国民栄誉賞を受賞
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1992年(平成4年)5月28日、藤山は国民栄誉賞を受賞した。受賞理由は「正当な音楽技術と知的解釈をもって、歌謡曲の詠唱に独自の境地を開拓した」、「長きに渡り、歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した」というものであった。 池井優によると、藤山の受賞を決定づけたのは1992年3月28日(土曜日)19:30から20:55までNHK総合で放送されたテレビ番組『幾多の丘を越えて - 藤山一郎・80歳、青春の歌声』である。この番組を見た衆議院議員・島村宜伸が当時自由民主党の幹事長であった綿貫民輔に国民栄誉賞授与の話を持ちかけたことで政府が検討に入ることになった。また、NHKのアナウンサー出身の参議院議員でかつて古賀政男の国民栄誉賞受賞に尽力した高橋圭三も福田赳夫を通じて政府に働きかけを行った。 藤山は娘を通じて受賞を打診され、受諾した。当初授賞式は4月25日に予定されたがこの時藤山は坐骨神経痛を患い入院中で、退院後の5月28日に延期された。授賞式会場の首相官邸に車椅子に乗って現れた藤山は中に入ると車椅子から降りて杖をついて歩き、東京音楽学校時代の恩師クラウス・プリングスハイムの指揮で声楽家増永丈夫として日比谷公会堂で独唱したベートーヴェンの『歓喜の歌』を伴奏なしで歌った。数十年ぶりクラシック音楽の増永丈夫と大衆音楽の藤山一郎を披露した。スポーツ選手を除く国民栄誉賞受賞者の中では最初の存命中の受賞となった。1996年に上野恩賜公園内に設置された「日本スポーツ文化賞栄誉広場」には国民栄誉賞受賞者の手形が展示されており、藤山のものもある。 藤山は、国民栄誉賞以外にも、勲三等瑞宝章(1982年春)、紫綬褒章(1973年)、日本赤十字社特別有功章(1952年)、NHK放送文化賞(1958年)、社会教育功労章(1959年)、日本レコード大賞特別賞(1974年)などを受賞(受章)している。
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