歴代最高記録となった。さらにこの記録は3週連続続き、こちらも歴代最高記録となっている。 2019年7月7日 番組公式Instagramがスタート。さらにSHISHAMOがJ-WAVEのスタジオで生演奏した。 2020年9月6日 BTSの『DYNAMITE』がこのチャートでK-POP初の1位となる。 2021年3月21日 宇多田ヒカルの『one last kiss』が初登場1位を獲得、歴代3組目の初登場1位アーティストとなった。 2022年1月2日 2021年間チャートにてBTSのBUTTERがK-POPとしては初No.1ソングとなる。
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番組の歴史
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「Move On!〜aiRhythm〜」の記事における「番組の歴史」の解説
2002年4月に"Lunch On Time"(1994年4月1日開始)の後番組としてスタート。番組開始時は金曜日までの放送。2006年4月に金曜日の枠はFRIDAY AIR SHUFFLE HAPPY☆TRACKSに引き継がれた。2004年度にはビデオリサーチの調査で女性の支持率No.1に輝くなどの功績を残したが、2007年3月29日をもって番組は終了しμFM W-ing UpとSwitch!に引き継がれた(金曜も同様)。
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「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」の記事における「番組の歴史」の解説
番組が放送されていた1996年から2002年は日本テレビがフジテレビから視聴率三冠王を奪還、人気番組を量産し、他局を引き離す独走状態であった。それに伴い「ウリナリ」も千秋をボーカルに据えた番組オリジナル音楽グループ「ポケットビスケッツ」のヒットにより人気に火が付き、さらに対抗グループとしてビビアン・スーをボーカルに据えた「ブラックビスケッツ」が登場し、両チームの対決企画などが放送されていた1997年夏頃から1999年秋頃にかけて高視聴率を獲得し、日テレのドル箱番組となった。その後はメンバー変更、ポケビ・ブラビの活動停止等で人気が急降下し、2002年3月を以て終了することとなった。また、これにより『ウッチャンナンチャン』から13年間続いた日本テレビ系のウッチャンナンチャンの冠番組も幕を降ろした。
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番組の歴史
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1999年、2013年、2019年に大幅なリニューアルがあった。ここではリニューアル前を「第1期」、リニューアル後を「第2期」、2度目のリニューアル後を「第3期」、30年間継続してきた1時間の生放送を廃した2019年4月のリニューアルを「第4期」として扱う。
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番組の歴史
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「欽ちゃんのがんばる!日本大作戦」の記事における「番組の歴史」の解説
源流は、2010年3月まで放送された『難問解決!ご近所の底力』と、2007年度に地域応援キャンペーンの一環として4回放送された単発特別番組『地域に元気を呼び戻せ〜ワースト脱出大作戦スペシャル〜』(ちいきにげんきをよびもどせ・ワーストだっしゅつだいさくせん- )であり、本番組はその発展した形となる。当時からメインゲストとして出演した萩本欽一が司会を務めることとなり、タイトルは『欽ちゃんのワースト脱出大作戦』に決まった。萩本曰く「自身のテレビ人生における最後の冠番組」と位置付け、不退転の気持ちで臨む決意を表した。第1回放送は2010年5月7日で、当日は萩本の69歳の誕生日でもあった。なお萩本は前身の時代から関わっており、その縁での起用であった。 2011年12月24日(一部地域では後日)放送より『欽ちゃんのがんばる!日本大作戦』へリニューアルし、これまで取り組んできたワースト脱出はもちろんのこと、2011年に起こった東日本大震災からの復興の取り組みを始め、日本各地でのあらゆる取り組みもテーマとして紹介した。2012年3月23日に第2回が放送された。 本番組の終了後、2013年から2014年にかけてBSプレミアムにて、本番組と同様に萩本の冠司会による『欽ちゃんの全国びっくり王!』が放送された。
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1998年4月-広島修道大学の学生制作番組としてCCV(現ふれあいチャンネル)でスタート 2002年4月-Vol.49 『桜の花が開く瞬間をカメラに収めよう!』の番組制作の模様が中国新聞に掲載 2003年3月-Vol.60 『KEIDORO』よりふれあいチャンネル(現・ふれあいチャンネル安佐北支局)とチャンネルU(ケーブルシティ22)(現・ふれあいチャンネル西部支局)で拡大放送開始 2003年5月-Vol.62 『宮島の隠れた名所を探せ!』より広島ケーブルビジョン(現・ひろしまケーブルテレビ本部)と広島ケーブルビジョン(現・ひろしまケーブルテレビ安佐南支局)で放送開始 2005年5月-しゅうてれが2004年度広島修道大学学長奨励賞を受賞 2006年8月-Vol.100 『しゅうてれ生たまご』にて初の生放送を実施 2010年1月-2010年から従来のケーブルテレビでの放送をやめ、インターネットテレビ「しゃもジカテレビ」にて月2回配信となる。
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番組の歴史
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「いすゞ歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ〜」の記事における「番組の歴史」の解説
1974年9月から放送が開始された。1998年秋までの放送時間は、火曜日から土曜日の早朝(新聞の番組表の上では月曜日から金曜日の深夜)の 3:00 - 5:00。パーソナリティの5人の内3人は、前番組の『パックインミュージック第2部』からの続投だった。 1981年頃、番組エンディングテーマ「夜明けの仲間たち」制定。歌手は当時番組パーソナリティでもあった糸川蛍子。 1987年4月、番組の全面リニューアルを敢行。番組テーマ曲の変更(「赤い砂漠」 → 「愛しのデジベル」)と、パーソナリティの総入れ替えが行われ、これにより10年以上番組に出演し続けていた石渡のり子・岡村美鈴・岡雅子の3人が卒業。 1989年4月からパーソナリティが全員演歌歌手となる。この際、月曜深夜(火曜日未明)担当の滝里美は続投(1990年3月まで出演)した。 1992年、「夜明けの仲間たち」初のCD化。ただし歌手は当時番組パーソナリティでもあった麻生詩織で、8cmシングルCD「泣いて泣いて」のカップリング曲として収録。 1995年10月から3年間、最大30局ネットにまで膨らむ。 1998年4月から9月までの金曜深夜(土曜日未明)、週替わりでスペシャルパーソナリティという形で大物歌手や、過去に出演したパーソナリティが出演。この時は番組唯一の男性パーソナリティ・夏木ゆたかが進行役としてスペシャルパーソナリティをサポートした。 しかし1998年10月以降、スポンサーのいすゞ自動車が経営危機に陥り、広告宣伝費を削減した関係で放送時間を 4:00 - 5:00の1時間に短縮される。番組名も『いすゞ歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ〜』から『いすゞ』を削除した上で『歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ〜』に変更された。この措置により次のような放送改編が行われる。金曜深夜(土曜日未明)のスペシャルパーソナリティ制を廃止し、サポートを務めていた夏木ゆたかの降板が決まる。 時間枠縮小により、時間の無駄を省くためオープニングとエンディングのインフォマーシャルを廃止。いすゞ自動車のCMを流す局も30局から大幅に7局(TBSラジオ・北海道放送・東北放送・中部日本放送・毎日放送・山陽放送・RKB毎日放送)に減らした。この7局でCMが流れている間、他のネット局ではフィラーを流す事になった。 南海放送と高知放送がネットを打ち切り、『旧オールナイトニッポンR(1998年版で、2003年以降の第2期とは別)』に番組を切り替えたため、ネット局は28局となった。 放送時間短縮で空いた3:00 - 4:00の時間帯は、ロック・ニューミュージック中心の音楽番組『ライドオン・ミュージック』が開始される。 2001年9月、スポンサーだったいすゞ自動車が経営方針の転換により、スポンサーから降板する事になった。更に兼ねてからの演歌・歌謡曲の衰退、そしてTBSラジオの分社化による編成改革もあり、同年9月29日放送分での終了が決まった。番組は9月29日午前4時59分をもって終了し、27年・全7065回という長期間の歴史に幕を下ろした。最終回のパーソナリティは、金曜深夜(土曜日未明)担当の永井みゆきであった。
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番組の歴史
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1998年4月 - 広島修道大学の学生制作番組としてCCV(現ふれあいチャンネル)でスタート 2010年1月 - 2010年から従来のケーブルテレビでの放送をやめ、インターネットテレビ「しゃもジカテレビ」にて月2回配信となる。 2011年2月 - 更新停止状態にあった、しゃもジカテレビからYoutubeでの配信に切り替わる。
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番組の歴史
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オープニングでメンバーが登場する時はメンバー全員が「1,2 アッハン 1,2 ウッフン…」と走っていき、リーゼント先生(大松)が「ぜんたーい 止まれ!」メンバー全員「Oh、イエーイ!」の合図で止まり、リーゼント先生がその週の課題を出し、ロケに向かうのが基本。 ゴールドチクビンというシールを5枚集めると海外旅行を獲得できるというシステムがあったが、途中で自然消滅した。 2005年2月18日、「ひらめっ娘ライブ」がアステールプラザ中ホールで行われた。その時、300人以上を集客できないとライブそのものが中止になるという条件をかけており、同中ホールの映像でパンチ先生(現在の[いつ?]リーゼント先生)が結果を見せる。しかし、半分強程度(175人)しかなく、道楽メンバー全員涙。これでは申し訳ないため、メンバーの強い要望でお詫びの挨拶をしてステージに立ち、幕が開く。すると瞬間400人以上の観客が大拍手で迎えるという相当凝ったドッキリであった。 2005年5月12日放送分では「第1回ひらめっ娘学園釣り選手権」と題して、ぶりっ娘チーム(みすず・ゆみこ・あやや・キャシー)と肉体派チーム(まんみつ・キミ・ハブ・弟)に分かれて釣り対決が行われた。結果は肉体派チームの勝利。 2005年10月13日放送分ではゆうかとなみが学園の体験入学として初登場(同年7月頃から募集していた「ひらめっ娘学園体験入学」の募集から)。 ゆみこが左足骨折のため、2005年11月7日放送分から番組を一時降板。そのため、当面は前項で述べたゆうかを代役に立てて時々出演していた。その後、ゆみこは2006年1月19日放送分で松葉杖でひらめっ娘メンバーの前に現れ、徐々に番組に復帰した。 ひらめっ娘メンバー(2004年 - 2005年)は2006年3月16日放送分をもって番組を卒業。卒業後(2006年4月以降から)の活動は、ブロッサムのみすずとハブは東京進出(後に解散、ハブのみ上京)、ゆみこは陶芸や英語の習い事を趣味として極めていく、まんみつは実家の竹原市に戻る(女優の夢は諦めてはいないとのことだったが、後番組の『Local★STAR ひらめっ娘学園』で続投することになった)、キミはアクターズスクール広島のダンス講師の指導を引き続き行う、姉弟ゲンカのあややは未定、弟は洋服屋の店員(注.2人は表向きでは本編内でそう話していたが、テレビでは言いづらい事情があるためか濁していた)となっている。 2006年3月16日放送分ではひらめっ娘学園卒業式、同年3月23日放送分では八剣伝(出汐店)での総集編SPを放送した。そして番組は木曜深夜から金曜深夜へ移動し、『Local★STAR ひらめっ娘学園』と題してリニューアル。新生ひらめっ娘学園のメンバーが始動した。
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番組の歴史
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「THE ROAD TO SUPER HERO」の記事における「番組の歴史」の解説
2003年4月、『荒川強啓 デイ・キャッチ!』内の1コーナーとして、月曜から金曜までの5分間の帯番組で開始(17:00 - 17:05)。 2003年10月、『スポーツBOMBER!』内に移動し、引き続き月曜から金曜までの5分間の帯番組となる(18:25 - 18:30)。 プロ野球シーズンに入った2004年4月から、放送時間が日曜日の17:00 - 17:25に移動した。 2008年3月いっぱいで放送終了。放送期間は帯番組時代と合わせて5年。
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番組の歴史
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「Newsリアルタイムふくい」の記事における「番組の歴史」の解説
2006年4月3日:『リアルタイムふくい』スタート。 2006年5月1日:地上デジタル放送開始のため放送時間を30分繰り上げてスペシャル番組として放送。 2006年7月7日:『リアルタイムふくい』になって初めての、17:25開始の短縮放送。 2006年7月14日:『リアルタイムふくい』の中でハプニングが多くあった。 2006年10月9日 - 10月13日:ピントン体操誕生記念としてパネルマッチのオールマイティーのピントンがゴールドピントンになる。 2006年12月18日より『リアルタイムふくい』の新番宣CMが放送される(キャスターの笛吹と森本が出演する)。 2006年12月25日 - 2006年12月28日:放送時間が短縮(月曜日には18:40、火曜日 - 木曜日には18:30に終了) 2006年12月28日:『ふくいこの一年』を放送。 2007年4月6日:金曜日のみ放送時間が拡大し、16:48(正確には16:47:45)スタートになる。 2007年7月31日:福井駅前中継でハプニングがあった(携帯用カセットコンロに穴が開いていてそこからガスが漏れ、駅構内でガス臭がする騒ぎとなった)。 2007年9月28日:『おじゃまっテレFRIDAY』開始により、金曜日の放送を一旦終了させる。 2007年10月1日:番組リニューアルにつき、月曜日 - 木曜日18時台のみの放送となる。 2009年4月3日:『おじゃまっテレ』の放送時間全曜日共通に伴い、金曜日の放送が復活。 2009年9月28日:『リアルタイム』のテーマカラーが変更に伴い、福井でも青から金色に変更。 2010年3月26日:『リアルタイム』終了により、『リアルタイムふくい』も終了。
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番組の歴史
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「DI:GA 茂木放送協会」の記事における「番組の歴史」の解説
深夜に「茂木淳一のバーチカル・ドロップ」(25:00 - 29:00)が放送されていて、そのコーナー内でディスクガレージ(略号「DI:GA」)が提供するコーナーがあった。2007年春改編で番組が終了し、茂木が平日夕方の「WONDERFUL WORLD」(愛称:ワンダホ)に移ると、ディスクガレージもワンダホ内の1コーナーのスポンサーとなる。2008年秋改編で茂木がワンダホを卒業するとともにディスクガレージもスポンサーを降板。茂木自身が金曜深夜26:00~の30分番組(つまり「茂木放送協会」)を担当する事になり、この番組のスポンサーになった。2016年3月で放送が終了した。
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「ベストカセットリクエスト」の記事における「番組の歴史」の解説
2008年4月27日深夜(4月28日未明)2:45-4:35に、普段は放送休止時間となっている日曜深夜(月曜未明)の枠を使った特別番組『ベストヒット80s』として、清水次郎(朝日放送アナウンサー)と小川恵理子の進行で、1980年代の音楽に焦点を当てた音楽番組を放送した。 特別番組が好評だったため、2008年7月から日曜日深夜枠でのレギュラー化が決定した。レギュラー化の際に進行役として枝松順一が起用された。 なおレギュラー放送に先立ち、2008年6月16日20:00-20:30には、月曜日20時台の単発番組枠を使った特別番組として、枝松・小川の進行で同番組が放送された。 しかし、2008年9月14日のエンディング前で「2008年9月28日の放送を持って番組を終了させていただきます。」と番組の打ち切りが決定してしまった。2008年10月5日以降の日曜深夜0:30~1:00の番組についてはネット番組が移動と発表された。 ABCラジオ 日曜日 深夜24:30-25:00前番組番組名次番組集英学園乙女研究部(文化放送制作のアニラジ番組。2005・4~2008・6・29) ベストカセットリクエスト 明治製菓プレゼンツ中居正広のSome girl' SMAP(ニッポン放送制作のラジオ番組。土曜24:00~移動。)
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番組の歴史
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「蕭秀華のMUSIC CUBE」の記事における「番組の歴史」の解説
ABCラジオでは、年度下半期(ナイターオフ)は、土曜日の夕方に『大西ユカリのハッスル歌謡曲』を放送している。しかし2007年度シーズンオフは大西ユカリがミュージカルに出演することになり、その関係で番組に出演できなくなった。そのため2007年度の放送は同年12月で一旦打ち切りとなった。 そこで同番組打ち切りに伴う残り3ヶ月(1-3月)のつなぎとして蕭秀華が担当することになり、当番組が始まった。当初は3ヶ月の予定だったが、放送は2008年4月以後も継続されることになった。 しかし、2009年7月のデーゲーム枠整理に伴う改編に伴い、土曜午後に4時間半の番組である『楠淳生のやんちゃな!weekend』が開始されるため、終了することになった。 なお、番組内の一コーナーとして放送されていた「青春ING」は、2009年7月より独立番組『蕭秀華の青春ING』(土曜日早朝6:30-6:45)として放送される。
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番組の歴史
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「撮りたい放題 JRTビデオ広場」の記事における「番組の歴史」の解説
1989年4月4日 - 番組開始。 2007年10月5日 - 放送日時が毎月第1金曜 10:55 - 11:25 に変更。 2008年10月4日 - 放送日時が毎月第1土曜 9:25 - 9:55 に変更。 2018年7月7日 - 番組終了。
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番組の歴史
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「柴田博のまっぴるま王子!」の記事における「番組の歴史」の解説
2002年(平成14年)10月12日 - 前身番組「まるごと情報マガジン」をリニューアルする形で、番組がスタート。出演は柴田博・入江玲子。放送時間は11:00-12:45。 2003年(平成15年)10月4日 - 2003年秋の番組改編で、入江玲子が土曜早朝のワイド番組「ガッツ土曜日!小染です」のアシスタントに就いた為降板。2代目アシスタントとして、片山淳子が登場。 2005年(平成17年)4月 - 放送時間が11:15-13:15に変更となる。 2006年(平成18年)4月1日 - 最終回。 2010年(平成22年)2月8日-月曜20:00-20:30において「柴田博の今夜はまっぴーパーティー」として番組名が異なるものの1回限りの復活となり、柴田博と片山淳子が出演することとなった。
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番組の歴史
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「夕方いちばんプラス1」の記事における「番組の歴史」の解説
夕方いちばんプラス1放送前は『情報フロント530』(後の『情報フロント』や『早出しプラス1』)。この番組のルーツは『木曜トレイン』・『土曜トレイン』にあり、かなりの歴史があると言える。 1995年 金曜夕方に『情報フロント530』放送開始。 1996年4月1日 番組放送開始。スタート時刻は17時25分。5時台は17時30分から数分間東京からネットを受けてローカルに入る形に。 1999年(平成11年)11月11日 FBC本局のチャンネルである11が並んだので特別番組を放送。 2000年4月 開始時刻を16時54分に繰り上げ。 2001年6月8日 板垣旧社屋での放送を終了。 2001年6月11日 大和田新社屋のスタジオからの放送開始。 2002年4月5日 『夕方いちばんプラス1 FRIDAY』放送開始。 2006年3月30日 月曜 - 木曜版の放送を終了。 2006年3月31日 金曜版放送終了。『夕方いちばんプラス1』最終回。
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番組の歴史
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「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」の記事における「番組の歴史」の解説
1969年10月6日:独立番組『ミュージックプレゼント』(1970年5月の番組表には『TBS950ミュージックプレゼント』と表記。950は1978年11月23日午前4時59分までのAM放送周波数にちなんでラジオカーに当時付けられていた名称「950カー」からで、ラジオカーによる中継番組であることを指す。なお、この番組表にスポンサー名は記されておらず、実際のスポンサーの有無は不明)として放送開始。第1回は東京都練馬区の町工場から中継を行った。 1970年:この頃「ナルサ・ミュージックプレゼント」に改題。複数社提供となり、スポンサーの中にはこの時期から東食が入っていた。10月からは東食と同社と取引関係にある関係企業による「東食食品グループ」の単独提供になり、タイトルも『東食ミュージックプレゼント』へ変わる。 1971年10月4日:『こんちワ近石真介です』に内包され、以後はワイド番組に内包されるようになる。当時は土曜日も放送。 1972年4月22日:土曜日は『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』に内包。 1975年4月3日:土曜日は『三國一朗の土曜ワイドラジオTokyo』に内包。 1978年4月8日:土曜日は『久米宏の土曜ワイドラジオTOKYO』に内包。 1980年10月6日:『うきうきワイド こんにちワ神谷明です』に内包。 1981年1月31日:土曜日の放送が終了し、これ以降は月曜日から金曜日の放送になる。以降土曜日は「おめでとう結婚記念日」コーナーに移行。 10月5日:『The Radio お元気ですか土居まさるです』に内包。 1983年4月11日:『こんちワ近石真介です』が再開し、同番組に再び内包。前番組までエンディングだった箇所が交通ニュースに充てられたため放送時間は戻されなかった。 1985年4月8日:『スーパーワイドぴいぷる』に内包。 1986年4月7日:『大沢悠里のゆうゆうワイド』に内包。以後、2016年4月8日の同番組終了まで、同番組内で放送された。 1997年12月18日:同日に東食が倒産したことに伴い、冠スポンサーを降板(ただし、「東食食品グループ」として提供していたキーコーヒー・キユーピー・永谷園等取引相手の各企業はスポンサーを継続)。翌週の12月22日から冠スポンサーを変更し、タイトルも『ヨークマート ミュージックプレゼント』となる。(前述) 2006年1月9日:毒蝮が腸閉塞で入院したため、この日の放送から2月20日に復帰するまで、番組を休む(前述)。 2007年3月30日:ヨークマート・および東食時代からのスポンサーが降板。これ以降は火曜日がヨークマートとは同業他社にあたるマルエツの提供により、同社店舗からの中継とした『マルエツミュージックプレゼント』として、また他の曜日ではエーザイ提供により同社の内服薬「ナボリン」を冠してドラッグストアを中継先とした『ナボリンミュージックプレゼント』など不定期に冠スポンサーが付く事になり、それが無い時は現在に至るまで『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』にタイトルが落ち着く。 2011年3月15日:東日本大震災の発生に伴い、3月18日まで街頭中継放送を休止(自粛)し、毒蝮がスタジオから放送した。 2014年1月17日:TBSテレビ『ぴったんこカン・カン』に毒蝮がゲスト出演。本番組のロケ(この日は都内の銭湯)の模様が放送された。 2016年4月11日:『ジェーン・スー 生活は踊る』に内包。これまで通り、生中継の放送は維持するが、月 - 木曜日の放送に変更した。これは毒蝮が「金曜は休みたい」とする本人の意思によるものである。同日より、放送時間は15分に短縮され、1回分の曲数を2曲から1曲に減らした。2018年3月29日まで、同番組内で放送された。金曜日は高橋芳朗がパーソナリティを務め、『高橋芳朗のミュージックプレゼント』として2018年3月30日まで毎週金曜日に放送された。 2018年3月12日:毒蝮による放送が同年4月より『金曜たまむすび』枠内になると伝えられた(前述)。 4月6日: この日の放送から『金曜たまむすび』の枠で放送。放送時間は再び25分前後に戻ったが、1回分の曲数は1曲のままとなった。 2019年10月6日:この日で放送50周年を迎えた 10月11日:この日の放送で50周年および放送回数が1万3001回目を迎えた。 2020年3月6日:この日の『金曜たまむすび』で、同年4月から『土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送』内での月1回の内包へと移行されることが発表された。 3月20日:『金曜たまむすび』を休止して、特別番組『ラジコフェス2020~私のミュージックプレゼント』が放送された。同番組内で毒蝮の中継を『金曜たまむすび』と同様に、玉袋が経営する「スナック玉ちゃん 赤坂本店」から行い、玉袋・外山と同店に勤務するアマレス兄弟らが出演。同番組パーソナリティの爆笑問題とTBSアナウンサー・皆川玲奈が相手を務めた。なお、同番組の制作者によれば番組全体の「裏テーマは『毒蝮さん愛』」としていた。 4月25日:この日の放送から『ナイツのちゃきちゃき大放送』において最終土曜日に放送。新型コロナウイルス感染症の拡大によりこの日の毒蝮は自宅から電話出演。これ以降も当面の間は街頭からの中継を中止して、毒蝮はTBSラジオのスタジオや自らの所属事務所である「まむしプロダクション」の事務所から出演を行っている。
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番組の歴史
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「水戸ホーリーホックマガジン」の記事における「番組の歴史」の解説
元々この番組は前身番組があり、1998年頃に「松井裕子の気ままにアフタヌーン」の火曜日のワンコーナーで水戸ホーリーホック(当時JFL)の情報コーナーがあった。その後1999年春に「気ままにアフタヌーン」が15時55分までに短縮したのに伴い、「ニュース2000」の月曜日の16時25分からのトゥディのコーナーに移動。その後一旦水戸ホーリーホックの情報番組は廃止されるが、2002年に古瀬俊介アナ自らが担当する「俊介の朝から満塁ホームラン」の火曜日11時15分からのコーナーで水戸ホーリーホック情報として復活。その後「俊介・章子の昼までドンドン」とリニューアルしてからも昼ドン玉手箱の火曜日でこのコーナーが続き、2004年春に現在のスタイルとなった。 番組では毎回水戸ホーリーホック所属選手が登場し、試合の活躍ぶりや素顔、質問に答えるインタビューコーナーを中心にチームのゲームハイライトやお知らせなどを放送している。
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番組の歴史
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2009年(平成21年) 7月1日 - 番組名を『俺たちのまんが道』に改める。 2011年(平成23年) 4月13日 - ニコニコ動画でテスト配信を行なった。 2012年(平成24年) 9月5日 - BBstationでの配信からBBstationチャンネルでの配信に変更となる。 2013年(平成25年) 12月25日 - 番組最終回。
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番組の歴史
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「元気イチバン!!ぶっちぎりプレイボール」の記事における「番組の歴史」の解説
この番組は元々2003年度の下半期(ナイターシーズンオフ 10月〜3月)に元気イチバン!!芦沢誠ですの第2部として始めたスポーツコーナーが原点で、2004年度から上半期(ナイターシーズン 4月〜9月)のABCフレッシュアップナイターの前座番組として独立した。
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番組の歴史
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「霜降り明星のだましうち!」の記事における「番組の歴史」の解説
2017年7月23日 - 霜降り明星が「第38回ABCお笑いグランプリ」で優勝したことをきっかけに、特別番組『ABCラジオ 日曜スペシャル「霜降り明星のだましうち」』を放送。9月17日 - 特別番組第2弾として『霜降り明星のだましうち2』が放送。この放送内で、同年10月7日からのレギュラー放送開始が発表された。 10月7日 - レギュラー放送開始。当初の放送時間は毎週土曜日27:00 - 28:30(日曜未明3:00 - 4:30、90分)。 2019年4月6日 - 放送時間を毎週土曜日25:30 - 26:30に変更。 2020年4月5日 - 中国放送、南海放送の2局でネット開始。 2020年9月27日 - 中国放送でのネット終了。 2021年3月28日 - 南海放送でのネット終了。 2021年10月2日 - 放送時間を毎週土曜日25:00-26:00に変更。また放送時間変更に伴い、番組ノベルティであるステッカーのデザイン案をリスナーから募集した。
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番組の歴史
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2005年4月2日、土曜・日曜深夜の番組として放送開始。放送時間は土曜深夜26:40 - 26:50(2010年9月25日まで)、日曜深夜26:30 - 26:40(2010年3月28日まで)。 2005年4月11日からは平日朝にも放送。 2008年7月から土曜・日曜深夜版は平日深夜放送の『A×A ダブルエー』と姉妹番組の関係となる。 2008年9月26日をもって、平日朝版は一旦終了。 2009年4月から、現在も継続する土曜朝の放送開始。 2010年4月4日より日曜深夜の放送時間変更。従来より5分繰下げ。 2010年10月2日から土曜深夜の放送時間変更。『TXNニュース』の土曜深夜版廃止に伴い、従来より5分繰り上げ。 2011年4月6日から平日朝の放送を再開(ただし水曜 - 金曜のみ)。また、同年4月17日以降の日曜深夜の放送時間が30分繰り上げ。 2011年7月10日をもって、土曜・日曜深夜版の放送は終了。この時点では土曜深夜は26:35 - 26:45に、日曜深夜は26:05 - 26:15に放送されていた。同月13日からは水曜 - 土曜朝のみの放送となり、土曜・日曜深夜版の後枠は『もえ×こんサタデー/サンデー』となる。 2012年3月30日をもって、平日朝版も終了。同年4月以降は土曜朝のみの放送となり、現在に至る。なお、2011年9月に終了した『E morning』第2部のコーナー「エンタメの扉」も継続して放送された。
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番組の歴史
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「生中継 ふるさと一番!」の記事における「番組の歴史」の解説
2005年10月3日 - 『スタジオパークからこんにちは』(スタパ)の放送時間を拡大し、その第1部として放送開始NHKの不祥事が相次いだことにより視聴者の信頼回復のために実施された改革の一環として、2004年4月から1年半、月曜日~金曜日の帯番組として放送されていた『お昼ですよ!ふれあいホール』を改編で終了させスタートした。 『スタパ』が休止となる祝日は単独番組扱いとなり、『生中継ふるさと一番!』のタイトルのみで放送。使用される表示テロップも『スタパ』で使われているものとは別のものを使用していた。 金曜日はこの時から2012年3月まで『金曜バラエティー』を放送 2006年4月3日 - 『スタパ』から独立 2011年3月10日 - 翌日の東日本大震災に伴い同日の放送を以って打ち切りとなった。 番組は2011年3月24日に終了し、3月28日から後継となる生中継番組『ひるブラ』に移行することを発表していた。しかし、その直前の3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。それに伴い総合テレビでは報道特別番組が敷かれたため3月14日から4月中旬まで放送休止となり、『ひるブラ』の放送開始は4月25日に延期された。そのため後継番組開始のお知らせが無く、未消化の番組も放送されないままで本番組の終了を迎えることになった。
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番組の歴史
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「SUNSET CALLING」の記事における「番組の歴史」の解説
初代は川辺小都子が月曜日から金曜日までパーソナリティを担当。開始当初はJFN加盟しており、JFNニュース放送の関係で17:15~18:55の枠で放送。以後20:00まで放送時間を拡大、1992年にはJFN脱退を機に放送開始が17:00~19:30に繰り上げとなる。 1993年4月より金曜日担当のパーソナリティとして長谷川雄啓を迎えるも半年で降板、再び川辺が全曜日担当となり、1995年3月まで担当した。そして番組終期のパーソナリティ塚田光信へと継承していく。塚田に交代してからは、女子学生(主に東京近郊の私立大学の学生)が日替わりでアシスタントを担当した。 夕方のリクエスト番組とあって、中高生からの人気も高く、1994年、15:00~16:55の枠で放送していた「J-POP SQUARE」が19:00~20:55へ移動(同番組の拠点も新宿ルミネ2のタワーレコードサテライトスタジオへ移行)したのを機に、放送開始を16:00に繰り上げ、3時間に拡大される。
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番組の歴史
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「デーモン小暮のオールナイトニッポン」の記事における「番組の歴史」の解説
1987年4月6日 第一回放送、最初は閣下一名での喋りだった。「(当時出演自粛中だった)たけしが復帰したらこの番組なんて飛んでしまいますよ」「野村義男(のオールナイトニッポン)の短命記録を更新しないで下さい」などのはがきを紹介。初回から「デーモン小暮のオールナイトニッポンは永遠に仏滅だ」の言葉を残す。 1987年5月3日 ゴールデンウィークのため、オールナイトニッポンの時間帯でも交通情報が入っていた。その時の交通情報担当者に閣下が「遊びに行って渋滞にまき込まれている者をどう思う」と振ったところ、担当者「ざまあみろという感じです」というような事を発言する事件が起こる(後に始末書を書かされた等の話が飛び交い「交通情報始末書事件」として番組で話題となった)。 1987年中(放送日不明) ゲスト:藤井麗奈、小林あい(AV女優)。「デーモンさんに会わせてくれたら何でもしちゃうわ」と公言し、これがコーナー化もされていたということからゲスト出演。この時にデーモン閣下&ルーク参謀は、「本人なら自分のあえぎ声が分かるはず」と利きあえぎ声テストなどを行った(その際、ルーク参謀は「(このあえぎ声は)嘘声だな」という発言を残し、この時の浮かれた閣下および参謀の番組進行を聞いて女性リスナーが激減するという事態を招く)。 1987年(放送日不明) ゲスト:南野陽子「大徹さん頑張って」という一言を、ラップの形でアレンジされる。 1987年6月29日 ゲスト:大徹忠晃「大徹ラップ」に「大徹です」と本人の声が入ることに。当日が名古屋からの放送だったため、名古屋場所直前のゲスト入りだった。 1987年11月 ゲスト:光GENJIスパゲッティ早食いでライデン湯沢殿下と対決。 1988年1月4日 ゲスト:泉谷しげる、沢田研二、渡辺美里。正月(誤月)スペシャルとしてゲストが多く入る。渡辺美里、プレゼントキーワードとして「車に轢かれて陽気なサザエさん」という言葉を残す。 1988年1月25日札幌市・STVラジオからの放送。1時30分頃からしばらくの間、かなり酔った構成員のエース清水、ライデン湯沢の2名がスタジオトークに加わり、番組の進行を阻害するほどの騒ぎ振りを聴かせた。 1988年2月22日日付が変わって23日が誕生日の前任パーソナリティ・中島みゆきが直前に関東地区で生放送されていた『HITACHI FAN! FUN! TODAY』『ぽっぷん王国』からの流れで最終回以来1年ぶりに登場。 1988年3月21日 ゲスト:泉谷しげる当日はミック・ジャガーの東京公演前日で「ミック・ジャガースペシャル」を行い、ミックとローリング・ストーンズへの思いを泉谷が熱く語り、様々な過激発言を残す。 1988年4月4日 ゲスト:伊藤麻衣子、ファンキー末吉(爆風スランプ)番組一周年記念スペシャル。当初は局に近い銀座のローソン前でチーママをスタジオに連れて来よう、という企画だったが、そこで連れて来られたのが伊藤麻衣子だった。 1988年5月16日 ゲスト:UP-BEAT 1988年6月20日 ゲスト:泉谷しげる、BaBe、立花理佐、浅香唯夜霧の横綱審議会スペシャル版として行われた「霊感・ヤマカン・クイズぬらりひょん友の会」。クイズというよりは面白い発言をした者勝ちというもので、ここでも泉谷が“暴走”する。 1988年7月4日 オープニングで閣下が、同じくオールナイトニッポン金曜1部を担当していた鴻上尚史の歌による曲『そして伝説へ』(テレビゲーム(任天堂:ファミリーコンピュータ)『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』のエンディング曲に歌詞をつけリリースした曲)を歌う。きっかけは、この曲が発売された週の売り上げが聖飢魔IIの「STAINLESS NIGHT」を上回っていたため、鴻上が自分の番組で閣下をからかったということで、これを受けて閣下が「(鴻上の歌が下手すぎて作曲者の)すぎやまこういちに失礼だろ」と言い返した。なお、これを更に受けて金曜の鴻上尚史は番組内で聖飢魔IIの「STAINLESS NIGHT」を歌い、異例の番組交流が行われた(ちなみに両者とも早稲田大学出身という共通点がある)。なお、この日は閣下の人生幸朗風のボヤキ声のトークから始まった。この日のゲストは大江千里。閣下が大江のアルバム「1234」にコーラスとして参加していた縁での出演だったという。 1988年7月18日 ゲスト:宮原学ルーク参謀とオカマ声を競う。 1988年7月31日 軽井沢で公開録音(この模様は翌日8月1日に放送)。当地の「ぬらりんハウス」で買い物をした先着約300人を招待、「ぬらりひょん吉クイズ」などを行う。 1988年8月13日(土曜日深夜) 「夏休みトンデモはねてる放送局・デーモン小暮のオールコンビニエンスストアニッポン」として4時間の生放送。ゲスト:大川豊(大川興業)、CHAKA(PSY・S) 1988年9月5日 ゲスト:杉原徹(てつ100%)てつ100%の曲から1曲かける時に、当時の最新アルバム『Jack In the Box』の中から杉原が『真夏のサンタクロース』を紹介したが、閣下に「なぁ~~にぃ~、サンタクロースだぁ!?」と言われる(本番組中でクリスマス関係=神の行事に触れる曲をかけることはタブーだったため)が、杉原曰く「あれ?打ち合わせ通りじゃない」。結局この日は同じアルバムの中から『HANDS DOWN~恋のテレポート』をオンエアした。 1988年9月19日 ゲスト:奥居香(当時、プリンセス・プリンセス)、CHAKA(PSY・S) 1988年10月3日 ゲスト:山下達郎 1988年10月17日 当時J-WAVEが開局したことから、同番組をパロディにした英語訛りのDJ風のトークを展開し「N-WAVE YURAKU AVENUE MONDAY(エヌウェーブ・ユーラク・アヴェニュー・マンデイ)」と局非公認で番組名を変えて放送。 1988年10月24日 前週からは一転して、「JET STREAM」の城達也風の語りで「有楽ストリート」と番組名を変えて放送(これも局非公認)。なお、翌週10月31日には元に戻っていた。 1988年10月31日 ゲスト:渡辺英樹(C-C-B) 1988年11月28日 「栄光のヌラリュージョン」 ゲスト:丹波哲郎、菊池桃子4組の出場者が手品、マジックを披露。4組の中で優勝したのは、後にディレクター、放送作家となる小林順(「ウン小林山」として出場)。中盤では閣下とかつて素人時代にコンビを組んでお笑い番組に出演していた当時の仲間(後にへらちょんぺ、元気いいぞうのそれぞれの芸名で芸人として活動する2人)とが「タオルで遊ぼう」などの演芸を披露、立川真司が鉄道音マネを演じ、後半では丹波による霊界講演会、菊池とのゲストトークが行われた。 この日は閣下、丹波共にワイドショーや新聞社などからの取材を受けていた。番組収録終了後、丹波は自分のかぶっていた霊界の帽子をデーモン閣下に渡すなどしたが、メディアからのインタビューの際、デーモン閣下が延々と丹波口調だったことに気分を害し、帽子を取り上げて帰ってしまったというハプニングもあった。 1988年12月5日 ゲスト:西田昌史(EARTHSHAKER)、寺田恵子(SHOW-YA)当時2人で組んでいたユニット「HIP'S」として出演。寺田は1989年2月6日放送では単独でゲスト出演。 1989年2月27日 「月曜オールナイトだよ 歌ってマンボ全員集合!だめだこりゃ」 ゲスト:旗照夫、殿さまキングスマンボ自慢のリスナー3組が出場し、自作のマンボを披露。後半には殿さまキングスとデーモン閣下、ルーク参謀とのセッションが行われ、閣下が「なみだの操」の替え歌を歌った。 1989年4月10日 再び宮原学がゲスト。当日はデーモン閣下が休みだったため、ルーク参謀と2名での放送に。 1989年5月8日 第99回目の放送で、この回数の数字とかけて1曲目としてTOTOの「99」を放送。しかし、このレコードが古すぎ途中で音声が飛ぶという放送事故が起こった。その後、それにも懲りず閣下はなんとか「99」をかけようとするネタを数週に渡って続けた。 1989年5月15日 第100回記念放送。これまでの名珍場面をテープで振り返る。南野陽子、泉谷しげる(「悪魔のくせに回数を数えるな」などのコメント)、大徹、タモリ(「放送10万回超えて欲しい」などのコメント)、宮路オサム(殿さまキングス)と、本番組の真裏でTBSラジオ「スーパーギャング」のパーソナリティを務めていた渡辺正行からもコメントが寄せられた。 1989年6月12日 表向きは「大教典『WORST [極悪集大成盤]』の制作先であったニューヨークからの生放送」という形。“ニューヨークの街角で出会った現地の人をスタジオに連れて来て出演”させ、一緒にトークするというの内容であった。途中、第100回記念放送で放送し切れなかった名場面集を放送。しかし、放送終盤になって閣下たち構成員が電話でニューヨークから生出演、その場で「今までの放送はニューヨークに発つ前に録音していった物であった」(前週6月5日の生放送終了後に収録)ということを告白した。 1989年6月19日 「POISONの前でPOISON」(収録)アメリカのハードロックバンド、ポイズンをゲストに迎え、5組のアマチュアバンドが本人達の前でポイズンの曲を演奏した。 1989年6月26日 「悪魔の結婚式」永遠の愛を語る必要のない、上辺だけの悪魔教式の結婚式を行う。“司祭役”はゼノン石川和尚。ゲスト:南野陽子、サンプラザ中野(電話出演) 1989年7月10日 ゲスト:深津絵里、西田昌史(EARTHSHAKER) 1989年7月24日 箱根 彫刻の森美術館において生放送。地元の芸者を呼んで、大人のお座敷芸を含めた放送を行う。 1989年8月21日 ゲスト:DEAD END(MORRIE、YOU) 1989年9月4日 ゲスト:嶋田久作(映画「帝都大戦」の加藤保憲役)「悪魔の保護団体」コーナー用に「みんな守ってやる」のセリフを残す。 1989年9月25日 ゲスト:大川興業、野沢直子、SHAIN'Sリスナーに宴会芸を伝授すると称して、大川興業が替え歌を歌うなどのパフォーマンスが行われた。 1989年10月16日 熊本放送からの生放送。ゲスト:ばってん荒川 1989年11月13日 閣下の発生日記念放送。ゲスト:今井美樹 1989年12月11日 「ゴジラスペシャル」 ゲスト:大森一樹(監督・脚本)、川北紘一(特技監督)、小高恵美(三枝未希役)、薩摩剣八郎(ゴジラスーツアクター)ゴジラマニア100人が集まり、「銀スタ横断ウルトラクイズ」などが行われる。放送終了後から始発電車が動く時間までは、「ゴジラvsビオランテ」の試写会が行われた。 1989年12月18日 「年末恒例バカ騒ぎ・今宵あなたと悪魔の大忘年会」「夜霧の横綱審議会」「全国カジュアル図鑑」「口説き文句も忘れずに」など各コーナーをスペシャルバージョンで放送。「あの時君は若かった」コーナーではかまやつひろしをゲストに迎える。 1990年1月1日 「悪魔の初詣」前日1989年12月31日に第40回NHK紅白歌合戦に聖飢魔IIが出演したことから、オープニングで「紅白歌手だぞ!」「ただの忙しい土日月だ!」という閣下の発言などがあり、紅白歌合戦の裏話などを披露。リスナーと電話をつないでのトークなどを行う。賽銭箱ならぬ「賽便箱」(さいびんばこ)に入ったリスナーからのはがき(いつものようにスタッフらが下読みして本番で読むはがきを選ぶということをせずに入れたもの)を無作為に引き出して紹介。訪れたリスナー全員に、剃り落とした閣下のヒゲを一本ずつ紙に包んだ“お破り”(人間界で言う所のお守り)がプレゼントされた。 1990年3月5日 ゲスト:サンプラザ中野、パッパラー河合(爆風スランプ) 1990年3月12日 前の週の放送分で「悪魔で生ラジオ」のコーナーにおいて「どうするどうなる、Babeの近藤」のテーマを取り扱ったところ、当時BaBeが解散直前だった近藤智子が緊急ゲスト出演し、今後の身の振り方を相談する。 1990年4月9日 ゲスト:北尾光司(超闘王列伝スペシャル)、風見しんご、西條康彦(ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説スペシャル)。 1990年4月16日 ゲスト:松尾貴史(「好色萬声男」にちなんで 萬声スペシャル)、山村貴子(聖飢魔II信者として本番組でも話題になった歌手。デビュー曲「花盗人」をPR) 1990年4月30日 東北放送から、本番組最後となる地方局発の放送。 1990年5月7日 ゲスト:氏神一番(カブキロックス) 1990年5月14日 最終回放送。オープニングは沖縄県の漫湖の話から、大阪弁、福岡県の方言などで女性器を意味する単語を連発し「実はこれらは放送禁止用語になってないんだよな」といった内容のトークとなった。Wink、大川豊、泉谷しげる、大徹、南野陽子、山村貴子、旗照夫、殿さまキングスら、番組中で話題になった人、ゆかりの人からの声のメッセージを紹介。後継パーソナリティの大槻ケンヂがコンサートツアー先から電話出演。これまでの名場面集を放送、「夜霧の横綱審議会」の最終番付を発表。エンディング近くでは、これまでのスタッフ、電話で募集したリスナーからのメッセージを放送、エンディングトークでは、第一回放送にも残した「デーモン小暮のオールナイトニッポンは永遠に仏滅だ」の言葉で最後を締めた。この日、ニッポン放送局舎前には約500人のリスナーが集まり、放送終了後に閣下、参謀があいさつした。
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番組の歴史
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「志村けんのだいじょうぶだぁ」の記事における「番組の歴史」の解説
単発ドラマ枠『月曜ドラマランド』の後を受け、1987年11月16日にスタート。初回から視聴率20%を叩き出し、すぐに人気番組へと成長した。1988年4月からフジテレビにて21時から放映だった、田原俊彦主演のドラマ『教師びんびん物語』が大ヒット作となり、主演の田原が「志村さんの番組のおかげで、視聴者がそのまま僕のドラマを続けて見てくれている」と志村の楽屋まで挨拶に訪れ、志村が快く迎え入れたという出来事もあった(田原は当番組へのゲスト出演歴もある)。 放送開始後しばらくは10%台後半〜20%台と安定した視聴率を獲得し、同時間帯においてほぼ独走状態にあったが、1991年4月に「世界まる見え!テレビ特捜部第2期」(日本テレビ)が放送を開始すると両番組で激しい視聴率争いを繰り広げるようになった。88年12月30日には金曜日にOPとEDトークのみ新録の2時間総集編を放送しEDはウンジャラゲが放送。また1991年09月30日は、なるほど!ザ・秋の祭典スペシャルに番組として登場し番組は休止。1992年に番組は若干のリニューアルを実行。この年は、3月にTBS『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が終了となるなど、志村にとっても過渡期を迎えていた。1991年秋以降、当時の鹿内宏明会長がゴールデンタイムの番組改編を示唆するなど、番組を取り巻く環境は変わりつつあった。1992年03月23日は2時間スペシャルでショートコント・連ギャグ傑作選を放送。92年4月6日には放送200回を迎えスペシャルが放送された。1992年末をもって、開始時からのレギュラーだった石野陽子と松本典子が番組から卒業し、2人が演じた人気キャラクターのコントも終了。以後、新作のコントの代わりに過去の総集編を乱発する傾向が強まったり、公開収録の爆笑お顔の体操コーナーが加わりスタジオコントの割合が減った。そして1993年9月27日に、番組は終了した。番組終了後は『志村けんはいかがでしょう』が新番組として開始された。なお終了直前の1993年9月10日には金曜ファミリーランド枠で大同窓会SPが放送された。 レギュラー放送最終回では、これまでのコント総集編を放送し、最後は出演者全員で「スペシャルでお会いしましょう!」と言い残し番組は終了した。以降のフジテレビでの志村単独の冠番組に共通し、出演者の「卒業セレモニー」はあっても「番組自体の終了」を告げる挨拶は行われなかった。6年間の平均視聴率は、15.9%。
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番組の歴史
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番組開始前、司会の関口宏が高橋進(当時プロデューサー、後に読売テレビ専務)らとともに、「先人たちの生き方の中にわれわれ現代人が生きるヒントを得られるような番組はできないものか」と企画。数か月に及ぶ準備期間を経て、日曜午後9時枠での1時間番組という条件で編成に持ち込み、番組開始が決定された。放送第1回目で取り上げた人物は平賀源内であった。 この番組は『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』に続く「日本テレビクイズプロジェクト」第2弾の番組と位置付けられており、1991年ごろまではクイズ番組的な要素も含んでいた。しかし、そのクイズは2択(3択の場合もあり)が主であり非常に簡素なもので番組のメイン要素ではなく、正答者に対しても賞品や賞金などは出なかった。これはプロデューサーが、地味な伝記番組では企画が通らないだろうと、クイズ番組と偽って企画書を出したためである。 当初の視聴率は1桁台で、萩原敏雄(当時の日本テレビ編成部長、後に同局社長)は、「日曜のゴールデンタイムでこんな地味な番組が視聴率を取れるわけがない、と思った」と述べている。しかし、その後はじわじわと数字を上げていき、放送1周年を迎える頃には20%を突破した。そして、日本テレビが10年連続年間視聴率四冠王を獲得する「黄金の90年代」を代表する番組へと成長していった。最高視聴率は、1993年10月10日放送分の「ジョン・F・ケネディ伝説」(2時間スペシャル)で26.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。 番組開始から1998年ごろまでは、日本テレビスタジオ(主にドラマ収録を行う生田スタジオ)での公開収録の形式であった。しかし、水野真紀が3代目アシスタントになった1999年ごろからはスタジオ収録が減り、ロケーション場所での収録(観客非公開)が多くなっていった。 伝記VTRも、初期には死への過程までが再現で生々しく紹介されていた。榎本健一の回にはダウンタウンがゲスト出演した。
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番組の歴史
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深夜での放送が好評だったことから、2005年1月4日にゴールデンタイム進出第1弾として「新春サルヂエ大決戦!芸能界なぞなぞNo.1!!」が放送したところ、高視聴率を獲得。それを受けて、4月7日にゴールデンタイム進出第2弾が放送された。 2005年10月19日以降は、深夜のレギュラー放送とゴールデンタイムに放送した特番が高視聴率だった実績を買われ、放送時間がそれまで『ミンナのテレビ』が放送されていた水曜日19時58分に移動し、それまでの30分番組から1時間番組となった。これと同時に、サルさん(岡田)の代理を務めていたサルちゃん(はしの)が正式な司会に就任した。初回は『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』を休止したスペシャル版で、19時からの2時間放送であった。 ゴールデン進出以降は多くの特別番組が組まれたり、番組のルールが何度も変更されたりするなどのテコ入れが施された。 レギュラー放送のゴールデン進出1周年を迎えた2006年10月18日放送分からは番組が大幅にリニューアル。スタジオのセットが古代エジプトをイメージしたものから白色を基にした明るめの物に変更され、司会のサルくん・サルちゃんの衣装がオレンジ色から黄緑色に変わり、番組ロゴやタイムアップ時のBGM・CGなども変更された。さらに、これまでスペシャルのみ登場していた徳光和夫が「サルさん(2代目)」名義で司会に加入した。その後、2007年1月31日放送の2時間スペシャル『サルヂエ・国盗りなぞなぞ合戦!』をもって番組は終了した。 当番組終了後は2月7日・14日および21日の『マチャミの名曲100選 心に残るこの一曲「あの時聴いた、歌ったのはこんな歌」』、2月28日の『サッカー北京五輪アジア2次予選』の単発放送を経て、3月7日からは後番組として特別番組で好評だった『今田ハウジング』がレギュラー化された(2008年3月12日をもって終了)。
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番組の歴史
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2008年9月29日:『5時からローカル ゴジカル!』と題してスタート。 2011年3月28日:番組リニューアル。 2011年4月1日:放送開始時間が16:53となり、7分拡大されるとともに17時開始でなくなったことに伴い、番組名が『ゴジカル!』に変更された。 2012年12月24日:振替休日だが年内放送最終日のため、放送した。(祝日放送1回目) 2013年1月8日:1000回記念放送のため、この日の放送開始時間が16:23となり、放送時間が90分間となった。 2013年9月30日:16:50から直前番組として『まもなくゴジカル!』の放送を開始。 2016年3月31日:16:50から直前番組として放送されてきた『まもなくゴジカル!』の放送を終了。 2016年4月1日:news every.第1部 徳島ローカルパート枠内で『今日のゴジカル!』を内包。 2017年3月28日:2000回放送。 2017年4月3日:放送開始時間が16:50となり、3分拡大。 2018年10月8日:祝日だがゴジカル!10周年記念のため、放送した。(祝日放送2回目) 2019年9月24日:ゴジカル!スタジオセットリニューアル。 2019年10月1日:ゴジカル!再放送を開始。 2019年10月14日:祝日だがゴジカル!秋のクイズまつり開催のため、放送した。(祝日放送3回目)
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番組の歴史
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番組の歴史
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「突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100」の記事における「番組の歴史」の解説
1992年10月17日(#1)放送開始。『決戦は金曜日』DREAMS COME TRUEが1位。細川たかし、サザンオールスターズがゲスト出演。 10月24日(#2)第2回の放送。 ランキングVTRに順位変動マークが表示された。香西かおり、永井真理子がゲスト出演。 10月31日(#3)第3回の放送。 CHAGE&ASKA、堀内孝雄&桂銀淑がゲスト出演。『ZERO』B'zが1位。 11月7日 (#4)第4回の放送。 『巡恋歌』長渕剛が1位。『世界中の誰よりきっと』中山美穂&WANDSが2位。WANDSが、初のTOP10入り。Wink、ZOOがゲスト出演。 11月14日 特番により放送休止。特番の最後にTOP100のランキングを発表。(山田邦子と渡辺正行も出演していたため。) 11月21日 (#5) 第5回の放送。 100位→41位が、1曲約2秒の映像とテロップ表示となる。『クリスマスキャロルの頃には』稲垣潤一が1位。平松愛理、槇原敬之、TOSHIがゲスト出演。 11月28日 (#6) 第6回の放送。 小野正利、WANDSの上杉昇、稲垣潤一がゲスト出演。 12月5日 (#7) 第7回の放送。 『もっと強く抱きしめたなら』WANDSが、単独名義で初のTOP10入り(7位)。大江千里、藤あや子、織田哲郎がゲスト出演。 12月12日 (#8) 第8回の放送。 『クリスマスキャロルの頃には』稲垣潤一が5週連続1位。高野寛&田島貴男、Mi-Ke、前田亘輝がゲスト出演。 12月19日 (#9) 第9回の放送。 J-WALKの中村耕一、ribbon、PRINCESS PRINCESSがゲスト出演。『KISS ME』氷室京介が1位。 注目曲に星マークが表示された。 1993年1月9日 (#10) 第10回の放送。1992年年間シングルTOP100と年間アルバムTOP10を発表。『君がいるだけで』米米CLUBが、シングルの年間1位。『SUPER BEST II』CHAGE&ASKAが、アルバムの年間1位。和田アキ子がゲスト出演。 1月16日 (#11) 第11回の放送。セットがリニューアルした。『世界中の誰よりきっと』中山美穂&WANDSが1位。 ZOOのゲストライブの後、本来の提供クレジットが表示されず、別番組(「JNNフラッシュニュース」ロゴと関東地区の提供クレジット、「日立 世界ふしぎ発見!」の提供クレジット、「クイズテレビずき!」ロゴ)のものが表示されてしまった。久松史奈、TWINZER(コーラス:上杉昇(WANDS)、宇徳敬子(Mi-Ke))がゲスト出演。 1月23日 (#12) 第12回の放送。『もっと強く抱きしめたなら』WANDSが1位。 江口洋介のゲストライブの2番の途中で、スタジオの楽器の音が消えてしまいごまかしながら歌った。(オンエア上は問題なかった。)他に、宇徳敬子&近藤房之助、KANがゲスト出演。 1月30日 (#13) 第13回の放送。『もっと強く抱きしめたなら』WANDSが2週連続1位。THE ALFEE、MANISH、中村あゆみがゲスト出演。 2月6日 (#14) 第14回の放送。『がじゃいも』とんねるずが1位。工藤静香、井上昌己、浜田麻里がゲスト出演。 2月13日 (#15) 第15回の放送。『慟哭』工藤静香が1位。中西圭三、久松史奈、森高千里、寺田恵子がゲスト出演。 2月20日 (#16) 第16回の放送。『おさえきれないこの気持ち』T-BOLANが1位。J-WALKがゲスト出演したが、山田が進行できないほど興奮していた。他に、GAO、川島だりあ、KAI FIVEがゲスト出演。 2月27日 (#17) 第17回の放送。『負けないで』ZARDが1位。(「坂井泉水」からのコメントが紹介される)吉川晃司、永井真理子、T.UTU、小泉今日子がゲスト出演。 3月6日 (#18) 第18回の放送。『時の扉』WANDSが1位。『ロード』THE 虎舞竜が3位。最終回まで4週間3位をキープした。横山輝一、小野正利、広瀬香美、ハウンド・ドッグがゲスト出演。 3月13日 (#19) 第19回の放送。『YAH YAH YAH』CHAGE&ASKAが1位。スタジオの観覧席にゲストのUNICORNのファンである高田純次の娘さんが来ていると紹介された。他に、平松愛理、BAAD、石川よしひろがゲスト出演。 3月20日 (#20) 第20回の放送。 第19回の1位から3位(CHAGE&ASKA、WANDS、THE 虎舞竜)がゲスト出演。他に麻倉晶がゲスト出演。 3月27日 (#21) 最終回の放送。 『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』B'zが1位。 #20 - #1のゲストライブ総集編が放送された。そのため、週間ランキングは、20位からの発表。 ゲストの松田聖子がCM中にフライングで登場というハプニングが起きた。他に、LINDBERG、長山洋子がゲスト出演。
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番組の歴史
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「LINDA!〜今夜はあなたをねらい撃ち〜」の記事における「番組の歴史」の解説
2012年春の番組改編で、『ニュース探究ラジオ Dig 深夜営業』を終了し『Dig』全体を枠縮小(22:00-23:55)、『サンドウィッチマンの10分もらえたぜ!』まで続いたミニ番組枠を終了させ、『JUNK ZERO』以来2年ぶりとなる24:00-25:00の1時間番組として始まった。『Dig 深夜営業』をネットしていたCBCラジオでは、当番組をネットしなかったため、当初はTBSラジオ(関東地区)のみの放送となっていた。 2012年8月24日、神奈川・横浜スタジアムにて行われたプロ野球、セ・リーグの横浜DeNAベイスターズ対読売ジャイアンツ戦で柴田が始球式を務め、「LINDA!〜今夜はあなたをねらい撃ち〜TBSラジオ パーソナリティ柴田英嗣」と紹介された。 2012年10月1日より琉球放送でネットを開始。 2012年10月30日〜11月1日、2012年度プロ野球日本選手権シリーズ第3〜5戦の中継が延びたことに伴い、当時22時前に放送されていた『成瀬心美のもうすぐオトナ時間』を24:50から振替放送するために『LINDA!』は10分放送が短縮。全体的に巻き気味で放送し、24:30丁度頃から逆電が開始。 2012年11月9日放送をもって金曜日の放送を終了し、月〜木曜日放送に変更。 2012年12月31日は、開始を5分前倒して23:55から放送。2013年にかけての年またぎ放送となった。 2013年3月28日に放送終了。ただし、同年4月1日より柴田は同局で新たに『アンタッチャブル柴田と神咲詩織のいい加減、オトナになれよっ!』を受け持つことになり、『LINDA!』の最後の2週間は、その新番組の告知とメール投稿の呼びかけを行う。 2013年6月25日、スポンサー降板により『いい加減、オトナになれよっ!』は終了。翌週7月1日より後番組として『アンタッチャブル柴田のBINGO!』を始める。 2013年9月23日、『BINGO!』終了。
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番組の歴史
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「爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル」の記事における「番組の歴史」の解説
2000年12月26日より、『ものまね王座決定戦』の後継番組として放送開始された。主に、春・秋の改編期・年末年始(冬)の年3回、火曜日(『火曜ワイドスペシャル』枠→『カスペ!』枠)に2時間半〜3時間半の放送時間で不定期放送されていた。 2004年12月27日には、例年通りの火曜日ではなく番組初の月曜日での放送となった。 2005年4月5日には、19:00 - 23:24に例年以上の放送時間となる264分(4時間24分)の放送となった。 2007年1月9日には、番組初の年始での放送となり、初の試みとなる紅組と白組の混合ものまねとして、USAフォー・アフリカのものまねが披露された。また、年始での放送のため、最初の対戦(第1対戦)が紅組と白組が共に演歌のものまねが披露された。以後、年始で放送される場合は必ず、最初の対戦が「演歌対決」が行われている。 2007年12月25日の放送では、放送日がクリスマスという事もあり、山下達郎の「クリスマス・イブ」やWham!の「LAST CHRISTMAS」などのクリスマスソングが中心にものまねが披露された。また、通常では、オーティス・レディングの「I Can't Turn You Loose」が使用されているが、この放送回では特別に、「サンタが街にやってくる」のギターリミックスバージョンが使用されている。 2008年12月30日の放送では、TBS系列『第50回日本レコード大賞』の裏番組で、18:30 - 22:54の約4時間半での放送となる。『日本レコード大賞』は大抵の受賞者は歌手が多いことで番組の名物のご本人登場は『日本レコード大賞』に出演しない歌手や芸人が登場した。また、当番組で通常審査員長を務める堺正章が同番組の司会で出演するため、審査員長は片岡鶴太郎が代理で務めた。 2009年9月29日の放送では、同年に急逝した忌野清志郎とマイケル・ジャクソンの追悼企画として「日米ビッグスターForever対決」が行われた。白組の清水アキラが忌野清志郎のものまねで「忌野清志郎メドレー」、紅組のまいける井上がマイケル・ジャクソンのものまねで「マイケル・ジャクソンメドレー」を披露した。 2010年1月5日の放送で、番組の放送及び今田・東野の司会で10周年を迎えた。 2010年2月19日からは、かつて年末などに放送されていた『爆笑!そっくりものまね名人大賞』を踏襲した『顔も声もご本人と一緒! 爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』が放送されていた。2012年2月24日の放送を最後に放送されていない。 2010年3月30日の放送では、中野美奈子の結婚祝い企画として「ウェディングソング対決」が行われた。白組の布施辰徳&増田英彦がコブクロのものまねで「永遠にともに」、紅組のフジテレビ女性アナウンサー6名がモーニング娘。のものまねで「ハッピーサマーウェディング」を披露した。また、デビュー15周年を迎えた記念として「globe対決」が行われた。白組の友近&岡田圭右&デビテツヤがglobeのものまねで「DEPARTURES」、紅組のオリエンタルラジオがglobeのものまねで「Joy to the love」を披露した。 2010年10月3日には、番組初の日曜日での放送となった(総集編も含めると、2010年8月22日の放送が初)。 2011年1月7日には、番組初の金曜日での放送となった(総集編も含めると、2009年11月13日の放送が初)。 2011年12月31日には、本家紅白の『第62回NHK紅白歌合戦』の裏番組にぶつける形で『大晦日はマル・マル・モリ・モリ! 爆笑そっくりものまね紅白歌合戦 祭りだ祭りだスペシャル』と題して18:00 - 23:45に当番組過去最長の放送時間となる345分(5時間45分)の放送が行われた。司会の今田・東野はこの制作発表で、「(大晦日)はこの番組が1番やってはいけない日」(理由は「本人が裏(本家紅白)にいるから」)と語った。また、同じく裏番組には今田・東野の先輩であるダウンタウンの冠番組『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 大晦日年越しSP 絶対に笑ってはいけない空港24時』(日本テレビ)もあり、東野は「いや、本当にまさか我々のお師匠さんであるダウンタウンさんの(番組の)裏でこんなことをやるとは!全員に投げ飛ばされるくらいの気持ちでがんばりたいですね」とも語った。フジテレビのものまね番組が大晦日に放送されるのは史上初の試みとなる。また、白組の応援団として『ちびまる子ちゃん』からは原作生誕25周年を記念してさくら家と丸尾末男、花輪和彦、野口笑子、穂波たまえと、紅組の応援団として『ONE PIECE』からは新世界突入と原作累計発行部数2億部突破を記念して麦わらの一味もゲスト出演して、「応援合戦」が行われた。さらに、応援合戦を含めて、白組の日本のまいける井上と紅組のアメリカ合衆国のDamian Brantleyによる「マイケル・ジャクソンエキシビジョンマッチ」や、ものまね四天王・ビジーフォーが11年ぶりに復活した「ビジーフォースペシャルライブ」といった通常の放送では滅多に見られないさまざまなスペシャル企画も行われた。尚、番組初の土曜日での放送となった。また、この回は、その約2ヶ月後の2012年3月10日に関東地区限定ではあるが、2012年3月24日放送分の番組宣伝も兼ねて、ものまね番組にしては珍しく土曜の正午の『土曜α』に3時間に再編集されたものが再放送がされていた。ちなみに、対照的に同年1月1日には兄弟番組『新春オールスター歌がうまい王座決定戦スペシャル』が放送された。 2012年7月6日には、当番組の司会者・審査員・出場者とスタッフの大半が参加する『ものまね王座決定戦』を、2000年9月以来の約12年ぶりに復活して放送された。以後は、『ものまね王座決定戦』が年1回の特別番組として放送を再開したことに伴い、当番組と『ものまね王座決定戦』が並行で不定期放送されるようになった。 2012年9月21日より、中野美奈子に替わり三田友梨佳が出演することになった。 2012年度の年末年始編成は、2012年12月28日に『ものまね王座決定戦』が放送されたため、当番組が例年の年末年始から約1ヶ月遅れとなる2013年2月1日に放送された。更に2013年10月放送回からは素人ものまね企画が後述の『ものまねスター誕生!』へ移行したため2時間番組に短縮された。これ以後、『ものまね紅白』として2時間枠で放送する場合は、『カスペ!』枠で放送されることになった。なお、3時間以上を超える場合は、これまでに同じく『金曜プレステージ』→『赤と黒のゲキジョー』→『金曜プレミアム』か、『土曜プレミアム』の通常枠(21・22時台)を19時台、番組によって20時台から広げて放送するか、期首・期末(3-4月、9-10月、12-1月)にかかる場合、他の曜日のゴールデン枠に移すことがある。なお、長年、当番組を放送してきた枠の『カスペ!』は2015年3月31日を以て廃枠になったため、2015年度以降は、『金曜プレミアム』、『土曜プレミアム』、『日曜ファミリア』のいずれかの枠での放送となる。 2013年2月1日の放送では、番組初の大リニューアルとして、今田・東野が司会名義ではなくキャプテン名義で出演したり、対戦ごとの審査・トークは廃止していくつかの対戦をまとめて行われたり、結果発表を番組の最後だけではなく番組の中盤でも途中経過として行われたり、顔だけそっくりさんによるロケ企画が行われたりなど、大幅に番組内容がリニューアルされた。また、番組初の企画として、本来なら最後に登場するご本人登場を最初からご本人が登場して、ものまねタレントとご本人のコラボレーション(共演)として、「ご本人コラボレーション」が行われた。 2013年10月29日の放送では、『ドリームチーム対抗! 最強!!ものまね紅白! 史上初の頂上決戦スペシャル』と題して、従来の紅白に分かれる対決ではなく、8つのチームに分かれて対抗戦で競った。8つのチームは、「復活!! 一夜限りのHEY!HEY!HEY! スーパーヒットソングメドレー」「もしもあの名作をあの有名人が熱唱したら!? 最強アニメソングヒットメドレー」「今夜はありえない不思議なオーダーが続々登場! ものまねビストロSMAP」「演歌の大御所たちが夢の競艶! ご本人が絶対歌わない名曲メドレー」「奇跡の組合せが今夜実現! ものまねアンビリバボー! 実現不可能なデュエットメドレー」「必見!! 全国各地から大集合! ゆるキャラオールスター」「超豪華! 世界のスターが大集結! 僕らの音楽 世界のメガヒットメドレー」「正統派ものまね! 心に突きささる名曲メドレー」。基本的にどれかの1つのチームの一員として出場しているが、ミラクルひかる、布施辰徳、カール北川などの同じ出場者が2〜4つの複数のチームの一員として出場している場合もある。尚、この回で約35年間、『ものまね王座決定戦』から当番組までフジテレビのものまね番組へ長年レギュラー出演してきた清水アキラが、フジテレビ系列のものまね番組(『ものまね王座決定戦』『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』)を卒業した。『ものまね王座決定戦』は、2013年12月28日放送分で卒業した。 2014年4月13日の放送では、『ものまね紅白歌合戦! 最強!春の新ネタ祭り』と題して、1年ぶりに通常通りの紅白戦が行われたが、この回は『NHK紅白歌合戦』と同様、男性が白組、女性が紅組に分かれて対決された。 2014年11月4日の放送では、タイトルは番組名のまま『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』だったが、この回は、従来の紅組と白組に分かれる対決ではなく、「懐かしアイドルご本人部門」「2014年ワイドショー部門」「アナと雪の女王部門」「MONOMANE STATION部門」「名曲聴かせます部門」といった部門別に5つの部門に分かれて、個人ネタやコラボネタのものまねが披露された。しかも、最後に最も素晴らしかったものまねを披露したMVPが発表されるだけで、対決は行われなかった。全演目が終了して、番組最後には、全審査員の審議によって決定したMVPに、審査員長からMVP賞として金一封が贈呈される。更に、早見優、浅香唯、南野陽子、太川陽介、DA PUMPと多数のご本人が登場した。ご本人登場は2013年4月12日放送回以来の約1年半ぶりである。また、この放送回から春・秋の改編期よりも約1ヶ月遅れた時期に放送されている(2015年5月8日放送分・2015年10月23日放送分も同様)。また、日本テレビ系列のものまね番組『ものまねバトル』『ものまねグランプリ』に長年レギュラー出演していたコージー冨田とノブ&フッキーが移動して、以後、当番組と『ものまね王座決定戦』の共にフジテレビ系列のものまね番組にレギュラー出演している。 2015年5月8日の放送では、上記と同様で、タイトルは番組名のまま『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』だったが、この回は、従来の紅組と白組に分かれる対決ではなく、「ヒット曲満載! ご本人と一緒!」「最新ネタで勝負! 人気芸人ものまね!」「MONOMANE STATION SUPER LIVE」「テレビ初披露ものまね!! 歌まね編」「テレビ初披露ものまね!! 芸人編」「超真剣! 本格派名曲ものまね」といった部門別に6つの部門に分かれて、個人ネタやコラボネタのものまねが披露された。さらに、番組の放送が15周年を迎えて、フジテレビ系列の特別番組として長寿番組の仲間入りを果たした。また、例年では火曜日が主なメインの放送曜日だったが、司会の今田が出演の『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)の裏かぶりなどが伴い、この回以降より主なメインの放送曜日が火曜日から金曜日へ移動した。 2015年10月23日の放送では、上記と同様で、タイトルは番組名のまま『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』だったが、この回は、従来の紅組と白組に分かれる対決ではなく、「ヒット曲満載! ご本人と一緒!」「最新ネタで勝負! 人気芸人ものまね!」「あの人が2人!? ダブルものまね対決」「テレビ初披露ものまね!! 芸人編」「テレビ初披露ものまね!! 歌まね編」「もしもあの人とあの人がコラボしたら」といった部門別に6つの部門に分かれて、個人ネタやコラボネタのものまねが披露された。 2016年5月6日の放送では、2014年4月13日の放送以来の約2年ぶりとなる紅白戦が行われた。また、素人ものまね番組『ものまねスター誕生!』が事実上打ち切られたため「めざせ!ものまね名人大集合」と「ものまね大好きさん大集合」の両コーナーが復活した。尚、番組初のゴールデンウィークの時期に放送された。 2016年9月2日には、2013年2月1日の放送以来の約3年半ぶりに4時間の放送となった。尚、この放送の前には、2016年8月27日 10:25 - 10:55に『ものまね紅白 見どころギュギュっと先出しSP』と題して、事前番組が放送された。事前番組の内容は、主に、見どころの一部シーンを先出し公開で放送したり、過去の放送で反響や好評を得た傑作ものまねを放送したり、司会や審査員がオススメするものまねを紹介するコーナーが放送された。また、惜しくもオーディションで不合格だった参加者のものまねや顔だけそっくりさんも紹介された。 2017年1月6日には、2011年12月31日以来となる約5年ぶりに年末年始での放送が復活した。また、年末年始特番としても復活した。尚、この放送の前には、2017年1月4日 2:40 - 3:40に『新春ものまね紅白歌合戦 見どころ先出しSP』と題して、事前番組が放送された。事前番組の内容は上記同様。 2017年6月2日には、総集編を除いて番組初の夏の改編期に放送された。フジテレビ系列のものまね番組が夏の改編期に放送されるのは2012年7月放送の『ものまね王座決定戦』以来の約5年ぶりとなる。尚、この放送の前には、2017年5月27日 10:25 - 11:40(『チャンネルΣ』枠)に『ものまね紅白歌合戦! 見どころ先出しSP!』と題して、事前番組が放送された。事前番組の内容は上記同様だが、特別企画として「突撃! 街角ものまねチャレンジ!!」と題して、東京都内の各地(お台場・渋谷・新橋)で街行く人々に街角インタビューしてものまねに挑戦してもらう企画も行われた。 2017年9月8日には、「これぞものまね日本一! 最強そっくり大集合」や「下克上決戦! 勝てばものまね王座! 最強新人大集合」などの数多くの新企画が始動して行われた。また、翌日に放送された『FNS27時間テレビ にほんのれきし』の出演者が数多くゲスト出演した。尚、この放送の前には、2017年9月2日 10:25 - 11:15(『チャンネルΣ』枠)に『9月8日夜7時放送! 爆笑そっくりものまね紅白歌合戦 直前予習SP』と題して、事前番組が放送された。事前番組の内容は上記同様。 2018年5月11日の放送では、前回に引き続き、「これぞものまね日本一! 最強そっくり大集合」や「下克上決戦! 最強新人大集合」が行われた。また、これらのコーナーは番組前半に行われて、本戦の紅白対戦は番組後半に行われる過去の放送ではなかった番組構成だった。尚、今回の事前番組の放送はなかったが、その代わりに番組の放送の約2週間前にはYouTubeのフジテレビ公式チャンネルにて、「ものまね紅白歌合戦 YouTube限定 地上波では見られないものまね集」として、惜しくもオーディションで不合格だった参加者のものまねや顔だけそっくりさんが紹介する動画で公開された。但し、番組の放送開始2時間前に公開が終了した。 2018年9月21日の放送では、前回とは逆の番組構成で、本戦の紅白対戦は番組前半に行われて、「下克上決戦! 最強新人大集合」などのコーナーが番組後半に行われた。また、新コーナー「秒殺ものまねNo.1決定戦」や同年9月16日に引退した安室奈美恵のヒット曲メドレーを披露する特別企画も行われた。尚、前回同様に、番組の放送の約2週間前にはYouTubeのフジテレビ公式チャンネルにて、「ものまね紅白歌合戦 YouTube限定 地上波では見られないものまね集」として、惜しくもオーディションで不合格だった参加者のものまねや顔だけそっくりさんが紹介する動画で公開された。 2019年5月17日の放送では、「顔だけそっくりさんNo.1決定戦」と「ものまね大好きさん!大集合」のコーナー司会にANZEN漫才のみやぞんが就任。尚、令和初の放送となった。 2019年9月6日の放送では、上記のコーナー司会にANZEN漫才のみやぞんからガンバレルーヤへバトンタッチして就任。 2020年5月2日の放送では、新型コロナウイルスの感染拡大防止の影響により番組初の無観客での収録となった。また、2015年から当番組を放送してきた枠の『金曜プレミアム』は2019年9月13日を以て廃枠になったため、金曜日ではなく土曜日へ曜日移動して『土曜プレミアム』枠で放送された。さらに、番組の放送及び司会の今田&東野コンビが20周年を迎えた。尚、番組初のデータ放送が実施されて、dボタンを使った各紅白対決の勝敗を予想して正解数に応じた抽選プレゼントに応募できる視聴者参加型企画を行った。尚、この放送の前には、同日 13:30 - 14:25に『今夜9時! ものまね紅白歌合戦! 超絶オーディション&新ネタ旬ネタ見どころ先出しSP』と題して、事前番組が放送された。事前番組の内容は前述同様。 2021年5月8日の放送では、『クセバラWEEK』の一環として放送された。また、番組序盤から中盤にかけて「顔だけそっくりさんNo.1決定戦」と新企画「ものまね甲子園」といった2つのコーナーを連続で行ったため、本戦の紅白対戦は番組後半から行われた。 2022年4月23日の放送では、2015年10月23日放送分以来の約7年ぶりに紅白戦を廃止して、『FNS歌謡祭』『芸能人格付けチェック』『人志松本のすべらない話』『M-1グランプリ』などの人気番組のパロディ企画を中心に歌ネタと喋りネタを対バン形式で行われた。また、日本テレビ『ものまねグランプリ』の常連出演者から多数特別参戦した。
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番組の歴史
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「木根尚登のオールナイトニッポン」の記事における「番組の歴史」の解説
1990年1月3日 - 第1回放送。TM NETWORKの宇都宮隆、小室哲哉、B'zの松本孝弘が電話出演。小室と松本は、小室宅での新年会から電話出演した。 1990年1月31日 - 近くで遊んでいたという宇都宮隆が突然スタジオに現れ、そのまま出演。 1990年3月7日 - ゲスト:ポール・マッカートニー(録音出演)。木根が東京ドームまで出向いて対面、インタビューを行った。 1990年3月28日 - ゲスト:小室みつ子 1990年4月11日 - ゲスト:TOSHI(X) 1990年4月25日 - ゲスト:永井真理子 1990年5月9日 - ゲスト:コロッケ 1990年5月16日 - ゲスト:久川綾、飛田展男(二人とも、この年公開された木根原作のアニメ映画『CAROL』に出演。) 1990年5月30日 - ゲスト:伊集院光、YOU 1990年6月6日 - ゲスト:上柳昌彦 1990年6月20日 - ゲスト:コロッケ、清水アキラ、ビジーフォー 1990年6月27日 - ゲスト:芳賀ゆい 1990年7月4日 - ゲスト:松本孝弘(B'z)、久保浩二 1990年7月11日 - ゲスト:渡辺美里、久保浩二 1990年7月25日 - 『木根スカウトキャラバン』コーナー発のフォークグループ「萩の月」「赤福」「おたべ」のお披露目ライブの模様を放送(上述)。 1990年8月1日 - ゲスト:小室哲哉(TM NETWORK)、宇都宮隆(TM NETWORK)、久保浩二、石山博 1990年8月15日 - ゲスト:小室哲哉、宇都宮隆 「TMN」にリニューアル前の、TM NETWORKとして最後の3人揃い踏み 1990年8月29日 - ゲスト:小室哲哉、宇都宮隆 TMNにリニューアル後の3人揃い踏み TMNへリニューアル宣言の記者会見を聴きながらトーク。 1990年10月10日 - ツアー合宿中のヤマハリゾート合歓の郷から放送。ゲスト:小室哲哉、宇都宮隆、葛城哲哉、阿部薫、浅倉大介 1990年10月17日 - ゲスト:奥田民生(UNICORN)。『知ってる有名人勝ち抜き選手権』を行う。 1990年12月19日 - ゲスト:小室哲哉、宇都宮隆 『TMNのオールナイトニッポン』として放送 1990年12月26日 - ゲスト:小室哲哉 『F1講座』の企画を放送。 1991年1月9日 - ゲスト:小室哲哉、電気グルーヴ 福岡・KBCラジオから放送 1991年1月16日・23日 - 両日ともゲスト、小室哲哉(1991年1月2日を除き5週連続ゲスト出演)。2週続けて『小室哲哉のQ2ダイヤル講座』の企画を行う。 1991年1月30日 - 最終回放送。寄せられた電報などを読み、今までを振り返りながらトーク。
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番組の歴史
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「佐藤利奈のあの空で逢いましょう♪F」の記事における「番組の歴史」の解説
2007年 #3(4月26日) 改編後初のゲスト。OVA『ToHeart2』つながり(利奈は草壁優季(くさかべゆうき)役で出演している)。インディーズCD「羽化〜UKA」(2007年5月3日発売)&5月3日のゆりしーずカフェを宣伝。 #4(5月 3日) 初登場。『風のスティグマ』のOP・EDテーマ曲(5月30日発売)、「少年陰陽師」のEDテーマ曲担当。"木氏"(きうじ)自体が大変珍しい名字のため、ゲスト登場時に利奈から「(「木氏」という名字)は珍しい名字ですよね」と言われ、本人は「多分うちの家系しか(全国で)名前がない(と思う)。もう片方の親戚の親戚も女家系だったんですけど結婚して名前が変わっちゃったので養子を取らない限り名前が途絶えてしまうんですよ」と名字の希少さを語っていた。その他、この配信日週の前日が利奈の誕生日だったため、「便りにしてます」の時にスタッフからケーキと花束が贈呈され、利奈は「お誕生日がめでたくない気持ちが生まれていたがそんなことはなかった」と祝メールに喜びを感じていた。音楽学部附属音楽高等学校 #5(5月10日) 歌手。東京芸術大学付属音楽高等学校作曲科卒。 #6(5月17日) アニメ『風のスティグマ』篠宮由香里役。利奈と同郷・福岡つながりトークが展開。 #7(5月24日) 4thアルバム『Brilliant Moon』(2007年5月25日発売)告知。利奈とは初対面。前番組から通して初の「W佐藤」のトーク。音泉番組担当の経験があるにも関わらず対面するのは初。ポスターでしか見たことなかった利奈はひろ美を「スラッと背が高い人」だとイメージしていたが、実際は148cmという小柄であった。 #8(5月31日) 番組初のWゲスト(ただし2人同時出演ではない)。1人目の引田香織は3rdマキシシングル「願い」(2007年6月8日発売、OVA『テイルズ オブ シンフォニア』エンディングテーマ)告知。この収録のために在住している北九州市から飛行機でやってきたと話す。2人目の小池ジョアンナは2ndマキシシングル「Run Over」(2007年5月30日発売、テレビ東京系『史上最強の弟子ケンイチ』第3期エンディングテーマ)告知。 #9(6月7日) 2007年6月6日発売マキシシングル「ココロレーダー/Good Luck Good Day」(CR「うる星やつら3」テーマソング)告知。 #10(6月14日) 最新マキシ「ACTIVE BOY」(6月27日発売)告知。二足歩行ロボットの格闘競技大会「ROBO-ONE」への熱い情熱の話などを語った。佐藤晃と高橋広樹と組むユニット・平成ギター兄弟へのジェラシーに燃える長友は「俺も絶対声優になる」とアピールしていた。 #11(6月21日) TVアニメ『風のスティグマ』での石蕗亜由美(つわぶきあゆみ)役の話や、実写映画『キサラギ』での如月ミキ役のお話など。 #12(6月28日) 石田のデビュー曲「乙女のポリシー」(アニメ『美少女戦士セーラームーンR』エンディングテーマ)を利奈が「当時は視聴者として聴いていた」と大興奮(収録前にブースの外でディレクターのタナカマンと一緒に歌っていた)。アメリカなど海外で活動が多いにもかかわらず英語がほとんど喋れない石田はファンや友達から「燿子さんはいつ英語が喋れるようになるの?」と言われて「なんでなんだろう」と当の本人も不思議に思ったという(本人曰く、ツアーマネージャーが常に隣で訳すため耳が慣れず、ついつい頼ってしまうからと話している)。 #13(7月5日) 6月24日に日照ホールで開催されたフロンティアワークスジョイントイベントでの公開収録模様の一部(前編)を放送。ゲストは柚原このみ役の落合祐里香、向坂環役の伊藤静、OVA『ToHeart2』の主題歌を歌っているSuara(スタジオ内ゲストトークは休止、それ以外のパートは通常通り)。 #14(7月12日) 同日公開収録した同イベントの後編。『劇場版CLANNAD-クラナド-』、『ひぐらしのなく頃に解』のトークステージ。 #15(7月19日) バースディライブのイベントを7月29日に控えたsorachocoの稲村優奈と花村怜美の2人。揃って7月が誕生月と言うことで利奈やスタッフから誕生日プレゼントを送った。 #16(7月26日) TVアニメ『ひぐらしのなく頃に解』のエンディングテーマ「対象a」を歌うanNinaのAnnabel(アナベル)とbermei.inazawa(イナザワ)の2人が登場。利奈も出演した6月24日のイベントでステージ披露された『対象a』について話を聞く。 #18(8月 9日) 「逢えたら」(#92/2006年11月23日)以来の登場(番組紹介の写真では顔出しNGのためネコのイラストで伏せて写っていた)。昨年(2006年)の「かけらむすび」に引き続きイメージアルバム「こころむすび」でも企画・構成を担当している烈火にコンセプトなどを利奈が聞く。新曲「月下の決闘者(デュエリスト)」は、TERRAとの男女ヴォーカルデュエット。 #22(9月 6日) 3週間ぶりのゲストはSUPER BELL''Zの野月貴弘と土屋基。2人が音楽担当をしているTVアニメ『鉄子の旅』のアルバム(10月リリース予定)の話を伺った。生粋の鉄道好きな野月が鉄道に注ぐ情熱と、逆に電車に長時間乗るのが不得意な土屋がスタジオを大盛り上がりにした。 #23(9月13日) 劇場版『CLANNAD-クラナド-』(9月15日から全国ロードショー)のイメージソング「約束」を歌っているLiaがゲスト。試写会に参加されたLiaはアニメ映画で泣く程感動したと言う。 #31(11月8日) この週からゲストコーナーを2週連続出演に変更。7週間ぶりのゲストは10月に発売されたばかりのベストアルバム『16in1』を引っさげての鷲崎健(ポアロ)。「鷲崎さんってどんな人?」という質問コーナーで掘り下げる。 #32(11月15日) 『16in1』についての詳しい話を中心に、新録カバー曲「Super Girl」を聴きながら伊集院光のラジオ番組投稿から始まったと言うPOARO結成秘話や、ベストアルバム制作のエピソードなどを紹介。 #33(11月22日) TVアニメ『ef - a fairy tale of the two.』に宮村みや子役の田口宏子が登場。事務所(俳協)が同じにも関わらず先輩となかなか話をする機会がなかったこともあって利奈は心なしかウキウキ。2週連続ゲストの1週目は、田口の人となりを中心のトーク。学生時代に漫画『王家の紋章』の真似をみんなでしたり、カピバラに夢中だったり、一抱えもあるウサギを飼ってみたいなど。 #34(11月29日) 2週目は宮村みや子名義で歌うEDテーマ「I'm here」を紹介しながら田口に番組の話を利奈がきく。実験的な映像演出で話題を呼んでいる『ef - a fairy tale of the two.』、みや子の本領発揮(?)とも言うべき第7話のラストシーンをクローズアップ。 #35(12月6日) OVA『ToHeart2』繋がりでSuaraと上原れなの2人が登場。1週目は2人の人となりを中心にお伺いしつつ、「Suaraに突っ込み冷やかす上原」と言う構図にどんどん展開。しかし、12月2日に開催された『アクアプラスフェスタ』での上原の初ステージの話題になると、Suaraが先輩として温かく見守ったエピソードを紹介しつつ、やっぱり関西ならではのノリで上原が突っ込んでいた。 #36(12月13日) 「歌手を目指したキッカケは?」「楽曲・作詞に対しての姿勢は?」など、2人の音楽観に迫る質問を利奈が行った。ちなみに、OVA『ToHeart2ad』のテーマ曲「虹の架け橋」は上原が作詞。その時のエピソードも紹介された。 2008年 #39(1月10日) アーティストの引田香織が昨年5月31日(#8)以来2回目の登場。「手の中の永遠」(アニメ『破天荒遊戯』EDテーマ)を歌う引田に正月話など色々とうかがい、キーワードの「段ボール」については引田が大学卒業後の上京のことについて語られた。 #40(1月17日) 2週目。「菜箸を振りながらクリスマスイブに行った」と言う引田の新曲「手の中の永遠」のレコーディング秘話を利奈が伺った。その他、引田が最近気になることや、この春に大学を卒業した後は上京する計画についてなども語られた。 #41(1月24日) #42(1月31日) #71(8月21日) 生天目仁美がゲスト出演。実は以前から、リスナーから「ぜひKAT-TUN会のリーダー生天目さんにゲストに来てほしい」と番組にたくさんの要望が寄せられていた事もあり実現した。利奈本人やリスナーから「生天目さんはKAT-TUN会のリーダー」という認識が定着しているものの、当の生天目本人は「勝手にリーダーにしてる」と苦笑しながら否定。またこの回には「KAT-TUN会」誕生のいきさつや、それにまつわる秘話も明かされている。 2009年
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番組の歴史
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2005年1月:放送開始。KAORUが進行してナビゲーターのHIROMIがアルバムを開いてVTRが始まる演出だった。番組前半はまだ無名のバンドや歌手を密着するMU-GEN ROAD、後半がMU-GEN FOCUSほか。 2005年7月:番組ロゴ変更。番組セットがバーになる。山口“PON“昌人がバーのマスターという設定で登場する。10月まで番組最後に山口“PON“昌人による妄想コントコーナーがあった。 2006年7月:愛内里菜のライブ「里菜祭り2006」にパーソナリティ全員で登場し、観客と共にオープニングコールを撮影。 2007年6月:坂井泉水(ZARD)の追悼特集を行う。 2008年11月:放送200回を達成する。 2009年3月:放送終了。後番組は「MUSIC FOCUS」。
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番組の歴史
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「パックインミュージック」の記事における「番組の歴史」の解説
1960年代当時、ニッポン放送が東京地区のラジオ局に先駆けて1963年から、ラジオ関東(現:アール・エフ・ラジオ日本)が1966年に、さらに、文化放送も1967年4月から終夜放送をそれぞれ実施していた。一方、東京地区で最初に開局したラジオ局である老舗という立場のTBSラジオは、終夜放送を行っておらず出遅れていた中、1967年8月1日未明(7月31日深夜)から終夜放送を行うことになった。 1967年春、当時のラジオ局制作現業部に「深夜というラジオのフロンティアに魅力ある番組を開発せよ」という指示が下り、制作現業部の副部長と6人のディレクターからなる企画検討のプロジェクトチームが発足した。やがてプロジェクトチーム内で、企画の話し合いが重ねられたものの、6人のディレクターの考えはかけ離れたものとなった。それでも放送開始日が迫る中で、6人のディレクターのうちの1人・武本宏一が副部長から「企画案をまとめろ。そして企画書を書け」という指示を受け、最終的に『パック』と題された企画書を書き上げた。タイトルは後に『パックインミュージック』に改められ、1967年8月1日未明にスタートした。番組タイトルにある「パック(Puck)」は、ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇形式の戯曲『真夏の夜の夢』に登場する森に住む妖精である。真夜中に現れて人々に娯楽を振り撒く魔法をかけ、朝になると姿を消すというキャラクターであり、これが番組のイメージに合っているということから、武本が「深夜にリスナーを魅了する、妖精の様な番組であって欲しい」との思いで名付けた。また、放送開始当初は番組キャラクターとしても「パック」が存在し(声を務めたのは喜多道枝)、毎日サウンドステッカーとして登場した。 1969年2月25日、TBSは当時のラジオ本部ラジオ局の機構改革と同時に人事異動を行い、『パックインミュージック』の番組制作チームは、新しく設けられた制作第二部に所属することになった。この時、パックは金曜日の『ナチ・チャコパック』以外の曜日は低迷していて、1969年4月改編をもって、テコ入れを図った。その中で、木曜日担当として北山修がフォークシンガーとしては初めてラジオの深夜番組のパーソナリティを務めた。同年からは、番組の会報誌「パック・ニュース」を刊行した。 また、この時期には深夜放送ブームが到来しており、ライバル番組であるニッポン放送の『オールナイトニッポン』は着実にネット局を増加させ、逆にパックは関東ローカルの番組に成り下がっていた。そんな中で、1969年5月から、午前3時10分を境に2部制が設けられることになったが、この第2部には、地方局がネットしやすいように、TBSではCMなしの放送となった(地方局側ではCMを流す時間の間に、TBSではフィラー音楽が流れていた)。それに第2部のパーソナリティには、予算の関係からTBSアナウンサーが起用されることになった。さらに、第1部と第2部の担当ディレクターは同じ人物が兼ねるという方式が取られた。 1971年の秋に、放送開始当初からのスポンサーだった日産自動車が降板したことを受け、1972年4月をもって放送開始から設けられていた日曜日(土曜日深夜に放送)が廃枠となり、『ヤングタウンTOKYO 桂三枝の深夜営業』が開始された。1972年10月3日の放送分から綜合放送に番組制作を外部委託することになり、このことがきっかけで、当時木曜日を担当していた吉田拓郎が当時のスタッフが担当を外れるならば「オレも降りる」を言い出してしまったために、『拓郎パック』が終了してしまったという。 1981年10月に裏の時間帯で文化放送『ミスDJリクエストパレード』がスタートし、そのわずか2か月後の1981年12月の聴取率調査では本番組の各曜日のシェアは『ミスDJ』に対し、金曜日の『ナチ・チャコパック』以外の4曜日で同数または下回るという結果となった(ミスDJリクエストパレード#概要節に掲載の表を参照)。さらに、それと前後して、1981年1月2日(1月1日深夜)に、ニッポン放送が金曜日(木曜深夜)の『ナチ・チャコパック』と同じ時間帯で、ビートたけしを起用した『ビートたけしのオールナイトニッポン』の放送が始まり、『ナチ・チャコパック』は聴取率においても低下傾向となり、TBSラジオは1981年の年末に『パックインミュージック』全体の番組終了を決断した。これについて、当番組発足者の1人で当時編成部に所属していた熊沢敦は「リスナーの低年齢化に大人のリスナーの深夜離れ。深夜放送そのものが曲がり角に来ている。もうやるべきことは全部やったし、15年経ってこれでひと区切り」とし、新しい方向性を模索すると話している。一方、月刊ラジオマガジン(モーターマガジン社)はこのことを「ミスDJに押され、ついに方向転換」と表現している。 番組終了2ヶ月前の1982年5月31日には、テレビの『テレポートTBS6』で「パックインミュージックが終了へ」と題されたリポートを放送。その中で、5月28日放送の金曜日『ナチ・チャコパック』第773回の一部を放送、熊沢のインタビューも放送された。なお、この時のCM入り前のジングルは、「テレポート6」のものではなく、当番組のものが流れた。このリポートを企画したのが、一時期、パックインミュージックに関わり、後に、テレポートTBS6のディレクターの小口勝彦で、「(金曜パックには)僕なりの思い入れがあった。あの番組は一つの時代を作った。それが、なんで終わっちゃうの?もったいないじゃないか、という気がした。それで自分の担当する番組で取り上げてもいい、十分なニュース価値もあると思った。」とこのリポートの企画意図について説明している。そして、熊沢はリポートを企画した小口とのインタビューの中で「ヤングの中でも年齢層の高い人達がラジオから、やや離れかけているという状況がちょっとあるわけですよ。今までTBS、それから文化放送、ニッポン放送がほぼ似たようなことをずっとやってきたんですね。そういうことじゃ、これからは、やっぱりいけないんじゃないかと。」と述べた上で「敢えて心を鬼にして、一つのものを終えないと、また新しい一つのものが創れないと。」と終了理由について説明した。 そして、それと前後して、TBSラジオが改編による番組終了を発表した際、リスナーが撤回を求め、署名活動が行われた他、1982年6月26日に、清水谷公園から外堀通り経由で六本木三河台公園まで、200人が集まってデモ行進が行われた。この後代表者がTBS本社に出向き、番組終了を決定した代表者である熊沢と面会、抗議の主旨が伝えられた。 こうして、1982年8月1日未明(テーブル上は同年7月31日であり、折しも「パック」の満15周年記念日付の深夜放送であった)に、パック全体の最終回として『さようなら!パックインミュージック』として放送し、この最終回の司会を当時この番組の総合プロデューサーを務めていた林美雄が務め、15年の番組の歴史に終止符を打った。 15年間にわたる放送の各種データ パーソナリティー:累計64人(ピンチヒッターや、週替わりスペシャルパーソナリティーも含め100名余) 放送時間:総計11222時間(1日24時間ぶっ続けで聞いたとして1年102日=467日) 投書総数:約1122万通(3928m相当 富士山よりも高い高さとされる) 総放送回数:5611回(日曜日放送分、2部時代も含む)
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番組の歴史
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「サタデー大人天国! 宮川賢のパカパカ行進曲!!」の記事における「番組の歴史」の解説
2001年4月7日に『サタデー大人天国!宮川賢のパカパカ90分!!』としてスタート。放送時間は土曜15:30 - 16:55。 2003年、放送批評懇談会・第40回ギャラクシー賞(2002年度)奨励賞を受賞。 その後番組の人気も高まり、2003年10月4日には放送時間を30分拡大して15:00からスタート、番組名が現在のものになる。しかし、15:00 - 15:30に「街角ヤッホークイズ」(前述)があり、実質「バカ大人選手権」は拡大してはいなかった。 2005年4月2日をもって通常コーナーとしての「街角ヤッホークイズ」は終了、翌週4月9日から「バカ大人選手権」は「週末版TBSラジオショッピング」など一部コーナーを挟みつつ番組全編に拡大。 2009年10月より一部JRN系列局にネット開始。ネット局はいずれもTBSラジオで放送されたものを1時間に編集したものを1週遅れで放送する。ネット局における初回は同年10月10日もしくは11日であり、TBSラジオにおける10月3日放送分となる。 2013年4月6日より、『ジョブチューンR』の放送開始に伴い、放送時間を5分短縮。16:50終了となる。 2016年2月13日の生放送で『パカパカ行進曲』の終了と、同年4月から『ジェーン・スー相談は踊る』の後番組として『簡易恋愛プログラム 宮川賢のデートの時間でそ?!』を宮川が担当する事を発表。 同年3月19日TBSラジオ放送分が、ネット局版の最終回となる。 同年4月2日最終回。通算15年の番組の歴史に幕を下ろした。
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番組の歴史
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第1回の放送は1978年1月11日(水曜日)の夜8時からスタート。司会は伊東四朗、泉ピン子、桜田淳子の3人。アシスタントはこの番組からデビューした3人組女性アイドルのザ・チェリーズ。第1回のゲストは加山雄三、都はるみ、堺正章、南沙織、小柳ルミ子、西城秀樹、清水健太郎、高田みづえ、狩人。毎週一人(一組)スペシャルゲストが登場。 1978年4月から小柳ルミ子が司会者として登場、小柳の代わりに佐良直美や岡崎友紀なども司会を務める。また4月から毎月最終週は「特集・花のステージ」として、夜7時30分からの80分特番枠になり、『NHK紅白歌合戦』形式による歌合戦『紅勝て! 白勝て! 歌合戦』や『歌手が選ぶベストヒット』などの企画が行われる。尚、この特集企画時には原則として伊東・小柳(→植木・宇崎)は出演せず(または司会以外の役回りでの出演)、山川静夫アナウンサーが司会を担当した。 1979年1月11日から司会が植木等に代わる。また同年6月には司会に宇崎竜童も加わり、植木率いる「植木等チーム」と宇崎率いる「宇崎竜童チーム」の対決形式で構成する歌謡ショーとなる。例えば、植木率いる「ひらがな・カタカナチーム」(ゲスト歌手:フランク永井、ジュディ・オング、さとう宗幸)と、宇崎率いる「漢字チーム」(ゲスト歌手:田辺靖雄、藤圭子、欧陽菲菲)の対抗歌合戦 [過去放送分]…といった具合に、毎週異なる一つのテーマを掲げ、ゲスト歌手が二手に分かれてチーム対抗戦を繰り広げる。 1980年1月24日の放送を最後に植木が病気療養のため急遽降板。以降はゲスト歌手の一人が宇崎とペアで司会をすることとなる。 2017年3月29日に美空ひばり生誕80周年記念として発売された『永遠の美空ひばり 紅白のすべてと伝説のNHK番組』に、1978年放送の「競演!ひばり・北島・五木」と1979年放送の「納涼演歌まつり」(森進一・島倉千代子と共演)の回が収録されている。
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番組の歴史
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2002年7月13日 『週刊第14帝國』として放送開始。 2006年4月8日 番組名を『週刊第14帝國』から『週刊ゲンスイ』に。 2006年5月6日 武藤が曜日を間違え神戸に行っており、楠本のソロ放送となる。 2006年5月20日 通算200回記念放送。(ゲスト:歌舞伎俳優・市川弘太郎) 2006年6月17日 週刊ゲンスイHPの中尉のプロフィールの欄が武藤中尉(ムータン)からムータン(武藤優作)になる。 2006年7月1日 Netも週刊ゲンスイにおいて「世界のニュース」のコーナーの配信が始まる。 2008年4月 Netも週刊ゲンスイが打ち切られ、代わりに楠本柊生のホームページで30分すべての放送がオンデマンドで聴けるようになった。 2009年3月 週刊ゲンスイのラジオ放送終了。しかし、それ以降もオンデマンドでは放送されることが決定する。 2009年12月30日 ニュース速報がアメブロに移籍するとともに週刊ゲンスイもニュース速報内にアップされるようになる。また、携帯電話からも週刊ゲンスイが聴けるようになった。 2010年2月7日 週刊ゲンスイの一時休止を発表。
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「J-POP SQUARE」の記事における「番組の歴史」の解説
FM富士がネットワーク加盟していたJFNを脱退した1992年4月より、前身番組『J-POP PARADISE』が16:00~16:55の枠で放送開始。この時は、甲府市丸の内の本社スタジオ(当時)からの放送だった。 1993年4月から枠を1時間拡大し『J-POP SQUARE』としてスタート。当初は15:00~16:55の時間帯で、初代パーソナリティは『J-POP PARADISE』から続投したYUKARI (山本ゆかり)(月曜日~水曜日)と鈴木桃子(木曜日・金曜日)。この時から、当時新宿ルミネ2の6階にあったタワーレコードに開設された公開型サテライトスタジオ「タワーレコード・サテライトスタジオ」からの生放送に移行。1994年4月からは放送時間も19:00~20:55に移動。15時枠時代よりもさらにコーナーなどを充実していく。 19時枠の新宿タワーレコード時代は、新宿ルミネの買い物客、学校帰りの学生や、勤め帰りのサラリーマン・OLなどでギャラリーが賑うことも多く、またゲスト出演するアーティストによってはファンが殺到することもあった。 新宿時代には他番組のものと異なる特別なFAX番号でメッセージ募集しており、ジングルは『J-POP SQUARE, from TOWER RECORDS, Si Si Si Si Shinjuku!』を使用していた。 1998年3月まで月 - 木曜は、後続で21:00より放送されていた洋楽専門番組(RADIO VIKING→INTER-ACT QZ)の当日のメッセージテーマの電話受付を番組開始30分前の20時30分より行っており、本番組中に告知していた。
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番組の歴史
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「スーパーフライデー オールジャパンベスト20」の記事における「番組の歴史」の解説
1996年4月5日放送開始。当初から放送時間は22:00 - 23:55で、ダイハツ工業一社スポンサーで番組タイトルも『スーパーフライデー DAIHATSUオールジャパンベスト20』。1997年4月、ダイハツからVictoriaに提供が移り『スーパーフライデー Victoriaオールジャパンベスト20』に改題される。その後、山本のパートナーが篠原ともえから横山智佐に交代する。 『ベスト20』時代、23時枠に資生堂提供のパートがあり、1997年度はまだデビュー間もないDA PUMPがいち早くレギュラーコーナー『PUMP DA PUMP学院』を持っていた。 1998年10月には山本のパートナーが上原さくらに交代。放送時間も22:30 - となり、1年半ぶりにダイハツ提供に戻り『スーパーフライデーDAIHATSUオールジャパンベストコレクション』にタイトルを変更し番組内容もリニューアルされる。そして2000年3月をもって、番組は終了となった。 番組終了後、ダイハツはそのまま金曜23:00~の『DAIHATSU presents 山崎まさよしのフライデー・パワー・セッション』で引き続きスポンサーをつとめた。そして2002年4月より2003年9月まで、土曜午後の看板番組『DAIHATSU カウントダウン・ジャパン(現:JA全農 COUNTDOWN JAPAN)』のスポンサーを務めた。 なお、番組内随所に盛り込まれていたヤマハ提供の『MUSIC QUEST』コーナーはこの番組の終了後『MUSIC QUEST〜Mt.GROOVE 2000』のタイトルで独立した番組として木曜日23:31 - 23:50の枠で放送され、引き続き山本シュウがパーソナリティを務めた。
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番組の歴史
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MBCテレビは平日7時台・8時台に週5日間の帯番組『ウォッチ!かごしま』を放送していたが、2005年春の改編を機に同番組を終了させて自社製作枠を10時台へ移動。2005年3月28日に平日に『旬感テレビ』を開始し、同年4月2日に本番組の放送を開始した(当初は土曜 9:45 - 10:15の放送枠)。 2006年12月から2007年4月までは『生deココ』編成のため、月に1回ほどの頻度で放送休止になっていた。 2007年3月に『旬感テレビ』が終了するのを受け、番組は平日10時台にも進出して週6日間の帯番組になった。2008年3月のリニューアルでは、平日版が放送時間を5分ずつ縮小し、代わりに土曜版が放送時間を15分拡大した。2009年4月からは金曜版が直後の時間帯に放送されていたミニ番組『MBC経済フラッシュ』を内包するようになり、この曜日のみ終了時刻を10分延長した。後に木曜版も10分延長。 2011年3月28日からは、それまで平日版のMCを担当していた松木圭介と末永安佳梨に替わって岡田祐介がMCを担当するようになった。また、このリニューアルで美坂理恵が2年ぶりに土曜版のMCに復帰した。2013年9月30日からは樺島彩が平日版のMCに加わった。 2014年10月6日から夕方に「かごしま4」がスタート、岡田祐介がメインキャスターになったのに伴い同日から松木圭介が再登板している。 「ひるおび!」のネット受け時間が10:25からに繰り上がることに伴い、2017年9月29日をもって平日版の放送を終了、後番組は「ひるかご」(11:20 - 11:30)。土曜のみの放送となった。 2018年9月29日をもって土曜版の放送も終了した、13年半の歴史に幕。後番組は『週刊1チャンネル』(当番組より5分拡大する予定)。
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番組の歴史
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2011年 5月21日 KBが3度目のボーナスチャレンジでカードゲーム界の女王に初勝利。 6月12日 地区大会の詳細(最多UVP者には7月18日のアキバ・スクエア東京地区決勝大会に出場)発表。橘田が欠席(森嶋は「5月21日放送分のボーナスチャレンジでKBに負けたのが悔しかったため武者修行の旅に出た」と説明したため、代役に木谷が探偵衣装で登場し、ボーナスチャレンジにはキッダーニ男爵(キャッチフレーズは「カードゲーム界の男爵」)として登場(対戦相手はたくみ、結果は社長が辛勝)。 6月19日 橘田が欠席のため、引き続き木谷が登場。ボーナスチャレンジ(対戦相手はけんいち、結果はけんいちが勝利)終了後、森嶋からキッダーニ男爵は社長であることを明かした。 6月26日 キッダーニ男爵がボーナスチャレンジにまた登場。けんいちが2週連続で勝利し、10UVP獲得で東京地区決勝大会進出が決定。
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番組の歴史
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1949年9月14日に、『上方演芸会』として放送開始し、番組の司会進行は芦乃家雁玉(あしのや がんぎょく)・林田十郎(はやしだ じゅうろう)の2人が務め、この時の番組冒頭挨拶の関西弁での「いらっしゃいませ。こんばんは」は、当時会場に来た観客からそれだけで笑いを誘うという人気芸となり有名となった。 番組放送開始当初は、NHK大阪放送局のスタジオからの生放送で、生バンドやお囃子も出演して生演奏をしていた。演奏していたのが大阪放送管弦楽団と望月太明蔵社中が担当。番組に立ち上げに携わったのは秋田實で新作の台本の多くも秋田が書いた。 番組名は「上方演芸会」から、「浪花演芸会(なにわえんげいかい)」「こんばんは大阪です( - おおさか - )」「上方寄席(かみがたよせ)」になった時期もあるが、1974年4月から再び「上方演芸会」となって現在に至る。 番組開始当初から番組コンセプトとして「家族みんなで楽しめる漫才」をモットーとして、「いつもフレッシュなオール新作漫才で行こう」と、演芸作家等に漫才台本を依頼して、漫才師等に提供しており、現在迄に、5000本以上の新作漫才を放送している(「新作漫才」の台本は、10日から1週間前には漫才師には届けられる)。 1950年8月の50回目の記念放送では、阪急西宮球場から公開放送がされて、4万人の観客が入った。 その後、NHK大阪放送局での生放送以外でも、公開放送形式で地方からの生放送もする事もあり、交通事情が悪かった時代には、出演者数組と番組担当者での「巡回放送的」な「旅巡業」をしたり、録音放送になってからも「旅巡業」は続いていた。 番組の司会進行は後に、NHK大阪放送局のアナウンサー等が担当したり、後に、収録担当地域のNHKアナウンサーが担当する事もあるが、現在でも司会進行を担当している元NHKアナウンサーで、現在フリーアナウンサーの井上善夫は、NHK在職時にNHK大阪放送局に赴任した1969年から退職後の現在迄40年近く同番組を担当し、「300回位は番組の司会進行を担当した」と、2008年11月2日に放送の「上方演芸会 60周年記念スペシャル」の放送内で語った。 2014年6月22日に番組に長らくディレクターとして携わった熊谷富夫が食道がんで死去。
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番組の歴史
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「ビッグショー (テレビ番組)」の記事における「番組の歴史」の解説
1974年4月7日に番組開始。 森繁久彌、三波春夫、三橋美智也など大物達が続々と登場。また歌手に限らず、後に人間国宝となる柳家小さん・桂米朝などの落語家や、後に国民栄誉賞を受賞する古賀政男、服部良一、吉田正といった作曲家や勝新太郎も出演した。また大御所だけでなく、沢田研二、天地真理、小柳ルミ子や花の中三トリオ・新御三家といった当時の若者に人気のある歌手も出演した。 海外からも、ミルバ、ナナ・ムスクーリ、ミレイユ・マチュー、エンリコ・マシアス、ジョルジュ・ムスタキ、スリー・ディグリーズ、ブラザーズ・フォー、ジルベール・ベコー、ブレンダ・リー等が出演している。 番組の人気に加え、放送時間が大河ドラマの後(20時45分開始)で大河ドラマの視聴者をそのまま取り込むことが出来るという有利さも手伝い、番組の視聴率も15% - 20%と安定した高い数字を獲得[要出典]。特に1976年2月22日から2週続けて放送された「古賀政男 歌の人生劇場 青春編」「古賀政男 歌の人生劇場 雄飛編」はそれぞれ25.2%、27.3%の高視聴率を獲得した(数字はいずれもビデオリサーチ[要出典]・関東地区)。 その一方で「美空ひばりはなぜ出演しないのか」「吉田拓郎を筆頭とするフォーク・ニューミュージックの歌手はなぜ出ないのか」といった意見も視聴者から多数寄せられ、人選が難航するケースも見られた[要出典]。 1976年3月まではスタジオからの放送だったが、4月からスタジオを離れNHKホールからの公開ショーとなる。NHKホールならではの豪華なワンマンショーが披露され、番組の新たな魅力となった。 長らくNHKと冷戦状態にあった美空ひばり[要出典]が、1977年4月10日・17日の2週にわたり出演し大きな話題を集めた。この後はNHKとの関係も修復し、様々な番組へ出演している。 1978年4月4日より毎週火曜20時からの放送となる。火曜日第1回のメインは人気絶頂のアイドル・山口百恵。翌週11日には渡哲也が初登場した。 1978年10月3日放送回(岩崎宏美出演)からはステレオ放送を開始した。 1979年3月20日、前年大晦日の「第29回NHK紅白歌合戦」で紅白のトリを務めた沢田研二・山口百恵の出演を最後に番組は終了した。 2003年5月11日の「NHKアーカイブス」(総合テレビ)にて、1978年2月19日放送分の『ビッグショー「石原裕次郎 男ひとり 気ままな夜」』が再放送された。 2018年7月15日の「あの日 あのとき あの番組 ~NHKアーカイブス~」(総合テレビ)にて、1976年2月29日放送分の『ビッグショー「古賀政男 歌の人生劇場 雄飛編」』が再放送された。 2020年5月3日の「あの日 あのとき あの番組 ~NHKアーカイブス~」(総合テレビ)にて、1975年2月16日放送分の『ビッグショー「古関裕而 青春 涙 哀愁」』が再放送された。 2020年8月30日の「あの日 あのとき あの番組 ~NHKアーカイブス~」(総合テレビ)にて、1978年4月11日放送分の『ビッグショー「渡哲也 おれには苦手な歌だけど」』の中から渡の歌唱シーンおよびトーク映像の一部が放映された。
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番組の歴史
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1976年10月1日 全国省級テレビ局協商会の意見として、中国中央電視台の前身である北京電視台(現在、この局名称は北京のローカルテレビ局の名前で使われている)で10数の省と直轄市に信号を送る形で、試験放送を開始した。放送時間は10 - 15分間。ただし、映像は外で撮影されたもののみで、ニュース内のアナウンスはなかった。また、早期には地方ニュースは、定期旅客機もしくは列車で北京市にニュース素材が持ち込まれた後、映像のフィルム焼付け、編集に早くても1週間を要し、遅ければ番組内で放送されたのが素材ができてから半月後ということもあった。 1978年1月1日 正式に番組がスタート。 1979年9月1日 この日から中央電視台の新番組で国際新聞という番組が始まり、新華社が独自に編集した国際ニュースを毎日5分間放送。更にイギリスとアメリカの合弁会社・合衆独立テレビニュース社(WTN/現・APTN)の映像、また香港で収録したニュースを北京に空輸して、その映像を放送した。 1980年5月1日 先の「国際新聞」の番組内容を新華社編集ソースと合弁会社や香港メディアのソースを区別することなく、「新聞聯播」に内容を組み込む現在の30分番組となり、今の番組構成を確立した。 1981年 4月 青島市で行われた国家の会議において、各省・各自治区・各直轄市の放送局で「新聞聯播」を同時放送する義務が決定された。 1981年10月 「新聞聯播」の後の19時35分頃から放送している「天気預報」(全国放送)が放送開始。 1982年 放送開始時間が、20時台(20時または20時30分)から現在の19時となる。また中央機関の決定で、国家に関する重要なニュースはまず先に「新聞聯播」の中で発表する方針を打ち出した。 1984年 海外へ記者の派遣を開始。また、台湾中華電視台の「華視新聞」のニュースソースの活用を開始。 1987年 アメリカ・CNNなど海外メディアのニュースソースの活用を開始。 1991年9月1日 番組を海外の衛星チャンネルを通じての配信を開始。 1996年1月1日 それまでの録画から生放送での放送を開始。 2020年7月18日 16:9に番組の縦横比を変更。
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番組の歴史
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2005年1月2日 - 爆笑問題をゲストに迎えて「ギリギリマスター」を、番組初の生放送で放送。 2005年5月3日 - 放送300回達成。「芸能界ビビリ王決定戦」が行われた。 2006年1月2日 - 昨年に引き続き、2回目の生放送に挑み、爆笑問題がギリギリマスターのリベンジに挑戦した。なお、この放送からタイトルロゴが立体的になり『100%ALL NATURAL』の文字を挿入して、一部の効果音が新しくなった。また、その日で放送8年目を迎えた。 2007年6月26日 - 放送400回目となったが、出演者はそれに気づかず、普通に、「物件拝見トレジャーバトル」を行った。スタッフが知ったのは、エンドロールの前で、出演者はエンドロールの途中に知らされた。 2007年10月2日 - 10年目の突入となったが、これも出演者に教えておらずエンドロールの時に大熊から発表された。しかし、実際は翌週から10年目突入となった。 2008年1月2日 この新春SPからハイビジョン放送に移行。それに伴い、ゲームセンターの車のゲームをモチーフとした、オープニングCGに変更された。 2009年6月30日 - 放送500回は「ココ1当てまSHOW!」で(ゲスト:上地雄輔・misono)、上記の400回目と同様に、出演者はエンドロールの途中に知った。 2009年11月3日(第518回) - オープニングがジェットコースターをモチーフとしたCGに変更、最後の船の旗部分のタイトルロゴに「゜」の部分に穴ぽこにしたもの、さらに字幕テロップなどもリニューアルされた。 2011年3月15日 - 放送開始前に発生した静岡県東部地震関連の報道特別番組のため、急遽放送を休止。この日放送予定だった回は翌週(3月22日)に延期して放送された。 2011年6月28日 - 放送600回になったが、番組内ではそれについて全く触れられなかった。 2011年9月27日 - 火曜ネオバラエティ枠最後となる生放送だった。しかし、当日で当番組のネットを一旦終了する朝日放送では、従来通りに1時間15分遅れの時差ネットで放送。そのため、放送中は「関東地区で23:15〜放送されたものです」というテロップを画面の右上に表示していた。 2017年1月 - SMAP解散後もタイトル変更は行われなかった。 2018年3月8日 - 3月末で当番組が終了することが発表された。 2018年3月31日 - 「『ぷっ』すま」最終回が放送される。通常通りの30分放送となった他、長期間続いた番組の最終回でよく見られる過去の総集編などは一切行わず、草彅考案の新企画「犬部」が始動するという内容で番組は進行していった。番組の最後はユースケと草彅がそれぞれ視聴者へ向けて感謝の弁を述べた後、出演者・スタッフが総出でカメラに向かって手を振る形で終了となった。これにより、番組は20年の歴史に幕を下ろす事となった。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 23:52 UTC 版)
『週刊人物ライブ スタ☆メン』としてスタート。関西地区、名古屋地区などで視聴率が15%を超え、関東地区においても、2006年1月29日の放送において最高視聴率15.1%をマークした。2006年7月16日の放送で再び関東地区で15.1%を記録。同時間帯で初の首位となる。関西地区でも18.2%の高視聴率をマークした。 しかし、その後はやや低迷しだした。コーナーの入れ替えが続き、2006年9月24日放送より、番組タイトルを『スタ☆メン』に改題(略称を正式な番組名に変更)した。 2007年1月21日の放送と2007年1月28日の放送は、この番組の前時間帯に放送されていた『発掘!あるある大事典II』(関西テレビ製作)のデータ捏造問題があったため、2時間15分スペシャルで放送した(2007年1月21日は、21時54分からのミニ番組を通常通り放送するため2部構成で放送された)。1月21日放送回では、宮崎哲弥と太田が関西テレビ、フジテレビおよび『あるある大事典』の制作に携わった日本テレワークを批判した。このころになると、回によっては10%前後にまで低迷しており、番組は3月に終了を余儀なくされた。
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番組の歴史
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2007年5月5日の深夜 24:10 - 24:40(JST)に、元の企画となったパイロット版『世界おもしろ法律旅行』を放送、これが本番組の起源である。
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番組の歴史
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「THE GOLDEN HITS」の記事における「番組の歴史」の解説
当初は『ONIX ゴールデンヒッツ』(オニキス ゴールデンヒッツ)として毎週土曜日の16:30スタートの25分番組としてスタート(この頃は一部の局で時間が異なっていた)。自動車ディーラーのオートコミュニケーションズ(ONIX)がスポンサーだったため、曲との間にドライバーへのワンポイントアドバイスが入ったりした。 その後、スポンサーがデジキューブ→アサヒ飲料と交代、タイトルも『デジキューブ ゴールデンヒッツ』→『アサヒ飲料ゴールデンヒッツ』と変遷していく。 1998年10月3日より放送時間が16時からとなり、55分に拡大。引き続きアサヒ飲料がスポンサーとなり、タイトルも『WONDA THE GOLDEN HITS』(ワンダ ザ・ゴールデン・ヒッツ)と改める(WONDAとは、アサヒ飲料が販売する缶コーヒーの名称)。さらにゲストコーナーを設け、CDギフト券や、缶コーヒー「WONDA」が当たるプレゼントクイズが新設された。 2003年9月27日、番組は9年の歴史に幕を下ろし、翌10月4日から提供がNTTドコモに代わるとともに『DOCOMO Hits from the Heart』がスタート、本番組から引き続き松本ともこがパーソナリティを担当。松本は『DOCOMO DREAM CALL』(2008年10月〜2010年3月)まで約15年半に亘り土曜16時枠でパーソナリティを務めた。
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番組の歴史
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1998年4月 - 放送開始。 2002年11月 - 番組解説本『要のある音楽 完全攻略』が発売される。 2003年4月 - 番組放送開始5周年。 2006年10月 - 放送500回を達成。 2008年4月 - 番組放送開始10周年。 2009年9月 - 最終週放送回で600回達成。 2013年4月 - 番組放送開始15周年。 2017年5月 - 放送1000回を達成。1000回目の放送ではお祝いに、デビュー当時からの盟友・親友のChageが登場した。 2018年4月 - 番組放送開始20周年。
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番組の歴史
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前身のラジオ南日本が開局した1953年10月10日、城山スズメ、歌のない歌謡曲と共に放送を開始。当初から一日も途切れることなく続き、2018年に放送開始から65年を迎えた、日本国内でも有数の長寿ラジオ番組である。 放送開始当時は太平洋戦争の戦災が未だ癒えぬ時節で、離散したままの家族、戦災孤児、消息が定かでないシベリア抑留者等も多く居たため、連絡がつかない家族、親族、友人に対してラジオで盛んに呼びかけを行っていた。これが集約され一つの番組となったという。ちなみに同時期のNHKのラジオ放送でも『尋ね人の時間』があり、まもなく県民の多くにすんなり受け入れられた。
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番組の歴史
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初代司会は飯窪長彦、山川静夫で、彼らが隔週交代で担当していた。その後、生方恵一、松平定知、宮川泰夫ら当時の若手有望株のNHKアナウンサーたちが司会を務めるようになった。テーマ曲は宮川泰が担当(CD『懐かしのNHKテレビ主題曲集』にも収録されている。一時期シンセサイザーを使ったデジタル風の曲を用いていたが、不評だったために元に戻した)。松原敏春、喰始らが構成を、滝大作が演出を担当。
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番組の歴史
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2006年7月3日に平日正午枠(12:00 - 13:00)で放送開始。MC(司会者)には、スターダストプロモーション所属のモデルでタレントのSHELLYを起用。 2009年4月1日から朝枠へ移行、放送時間も7:00 - 8:00となり『U・LA・LA@7』(ウ・ラ・ラ・アット・セブン)に改題しリニューアル。2011年9月30日に終了と共にSHELLYが降板。 2011年10月3日にはタイトルを『U LA LA ナナパチ』(ウララ・ナナパチ)に改題。MCにはアミューズ所属のバイリンガルタレント・女優のホラン千秋と、声優の平賀三恵を迎えリニューアル。2012年3月30日に終了するまで3番組、5年9カ月にわたって続いた。
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番組の歴史
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地上波では2001年1月10日(水曜日)の20時54分からテレビ東京系列としては初の2時間ドラマ番組(月曜・女のサスペンス2時間SPや日本名作ドラマなど、不定期の単発特番は過去にも製作されていた)として発足しているが、前年(2000年)12月に開局した系列BSデジタル局・BSジャパンではハイビジョン画質による同一内容の先行放送が1月7日21時より開始されていた。民放系のドラマ番組としては最も早く「ハイビジョン化」を達成した事になるが、地上波デジタル放送でのハイビジョン放送の開始は2005年春の「水曜ミステリー9」発足まで持ち越されている。 後継番組の「水曜ミステリー9」(BSでは「BSミステリー」)同様、BSジャパンとの共同制作方式を採用する事で、地上波の番組をBSで再送信する際の障壁となっていた権利上の問題(主に出演者の肖像権)をクリアしていた。また、原則的に地上波と同じスポンサーがBSでも番組の提供を行っていた。テレビ東京の場合、同時期にBSデジタル事業への参入を果たした他の民放キー局に比べ、ドラマ番組の制作規模(ストック・バリエーション)が格段に小さかった点に加えて、倫理的な問題(主に旧東京12チャンネル時代の作品)や権利処理手続きの煩雑さ(当時の放送法の規定によりBSジャパンは別会社として発足)により、「新春ワイド時代劇」(地上波比で1年遅れ)などを除くと、BSジャパンでのストーリーコンテンツ(地上波)の二次使用自体がごく限られたものとなっていたため、事実上BS向けに配給が行われていた唯一のドラマ番組でもあった。 BS(1作目より画角16:9のハイビジョン方式で収録)と地上波(アナログ放送用に4:3の標準画質に変換)では、同じ作品であってもサブタイトル(作品名)やテロップ、エンドロールなどの位置・レイアウトが異なっており、地上デジタル放送の開始後もアナログ放送用と同じ素材のアップコンバート放送が継続していたが、「水曜ミステリー9」(第1期)への移行(2005年4月)を機に地上波(デジタル放送)でも番組をハイビジョン化(但し、テロップなどの位置はアナログ放送用のサイドカット処理を考慮した仕様に変更)。ちなみに、地上デジタル放送の番組をサイマル放送していた旧アナログ放送( - 2011年7月)では、「日曜ミステリー」枠(関東ローカル)などで、地上波での本放送(初回)が画角4:3の標準画質であった旧女と愛とミステリー作品を16:9のハイビジョン番組(デジタル放送)として放送し直す際、テロップなどの欠損が発生するサイドカット処理は行わず、レターボックス変換されていた。 初回作品は、渡辺謙主演「人間の証明2001」(放送時間拡大SP)で、視聴率は8.1%。その後も、旧月曜21時枠時代の製作スタッフが中心となって、ミステリー作家(森村誠一・松本清張・夏樹静子・山村美紗・小池真理子他)の推理小説を題材にした原作に忠実な作劇を展開し、脆弱になっていたドラマ部門の再興に成功した。 当初はシリーズ化を前提としない「無印」扱いの作品が主流であったが、10~13%(回によっては15%の大台に乗ることも)とテレビ東京のドラマ枠としては高い視聴率を記録し、好評を博した作品を中心に「シリーズ物」への昇格も随時行っていた(「信濃のコロンボ事件ファイル」など)。 しかし、2003年の下半期頃から視聴率の下降が目立つ様になり、2005年3月30日(BSでは3日先行の3月27日)を以って終了、サスペンスドラマの放送はリニューアル番組「水曜ミステリー9」に引き継がれた。 テレビ東京とその系列局(地上波)では水曜ミステリー9移行後の作品と共に現在でも再放送されている(OPはカット)。聴覚障害者向けの字幕放送に加えて、初回放送時は実施されていなかった視覚障害者向けの解説放送が重畳される事もある。 契約上の制約で再放送が初回放送から1年半以上経過していない作品に限られていたBSジャパンでは、2006年の秋以降「女と愛とミステリー」作品の再放送が途絶えていたが、「テレビ東京ホールディングス」の発足で権利処理手続きが大幅に簡素化された2010年10月より4年ぶりに再放送を再開(字幕放送及び解説放送は無し)。OPのカットなどは行われず、初回放送時とほぼ同じ状態で放送されているが、本編の冒頭で「この番組は200x年xx月xx日にテレビ東京で放送された作品です」とテロップで表示される。なお、2011年4月の改編では、再放送枠の名称が従来の「BSミステリー」(毎週金曜11:59 - )から「傑作ミステリーアワー」に、放送開始時刻も1分繰り下げの12:00起点に変更されているが、翌2012年10月第1週からは放送枠そのものが移動(毎週金曜17:00 - )。この枠移動によりテレビ東京系列(キー局を含む地上波の6局)がローカル編成枠に設けている単発ドラマ用の再放送枠との間に生じていた競合関係が解消された。 番組枠の前半(21時台)がテレビ朝日系列で現在も放送中の「テレビ朝日水曜21時枠刑事ドラマ」枠と裏表で対峙する関係に置かれていたため、東映が制作に携わった作品が放送された例は皆無で、後継番組へのリニューアル以降もこの状況は継続している。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 16:04 UTC 版)
「それSnow Manにやらせて下さい」の記事における「番組の歴史」の解説
2020年2月28日 - Snow Man単独のオフィシャルYouTubeチャンネルにて、本番組の放送が発表。同日、番組公式Twitter開設。 2020年3月24日 - 本番組のために制作されたSnow Manの新曲「ナミダの海を越えて行け」が番組テーマソングに決定。 2020年3月25日 - 本番組の地上波特番放送。Twitterの世界トレンド2位、日本のトレンド1位を記録した。また番組内にて、同年4月より動画配信サービス「Paravi」でのレギュラー番組として配信されることも併せて発表された。 2020年4月8日 - 新型コロナウイルス感染拡大の影響により、初回配信の延期と番組収録を当面見合わせることを発表。 2020年4月24日 - 当初の初回配信予定日。地上波特番の未放送部分を含めた「レギュラー配信決定サプライズロケ完全版」を配信。翌週より「地上波SP完全版」を順次配信。 2020年6月5日 - Paravi版レギュラー配信開始。前述の事情から、番組収録はスタジオでのリモート収録となった。 2020年7月24日 - 同日配信分(第13回)にて、番組テーマソング「ナミダの海を越えて行け」のPVを初公開。 2021年1月1日 - 地上波特番第2弾放送。番組初となる全国放送でもある。 2021年2月23日 - 同年4月からのTBS系列でのレギュラー放送を発表。これにより、Snow Manにとって初の地上波冠レギュラー番組となった。 2021年4月2日 - 地上波放送への移行に伴い、同日配信分(第47回)をもってParavi版は終了。 2021年4月11日 - 地上波版レギュラー放送開始。番組内にて新テーマソング「Be Proud!」を初解禁。 2021年9月26日 - 同日より、ParaviとTVerでの最新回の見逃し配信、および地上波版の既放送分の配信を開始。 2022年4月17日 - 地上波レギュラーが2年目に突入し、新テーマソング「NO SURRENDER!」が番組内で初解禁。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:50 UTC 版)
「アナザースカイ (テレビ番組)」の記事における「番組の歴史」の解説
2008年10月10日より、今田と宮尾の男性2人のMCで、ゲストとして村治佳織を迎えて放送を開始した。 2009年3月20日の放送より初代女性MCとしてLIZAも参加。LIZAは2009年最初の放送のゲストでもあった。 2010年9月24日放送回をもって宮尾とLIZAがMCから降板し、同年10月1日放送回から2代目女性MCとして長谷川潤が加入した。また、スタジオセットも森田恭通がデザインしたものにリニューアルされた。なお、森田がテレビ番組のセットを手がけるのは、今回が初である。 2012年9月21日放送回をもって長谷川が降板し、同年9月28日は今田が単独でMCを務めた。10月5日の4周年スペシャル(15分拡大)から3代目女性MCとして岸本セシルが加入した。更に、10月19日にはスタジオセットも森田が新たにデザインしたものに新装された。 2014年9月26日放送回をもって岸本が降板し、同年10月3日放送回から瀧本美織が4代目女性MCとして加入した。同年10月17日放送回より、スタジオセットが森田のデザインにより3度目のリニューアルが行われた。 2016年9月30日放送回をもって瀧本が降板し、同年10月7日放送回からは中条あやみが5代目女性MCとして加入した。 2017年10月6日・13日放送回は「10年目突入SP」として、宮尾と歴代女性MC4名がゲストとしてスタジオに登場し、これまでの旅の一部を振り返った。10月20日放送回からは、スタジオセットもこれまでの森田に代わり、佐藤オオキがデザインしたものにリニューアルされた。 2019年3月29日をもって、5代目女性MCの中条が卒業するとともに「I」としては終了し(ただし、プロ野球開幕戦中継の延長により15分繰り下げとなり、23時15分 - 23時45分に放送)、翌週の4月5日からは「II」として放送継続の上、「I」からのシリーズ通算6代目となる女性MCとして、広瀬アリスが就任した(ただし、番組名改題後の初回は『金曜ロードSHOW!』の35分後拡大のため、35分遅れとなり、23時35分 - 翌0時05分の日またぎ放送となった)。 2020年に入ってからは、世界的な新型コロナウイルス感染症の流行により日本国外での撮影が困難になり、同年4月以降は日本国内で撮影したものおよび過去の放送をテーマ別にまとめた総集編の放送が中心となっている。 2021年4月の改編で金曜未明(木曜深夜)に放送枠が移動し、パート3としてタイトルが『アナザースカイ』に戻された。移動後は、一部地域での放送となる。女性MCは、日本テレビアナウンサーの岩本乃蒼と河出奈都美が交代で務める。 2021年8月より、女性MCとして佐藤晴美が就任した。 2021年9月1日付の日刊スポーツの記事で、コロナ禍で海外ロケができなくなり、国内ロケに切り替えて対応してきたが、同月末をもって終了することが関係者の話として明らかになり、翌2日にオンライン形式で行われた日本テレビ改編説明会見において正式に発表された。そして、2021年10月1日の放送をもって、「アナザースカイ」シリーズは13年の歴史に幕を閉じた。 2022年6月12日に1時間の復活特番を放送した。番組MCもレギュラー放送終了時点と同じく今田耕司と佐藤晴美が務めた。
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番組の歴史
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第1回のゲストは、星野仙一と鳳蘭で、たかじんが鳳蘭と宝塚で共演した話で盛り上がり落ち着いた雰囲気の放送だった。また、この2人はたかじん本人がブッキングしたという。 1994年1月15日放送で番組最高視聴率25.1%(関西地区)を記録。 最終回ではビートたけしが出演し、たけしが「最終回やめようよ、俺もやるから」と言い、出演者がこれまでの番組の歴史を振り返りながらしみじみ語った。たかじんが「東京」を歌うと、たけしが徳永英明の「壊れかけのRadio」を歌った。最後は当時たかじんの新曲であった「もしも夢が叶うならば」のプロモーションビデオが流れ番組の幕を閉じた。
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番組の歴史
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「シェルビーの事件ファイル」の記事における「番組の歴史」の解説
ニコロデオンは一度に1つの新しい番組を作っていたが、すでにスペース・ケースというテレビドラマを製作に取り組んでいたため、本作は1996年3月に6話分を視聴率の試みとして先行放送を行った。その試みで成功が叶い、ニコロデオンは1997年1月頃のSNICKで本作を再び紹介し、7話分の新エピソードを追加した。第3シリーズでは、予定されていた13話分のうち8話分が、クルーのトラブルにより制作が中止された。本作の予算は国際映画劇場労働組合(英語版)からの要求に応えなかった関係からか、ビデオテープではなくフィルムで撮影されていた。1998年2月にはモントリオールで撮影するよう制作は再開、シーナーが本作の共同制作に合意した結果、この番組の舞台設定はフロリダ州・ココアビーチからマサチューセッツ州・ボストンに変更された。 この番組は、おじいさんと一緒に暮らしている少女探偵シェルビーが、視察力・記憶力で謎の事件を次々に解決していくテレビドラマである。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 14:01 UTC 版)
以下、1.のTBS年末長時間特別番組年表 注・各番組は正式タイトルが長いため、省略タイトルと正式タイトルに分類。 回放映日時番組省略タイトル番組正式タイトルテーマ総合司会進行アナウンサー1 1992年12月30日 - 1993年1月1日 39時間テレビ 元旦まで感動生放送!史上最大39時間テレビ「ずっとあなたに見てほしい 年末年始は眠らない」 時と感動 筑紫哲也他 柴田秀一、有村かおり、下村健一他 2 1993年12月30日 - 12月31日 報道30時間テレビ メディアが伝えた決定的瞬間!関口宏の報道30時間テレビ メディアが伝えた決定的瞬間! 関口宏 三雲孝江、杉尾秀哉、久和ひとみ、浜尾朱美他 3 1994年12月30日 - 12月31日 関口宏の報道30時間テレビ - 4 1995年12月30日 - 12月31日 関口宏の報道30時間テレビ「メディアが伝えた決定的瞬間!」 メディアが伝えた決定的瞬間! 5 1998年12月30日 - 12月31日 テレビのちから 21世紀プロジェクト年越し30時間生放送!!テレビのちから You CAN do it! 福留功男、薬丸裕英 雨宮塔子、進藤晶子 6 1999年12月30日 - 2000年1月1日 超える!テレビ 21世紀プロジェクト年越し38時間生放送 超える!テレビ - 進藤晶子 7 2000年12月30日 - 2001年1月1日 SAMBA・TV 21世紀プロジェクト年越し38時間生放送 SAMBA・TV
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 16:03 UTC 版)
番組開始当初はオッズメーカーの前田が優位に立ち、栗本を破産に追い込んだ一方、「放送衛星BS-3bの打ち上げは成功するか」では堅実なデータと専門分野という事から青木が「延期する(5倍)」に300カノッサをベット。見事的中させ1500カノッサを獲得し、前田の所持金が5万を割り込み、前田もにわかに弱気となる。 その後、「NHK『サンデースポーツ』でF1日本グランプリの報道で何個のフジサンケイグループの目玉マークが映るか」では「30個台」を4倍とする一方、「9個以下」に100倍を付けた中で糸井が30カノッサ、秋元が10カノッサをベット。結果は7個となり100倍の大穴配当に。これにより糸井はクラブ初の3000カノッサを達成する。 さらに11月には「ユーミンのニューアルバム『DAWN PURPLE』の発売3日間の売上げ枚数は?」には「75万枚以上(55倍)」に糸井が1000カノッサをベット、的中すれば確実に破産という状況だったものの、結果は73万枚となり「70~75万枚(16倍)」と辛くも凌ぎ切るも、オッズメーカーに破産の脅威が忍び寄っていることをうかがわせた。 年が明け「陣幕(現・九重)親方(元千代の富士)の断髪式後の髪型は」というベットでは「オールバック(5倍)」に糸井が2000カノッサ、青木に150カノッサを賭けられ、それぞれ1万・750カノッサを獲得。この時点で前田の資産は約3万5000カノッサに、さらに「今週(2月3日 - 9日)のTVショッピングで最もスポットCMの本数が多い商品は何か」では「その他(13倍)」に糸井が1000カノッサをベット。結果は「深型収納ボックス(8倍)」と「天然エメラルドウォッチ(その他扱い)」が同率で並ぶこととなり的中。糸井に1万3000カノッサを奪われ、糸井が2万2984カノッサ、前田が2万1585カノッサとついに糸井が前田を逆転する事態となる。 そして命運を分けたのは1992年3月2日放送。この日は2つのベティングを行った。そのうち「3月7日、神宮球場で行われるバルセロナオリンピック日本代表VSプロチームの野球交歓試合で、プロはいくつの三振を取られるか」では前田は8、9個程度と予想し3倍に設定、4、5個に関し12倍を設定した。それに対し糸井は「4、5個」に2万2981カノッサと3カノッサを残してほぼ全額をベット、青木も600カノッサをベットする。 その試合では序盤こそ三振が出たものの終盤では出なかったことや先攻の日本代表チームが負けたことが影響し「5個」となり、これにより糸井が27万5772カノッサ、青木が7200カノッサを獲得しこの時点で前田の破産及びオッズメーカー解雇が確定。2つ目のベット「今放送中のテレビ東京『ザ・スターボウリング』で清水由貴子は何回『ナイスカン!』と言うか」も「1回(12倍)」を青木に1000カノッサで当てられ、最終的に 糸井 27万5786カノッサ 青木 2万1880カノッサ 前田 -24万7336カノッサ となった。 3月9日放送分は、マスター役である牧原俊幸アナが一人で務めることに(クラブ内は不在。主を失ったオッズメーカー専用の席とギャベル(小槌で鳴らす楽器)のアップ画像が寂しく映し出された)。前回の結果を発表後、特別編成で「前田武彦オッズメーカー・一年間の功績」(事実上の総集編)を紹介。後半は、仲谷昇オーナーの決断により、後任オッズメーカーをFAX会員のFAX投票に委ねられる事となる。立候補したのは青木、泉、鴻上、そして前任者の前田(VTRでの出演だったが、いつにない正念場を迎えた)。 3月16日放送。「数多くの修羅場をくぐってきた」という理由で鴻上の支持も多かったが、その後前田への同情票などが伸びて、結局は前田の再任が決まり、再びオッズメーカーの椅子に就いた。 しかし翌週3月23日が最終回だったため、わずか2週の再任期間だった。そのとき大量ベットをしてオッズメーカーを退任させた糸井は「(番組を終わらせたのは)俺のせいではない。俺は無実だ」とコメントしている。最終回時点での所持カノッサは以下の通り 糸井 27万5786カノッサ 青木 1万5880カノッサ 泉 154カノッサ 鴻上 32カノッサ 秋元 6カノッサ 栗本 2カノッサ(105カノッサのうちマセラッティの抵当を外すのに100カノッサ+利息3カノッサを返済) 陣内 -400カノッサ(糸井からの負債という形で出演) 最終ベットは『今世紀で一番偉大な人物「パーソン・オブ・ザ・センチュリー」は誰になるか』であり、それぞれ糸井→トーマス・エジソン(5倍)に1カノッサ、陣内→ウォルト・ディズニー(6倍)に糸井から1003カノッサを借りて1カノッサ、鴻上→エジソンに32カノッサ、泉→ディズニーに54カノッサ、青木→ライト兄弟(その他扱い・35倍)に1903カノッサ、栗本→エジソンに2カノッサ、秋元→ディズニーに6カノッサをベットした。 ベット後はクラブオーナーの仲谷からのメッセージが流され、ギャベルのアップのラストカットで締めくくられた。 しかし、前述の通り行っていたディズニー社が企画を中止したため不成立となったが、参考としてタイム誌が1999年に発表した「パーソン・オブ・ザ・センチュリー」ではアルベルト・アインシュタイン(25倍)(次点はフランクリン・ルーズベルト(12倍)とマハトマ・ガンディー(60倍))だったため、全員が外れている。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 08:48 UTC 版)
「ワールドスポーツMLB / 11」の記事における「番組の歴史」の解説
2015年4月からセットとタイトルロゴが一新され、平日に関してはそれまでテーブルで座ったスタイルだったのが、立ったまま伝えるようになった。また平日の男性アシスタントキャスターと週末の女性アシスタントキャスターが交代となった。 2016年3月で生島淳が卒業。同年4月から土・日曜は漫才・お笑いタレントのレッド吉田(TIM 土曜)、名倉潤(ネプチューン 日曜)がメインMCを務めた。 2017年3月で深津瑠美が卒業。同年4月より、日曜の放送がなくなり、月曜に未明・深夜の2回放送となるのに合わせ、月曜深夜および火 - 金曜は平原沖恵が、土曜および月曜未明は上田まりえがメインMCを務める。(平原は2017年3月までは土曜・日曜を担当) 2019年3月で平原沖恵が卒業。同年4月より、月曜深夜および火 - 金曜日は山本萩子がメインMCを務める。さらに、2019年からは冒頭に6分程度や終了間際、不定期に特集でNPBも取り上げるようになった。また、それに伴い、番組タイトルも『ワースポ×MLB』に改題された。 土・日曜日のメインMCについては、上田の卒業(2019年11月)を経て、阪神タイガースや高校野球への造詣が深い市川いずみ(フリーアナウンサー)を2020年4月から起用している。市川は当時出身地の関西地方を中心に活動していたため、全国放送の番組にレギュラーで出演することは、前職の山口朝日放送アナウンサー時代を含めても初めてであった。これと同時に、2020年3月29日より日曜の放送が21:00からに変更となり、日曜版のみタイトルを『ワースポ×MLBサンデー』と改称した。 2020年は新型コロナウイルス感染防止の影響により海外リーグ・国内リーグの開幕日程が大きくずれこみ、試合がない状況下で、3月27日は50分・以後日曜日(-サンデー)以外は31分短縮版での放送となったが、4月7日放送をもって一旦放送休止とした。NPB開幕に合わせ6月7日(6月6日深夜)の放送から30分短縮版として、MLB開幕の7月24日から本来の50分で放送を再開した。 2021年には、平日に山本、土・日曜日に市川がメインMCを引き続き担当。市川は同年4月から早稲田大学大学院スポーツ科学研究科(スポーツ医学専攻)へ進学することに伴い、東京へ本格的に進出するが、研究活動を優先するため、フリーアナウンサーとしてのレギュラー番組を当番組へ事実上集約させる。東京オリンピック・パラリンピック期間中MLBは継続していたが、オリンピック中継を優先したため20分バージョンを経て番組休止とし、パラリンピック終了後の9月7日から放送再開した。ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平がアメリカンリーグMVPを獲得した11月19日には『ワースポ×MLB特別編』と題してMVP発表の瞬間を緊急生中継を行った。 2022年は、2年間土・日曜日キャスターを務めてきた市川に変わり、新たに菊池柚花が土・日曜日のメインMCを担当する。また、これまで直前に放送されていた10分版の『BSニュース』が『BSニュース World+Biz』に事実上集約されたため、10分前倒しでの放送開始となる。しかし、MLBとMLB選手会との度重なる労使交渉の決裂やロックアウト等の影響により、開幕が結果的に現地時間4月7日までずれこんだ中でも4月6日までは『スプリングトレーニング特集』と題して放送された。また、開幕前日である4月7日と開幕日である4月8日は、放送時間を以前とほぼ同じ23:45まで延長し、「開幕直前特番」および「開幕特番」として放送した。なお、MLBオールスターゲームの開催当日は放送するが、その翌日と翌々日は放送休止となる(この影響で、一部チームの試合(後半戦初戦となる試合)が開催されていても、この期間は放送されない)。 後述の影響からか今年度はプロ野球のダイジェスト放送も廃止されている(2022年度のみの措置なのかどうかは不明)。
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番組の歴史
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「ニューススクランブル」の記事における「番組の歴史」の解説
『NNNニュースプラス1』の関西ローカルパート『NNN大阪発プラス1』が終了したことを受けて、1990年4月2日から、毎週月-金曜日の18:30 - 19:00で放送を開始。「肩の凝らないニュース」をキャッチフレーズに、『ズームイン!!朝!』などの情報・バラエティ番組で名を馳せた辛坊治郎(当時読売テレビアナウンサー)を、初代のメインキャスターに据えた。 同時間帯で最後発のローカルワイドニュースだった当番組は、開始当初から視聴率で苦戦。同時間帯で最下位を記録していた。しかし、毎日放送や朝日放送のローカルニュースが開始時刻を繰り上げるたびに、対抗措置として時間枠を拡大。開始当時は同時間帯最下位の視聴率だったが、坂泰知・植村なおみがキャスターを務めるようになってから最高位まで視聴率を引き上げ同時間帯の1位に躍り出るなど、読売テレビの看板番組にまで成長した。同時間帯の他局のニュース番組と違って、女性アナはアシスタントではなく、ニュース終わりに男性キャスターと同じようにコメントを付ける二人キャスター体制を導入。1998年から2003年までは年度平均視聴率で5年連続のトップとなり、読売テレビ報道局長賞が贈られている。また、この時期に月間トップ視聴率も連続48か月となるなど、ニュース番組としては破格の視聴率を稼ぎだした。 1997年3月31日からは、報道局報道部へ異動となる辛坊の後を継いで読売テレビアナウンサーの坂泰知が、2代目のメインキャスターに就任。最終回まで12年間担当した。 2004年10月4日の放送から、番組内容をリニューアル。番組ロゴやスタジオセットを変更したほか、長年キャスターとして出演してきた植村なおみ(読売テレビアナウンサー)が降板。植村の後任として、後輩アナウンサーの横須賀ゆきのが、坂のパートナーとして抜擢された。 さらに1996年の放送時間拡大以後、天気予報とあわせて放送した情報コーナー(グルメスポット・行楽地・新商品など、近畿地方のトレンド情報を扱う)を「トレンドかんさい トレかん!(通称“トレかん”)」として放送。天気予報でも、「トレかん!」を担当する女性リポーターが、お天気キャスター・小谷純久のパートナーを兼ねる構成に変わった。ニュースや特集では、重厚なドキュメンタリータッチを重視すべく、関西を中心に活躍する声優の安富史郎などをナレーターに起用している。なお、横須賀は当番組のキャスター就任を機に、報道局兼務のアナウンサーになった。 当番組は、『かんさい情報ネットten!』の開始を機に、2009年3月27日で放送を終了した。19年間という放送期間は、在阪テレビ局における平日夕方のローカルニュースとしては、『MBSナウ』の約25年に次ぐ長さである。
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番組の歴史
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「A&Gメディアステーション こむちゃっとカウントダウン」の記事における「番組の歴史」の解説
2002年10月12日 - 前週同時間帯に放送されていた『SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン』の後継番組として、メインパーソナリティー・櫻井孝宏とアシスタント・植田佳奈を迎え、文化放送にて放送を開始した。 2003年11月2日 - 神宮外苑で行われた「文化放送ラジオフェスティバル2003収穫祭」で水樹奈々をゲストに迎え、番組初の公開録音「こむちゃっとカウントダウン HIRU!」を開催した。 2005年4月2日 - 前週で降板した植田に代わり、小清水亜美が2代目アシスタントに就任。 2006年7月22日 - 文化放送の演奏所が開局以来からの四谷(東京都新宿区若葉)から、港区の浜松町駅前に新築したメディアプラスに移転に伴い、旧社屋での最後の放送となり、前の時間帯の番組『A&G 超RADIO SHOW〜アニスパ!〜』と連動して放送した。それぞれのコーナーは大きくは変わらないが、放送時間内に完全移転直前の旧社屋を探索するコーナーがあったため、6位以下のこむちゃーとは小清水亜美と浅野真澄が務め、1-5位は櫻井孝宏と鷲崎健が務めた。 8月5日 - 放送回数が200回を迎えた。 2007年11月17日 - 初代アシスタントの植田をゲストに迎えて2回目の公開録音「5周年記念こむちゃフェスティバル〜GO!GO!のこむ茶」が文化放送本社内のメディアプラスホールで行われた。このとき、水樹奈々、松来未祐が電話でゲスト出演した。 2009年4月11日 - 前週で降板した小清水に代わり、井口裕香が3代目アシスタントに就任。 2010年1月23日 - 水樹奈々の「PHANTOM MINDS」が番組史上初となる「チャート初登場」にして第1位を獲得。 6月12日 - 放送回数が400回を迎えた。 6月19日 - 2010 FIFAワールドカップ中継『日本×オランダ』(20:10 - 22:40)のため22:40 - 24:00にて「アニスパ!」(超!A&G+では「アニスパ!・プラス」)が80分枠で放送された事により、超!A&G+も含めて「こむちゃ」が全編休止となった。公式サイトでも「こむチャート」が発表されなかったのはこの週が初めてであり、現在に至るまで唯一の事例である。この関係で、この週の前後にランクインした曲は2010年の年間ベストヒット10の集計で、1週分の不利を被ることになった。 6月27日 - 番組400回を記念した特別番組「文化放送ホームランナイター センパツ!スペシャル 放送400回突破記念! こむちゃっとプレミアム」を茅原実里、GRANRODEO、坂本真綾をゲストに迎えて放送。 2011年3月12日 - 前日に発生した東日本大震災関連の報道特別番組(23:30まではNRN報道特番扱い)のため、超!A&G+も含めて休止。ただし先述の例とは異なり「こむチャート」の集計は行っており、公式サイトで「2011年3月12日付け 第439回 こむチャート」として発表されている。 7月27日 - ボーカルCD「こむちゃっとカウントダウン Vocal CD 2011」発売。収録曲「Party-Life!!」は、第460回 こむチャートで初登場6位、第465回のこむチャートより、4連続首位(V4達成)を記録し、同年の年間チャート1位を獲得した。2018年までの年間チャート1位楽曲の中で唯一主題歌タイアップのない曲となっている。 7月30日 - 番組イベント「COMCHA FES 2011」をShibuya O-EASTにて開催。 2012年6月2日 - 番組500回。記念の公開録音を開催(なお、概要の項で述べたとおり、オンエアとチャートにはズレがあるためチャートは5月12日に500回となった)。 2014年4月12日 - 3代目アシスタント井口裕香が、これまで最長の4年間パーソナリティを務めた小清水の担当期間を上回る。 4月27日 - 番組600回記念イベント「COMCHA FES 2014 in 野音」を日比谷野外大音楽堂にて開催。 5月3日 - 放送回数が600回を迎えた。 2015年12月12日 - ワイドFMでの放送を開始。 2016年4月2日 - 放送回数が700回を迎えた。 2017年5月14日 - 番組放送15周年記念イベント「COMCHA FES 2017 in 野音」を日比谷野外音楽堂にて開催。 2018年3月3日 - 放送回数が800回を迎えた。 3月10日 - 放送800回を記念したスペシャルトークイベントが文化放送メディアプラスホールで行われた。 4月14日 - 放送800回を記念し21時から3時間の特別番組「A&Gメディアステーション こむちゃっとカウントダウン 放送800回突破記念スペシャル」が、同年3月10日に行われたスペシャルトークイベントの模様を含めて放送された。なお、「A&G TRIBAL RADIO エジソン」のフロート番組はそれぞれの時間に放送された。当番組の特別番組は2010年6月27日に放送された「文化放送ホームランナイター センパツ!スペシャル 放送400回突破記念! こむちゃっとプレミアム」(20:00 - 21:30)以来7年と10ヶ月ぶりである。 2019年1月5日 - 「文化放送新春スペシャル A&G TRIVAL RADIO エジソン」が21時から3時間の収録放送されたため休止となった。なお、当放送枠である23時台は「エジソン~集まれ年男!~」に寺島拓篤、千葉翔也が出演した。ただし「こむチャート」の集計は行っており、公式サイトで「2019年1月5日放送分 第847回 こむチャート」として発表されている。 4月6日 - 10年間アシスタントを務めた井口に代わり、白石晴香が4代目アシスタントに就任。 10月12日 - 令和元年東日本台風(台風19号)接近に伴い、仲村宗悟がスタジオゲスト出演から電話出演に変更。ゲストが電話出演となるのは番組開始以来初めてのことである。 2020年10月11日 - 「ABEMAアニメ2チャンネル」において、放送900回突破&19年目突入を記念した特別番組『「A&Gメディアステーションこむちゃっとカウントダウン」配信スペシャル~こむちゃっとプラチナム~』が独占生配信された。ゲストとして東山奈央、麻倉もも、夏川椎菜が出演。 2021年9月17日 - 番組20周年直前と番組1000回目前に因んで特別番組「こむちゃっとプレミアム」を20:00 - 21:00に放送、ゲストにオーイシマサヨシ・angelaが出演。 2022年1月8日 - 番組放送1000回を達成。 1月12日 - 番組オリジナルCD、第4弾『こむちゃっとカウントダウン Vocal CD 2022』を発売。歌:櫻井孝宏、白石晴香 1月30日 - 放送1000回記念イベント『こむちゃっとプラチナム』を開催。 3月5日 - 『第16回、声優アワード』、長年番組をやってきた功績として、「パーソナリティ賞」櫻井孝宏が受賞した。
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番組の歴史
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「JA全農 COUNTDOWN JAPAN」の記事における「番組の歴史」の解説
1971年(昭和46年)11月 - 『ステレオ歌謡バラエティ』の1コーナーとして、『歌謡&ポップス・ワイド・ベストテン』(かようアンドポップス・ワイド・ベスト・テン)が放送開始。パーソナリティは歌謡曲が宿谷このみ、ポップスがシリア・ポール。これがこの番組の原点である。 1974年(昭和49年)4月6日 - ステレオ歌謡バラエティから独立して、土曜日の午後1時枠に、シャッターの三和シヤッターが冠スポンサーとなり、『三和シヤッター 歌謡曲ベスト・テン』(さんわシャッター かようきょくベスト・テン)として放送開始。パーソナリティは『歌謡&ポップス・ワイド・ベストテン』から山崎唯と宿谷が引き継いだ。 1975年(昭和50年)4月5日 - 提供が三和シヤッターから化粧品メーカーの小林コーセー(現:コーセー)に変わり、『コーセー化粧品 歌謡ベスト10』(コーセーけしょうひん かようベストテン)にタイトルを変更。2代目パーソナリティとして作曲家の宮川泰が登場。なお、宮川のパートナーには、丸木陽子(FM東京アナウンサー、当時)が起用された。 1985年(昭和60年)6月 - アシスタントの丸木が心不全により急逝(35歳没)。このため、同年7月27日の放送までは急遽田中美登里(当時FM東京アナウンサー)が代役を務める。[要出典] 1985年(昭和60年)8月3日 - 宮川の新パートナーとして、タレントの相本久美子が登場。 1985年(昭和60年)11月23日 - この日、TOKYO FMが新宿・KDDビルから半蔵門・FMセンタービルに移転した事を受けてスタジオも半蔵門本社・Qスタジオに移転。 1987年(昭和62年)10月3日 - 宮川のパートナーが相本から河野多紀に交代。 1989年(平成元年)10月7日 - タイトルを『KOSE 歌謡ベスト10』(コーセー かようベストテン)に改題(冠を「コーセー化粧品」から「KOSE」に改め、番組内ジングルなど若干変更)。 1990年(平成2年)3月31日 - 宮川が15年に渡り務めたパーソナリティを勇退。同じく宮川時代の最後のパートナーだった河野も卒業した。 1990年(平成2年)4月7日 - 3代目パーソナリティとして深野義和が登場、パートナーは早坂あきよが務める。 1990年(平成2年)10月6日 - 深野のパートナーが早坂あきよから麻木久仁子に交代。 1991年(平成3年)9月7日 - 提供スポンサーの小林コーセーが社名を「株式会社コーセー」に変更。 1991年(平成3年)10月5日 - 音楽シーンの移り変わりとともに、これまでの『歌謡ベスト10』のタイトルを『KOSE カウントダウン・ジャパン』(コーセー カウントダウン・ジャパン)に改題する。コーセーがスポンサーの時はコーセー製品(化粧品など)のプレゼントコーナーもあったが、ライバルの化粧品メーカーのCMソングはランクインされなかったこともある。 1993年(平成5年)6月19日 - 東京・渋谷PARCOにTOKYO FMスペイン坂スタジオがオープン。この日より同スタジオからの放送となる(天候や事情で使用出来ない場合には引き続き半蔵門本社のQスタジオ→アースギャラリーを使用)。 1994年(平成6年)11月 - 麻木が産休のため降板。新パートナーとして松本ともこ(当時TOKYO FMアナウンサー)が登場。 1996年(平成8年)10月5日 - 21年間提供してきたコーセーからコンビニエンスストアのローソンに提供スポンサーが交代、『LAWSON カウントダウン・ジャパン』(ローソン カウントダウン・ジャパン)にタイトルを変更。ローソンの店内放送『LAWSON CSほっとステーション』でも放送されたことがあった。JFN共通ジングルが取り入れられた頃からは店内でも放送。ただし「Your listening to your favorite」のみ流れた。 2002年(平成14年)4月6日 - 提供が自動車メーカーのダイハツ工業(トヨタグループ)に変わり、『DAIHATSU カウントダウン・ジャパン』(ダイハツ カウントダウン・ジャパン)となる。 2003年(平成15年)9月27日 - 深野が14年務めたパーソナリティを勇退。同時にダイハツがスポンサー降板、松本も番組を卒業した。 2003年(平成15年)10月4日 - 4代目パーソナリティとして落合隼亮が登場、パートナーに水木ゆうなを据え、提供社も携帯電話会社のボーダフォン(現:ソフトバンク)に変わり『Vodafone カウントダウン・ジャパン』(ボーダフォン カウントダウン・ジャパン)に改め、番組内容を大幅にリニューアルするとともに、落合らがミニドラマ仕立てで送るオリジナルCMも番組内で放送されるようになる。またボーダフォン時代は放送終了後に同社のカメラ付き携帯電話で撮った写真が番組公式ホームページに載っていた。 2005年(平成17年)4月2日 - 落合のパートナーが水木から遠藤久美子に交代。 2006年(平成18年)3月25日 - この日の番組冒頭で、2代目パーソナリティ・宮川泰の逝去(3月21日、75歳没)の旨を在りし日の音源とともに報告。なお、同日をもって落合と遠藤が番組を卒業し、ボーダフォンもスポンサーから降板した。 2006年(平成18年)4月1日 - 冠が外れ、『カウントダウン・ジャパン』を統一タイトルとする。5代目パーソナリティとして荘口彰久(元ニッポン放送アナウンサー)が登場、パートナーに河辺千恵子を据え、さらに「カウントダウンサポーター」として、結成して間もないAKB48の当時のメンバーが週替りで3人出演(その後は1 - 2人の週もあった)。4月1日から9月30日までの半年間はノンスポンサーとなり、番組直前及び番組内でAKB48のCMを放送していた。 2006年(平成18年)10月7日 - ランキング集計がこれまでのリクエストに加え、JFN各局のオンエア回数、携帯電話による着メロのダウンロード回数、さらにCDの売り上げポイント、といった4要素からなる集計方式となった。また、AKB48のサポーター出演もそのまま継続しており、新コーナーとしてAKB48のメンバーが今後ランクインが予想される楽曲を紹介する「COUNT DOWN JAPAN NEXT」が新設された。この日から2007年春改編まで、提供スポンサーは1か月単位で変わり、複数社になったこともあった。 2007年(平成19年)3月31日 - AKB48が番組レギュラーを卒業。「COUNT DOWN JAPAN NEXT」は河辺が紹介することになる。 2007年(平成19年)4月7日 - スキンケア事業のDHCが冠スポンサーにつき、1年ぶりに冠スポンサー番組となり、タイトルも『DHC カウントダウン・ジャパン』(ディーエイチシー カウントダウン・ジャパン)となった。 2008年(平成20年)4月5日 - 荘口のパートナーが河辺からタレントの高樹千佳子に交代。 2009年(平成21年)12月5日 - 高樹が椎間板ヘルニアを患い、病気療養のために芸能活動を一時休止すると発表。そのため5日と12日の放送は代役を起用せず荘口のみで番組を進行した。19日より高樹が芸能活動を再開し、当番組にて復帰した。しかしながら翌2010年(平成22年)1月9日には高樹の椎間板ヘルニアが再発、再び出演を見合わせたため荘口が一人で番組を進行した。なお、高樹は1月30日の放送をもって番組を降板している。 2010年(平成22年)2月6日~3月27日 - 高樹千佳子の降板により、2月は高樹の後輩にあたるタレントの皆藤愛子、翌3月は高樹と同じ事務所のフリーアナウンサーである中田有紀がそれぞれ1ヶ月間ずつ担当した。 2010年(平成22年)4月3日 - 番組タイトルを『DHC COUNTDOWN jp』(ディーエイチシー カウントダウン・ジェイピー)に変更、これにより18年半に亘って使用された『カウントダウン・ジャパン』のタイトルが消滅。荘口の新パートナーには女優の鈴木杏を起用するなど、番組内容もやや一新された。なお、5月8日から6月5日までは舞台長期公演中の鈴木に代わり、お笑い芸人のにしおかすみこが代理を担当した。 2011年(平成23年)3月12日 - 前日に発生した東日本大震災に伴い、TOKYO FMを始めJFN全局が非常態勢(報道特別番組)を採った為、放送休止となった。 2011年(平成23年)3月26日 - この日を最後に鈴木杏が卒業。4月2日よりにしおかが正式登板( - 2012年3月)。 2012年(平成24年)3月31日 - この日を最後にDHCが5年間務めたスポンサーを降板、同時に荘口が6年間務めたパーソナリティを卒業。 2012年(平成24年)4月7日 - 5年ぶりに冠が外れ、『COUNTDOWN jp』(カウントダウン・ジェイピー)を統一タイトルとする。6代目パーソナリティとしてジョージ・ウィリアムズが登場、パートナーにMISATOを据え、番組内容を一新。同じくして、番組公式ホームページをリニューアル。また、この日からはCMを減らして放送。 2013年(平成25年)4月6日 - 全国農業協同組合連合会(JA全農)がスポンサーに就き、タイトルを『JA全農 COUNTDOWN JAPAN』に改題。再び冠スポンサー番組となり『カウントダウン・ジャパン』のタイトルが3年ぶりに復活。なお、ジョージはそのまま続投し、MISATOの後任としてタレント・女優のホラン千秋が登場。 2016年(平成28年)8月6日 - 渋谷PARCOの建て替えに伴い、この日を持ってスペイン坂スタジオからの放送を終了。翌週13日から東京・半蔵門の本社スタジオに戻り、「アースギャラリー」からの生放送となる。 2017年(平成29年)4月1日 - ジョージのパートナーがホランから安田レイに交代。 2019年(平成31年)4月6日 - 音楽チャートに入るべき新たな才能をCOUNT ONする番組『COUNT ON JAPAN』(TOKYO FMのみで放送)をスピン・オフ企画として9月まで放送。パーソナリティは本編と同じくジョージと安田レイが務めた。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 22:40 UTC 版)
1977年2月8日放送開始。開始からしばらくは20:00からの放送であったが、1981年秋の番組改編で『火曜ワイドスペシャル』枠が30分前倒しされたため、大爆笑も同年10月13日放送分以降は19:30〜20:54の時間帯で放送された。 初期は著名コメディアンがゲスト出演しており、小松政夫や伊東四朗のほか、東八郎、玉川良一、左とん平らがコントに参加していた。また、放送開始時の1977年から1979年までは、各回にサブタイトルも導入されており主に「まァコノォ!〇〇〇〇ア〜ア」や、「〇〇〇〇全員集合!!」などのパターンで固定化されていた。1980年以降は廃止となったが、1990年から復活した。 スタートからしばらくは5人全員が登場する「全員コント」やその回のテーマを題材にした歌を題材にしたコント、「もしものコーナー」がメインだった。全員コントに関しては、サブタイトルが「ドリフの〇〇〇」となることが多かった。その後、1983年頃には、メンバー全員がその回のテーマを題材にしたトークなどを行うコーナーや歌を題材にしたコントが終了し、「いかりや・高木・仲本」と「加藤・志村」のそれぞれのチームに分かれての別々のコントが目立つようになった。時を同じくして、この頃から志村・加藤コンビでのコントではアドリブ重視、お色気路線の作品が増え、この路線が同局の『志村けんのバカ殿様』『志村けんのだいじょうぶだぁ』やTBS系『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に受け継がれる。 1985年はこの番組の代名詞となるコントの一つである「長介・工事・ブー おなじみ雷様」がスタート。その2年後である1987年は「長介・工事のばか兄弟」がスタートした一方で、名物コーナーだった「もしものコーナー」が終了。1988年の途中からは志村がいかりやとコント内等で共演する事が一切なくなり、結果としてドリフ内部の不和説が指摘されたこともあったが、1989年に関しては、いかりやが黒澤明監督の映画『夢』の撮影で長期ロケに行っていたことが原因でもある。 1985年に『全員集合』が終了以降はドリフターズは個別に活動するようになり、不定期放送の当番組以外はドリフとしての活動はほぼ無くなっていたが、当番組に関してもこの辺りからは個々のスケジュールの合間に個別で撮影して、それをひとつの番組として撮影していた為、5人一緒の現場で撮影していた訳では無かった。また、企画的にも、多忙ないかりやと志村をそれぞれトップとする2班体制になっていた。 前述の不和の噂が出たこともあり、1993年春のスペシャルで5年ぶりに5人全員が揃ったのをきっかけに、翌年からは久々の全員コントが復活。以降、「視聴者からのリクエストコント」のコーナーとして、かつての名作コント(サービス過剰な銭湯・消灯ラッパ・卒業式でいかりやが金品を奪われるなど)を放送。1995年には「笑いと歌の20年」というサブタイトルが付き、『全員集合』を彷彿とさせる公開放送を取り入れるようになり(「雷様」など)、『全員集合』の前半コント(会社、五軒家、山寺修行、忍者、修学旅行、商店街、剣道、コンバット、刑務所、母ちゃんコントなど)がリメイクされた。『全員集合』名物であった「少年少女合唱隊」も登場、当初は参加しなかった志村も1997年から出演して「早口言葉」を披露した。同年には10年ぶりに「もしものコーナー」も復活するなど、独特のテイストで人気を保ってきた。 1977年から1998年の間に制作されたコントの本数は4760本。 しかし、メンバー個々の活動の増加や高齢化、番組自体のマンネリ化、そして視聴者の嗜好の変化もあり、1998年4月16日放送を最後に新作コントが制作されなくなった。以降は不定期放送での総集編という形になるが、総集編以降は放送頻度が低く、放送自体が無い年も複数年ある。 2020年の志村の逝去後は、志村の冠コント番組(志村けんのだいじょうぶだぁ、志村けんのバカ殿様)と合わせた特別番組が編成されており、その中で志村が出演している『ドリフ大爆笑』でのコントが放送されている。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 22:40 UTC 版)
2002年の番組開始当初はネットCMは前番組 『知ってるつもり?!』より1分少ない5分(そのうちの1分は『ザ!世界仰天ニュース』に移行)で後半にはローカル枠1分あったが、2004年4月に前番組終了時に戻し6分に拡大しローカル枠を廃止した。 2002年の末期、北村晴男と丸山和也が1対1の野球対決を行った。投手は北村、打者は丸山で、結果は北村が丸山を三振に打ち取り勝利。 2003年3月で久保田紀昭が『噂の真相』の報道を巡って降板(詳細は久保田紀昭の項を参照)、2003年の春のスペシャルより後任の橋下が登場。 2003年10月5日では、松本が欠席し、日本テレビアナウンサーの杉上佐智枝が秘書代理を務めた。 2004年10月31日の放送では、司会の紳助が暴行事件による活動自粛のため出演できなくなったため、番組は急遽生放送(他の紳助のレギュラー番組では字幕スーパー表示でしばらくの間は通常通り放送されたが、本番組は法律をテーマにしているためそれができなかったことによる処置)になり、準レギュラーの東野が代理として司会を担当。11月7日も同じく生放送で、ここまでの2週では「わが法律相談所の出した結論」のコーナーはカットされた。14日の放送は収録となったが、引き続き東野の司会となった。11月21日の放送分から2005年1月2日(ザンゲのコーナー除く)までは「Wコウジ」として東野の相方に近い存在である今田耕司が司会に加わり松本と3人で行っていた。 2005年1月2日の前座番組『笑点スペシャル』の後SBなしで2時間半のスペシャルの枠内で紳助が生放送で復帰のあいさつを行った。 2005年1月30日では、松本が欠席し、一昨年に引き続き、日本テレビアナウンサーの杉上佐智枝が秘書代理を務めた。2011年6月5日 - 7月10日放送も、松本は体調不良により番組を欠席、当時日本テレビアナウンサーの西尾由佳理が秘書代理を務めた。 2005年3月20日には19:58 - 22:54に初の3時間スペシャルを実施。日テレの人気番組・新番組(『世界まる見え!テレビ特捜部』、『伊東家の食卓』、『エンタの神様』、『ザ!情報ツウ800』、『金のA様×銀のA様』)の出演者が集結し、紳助とビートたけし、所ジョージという夢の共演も実現した。『スーパークイズスペシャル』の時は、紳助:『クイズ どんなMONだい?!』・『嗚呼!バラ色の珍生!!』、たけし:『世界まる見え』、所:『世界まる見え』・『どちら様も!!笑ってヨロシク』・『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』の各チームとして出演していた)。 2005年8月28日の放送は『24時間テレビ28 「愛は地球を救う」』の放送後、日本武道館からの生放送。未公開映像放映・総集編と丸山の祝福番組となった。この回の視聴率は当時の最高となる30.8%を記録した。 2005年9月27日には同じく日本テレビ系列『踊る!さんま御殿!!』の特番に、紳助率いる行列メンバーが参加した。 2006年1月1日には20:00 - 23:30の3時間30分スペシャルが放送され、ダイエット宣言した住田の体重測定が生放送で行われた。 2006年1月22日放送で法律相談件数1000件突破。森光子や北島三郎など大物芸能人からの花輪も届く。 2006年10月29日にて放送200回突破。 2007年3月18日放送分「紳助と行くとっておき裏京都の旅スペシャル」にて、京都市内の漬物店を紹介する際、別の漬物店のWebサイトに掲載された写真を無断使用していたことが後に判明し、法律を扱う番組なのにもかかわらず著作権への意識が低いと非難・叱責を受けた。日本テレビは「当事者間で交渉中のため、コメントは控えさせて頂く」としていたが、現在は和解している。後に、制作局長渡辺弘、担当チーフプロデューサー、プロデューサーの3人が減給処分となった。 2007年6月17日放送分は、6月15日に自民党から比例代表で参議院選挙に出馬する意向であることが明らかになった丸山の映像をCGや黒抜きの映像等でカットして放送、三分割した他の三人の映像等も使用された(手や後ろ姿などは映った)。日本テレビではこの日に放送した回は5月27日に収録したが、この日の夜までに視聴者から100件を越す問い合わせがあったという。翌週の6月24日放送分より、過去に若手弁護士スペシャルに出演した弁護士らを含む他の弁護士が、週代わりでピンチヒッターとして丸山の代役を務めていた。 参議院選挙終了後の8月5日放送分には当時外務大臣の麻生太郎がゲスト出演していた。その日の放送では同じく選挙に携わっていた丸山の出演はなかったが、休止前丸山が最後に出演した6月10日以来初めて、紳助と北村が丸山について触れていたことを番組内で放送した。 2007年8月19日の放送は『24時間テレビ30』の放送後、武道館からの生放送。マラソンランナーである萩本欽一が『24時間テレビ』の放送時間内でゴールできなかったため、本番組の放送時間の中で、ゴールの模様を生放送した。この回は上記で述べた通り、萩本のゴールの模様を生放送したこともあってか、視聴率は番組最高の35.3%とかなりの高視聴率を記録した。(ビデオリサーチ「芸能・バラエティー」部門の史上最高視聴率番組第5位に記録、平成以降で一番高い結果となり、唯一の35%越えとなった。)この回での瞬間最高は42.9%。また、同生放送で丸山が約2ヶ月ぶりに出演したが、その日の放送分は上記の理由から法律相談は一切なかった。その後もしばらくはピンチヒッターが丸山の代役を務めたが、2007年9月23日放送分で丸山は弁護士として番組に完全復帰した。しかし、議員活動との兼ね合いから不定期での出演に変わった。それ以降、丸山は2008年は3月2日放送分のみに出演(他局の番組には時々ゲスト(肩書きは自民党参議院議員)として出演していたこともあった)して以降、2009年は議員活動多忙のため、出演はほとんどしていなかったが、2010年4月18日放送で約2年ぶりにゲストとして出演した。 2007年10月7日において、行列ドラマ『裁判員制度、もしもあなたが裁判員に選ばれたら?』を放送し、裁判員制度の問題点などを詳細に描いた。これは2008年1月13日放送分のSPでも取り上げられ、放送時に本番組が法律番組であることを明らかにした。 2007年の年末期に、アグネス・チャンと紳助の2人の何気ないトークから、カンボジア学校設立のためのボランティア活動が始まった。詳細は有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクトの節を参照。 2008年2月10日放送で、にしおかすみこが、収録日の大雪による北海道発の飛行機の出発遅延が原因となり、番組史上初の遅刻出演となった。 2008年3月9日放送より、ポイント整理の画面と結論の画面がリニューアルされた。 2008年8月31日放送で300回放送を突破し、この日と翌週の9月7日と2週にわたって、「もう一度見たい名場面集SP」を放送した。 2009年7月26日放送分は紳助が本番組開始前まで放送されていたフジテレビ系列『FNS26時間テレビ (2009年)』(同7月25日 - 26日)の総合司会を担当していたため、新聞のテレビ欄に「紳助27時間目突入(正確には26時間目突入)」と表記された(番組冒頭でも、武田広のナレーションでそのことが紹介された)。なお、『FNSの日』は27時間編成になることが多いが、紳助が本番組に出演するためなどから、1時間短い26時間編成となった。紳助は翌2010年も『FNS26時間テレビ (2010年)』(同7月24日 - 25日)の総合司会を担当したが、同年7月25日放送分ではそれを強調した演出は特になかった(ただし、関連エピソードがある。詳細は『僕らには翼がある〜大空へ〜』の項を参照)。 2009年12月6日放送分は当日に準レギュラーである磯野の離婚報道が出たこともあり、番組内容を一部変更、磯野が離婚について言及する企画が放送された。 初期は2 - 3本あった法律相談のVTRが途中からは1本、または全くない週が増えるが、代わりに教えて!弁護士軍団!こんな時どうしたらいい?のVTRになった。 2010年3月21日放送で、出演した参院議員の丸川珠代や元衆院議員の大塚拓の番組中での発言や選挙区名などをテロップで流したことについて、視聴者から公職選挙法に違反するのではとの指摘があり、放送倫理検証委員会は4月9日に日本テレビへ審議入り判断のための質問状を送っている。 2010年12月5日の放送では出演予定だった野村克也が急遽出演できなくなり、収録が日曜日であったせいで代役補充も間に合わず出演者席が一つ空いた状態という異例の事態で収録が開始された。このため、途中からアンガールズの田中卓志が出演したが、番組の最初に放送された出演者の高校時代を振り返るVTRでは不在である野村の写真もそのまま放送された。 2011年3月13日は東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による『NNN報道特別番組』により、休止となり、翌週3月20日放送回は番組冒頭で紳助による被災者へのメッセージの後、3月13日に放送する予定だった内容を一部編集して放送した。 2011年8月21日の放送は『24時間テレビ34』に引き続いて武道館からの生放送。結果的にこの回が紳助の出演する最後の回となった。 2011年9月25日の放送では、収録途中で東野幸治が別の仕事を優先して退席したため、その回の企画でゲスト出演したオリエンタルラジオ・藤森慎吾が代わりに東野の席に就いて収録を続けた。 2011年12月11日はFIFAクラブワールドカップ2011準々決勝、柏レイソル対モンテレイ戦中継の為、21:35からの放送の予定だったが、サッカー中継延長により22:30からの放送となった。 2011年12月18日 - 2012年1月8日は番組史上最長となる4週連続休止となり、2012年は1月15日からの放送となった。 2012年1月15日放送の新春2時間SPは、明石家さんまが代理司会として初登場した(同年10月21日放送の秋の2時間SPもさんまが代理司会をした)。 2012年8月26日の放送は『24時間テレビ35』に引き続いて武道館から生放送。『24時間テレビ35』の終了時刻が21:09に繰り下がり、本番組は21:15 - 22:09の放送となった。 2012年12月9日はFIFAクラブワールドカップ2012準々決勝、サンフレッチェ広島対アルアハリ戦中継の為、21:35からの放送の予定だったが、サッカー中継延長により21:40からの放送となった。 2013年から春と秋の番組改編期に番組対抗スペシャル『DASHでイッテQ!行列のできるしゃべくり 日テレ系人気番組No.1決定戦』が放送されている。セットベースは本番組のものになっている。 ふなっしーは度々ゲストで登場するが、臭いの苦情が相次いだことがきっかけで、東野の自費によりふなっしー2号が制作され、2013年12月8日の放送でふなっしー2号が初披露された。 2014年6月22日で放送500回を迎えた。 2016年11月27日で放送600回を迎えた。 2016年12月18日はFIFAクラブワールドカップ2016決勝、レアル・マドリード対鹿島アントラーズ戦中継の為、21:35からの放送の予定だったが、サッカー中継延長により22:15からの放送となった。 2016年12月25日・2017年12月24日・2018年12月23日はSMAPの解散により2015年で放送終了となった『さんま&SMAP!美女と野獣のクリスマススペシャル』の後継の年末特番として全面生放送を行っている。「24時間テレビ」放送日及びマラソンランナー発表回以外では、2004年の紳助謹慎時に臨時で生放送を行って以来12年ぶりで、生放送での2時間スペシャルも2016年の1回目が初めてだった。2017年以降は、上記の経緯からさんまの司会で生放送が行われている。各年ともゲスト・行列メンバーのその年の「汝の罪」を懺悔する企画が行われ、ゲストや司会者によって決められた懺悔をする出演者には罰ゲームが執行される。番組中盤で決められる1組目には「静電気ビリビリジュース」(2016年)、「墨汁バズーカ」(2017年・2018年)を、番組終盤で決められる2組目は「ザンゲの滝201x」を浴びる。企画に加えて、2017年までは結婚を発表したばかりの著名人が登場する企画も行われ、2016年は長友佑都と平愛梨が、2017年はトレンディエンジェルの斎藤司が登場した。オープニングではゲストの歌手が歌を披露する中で、出演者が入場する。 2018年3月25日放送分はスペシャルMCとして中居正広が初出演。過去の代理MCにおいて、ジャニーズからの起用は初。 2018年8月19日放送分は通常放送ながらも、生放送だった。行列メンバー・ゲストがネットニュースに挙がりそうな重大発表をした。なお、翌週の8月26日の放送も『24時間テレビ』直後の生放送スペシャル(通常放送)のため、異例の2週連続生放送となった。 2019年7月19日で、闇営業問題で謹慎していた宮迫博之の降板を発表。 2020年3月15日放送分は、無観客で収録が行われた。 2020年3月22日放送分は副音声で後藤輝基と市來玲奈によるネットの声の生実況を実施。日曜21時枠の番組の副音声付放送は「巨泉のこんなモノいらない!?」以来30年半ぶりとなった。 2020年5月3日放送分は、東野、後藤、渡部、北村の4人のみで収録を行った。その翌週は、後藤、東野、渡部、カレンの4人のみで収録が行われた。スタジオセットもこの回から変更されている。また、この回から5月中は、市来は制作上の都合で出演しなくなり、東野・後藤が単独で進行し、暫く出演者との間隔を空けて収録する他、法律問題を行わなくなった。なお、市来は、6月7日放送分以降は、別ブースで遠隔で出演している。スタジオは7人以上での収録は「密集」とみなされるため禁止し、スペシャルの際は一定時間で出演者を入れ替えている。 2020年5月17日放送分は、生放送で、お笑いコンビビスケッティ佐竹正文のリモート結婚式が行われた。 2020年5月31日放送分は、生放送で、今こそ観たいカンボジア学校設立を放送。 2020年6月7日放送分を最後に、アンジャッシュ渡部が自身の不祥事に伴い番組を降板した。 2020年7月5日放送分から、長年変更していなかった番組ロゴを変更。また、オープニング映像も一部変更された。 2020年8月16日放送分は、24時間テレビ直前SPとし、一部生放送を実施した。 2020年8月23日放送分は、24時間テレビ直後の両国国技館から生放送。 2020年8月30日放送分から絨毯付きの提供クレジットのカラー表示を始めた。 2020年9月6日放送分は、緊急で生放送を実施。 2020年9月27日の放送分をもって長年にわたり本枠のスポンサーを務めたTIGER(タイガー魔法瓶)が降板した。 2020年11月8日放送分からは「法律」の字のサイズが申し訳程度に小さくされる修正がなされた。 2021年10月10日放送分から番組タイトルをリニューアルしたが、弁護士は引き続き出演する。また、この回からTVerの見逃し配信をスタート。 2022年4月10日放送分から、番組開始20周年を期に、番組ロゴやスタジオセットを大幅にリニューアル。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 04:59 UTC 版)
「とんねるずのみなさんのおかげでした」の記事における「番組の歴史」の解説
歴代最高平均視聴率は、1999年4月1日放送分の『とんねるずのみなさんのおかげでした 春の特大スペシャル』の回で24.8%(関東地区・世帯・リアルタイム、ビデオリサーチ調べ)を記録した。放送内容は「食わず嫌い王決定戦」(九代目松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)vsナインティナイン)と野猿初のコンサートドキュメントの特集を放送した。 「とんねるずの生ダラ」終了以降は「生ダラ」の企画や出演者を当番組にスライドさせていた。 2007年12月20日放送分で放送回数500回を達成。 2009年3月26日放送分で『とんねるずのみなさんのおかげです』(1988年10月13日放送開始。途中半年の休止期間を除く)から数えて累計20年となり、長寿番組の仲間入りをした。 2009年10月1日放送分の19:00 - 23:24(JST)には当番組過去最長の264分(4時間24分)の拡大版が放送された。また、これまで放送される事がなかった19時台・20時台に初めて放送された。 2009年上半期までは、基本的に番組前半は週替わり企画が放送され、番組後半には「新・食わず嫌い王決定戦」という構成となっていた。しかし、2009年7月16日放送分以降は、「新・食わず嫌い王決定戦」を含め、週替わり企画を1時間丸ごと放送されるようになった(回によっては、週替わり企画を2本放送することもある)。『とんねるずのみなさんのおかげです』時代のようなコント企画も2002年頃までは存在したが、「ギャラHigh&Low」や「石橋貴明のトーク・ダービー」のような出演者のトークを前面に出すコーナーが主となったほか、2004年にスタートした若手芸人の演芸がメインの「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」も人気企画に成長。また、『おかげです』時代の「モジモジくん」も継続中だった。 2013年10月で『とんねるずのみなさんのおかげです』と合わせて放送25周年を迎えた。とんねるずの憧れのアーティストである矢沢永吉が当番組に初のゲスト出演して、記念して「新・食わず嫌い王決定戦」で、とんねるずvs矢沢永吉の対決が実現した。また、これがとんねるずと矢沢永吉の初共演となった。 2016年4月14日の新・食わず嫌い王決定戦1時間スペシャルは放送途中に熊本地震が発生したため、途中でこれに関するFNN報道特別番組に切り替わった。次の日、視聴者からはテレビ局に抗議の電話、抗議のメールが殺到、その4月21日分はオープニングでは、冒頭でフジテレビアナウンサーの渡辺和洋が謝罪した。その後、内容を変更してその続きは未公開シーンありの後編を改めて放送した。 番組の視聴率は番組開始時から2000年代前半頃までは20%前後を維持してキー局トップの視聴率を獲得していた。2000年代後半に入っても15%前後を維持して安定した視聴率を獲得していた。2010年代に入ると一桁台の視聴率も取る回が出るようになったがそれでも10〜13%を維持していた。2015年頃から一桁台後半に沈むことが多くなり、さらに同じ時間帯に放送されていた裏番組のテレビ朝日系ドラマ『ドクターX-外科医 大門未知子-』の影響により、視聴率が5〜8%と低迷してしまうこともあった。しかし、ドラマが終了しても視聴率が再び上昇することはなく、莫大な予算とその見返りとなる視聴率が比例していないとネットニュースで度々報じられた。また、コーナーやゲストによって視聴率の上下が激しい時期もあった。 2017年5月4日からは「新・食わず嫌い王決定戦」のコーナーは終了し、週替りコーナーは大幅リニューアルした。 2017年9月28日には『とんねるずのみなさんのおかげです』時代から合わせて当番組の放送30周年を迎え、ビートたけしやタモリなどをゲストに迎えた2時間半の特別番組が放送され、とんねるずが司会という形で約3年半ぶりに『笑っていいとも!』が復活した。また、この回の平均視聴率は10.0%だった。しかし石橋が保毛尾田保毛男のキャラで登場したことに関して、あるLGBT支援団体から「性的少数者への差別・偏見を助長するもの」との抗議申し入れがあり、それを受け翌日の定例会見で宮内正喜社長が謝罪する事態となった。またタレントで同性愛者のミッツ・マングローブは騒動に対して反論のコメントを出した。フジテレビの元社員吉野嘉高は「同性愛者への偏見を助長させるという批判が相次いだ。宮内正喜社長は謝罪し時代とのズレを認めざる得なかった。成功体験に裏付けられた番組制作のクセは残っている」と指摘している。 2017年12月7日の放送内にて、2018年3月をもって番組終了する旨が発表された。視聴率は5.9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。 2018年3月22日の(通算1340回放送)最終回は通常通りの1時間放送で、8年ぶりに「うたばん」復活バージョンを放送し、野猿と松田聖子をゲストに迎え番組内での音楽ネタを中心に振り返った。そして番組ラストはとんねるずが「情けねえ」の一部歌詞を替えたバージョンを歌唱、バンドメンバーは後藤次利(B)の呼びかけにより藤井尚之(Sax)、山本恭司(Gt)とその息子の山本真央樹(Dr)、佐藤準、松本圭司(共にKey)が参加した。最終回の平均視聴率は9.7%、瞬間最高視聴率12.1%(関東地区・世帯・リアルタイム、ビデオリサーチ調べ)を記録した。番組の最後は以下のテロップで締めくくった。 30年間 支えてくれたすべての仲間とテレビの前で同じ時代を過ごしてくれたあなたに愛と感謝を込めて…みなさんのおかげでした 『おかげでした』の番組全放送回の総平均視聴率は13.8%(972回、関東地区・世帯・リアルタイム、ビデオリサーチ調べ)、『おかげです』の番組全放送回の総平均視聴率は20.1%(363回、関東地区・世帯・リアルタイム、ビデオリサーチ調べ)、『おかげです』+『おかげでした』の番組全放送回の全総平均視聴率は15.5%(1335回、関東地区・世帯・リアルタイム、ビデオリサーチ調べ)。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 15:38 UTC 版)
1976年1月3日、放送開始。第1回は芸能人大会だった。番組開始当初は、複雑なルールが災いして視聴率が低迷。2月には4.4%にまで下落し、TBS上層部から再三打ち切り勧告が出された。しかし、スポンサーであるロート製薬の意向もあり番組は継続し、同年7月10日放送分(第28回)よりルールを単純化したところ秋頃には視聴率が20%を超え、TBSを代表する看板番組となった。 巨泉は自身の「セミリタイア宣言」に伴い、1990年3月31日放送分(第734回)を最後に司会を退任。司会退任後の巨泉は「スーパーバイザー」として番組に参加した。 1990年4月14日放送分(第735回)からは日本テレビを退社したばかりだった徳光和夫が2代目の司会者となり、オープニングの掛け声も「徳さんの、クイズダービー!」と変更された。なお徳光に司会が代わってからは、これまで巨泉時代に放送実績がなかった富山県(チューリップテレビ)と愛媛県(あいテレビ)の2県にて新たにネットを開始したが、1992年12月19日で番組が終了したため、後者では1クールしかネットできなかった(特に後者のネット開始は1992年10月17日放送分(第854回)からで、同年11月14日は2時間特番で休止となったため、後者でのネットは9回だけに留まった)。 1992年7月4日放送分(第841回)からは従来固定されていたレギュラー解答者を週替わりに変更するも、この時期は当時TBS社長だった磯崎洋三が大改革を掲げており、それにともなう番組編成見直しが進められていた時期でもあった。こうして当番組もその見直し対象に挙がり、同年末での終了が決まった。 1992年12月19日の最終回(第862回)では、巨泉が司会に復帰し、徳光は5枠の解答者として出演した。この時のオープニングでの徳光は黒縁眼鏡をかけ巨泉に扮し、「巨泉の、クイズダービー!」と掛け声を発した。この時期はレギュラーも週替りの解答者となっていたが、最終回での1 - 4枠の解答者は巨泉司会時末期のレギュラーと同じメンバー・枠順だった。
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番組の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:23 UTC 版)
日時は東京12チャンネル、テレビ東京基準 1970年10月3日 - 「時代劇版のアルカポネのアンタッチャブル」のコンセプトで、杉良太郎(十文字小弥太/相模無宿の珊次郎)、瑳川哲朗(井坂十蔵)、中村竹弥(内藤勘解由)、梶芽衣子(小波)、岡田可愛(山猫お七)の主要キャスティングと、悠木千帆(樹木希林)(おとら)、野呂圭介(音吉)※第18話迄→交代、三ツ木清隆(仙吉)※第11話より、白木マリ(おかん)、深江章喜(島田又五郎)※第17話迄のセミレギュラーの出演で『大江戸捜査網アンタッチャブル』 としてスタート。1970年当時は日活の所属であった杉良太郎が、他社が製作をしていたテレビ時代劇 で、時代劇俳優として頭角を著して来た為、自社で育てると云う意味で、日活初のテレビ時代劇として東京の日活調布時代劇撮影所で製作が開始された。しかし、日活はノウハウを持っていなかった為、当時の東京12チャンネルと組む事にしたと云う。 1971年7月3日 - 第2シリーズでの変更でも良いと念われるが、第1シリーズ全52話中の、既に40話迄進む処で「アンタッチャブル」のサブタイトルを第39話迄で終了とし、第40話依り『大江戸捜査網』のみとなり、全52話中の残りが僅か13話分だけであったのであるが、オープニングのナレーションも変更され、新たに録音をした。 1971年9月25日 - 『大江戸捜査網第1シリーズ』終了。後番組は『絵島生島』(製作は、東京12チャンネル,歌舞伎座テレビ室,京都映画 協力.瑳川哲朗出演;10月~12月)、土曜邦画劇場(第2期、1月~3月) 1972年3月25日 - 『大江戸捜査網第2シリーズ』開始。主要配役は「第1シリーズ」と同じで、杉良太郎(十文字小弥太/相模無宿の珊次郎)、瑳川哲朗(井坂十蔵)、中村竹弥(内藤勘解由)、梶芽衣子(小波)、岡田可愛(山猫お七)※通算78話,第2シリーズ26話迄.周囲のセミレギュラーの配役、白木マリ(おかん)、太田とも子(おせん)※通算79話,第2シリーズ27話から.他の人物は多少入れ替え。悠希千穂(樹木希林)(おとら)→古今亭志ん駒(早耳の金太)、三ツ木清隆(仙吉,※エンディングの最後は通算78話迄出ているが後には別人役でのゲスト出演になる。)は通算第54話第2シリーズ第2話迄で降板となった等である。但し、他にも日活のポルノ以外の作品の時代劇等の制作を撤退する事が決まった為に、日活の所属であった岡田可愛 は事務所移籍の為に第2シリーズの中盤の通算78話迄で降板し、梶芽衣子は日活所属であった 為に、第2シリーズの最終回の第104話で、一休みに出掛ける小弥太(珊次郎)と十蔵へ勘解由が「必要が生じたら、小波に呼びに行かせる」と台詞があったが、梶芽衣子は本作品「大江戸捜査網」は『第2シリーズ』をもって降板した。 1973年3月17日 - 『大江戸捜査網第2シリーズ』(日活製作版)終了。後番組は杉良太郎主演の『旅人異三郎』(制作は東京12チャンネル,三船プロダクション)。 9月22日 - 『大江戸捜査網第3シリーズ』開始。此の当時に当番組のスポンサーであった日産自動車から『大江戸捜査網』の番組を継続を望む意向が出されたのを受け、日活プロデューサーで、当番組の企画者の元村武が日活から三船プロダクションに移籍。東京の日活撮影所以外で、当時東京付近で時代劇が撮影可能な設備を誇っていた三船プロダクションに制作会社を変更し、続編の製作を開始した。配役は、男性メンバーは杉良太郎(相模無宿の珊次郎/十文字小弥太)、瑳川哲朗(井坂十蔵)、中村竹弥(旗本寄合席 内藤勘解由)で代わらず、女性メンバーを江崎英子(不知火のお吉)、古城都(夕霧)に変更の上、セミレギュラーが古今亭志ん駒(早耳金太)、白木万理(おかん)、花ノ本以知子(おあき)を配し第3シリーズがスタート。 12月29日 - 「通算第119話」・『第3シリーズ「第15話」』の「大江戸残酷秘話」を、杉良太郎が脚本を担当して執筆をした。 1974年2月 - 3月 - 番組スタート時からの出演メンバーの1人だった杉良太郎が「通算130話」・『第3シリーズ「第26話」』をもって十文字小弥太(相模無宿の珊次郎)の与力昇進という形で、そして出演回数が4回のみだったレギュラー・古城都(夕霧)が降板。杉良太郎(相模無宿の珊次郎/十文字小弥太)の最終出演回で、新メンバーくれないお蝶(芸者胡蝶)として安田道代を迎え、翌回新出演者里見浩太朗を新筆頭同心伝法寺隼人(新内流しの音次郎)として迎えた。音次郎と共に新隠密同心として入った,山口太兵衛(演;左右田一平)は、初日で殉職となり、物語り上隠密同心で初の殉職者(※斬罪された赤間伝七郎(演;小林勝彦)は除き。)となった。赤間伝七郎は隠密廻り同心の、無い物として消すため、山口太兵衛は、一緒に加入した音次郎達が隠密であるので、一般的には土葬が中心であったが、無とする為に火葬を行い完全な灰にし「生きて来ても、無とされるんだなぁ、隠密とは。虚しいものだなぁ.」と音次郎の台詞がある事で、弔いの火葬では無い事が判る。 11月23日 - 山口いづみ(いさりびお紺)が新メンバーに加わり6人になったが、一堂に会する回がないまま、翌1975年3月に安田道代(くれないお蝶/胡蝶)が、殉職という形で降板となった。以後レギュラーにおける隠密同心の殉職者は出ず。役が芸者で被る安田道代、山口いづみの2人の共演は1回だけで有った。 1976年9月 - 10月 - 江崎英子(不知火のお吉)が被疑者から狙われている幼馴染み(演;久富惟晴)を救う為に、敵から散弾銃の銃弾を享けたと云う事で重傷を負ったとされ、其の怪我の治療,療養を行う為に幼馴染みと一緒に旅立つと云う事で降板し、山口いづみ(いさり火お紺)も将軍付き護衛になると云う事で降板した為、女性メンバーを、土田早苗(稲妻のお竜/芸者玉竜)、志穂美悦子(風/お新)に変更。立ち回りと、アクションが強化された。 1977年7月16日 - 「通算第301話」・『第3シリーズ「第197話」』に、第1シリーズからの、シリーズ「通算300話」記念作品に三船プロダクション代表・三船敏郎がゲスト出演(大滝幽玄役)。 8月20日 - 第1シリーズ放映開始からの通算放送回数「300回記念」(通算第302話・第3シリーズ『第198話』)長崎県雲仙地方ロケーション。 9月 - 志穂美悦子(風)が『明日の刑事』(TBSテレビ)出演のため降板。後任に安西マリア(隼 お銀)が登板。 1978年4月 - 安西マリア(隼 お銀)降板。三船プロダクション期待の新星だった、かたせ梨乃(片桐楓/流れ星おりん)が参入。 1979年9月 - 里見浩太朗(音次郎/伝法寺隼人)が10月スタートのテレビ朝日『長七郎天下御免!』に主演するため、伝法寺隼人(音次郎)の上方栄転という形で降板。里見浩太朗が降板時に推薦した事によって、3人目の出演者の1人に松方弘樹(板前の清次郎/左文字右京)が決まり、迎えた。通算第432話(第3シリーズ第328話)から小者千代松親分(山田隆夫)が登場。以降早耳の金太(古今亭志ん駒)と、組んでコント的な小話に登場をして行く。 12月1日 - 映画『隠密同心・大江戸捜査網』が封切り(松方弘樹,瑳川哲朗,土田早苗,かたせ梨乃,中村竹弥,古今亭志ん駒,三船敏郎,他。)。 1980年3月 - 5月 - 高瀬春奈(火車おもんとして)が土田早苗の疾病休演代理メンバーとして短期出演。 1981年5月 - 6月 - 第1シリーズから数えて、通算500話記念シリーズ。中島ゆたか(矢車お菊。芸者菊弥として)が土田早苗の疾病休演代理メンバーとして短期出演。 5月16日 - 第1シリーズの開始から通算第493話。第3シリーズ第389話で、通算放送回数500回記念新潟県佐渡地方ロケーション敢行。この時期「心得の状」の口上が立ち回りチャンバラのシーンに流れるなど若干の作風の変化が起こり始める。通算第498話(第3シリーズ第394話)で、早耳の金太と絶妙なコンビネーションを誇った小者千代松親分(山田隆夫)は降板となる。 9月26日 -千代松親分山田隆夫に続いて 土田早苗(稲妻のお竜/玉竜)と、番組スタート時からの隠密支配であった旗本寄合席内藤勘解由役だった中村竹弥、第1シリーズの悠希千穂(樹木希林)(おとら)からお笑い要素を入れて,第2シリーズで交代して来た、古今亭志ん駒(瓦版売りの早耳の金太)が降板。 10月3日 - 新隠密支配大番頭藤堂対馬役に大山勝巳を迎え、新メンバーに岡江久美子(吹雪)、南条弘二(九條新太郎)が加入。 また、同時期に制作局である東京12チャンネルがテレビ東京へ改称。これ以降サスペンスドラマ色が強まる。 1982年9月 - 10月 - 女性メンバーをかたせ梨乃(片桐楓/ながれ星おりん)、岡江久美子(春香/吹雪)から、夏樹陽子(風車のお菊)、山田由紀子(はやてのおせん)に再び一新。番組制作は、社内の内紛騒動によるあおりから制作継続が困難になった三船プロダクションから、プロデューサー元村が自ら設立した制作会社、ヴァンフィルに移行する。 1983年この年に入ると『積木くずし』や『蒲田行進曲』など当時のヒット作をストーリーに取り入れたエピソードや、「悪女シリーズ」「衝撃事件シリーズ」などの集中したテーマ、さらには小森和子や大川栄策など当時のテレビの人気タレントや流行歌手等を出演させる等エンターテイメントを重視した路線になる。大山勝巳(大番頭藤堂対馬),山田由起子(疾風のせん)降板。 10月1日 - 山田由起子(疾風のせん)降板の代役当シリーズ最後の主役の1人に新メンバーとして清原美華(つばくろの茜),黒沢良(幻の御前;御側御用人土屋伊賀守) が加入。 1984年- 3月一杯で、10年半に及ぶ第3シリーズが終了。続いて4月から第4シリーズとして、出演者を一新(並木史朗(新十郎/飛脚屋新十郎)、三浦浩一(銀次/お役者銀次)、大関優子(お香/流し目のお香)、橋幸夫(榊原長庵)、瑳川哲朗(日向主水正))した「大江戸捜査網の第4シリーズ」として新・大江戸捜査網』がスタート。しかし、之迄のスタイルと作向きが異なる事で、視聴率が著しく下降を続け、番組の製作的に苦戦を強いられた侭で半年後に打ち切りが決定した。足掛け14年に渡る『大江戸捜査網』シリーズは一先ず之により製作が終了をした。 1990年10月 - 橋爪淳(役;葉月裕之介)の出演で6年ぶりにシリーズが再開される。制作はプロデューサー元村武の新会社、G・カンパニー。隆大介(松原蔵人),田村高廣(松平定信),京本政樹(町奉行所同心 秋草新十郎),中村あずさ(華乃小路お香),が出演。隆大介、田村高廣は当シリーズのみの出演。(※本来の隠密廻り同心は、町奉行所の町奉行直属であった為、仮の職種を、定町廻り同心等の隠密廻り同心以外と云えども、潜入する悪徳組織へ、余計な情報が漏れる恐れの有る様な、仮の職種を行う事は無い)『※平成第1シリーズとして知られる』 1991年-『あばれ八州御用旅(第2シリーズ)』終了後に「第2シリーズ」が再開。前シリーズから橋爪淳(天龍寺隼人)、京本政樹(秋草新十郎)、中村あずさ(流星お蝶)、和崎俊哉(旗本寄合席小笠原甚内)、若林豪(松平定信)、荒井乃梨子(矢車お仙)(※京本政樹の役名は前シリーズと同一だが、町奉行所同心を解雇と云う事になっている。橋爪淳、中村あずさの役名は変更された。松平定信を演じているのは、前シリーズの田村高廣から若林豪へ交代し、隠密支配に和崎俊哉が旗本寄合席小笠原甚内として配役。当初3名であった隠密同心役に、当シリーズの第1話より出演の荒井乃梨子を、隠密同心の矢車お仙として、途中から加入された。オープニングの画像は撮影されなかった為、ゲストと共にエンディングでのクレジットとなった)が加入。 1992年3月 - 『平成第2シリーズ』として知られる連続ドラマシリーズが終了となった。 2015年1月 - テレビ東京開局50周年企画YAMADA 新春ワイド時代劇として、高橋克典主演で『『大江戸捜査網2015!隠密同心、悪を斬る!』を放送。前作から23年ぶり。元村武は監修として参加。番組制作はユニオン映画と東映太秦映像。『大江戸捜査網』は、日活と東京12チャンネルが作製を始めた『大江戸捜査網アンタッチャブル』第1シリーズから、東京都近辺で、撮影作製されて来ていた。始めて京都所在の撮影所三船プロダクション撮影所も東京都内であったので、京都撮影所を本格的に利用しての始めての撮影となった作品である。平成第2シリーズ迄の撮影は、それぞれ、東京都世田谷区、狛江市、調布市、稲城市付近の日活撮影所、三船プロダクション世田谷調布撮影所、火災の撮影や、農村部や山中の撮影には、東京都西多摩郡奥多摩町、五日市町、檜原村、八王子市、町田市等の山間部で、実際に町家や武家屋敷、城の一部を建設しての撮影を行っていたと云う。大川(隅田川)の浅草の河岸と言って撮影された映像は、調布市、世田谷区付近で多摩川を撮影している為に、画面上右側から左側へ、水が流れているが、浅草で'隅田川を見れば、左側から右側へ流下して行く筈で、たまに満ち潮で、逆流があったとしても、常に同じ様に流れているのはおかしい。之で此の位置での撮影が判明する。
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番組の歴史
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「国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉」の記事における「番組の歴史」の解説
当初は番組の終盤にゲストのオーラの色、前世、守護霊などを記した「オーラのカルテ」というコーナーがあったが、2006年10月18日 の第71回放送(ゲストは青木さやか)からは江原がゲストに守護霊からのメッセージを紹介する「スピリチュアルメッセージ」というコーナーに変わった。 2005年2月12日に『ドスペ2』枠でパイロット版を放送。
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番組の歴史
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「R藤本の水曜はじけてまざれ!」の記事における「番組の歴史」の解説
2009年5月13日、レギュラースタート。 2009年9月10日、公式ブログ開設。 2009年10月16日深夜、新宿ネイキッドロフトで「オールナイトdeはじけれまざれ」を開催。 2010年4月16日、公式Twitter開設。 2010年5月12日、放送1周年記念として『若井おさむ』がゲスト出演した。 2011年4月6日、バードフミヤ(当時・バード238)がレギュラー入り。 2011年4月30日、「出張!はじけてまざれ!LIVE in 表参道ヒルズ」を開催。 2011年11月2日、配信回数100回を達成。 2012年9月26日、バードフミヤ(当時・バード238)がレギュラー卒業。 2012年10月3日、昆布ちゃん(当時・ハッシィ)がレギュラー入り。 2012年12月15日放送の24時間よしよし動画内「はじまざSP」に、スペシャルゲストとして魔人ブウの声優『塩屋浩三』がゲスト出演した。 2013年11月13日、配信回数200回を達成。 2014年3月31日、ラフブロ終了に伴い公式ブログ閉鎖。 2014年4月2日、公式Instagram開設。 2014年11月12日、阿佐ヶ谷ロフトAで「放送250回記念!公開生放送・HAJIMA THE LIVE!」を開催。 2015年9月23日、初台DOORSで「DBナイトdeはじけてまざれ!」を開催。 2015年11月4日、配信回数300回を達成。 2016年5月25日放送回にアニメ『うさかめ』の声優ユニット『うさかめ高校テニス部』(中島由貴、小出ひかる、谷尻まりあ、愛原ありさ)がゲスト出演した。 2017年11月8日、配信回数400回を達成。 2018年1月17日放送回に空想科学読本を執筆した『柳田理科雄』がゲスト出演した。 2018年9月26日放送回にアニメソング歌手の『織田純一郎』がゲスト出演した。 2019年5月22日、放送10周年記念としてグアムから配信。 2019年10月23日、配信回数500回を達成。 2020年3月25日、昆布ちゃんがレギュラー卒業。 2020年3月26日、運営が設定を誤ったため、公式Twitterのアカウントにロックがかかってしまい凍結する。 2020年4月1日、アイデンティティ・見浦がレギュラー入り。 2020年6月10日、新しいアカウントで公式Twitter復活。 2021年10月20日、配信回数600回を達成。
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番組の歴史
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「ワイド!スクランブル」の記事における「番組の歴史」の解説
1996年4月1日、水前寺清子と中村克洋(当時NHKを退職したて)をメインキャスターに据えてスタート。当時は12:00 - 13:55(JST)の2時間枠での放送であった。既に開始していた朝日放送(当時)制作『上沼恵美子のおしゃべりクッキング』を13:05頃から約15分間(開始時刻不定)の1コーナーに内包し、形式的にはテレビ朝日・朝日放送の共同制作の形となり、『徹子の部屋』の放送開始を13:55 - 14:50に繰り下げた。このため、それまで存在した14時台のワイドショー枠(終了時点では『パワーワイド』)は廃枠。しかし、1997年9月29日に放送時間を見直し、11時30分から12時までを第1部・12時から13時05分を第2部とする2部制に変更。これにより、『上沼恵美子のおしゃべりクッキング』は本番組内包を廃止し、全編テレビ朝日単独制作となり、第1部の終盤である11時45分からは、『お昼のN天ワイド』(11時30分 - 12時、1997年9月26日終了)の11時45分からに内包されていた『ANNニュース』の内包を新たに開始した。 1998年の秋改編で、2年半メインキャスターを務めてきた水前寺・中村が揃って降板。この2人に代わって大和田獏と大下容子(テレビ朝日アナウンサー)が2代目メインキャスターとして就任した。 2009年9月25日で11年間男性メインキャスターを務めてきた大和田が降板し、コーナー担当だったテレビ朝日アナウンサーの寺崎貴司が後任となる(寺崎の平日正午枠での司会は『人間探検!もっと知りたい!!』以来)。これに伴い、スタジオセットやCM前のジングルなどの一部効果音も変更された。 2010年3月29日より『やじうまプラス』や『スーパーモーニング』同様、地上アナログ放送でもモノステレオ放送を開始。また、同年7月5日からアナログ放送は16:9レターボックス化されていた。 2012年4月2日からはCS放送の朝日ニュースター→テレ朝チャンネル2でも55分に再編集した形でディレイ放送されていたが、すでにネット打ち切り済みである。また、インターネット配信ABEMAでも番組の一部を再編集して配信している。ただし、当該時間帯にスポーツ中継が組まれている場合は休止となる。 2014年4月1日から大幅リニューアルを実施(当初、本番組が終了し新番組になるとの報道もあった)。寺崎の後任には橋本大二郎が登板した。第1部の開始時刻はこれまでより55分早い10:30となる。2部制は堅持されるも、1997年10月から2014年3月までの間、本番組の後に放送していた『徹子の部屋』(12:00 - 12:30)、『上沼恵美子のおしゃべりクッキング』(12:30 - 12:44)を放送するため一時中断し、第2部の開始時刻は12:44となった。なお、第2部の開始時には『上沼恵美子のおしゃべりクッキング』のラスト5秒で同番組司会の上沼恵美子が「この後は『ワイド!スクランブル』、橋本さ〜ん!」と橋本に呼び掛け、そのままステブレレスで接続する形を取った。これにともない、テレビ朝日をはじめ、フルネット局では放送時間が拡大するが、飛び乗り局では逆に放送時間が大幅に短くなった(その配慮として、第1部後半の11:30 - 11:42の枠をネットワークセールスに移行して、飛び乗り局は11:30より放送し、『ANNニュース』を内包する形を採った)。また、これまで『ANNニュース』のみ実施していたリアルタイム字幕放送を番組全編に拡大したほか、スタジオセットやタイトルロゴなど各種演出も一新した。 ただ、その半年後の同年9月29日より、4月のリニューアルで大幅短縮された第2部の放送時間を見直し、12:30 - 13:45枠に拡大。以前コーナー司会を務めていた小木逸平が2015年4月より第2部のメインキャスター陣に加わった。通常編成時に13:05以降も放送されるのは1997年の秋改編以来17年ぶり。『上沼恵美子のおしゃべりクッキング』は本番組終了後の13:45からの放送となる。またこの見直しに伴い、11:30 - 11:45の枠を再度ローカルセールス枠に戻し、飛び乗り点を11:45に一本化したため、飛び乗り局は第1部の『ANNニュース』からの放送となる。 2016年10月31日から関東地区に限り、第1部の開始時刻を10:25に繰り上げた(同日から2017年9月29日までの間、系列局では10:30または上記のとおり『ANNニュース』の開始時間である11:45に飛び乗るが、2017年10月2日からは全曜日または一部曜日でフルネットに移行する系列局もある)。 2017年4月3日より、シルバー向け帯ドラマ新枠『帯ドラマ劇場』の第1期(月曜 - 金曜12:30 - 12:50。第1作は『やすらぎの郷』)の開始 に伴い、第2部は20分繰り下げ・短縮の12:50 - 13:45となる。また、この日よりモノラル制作(モノステレオ放送)からステレオ制作(フルステレオ放送)に変更された。 2018年2月16日で2014年4月の全面リニューアルから約4年間使用してきたスタジオセットの使用を終了、同月19日からは使用するスタジオを第5スタジオから第3スタジオに変更し、同時にスタジオセットもフルリニューアルされた(平日朝の報道・情報番組『グッド!モーニング』とセットを共有)。 なお、2018年3月30日をもって『帯ドラマ劇場』の第1期が終了となるため、同年4月2日から2019年3月29日までの約1年間は、第2部の放送時間を12:30 - 13:40に変更(20分繰り上げ・15分拡大)。これは2019年4月8日から開始された『帯ドラマ劇場』の第2期(第1期と同じく、月 - 金曜日12時30分 - 12時50分)において、2020年3月までの4クール(1年間)放送の『やすらぎの刻〜道』(テレビ朝日開局60周年記念ドラマ)の準備期間に充てるための措置。 2018年9月28日をもって橋本・小木、それに天気キャスターの船木正人(気象予報士)が揃って降板(小木は降板後平日夜の報道番組『報道ステーション』の金曜メインキャスターに就任)。同年10月1日からは大下をアンカーウーマンとして強調する形となったほか、大下の新たな相方としてテレビ朝日アナウンサーの小松靖が登板。これと同時に番組内容やタイトルロゴ・テーマ曲などが一新され、スタジオセットも一部マイナーチェンジされた。 2019年4月1日からメインキャスターの大下の名が冠された『大下容子 ワイド!スクランブル』(おおしたようこ ワイド!スクランブル)に番組名が変更され、放送時間はさきの『帯ドラマ劇場』第2期開始の影響もあり、12:50 - 13:40に20分繰り下げ・短縮された。ただし、番組名変更第1週(4月1日 - 5日)は後述の通り、第2部の開始時刻を繰り上げ、拡大放送を実施。1日は12:00開始に、2日 - 5日は12:30開始とするが、これは『帯ドラマ劇場』第2期放送開始前の代替特番として(1日のみ新元号発表に伴う特別編成として)の措置。 なお、『帯ドラマ劇場』を編成していた時期には、同枠の作品を観た出演者(主に大下)が第2部の生予告(もしくは冒頭)で感想を述べる慣習(昼ドラ受け)が定着。第2部の前座番組が『徹子の部屋』であった時期にも、当日の同番組の内容を、第2部の出演者が冒頭に語ることもあった。 2020年3月30日からは、第2部の放送時間が12:00 - 13:00に繰り上がったことによって、テレビ朝日基準による全体の放送時間を155分に拡大させた(一部ネット局では、10:30または11:45飛び乗り)。『帯ドラマ劇場』を同月27日放送分で廃枠にしたことや、『徹子の部屋』の放送枠が第2部の終了直後(13:00 - 13:30)へ移動したことに伴う拡大で、2014年4月1日から続いていた12時台(12:00 - 12:50)の一時中断も解消された。なお、『徹子の部屋』へのステブレレスは枠移動後も継続されたため、「当番組の終了後にステブレレスで後枠番組を放送」という編成が初めて実現した。 2020年10月2日をもって、2018年10月から2年間男性メインキャスターを務めてきた小松が、2020年10月5日から平日夕方の報道番組『スーパーJチャンネル』のメインキャスターに就任したため降板した。これに伴い、同日からはコーナー担当の佐々木亮太(テレビ朝日アナウンサー)が男性メインキャスターへ昇格した。
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番組の歴史
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「ザ!鉄腕!DASH!!」の記事における「番組の歴史」の解説
1995年11月2日に木曜深夜枠で『鉄腕!DASH!!』のタイトルでの放送開始。当時は30分番組(放送時間23:25 - 23:55)で、日本たばこ産業(JT)の一社提供だった。初のTOKIOメインの本格バラエティでもある。司会は当時日本テレビアナウンサーだった福澤朗と山口美江(1996年の芸能界引退に伴い降板し、後に研ナオコに交替)で、当初はスタジオに観客を入れたトーク形式で進行されていた。なお、若手女性タレントを中心にゲストを招いていたこともある。また、一時期アシスタント役で本上まなみもレギュラー出演していた。深夜時代には途中でオープニングのロゴ映像が1回変更されている。その後『ZZZ』月曜日第1部枠(放送時間23:45 - 24:15)に移行し、1998年3月30日で深夜枠での放送を終了した。 1998年4月12日よりタイトルを現在の『ザ!鉄腕!DASH!!』に改め、日曜夜のゴールデンタイムに進出し放送時間も56分に拡大され、さらに半年後の同年10月18日放送分より58分へと拡大された。なお、TOKIOメンバーは1998年3月まで同じ時間にTBSテレビで放送されていた『さんまのSUPERからくりTV』に出演していた。 本番組のゴールデン進出に際し、本来は1997年にゴールデン進出が予定されていたが、ジャニーズ事務所の関係者が『さんまのSUPERからくりTV』の司会者である明石家さんまに対する恩義もあるため、1年遅らせて開始することをさんまに伝えていると、2014年10月15日に放送された『TOKIOカケル』(フジテレビほか)にさんまが出演した時にさんま本人から語られた。 2000年6月4日放送より始まった「DASH村」が番組を代表するメイン企画となる。「DASH村」が軌道に乗り始めた頃になるとスタジオ収録が徐々に縮小され、2001年頃にはスタジオ収録を廃止(同時に福澤と研も降板)し全編ロケ形式に変更となり、TOKIOのメンバーも全員が同時に出演する機会が減るようになった。 2002年4月14日から日本テレビ系列フルネット28局(含:福井放送。以下略)では、事前枠『ザ!直前!DASH!!』を別途放送していた。 2007年2月4日放送分より地上デジタル放送で番組連動型のデータ放送を開始。ハイビジョン制作開始が他の番組より遅く他番組がハイビジョン制作が主流の中この番組は通常画質で制作されていたが、2009年9月6日放送分よりハイビジョン制作されるようになった。それ以前の2008年10月26日放送分から前述のサイドパネルのデザインに加えて企画ごとにサイドパネルのデザインが変更されるようになり、ハイビジョン移行後も通常画質(4:3)の映像の際は引き続きサイドパネルを使用する。日本テレビのプライムタイムで唯一字幕放送を実施していなかったが、2008年7月6日放送分より開始した。当初はリアルタイム字幕放送形式で行われており、後に2009年12月13日放送分から通常の字幕放送を実施している。 2008年3月をもって事前枠『ザ!直前!DASH!!』が廃止。後にその代替として、日本テレビ系列フルネット28局では本番組の前に放送しているミニ枠の末尾30秒にて、当日の内容の見所を紹介するVTRが流れ、そのまま19:00からの本編へと繋がる。この編成は通常放送のない特別番組や、また後枠の『世界の果てまでイッテQ!』『行列のできる法律相談所→行列のできる相談所』が19時から2~3時間のスペシャルを放送する時も同様である。また、2012年7月1日より、日本テレビの制作する部署が、情報エンターテインメント局から制作局へ移管した。 2019年現在、深夜時代を含めるとジャニーズ事務所所属タレントがレギュラー出演しているバラエティ番組では最も放送期間の長い番組である。2013年7月21日の放送で放送500回を達成した。 かつてはCS★日テレでも2000年9月25日まで同時ネット(地上波版の遅れネットを放映している沖縄県でもCS経由で同時ネットで視聴)された。
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番組の歴史
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「佐藤利奈のあの空で逢えたら」の記事における「番組の歴史」の解説
2004年 記念すべき初回配信(10月)では、スパイシーの声はボイスチェンジャーで加工されていた。その後11月は諸事情で本来の地声が公開され12月に再び元の加工声に戻る。しかしまたリスナーの苦情もあり翌年からは無加工の声に固定された。 #6で利奈とスパイシーがゲーム対決を行、結果は利奈が勝利して負けたスパイシーをブース側に追いやった。そのため利奈1人喋り&ゲスト2名を招いて進行された(#7) 2005年 OPテーマを「Memories of Summer」、EDテーマを「空の詩」に変更(#22(7月7日配信分/O Sideから)) スパイシーが初めてA Side(「おしらせソラシド」)に初登場し、萌えキャラで告知情報を読めと利奈に指令を出した(#23(7月14日配信分)) アバンタイトルからそのまま4分強(4:44)に渡りゲストの松本尚樹(シンガーソングライター。『レターオブメモリーズ』の音楽を担当)がギター1本で利奈と一緒にスタジオライブ(一発収録)を行った。曲は勿論、OP曲の「Memories of Summer」の生ギターバージョン。また、EDの約5分間には「空の詩」(生ギター有)が生歌で歌われた(#26(8月4日配信分)) 9月29日配信分は特番「1周年記念スペシャル」(#00・O Side・A Side同時映像付き公開/38:07)として初の動画配信が行われた。番組内では利奈がいつも色んなものを食べながら番組進行をされていること証明するためか、みたらし団1子を本当に食べている所を見せていた。 利奈は、からし色の浴衣に紅色の帯といういでたちで登場。今年の夏は浴衣を着ることが出来なかったため、無理を言って自分で着用して収録を行ったもの 「便りにしてます」スペシャル、名古屋イベントの様子の一部を音声で公開(#34(10月6日配信分)) 去る10月10日「インターネットラジオステーション<音泉>秋の大感謝祭スペシャル2005」(草津(14:00〜16:30))内で行われた初の公開録音を東京の尚美学園(バリオホール)で行われた(#36(10月20日配信分)) #37(10月27日配信分・A Side)からOPテーマを「まっ白な気持ち」に変更。それに伴いタイトルコールとCMを録り直した(番組名は変更なし) 利奈がパーソナリティを務める「峠のラジオ」第1回目で、チェンバースレコードのスパイシーの本名が大石孝次であることが明らかにされた。また、同放送回で利奈のマネージャの名前も明らかにされた。 2006年 3月30日配信分(O Side・A Side,#58) 特番「アルバム『Sugar Sky』発売前祝いスペシャル」(O Side・A Side同時映像付き公開)。この動画放送でもスパイシーが顔を出すことはなかった。(七味唐辛子で代置きして声のみ)またクリーミーも声のみ出演。番組内の携帯しりとりではスパイシーが敗れ、利奈手ずから七味唐辛子を振ったシュークリームを完食した 4月6日(A Side,#59) A Sideに初のゲストBooNo(儀武ゆう子と二宮圭美の声優ユニット)を迎える。「利奈は二宮圭美と同じ匂いがする」と儀武ゆう子に言われた #68・69(6月8日・15日配信分)の2週にわたって「SugarSky」発売記念イベント総決算スペシャルが配信。#69はA Sideであったにもかかわらずスパイシーも登場した 配信日の6月29日(A Side)がめがーねことAD中曽の誕生日であったが、利奈が知らなかったことと収録上のタイムラグで用意できず 8月24日(A Side,#79)の配信でAD中曽がディレクターを卒業。初回からずっと番組で一緒だった利奈にとってはエンディングで感極まって泣いてしまった 8月31日(O Side,#80)で「峠のラジオ」からUPLIFT(伊平崇耶)と偽まる(川瀬浩平)が登場。 「戦わないけど癒し対決」のコーナー開始(#82・9月14日配信分)。前項で一旦ディレクター降板をした中曽が大原さやかのゲスト出演に合わせて急遽ディレクターを担当した。 9月28日(O Side,#84)、「あの空で逢えたら」2周年を迎え、祝いにクリーミーから小さなケーキを贈呈された(ちなみに砂糖菓子の「祝★2周年」のチョコ文字はクリーミーが手書きで書いた)。 12月21日(O Side,#96,年内最後の配信)、「戦わないけど癒し対決」コーナー終了後、配信日が誕生日にあたるためスパイシーの誕生日を祝った。何歳になったかは不明だがクリーミーとは同い歳であることが判明。 2007年 1月1日(O Side・A Side,#98) 3度目の元日イレギュラー配信。 1月18日(O Side,#100) 通算放送100回記念に達し、番組プロデューサーのクリーミーが久々に登場。 1月25日(O Side,#101) 放送100回記念「DJスペシャル」(2回目)。「便りにしてます」を除くコーナーを休止して、利奈が普段よりも楽曲を多めにかけるものだった。 3月1日(O Side,#106) 本番組がリニューアルのため3月いっぱいで終了。スパイシーらは降板してのスタッフ陣が一新される予定。「戦わないけど癒し対決」最終回。「僕の空 私の空」休止の代わりに「月は見えますか?」をロングバージョンで放送。 3月8日(A Side,#107) Aサイドでも4月からのリニューアルを告知。Aサイドは3月22日が最後の放送となる。 3月15日(O Side,#108) クリーミー出演。2007年4月からの新番組のタイトルは「佐藤利奈のあの空で逢いましょう♪F」と発表。「-逢えたら」の卒業検定試験出題(全10問)。「逢えたら」宛てのお便りの受付は3月21日(春分の日)到着分までに設けた。 3月22日(A Side,#109) Aサイド最後の配信。 3月29日(O Side,#110) Oサイド最後の配信。「-逢えたら」卒業検定試験の解答発表。最終回にクリーミー、まっちゃんこと松本尚樹、めがねこと中曽聡太郎が登場、2年半続いた「逢えたら」に終止符を打つ。
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