東京音楽学校での活動
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東京音楽学校は1887年(明治20年)の創設から間もないことから生徒が少なく、村岡は故郷の鳥取で講演を行ったりした。このためもあって、同校では鳥取県出身の学生が増加した。この中には大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)創立者の永井幸次や田宮虎蔵などがいる。 音楽学校ではドイツでクントから学んだ音響学を活かし、奏楽堂の音響設計に関わった上原六四郎と共著の『俗楽旋律考』や『教員及び好楽家の実験音響学』などを書いた。この他に、ヴェーバー‐フェヒナーの法則に基づいて弦や琴の音の識別限界を考察した論文も執筆している。また1891年には祝祭日唱歌審査委員長も務めており、国歌となる「君が代」の制定にも関与した。
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