東京音楽学校時代
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太平洋戦争末期の1945年4月、秋雄は16歳で東京音楽学校作曲科に入学した。同学年には日本の前衛音楽の旗手、黛敏郎がいた。しかし激しい戦禍の中、授業はほとんど行われなかった。半年後、日本は敗戦を迎えた。戦時中に国威発揚の音楽に携わった橋本は戦争責任を問われ、細川碧などと共に東京音楽学校の教壇から追われてしまう。秋雄は後任の池内友次郎、伊福部昭に就いて、新たに作曲理論の勉強を開始することとなる。 池内はパリ高等音楽院でポール・フォーシェ、アンリ・ビュッセルに学び、当時の日本ではフランス流の作曲技法の第一人者であった。音楽の範として伊福部に強く共鳴する黛に対して、矢代は池内からその多くを吸収した。特に池内は「音楽を整然と美しく仕上げる」ことを矢代に教え込んだ。これは、諸井から学んだ書式とともに、矢代の作風を決定付ける要素の一つである。この時期の作品の多くは矢代自身によって後に破棄されているが、以下のものは残っている。 ピアノのためのソナチネ - 藤井澄子に献呈。1945年3月10日(第1稿作曲)、5月12日(第2稿作曲)(15歳)。 24のプレリュード - 1945年5月(15歳)作曲。 ピアノのためのノクチュルヌ - 井上二葉に献呈。1947年(18歳)作曲。 ピアノ協奏曲 - 園田高弘に献呈。 ピアノ三重奏曲 - 1949年(20歳)作曲。卒業作品。橋本國彦に献呈。 ピアノ協奏曲は、現在しばしば演奏されるものとは異なる。この作品は、1948年に金子登指揮、東京音楽学校管弦楽部により初演された。卒業作品の「ピアノ三重奏曲」では、1949年2月の演奏会では自身でピアノ・パートを担当した。そしてこの作品はかつての師、橋本國彦に献呈された。在学中、矢代は黛とともに、極めて優秀な成績で「我が校始まって以来の俊秀」として将来を嘱望された。2人でお互いに作品を批評し合い、また芸術論を戦わせたという。 1949年3月、矢代は東京音楽学校本科を卒業、4月には東京音楽学校研究科へ進学した。研究科に在学時の作品は以下のものがある。 ヴァイオリンとピアノのためのセレナーデ - 1949年(20歳)作曲。 ピアノ四手のための古典組曲 - 1949年(20歳)作曲。ヴェルレーヌの「エピグラフ」に依るという。 交響的小品 - 1950年(21歳)作曲。 「交響的小品」は、東京藝術大学管弦楽団により初演された。1951年3月、矢代は東京藝術大学研究科を卒業した。
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東京音楽学校時代
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慶應義塾普通部を卒業後の1929年(昭和4年)4月、当時日本で唯一の官立の音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(後の東京藝術大学音楽学部)に入学。当時は「歌舞音曲は婦女子のもの」という風潮が強く、声楽部に入学した学生の中で男性は藤山ただ一人であった。入学試験の口頭試問で音楽の道を志す理由について問われた藤山は、「オペラ歌手を目指します」と答えた。 藤山は予科声楽科で30人中15番の成績を収め、本科に進学した。1931年(昭和6年)2月には成績優秀者による演奏会である「学友演奏会」(土曜演奏会とも)に出演し、歌劇『ファウスト』より「此の手を取り手よ」、歌劇『リゴレット』より「美しの乙女よ」の四重唱にバリトンで独唱するなど順風満帆の学生生活を送っていたが、音楽学校生活進学後間もなく世界恐慌の煽りを受けた昭和恐慌の影響で実家のモスリン問屋の経営が傾き、3万8000円の借金を抱え廃業した。藤山は家計を助けようと写譜のアルバイトを始めたが収入が少なく、レコードの吹き込みの仕事を始めるようになった。これは校外演奏を禁止した学則58条に違反する行為であったため、「藤山一郎」の変名を用いることにした。名前の由来は、上野のパン屋・「永藤」の息子で親友・永藤秀雄(慶応商工)の名を使って藤永にし、一郎と続け、「藤永一郎」としたが、本名である増永の「永」が入ることで正体が明らかになることを恐れた。そこで、「富士山」なら日本一でいこうと「永」を「山」にして、芸名を藤山一郎とした。この変名はわずか5分のうちに生まれた。 藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹き込んだ。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は併合により日本領であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。この曲の吹き込みで藤山は、声量を抑え美しい共鳴の響きを活かし、声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法を用い、電気吹き込み時代のマイクロフォンの特性を効果的に生かした歌唱によって憂鬱さとモダニズムが同居する世相を反映させようとする古賀の意図を実現させた。同じく1931年に発売された古賀作曲の『丘を越えて』もヒットした。『丘を越えて』はクルーン唱法ではなく、「マイクから相当離れた位置で、メリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーに、声量を落とさないで、しかも溢れさせないように歌う」歌唱表現で、古賀メロディーの青春を高らかに歌いあげている。『丘を越えて』のヒットによって藤山と古賀はスターダムにのし上がった。 歌のヒットと同時に藤山一郎という歌手への注目が巷間で高まり、世間の関心が集まるようにもなった。藤山は学校関係者に歌を聴かれて正体が発覚することを恐れ、アルバイト料が売上に関係なく1曲あたり15円と決められていたことからレコードが売れないよう願ってさえいた。古賀と関係の深かった明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にゲスト出演した藤山は舞台の袖から姿を隠して歌い、観客が不満を訴える騒ぎとなったこともある。そんな中、東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校の増永丈夫である」という内容の投書が届き、学校当局は藤山を問い質した。藤山は「先生は作曲をするなどして学校の外で金を稼いでいるのに、生徒が学費のために内職するのを責めるのは不公平だ」と反発したためあわや退学処分ということになった。しかしハイバリトンの声楽家として藤山を評価していたクラウス・プリングスハイムが退学に反対し、慶應義塾普通部時代から藤山をよく知る弘田龍太郎・大塚淳・梁田貞も学業成績の優秀さやアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることを理由に擁護に回った結果、今後のレコード吹き込み禁止と停学1か月の処分に落ち着いた。しかも、その1か月は学校の冬休みに当たり、実質的な処分は科されなかった。この時、藤山はまだ吹き込みを行っていなかった『影を慕いて』を既に吹き込み済みであるとして学校にリストを提出し、発行を可能にした。停学が解除されると藤山はレコードの吹き込みを止め、学業に専念した。 藤山は、1932年(昭和7年)、当時 東京音楽学校は「風紀」を理由に舞台上演のオペラを禁止していたが、例外で東京音楽学校奏楽堂にて舞台上演された学校オペラ『デア・ヤーザーガーDer Jasager(イエスマン)』(クルト・ヴァイル作曲)の主役である少年役を演じ、日比谷公会堂でプリングスハイムの指揮でワーグナーのオペラ『ローエングリン』のソリストを務めている。ヘルマン・ヴーハーぺニッヒ、マリア・トルら外国人歌手と伍してのバリトン独唱により、期待のホープとして注目された。
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東京音楽学校時代
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1937年(昭和12年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)本科に入学、橋本国彦、下総皖一、ヘルムート・フェルマーに作曲を、水谷達夫にピアノを師事した。本科を卒業後、1941年(昭和16年)に研究科に進学し、1943年(昭和18年)3月に研究科を終了した。在学中の1941年11月、第10回日本音楽コンクール作曲部門(管弦楽曲の部)で序曲「桜」が第2位に入賞した。また、同年から「成城合唱団」の指揮者を20年間務めた。
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