東京音楽学校を目指して
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愛知一中四年生の頃、恭一は突如音楽で身を立てる決心をし、ピアノのレッスンを開始した。その頃の恭一の様子を弟・哲夫、妹・明子は次のように証言している。 兄の音楽に対する思いは一途なもので、他の教科に全く興味を持たなくなるほどでした。 兄が当時のいわゆる電蓄でクラシックのレコードを聴いているとき、コソッと音を立てようものなら、声には出さなかったものの、ものすごい眼でにらみつけられました。だからレコードを聴き始めたときには、抜き足差し足でこっそり部屋を出るようにしていました また後に音楽学校・選科で机を並べた讃井千恵子は、恭一から次のようなエピソードを聞いている。 子供の頃はあまり弾かなかったピアノのレッスンを受けるため、出かける時商家の玄関からでは気まずいので、二階の裏窓から外出着と楽譜を縄で吊り下ろした後下着に近い格好で家を出、外で服を着てレッスンに通い、また何食わぬ顔で帰り荷物を二階に吊り上げたそうです。。 昭和15年(1940年)3月、愛知一中を卒業後両親の反対を押し切り上京。田園調布にある親戚の佐藤家に身を寄せながら、東京音楽学校作曲科入学を目指し本格的な音楽の勉強を開始した。やがて両親の許しも得てピアノを買ってもらい、猛練習に励む。同年9月7日、東京音楽学校・選科に入学。選科はお茶の水にあり「上野の分教場」と呼ばれていた。音楽学校を目指す者のみならず広く一般に音楽を教授する役割を担っており、希望者は全員入学することが出来た。選科入学式の模様を、讃井千恵子は次のように記している。 東京音楽学校選科入学式のとき、黒い詰衿の学生服を着た作曲科の男の子がいた。童顔の、いやに生っ白いのが印象に残っていた。 この頃恭一は満州国建国一周年奉祝楽曲に応募し入選、七宝焼の大きな花瓶を贈られている。白い歯を見せ、はにかみながら恭一は次のように話していたという。 ベットに腹ばいになって、角砂糖かじりながら書いた曲がはいって、申し訳ないことしちゃった。 やがて恭一は親戚宅近くの借地に小さな家を建ててもらい、遠縁の叔母の世話を受けながら選科のレッスンに通うと共に、ピアノを水谷達夫、作曲を細川碧の個人教授で勉強を重ねた。ただ昼夜を問わずピアノを弾き続けたため、近所から「時局柄不謹慎である! 」と新聞に投書されたりもしている。新聞を手にしながら恭一は次のように語っている。 「コマタオトノスケ(駒田音之助?)という名前の投書だ。<困った音>のつもりだろう。住所は書いてないが、向かいのおやじにちがいない。ピアノなんぞに現をぬかすとは時節柄怪しからぬことだとほざいておる」 昭和17年2月、佐藤家の長男・正宏がビルマで戦死、恭一は彼を追悼する「鎮魂歌」(レクイエム)を作曲、献呈した。この「鎮魂歌」は現在残されている恭一の作品中、最初期のものである。
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