東京音楽学校を目指してとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 東京音楽学校を目指しての意味・解説 

東京音楽学校を目指して

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 05:11 UTC 版)

鬼頭恭一」の記事における「東京音楽学校を目指して」の解説

愛知一中四年生の頃、恭一突如音楽身を立てる決心をし、ピアノレッスン開始したその頃恭一様子を弟・哲夫、妹・明子次のように証言している。 兄の音楽対す思い一途なもので、他の教科に全く興味を持たなくなるほどでした。 兄が当時いわゆる電蓄でクラシックのレコード聴いているとき、コソッと音を立てようものなら、声には出さなかったものの、ものすごい眼でにらみつけられました。だからレコード聴き始めたときには抜き足差し足でこっそり部屋を出るようにしていました また後に音楽学校選科並べた讃井千恵子は、恭一から次のようなエピソード聞いている。 子供の頃はあまり弾かなかったピアノレッスンを受けるため、出かける商家玄関からでは気まずいので、二階の裏窓から外出着楽譜を縄で吊り下ろした下着に近い格好で家を出、外で服を着てレッスン通い、また何食わぬ顔帰り荷物二階吊り上げそうです。。 昭和15年(1940年)3月愛知一中卒業両親反対押し切り上京田園調布にある親戚佐藤家に身を寄せながら、東京音楽学校作曲科入学目指し本格的な音楽勉強開始した。やがて両親許し得てピアノ買ってもらい、猛練習に励む。同年9月7日東京音楽学校選科入学選科お茶の水にあり「上野分教場」と呼ばれていた。音楽学校目指すのみならず広く一般に音楽教授する役割担っており、希望者は全員入学することが出来た選科入学式模様を、讃井千恵子次のように記している。 東京音楽学校選科入学式のとき、黒い詰衿学生服着た作曲科男の子がいた。童顔の、いやに生っ白いのが印象残っていた。 この頃恭一満州国建国一周年奉祝楽曲応募し入選七宝焼大きな花瓶贈られている。白い歯を見せはにかみながら恭一次のように話していたという。 ベット腹ばいになって角砂糖かじりながら書いた曲がはいって、申し訳ないことしちゃった。 やがて恭一親戚近く借地小さな家建ててもらい、遠縁叔母世話を受けながら選科レッスンに通うと共にピアノ水谷達夫作曲細川碧個人教授勉強重ねた。ただ昼夜問わずピアノ弾き続けたため、近所から「時局不謹慎である! 」と新聞投書されたりもしている。新聞を手にしながら恭一次のように語っている。 「コマタオトノスケ(駒田音之助?)という名前の投書だ。<困った音>のつもりだろう。住所書いてないが、向かいのおやじにちがいない。ピアノなんぞに現をぬかすとは時節柄怪しからぬことだとほざいておる」 昭和17年2月佐藤家の長男・正宏がビルマ戦死恭一は彼を追悼する鎮魂歌」(レクイエム)を作曲献呈した。この「鎮魂歌」は現在残されている恭一作品中最初期のものである

※この「東京音楽学校を目指して」の解説は、「鬼頭恭一」の解説の一部です。
「東京音楽学校を目指して」を含む「鬼頭恭一」の記事については、「鬼頭恭一」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東京音楽学校を目指して」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東京音楽学校を目指して」の関連用語

東京音楽学校を目指してのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東京音楽学校を目指してのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの鬼頭恭一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS