東京音楽学校時代とは? わかりやすく解説

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東京音楽学校時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:00 UTC 版)

矢代秋雄」の記事における「東京音楽学校時代」の解説

太平洋戦争末期1945年4月、秋雄は16歳東京音楽学校作曲科入学した同学年には日本前衛音楽旗手黛敏郎がいた。しかし激し戦禍の中、授業はほとんど行われなかった。半年後、日本敗戦迎えた戦時中国威発揚音楽携わった橋本戦争責任問われ細川碧などと共に東京音楽学校教壇から追われてしまう。秋雄は後任池内友次郎伊福部昭に就いて新たに作曲理論勉強開始することとなる。 池内パリ高等音楽院ポール・フォーシェアンリ・ビュッセル学び当時日本ではフランス流の作曲技法第一人者であった音楽の範として伊福部強く共鳴するに対して矢代池内からその多く吸収した。特に池内は「音楽整然と美しく仕上げる」ことを矢代教え込んだ。これは、諸井から学んだ書式とともに矢代作風決定付ける要素一つである。この時期作品多く矢代自身によって後に破棄されているが、以下のものは残っている。 ピアノのためのソナチネ - 藤井澄子献呈1945年3月10日第1稿作曲)、5月12日第2稿作曲)(15歳)。 24のプレリュード - 1945年5月15歳作曲ピアノのためのノクチュルヌ - 井上二葉献呈1947年18歳作曲ピアノ協奏曲 - 園田高弘献呈ピアノ三重奏曲 - 1949年20歳作曲卒業作品橋本國彦献呈ピアノ協奏曲は、現在しばしば演奏されるものとは異なる。この作品は、1948年金子登指揮東京音楽学校管弦楽部により初演された。卒業作品の「ピアノ三重奏曲」では、1949年2月演奏会では自身でピアノ・パートを担当した。そしてこの作品はかつての師、橋本國彦献呈された。在学中矢代は黛とともに極めて優秀な成績で「我が始まって以来俊秀」として将来嘱望された。2人お互いに作品批評し合い、また芸術論戦わせたという。 1949年3月矢代東京音楽学校本科卒業4月には東京音楽学校研究科進学した研究科在学時の作品は以下のものがある。 ヴァイオリンピアノのためのセレナーデ - 1949年20歳作曲ピアノ四手のための古典組曲 - 1949年20歳作曲ヴェルレーヌの「エピグラフに依るという。 交響的小品 - 1950年21歳作曲。 「交響的小品」は、東京藝術大学管弦楽団により初演された。1951年3月矢代東京藝術大学研究科卒業した

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東京音楽学校時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 04:33 UTC 版)

藤山一郎」の記事における「東京音楽学校時代」の解説

慶應義塾普通部卒業後の1929年昭和4年4月当時日本唯一の官立音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(後の東京藝術大学音楽学部)に入学当時は「歌舞音曲婦女子のもの」という風潮強く声楽部入学した学生の中で男性藤山ただ一人であった入学試験口頭試問音楽の道を志す理由について問われ藤山は、「オペラ歌手目指します」と答えた藤山予科声楽科30人15番成績収め本科進学した1931年昭和6年2月には成績優秀者による演奏会である「学友演奏会」(土曜演奏会とも)に出演し歌劇ファウスト』より「此の手取り手よ」、歌劇『リゴレット』より「美し乙女よ」の四重唱バリトン独唱するなど順風満帆学生生活送っていたが、音楽学校生活進学間もなく世界恐慌煽り受けた昭和恐慌影響実家モスリン問屋経営傾き、38000円の借金抱え廃業した藤山家計助けよう写譜アルバイト始めた収入少なくレコード吹き込み仕事始めようになった。これは校外演奏禁止した学則58条に違反する行為であったため、「藤山一郎」の変名用いることにした。名前の由来は、上野パン屋・「永」の息子親友・永秀雄慶応商工)の名を使って永にし、一郎続け、「一郎」としたが、本名である増永の「永」が入ることで正体明らかになることを恐れた。そこで、「富士山」なら日本一でいこうと「永」を「山」にして、芸名藤山一郎とした。この変名はわずか5分のうちに生まれた藤山1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹き込んだ代表曲古賀政男作曲し1931年9月発売された『酒は涙か溜息か』で、100万超える売り上げ記録した塩沢実信によると、当時日本にあった蓄音機併合により日本であった台湾朝鮮含めおよそ20台で、「狂乱に近い大ヒットであった。この曲の吹き込み藤山は、声量抑え美し共鳴響き活かし声楽技術正統解釈したクルーン唱法用い電気吹き込み時代マイクロフォン特性効果的に生かした歌唱によって憂鬱さとモダニズム同居する世相反映させようとする古賀意図実現させた。同じく1931年発売され古賀作曲の『丘を越えて』もヒットした。『丘を越えて』はクルーン唱法ではなく、「マイクから相当離れた位置で、メリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーに、声量落とさないで、しかも溢れさせないように歌う」歌唱表現で、古賀メロディー青春高らかに歌いあげている。『丘を越えて』のヒットによって藤山古賀スターダムにのし上がった。 歌のヒット同時に藤山一郎という歌手への注目巷間高まり世間関心が集まるようにもなった。藤山学校関係者に歌を聴かれ正体発覚することを恐れアルバイト料が売上に関係なく1曲あたり15円と決められていたことからレコード売れないよう願ってさえいた。古賀と関係の深かった明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会ゲスト出演した藤山舞台の袖から姿を隠して歌い観客が不満を訴え騒ぎとなったこともある。そんな中東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校増永丈夫である」という内容投書届き学校当局藤山問い質した藤山は「先生作曲をするなどして学校の外で金を稼いでいるのに、生徒学費のために内職するのを責めるのは不公平だ」と反発したためあわや退学処分ということになった。しかしハイバリトンの声楽家として藤山評価していたクラウス・プリングスハイム退学反対し、慶應義塾普通部時代から藤山をよく知る弘田龍太郎大塚淳梁田貞学業成績優秀さアルバイト得た収入をすべて母親渡していることを理由擁護回った結果今後レコード吹き込み禁止停学1か月処分落ち着いた。しかも、その1か月学校冬休みに当たり、実質的な処分科されなかった。この時、藤山はまだ吹き込み行っていなかった『影を慕いて』を既に吹き込み済みであるとして学校リスト提出し発行可能にした。停学解除される藤山レコード吹き込み止め学業専念した藤山は、1932年昭和7年)、当時 東京音楽学校は「風紀」を理由舞台上演オペラ禁止していたが、例外東京音楽学校奏楽堂にて舞台上演された学校オペラデア・ヤーザーガーDer Jasagerイエスマン)』(クルト・ヴァイル作曲)の主役ある少年役を演じ日比谷公会堂プリングスハイム指揮ワーグナーオペラローエングリン』のソリスト務めている。ヘルマン・ヴーハーぺニッヒ、マリア・トルら外国人歌手伍してバリトン独唱により、期待ホープとして注目された。

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東京音楽学校時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:39 UTC 版)

高田信一」の記事における「東京音楽学校時代」の解説

1937年昭和12年)に東京音楽学校現在の東京芸術大学音楽学部本科入学橋本国彦下総皖一ヘルムート・フェルマー作曲を、水谷達夫ピアノ師事した本科卒業後、1941年昭和16年)に研究科進学し1943年昭和18年3月研究科終了した在学中1941年11月第10回日本音楽コンクール作曲部門管弦楽曲の部)で序曲「桜」第2位入賞したまた、同年から「成城合唱団」の指揮者20年務めた

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