作品評価・解釈
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「白痴 (坂口安吾)」の記事における「作品評価・解釈」の解説
『白痴』は、終戦後に大きな反響を呼んだ随筆『堕落論』の次に発表された小説として、共に注目されて、戦後における坂口の作家の特異な地位を築いた作品である。奥野健男は、敗戦の昏迷の中にいた日本人、特に青年たちに、『堕落論』と『白痴』は「雷のごとき衝撃」を与えたとし、「ぼくたちはこの二作によって、敗戦の虚脱から目ざめ、生きる力を得たといっても過言ではない」と述べている。そして奥野は『白痴』について以下のように評している。 ひたすら霊を追い求めていた作者が、空襲下に肉体と本能だけのせつないかなしい魂を見いだした絶対の孤独を表現している。その大胆な表現は、日本における実存主義、そして戦後文学の出発点となった。かなしみの街を過ぎて、安吾はここから肉体の思考を基調に既成道徳を超えた堕落の中に全人間性の回復を夢見る。 — 奥野健男「坂口安吾――人と作品」 宮元淳一は『白痴』の構成について、「偉大なる破壊」の戦火により人々は「焼鳥のやうに」死んでゆくという異常な状況下における主人公が、そこに「運命に従順な美しさ」を感じてしまうが、その「美」を寸前のところで思い留まり拒絶して、「平凡」に生きることを決意すると概説している。そして、伊沢が女に、「俺の肩にすがりついてくるがいい。わかったね」と言う場面が『白痴』のハイライトであり、その決意の一瞬は極めてヒロイックであるが、その場面に反し、戦火という「デモーニッシュ」な美をくぐり抜け、小川へたどり着いた二人には、「勇壮な面影」はなく、豚のような鼾をかいて眠る女の横の伊沢は凡夫となり、「戦争という“偉大なる破壊”に身を任せること」を拒絶したことにより、安月給に汲々とするような「“卑小な生活”が再来する」とし、「それこそが伊沢の選んだ道なのであり、彼は正しく“堕落”という“驚くべき平凡さ”を正面から引き受けているのである」と解説し、『白痴』がエッセイ『堕落論』の主題と呼応していることを論考している。 福田恆存は『白痴』に見られる男女間の愛情について、安吾は「精神と肉体との対立」という旧来の主題を追求しているが、安吾は男女間の付き合いを「肉体的なもの」だと断定しているわけではなく、「そうではないかと問を発しているまでのこと」で、「かれは処世術をぶちこわしてみたいのである」と考察し、男女間の「精神と肉体との対立」に妥協して、うやむやに穏便に事を進めるという処世術、妥協から生まれる「無意識」というものに福田は言及しながら、「坂口安吾は無意識の虚を突き、妥協の安定をくつがえすのである。なんのために――精神の純粋熾烈な発光に陶酔したいという、その一事のために。坂口安吾は度しがたい夢想家なのだ」と解説している。そして福田は、安吾の精神はもともと「現実と観念」の間に安定を欠いていたために、「処世術の虚偽」を見抜いたのであり、処世術の否定により、安定を欠いたのではないとし、そういった事実を安吾が「自己の宿命として自覚」したからには、次に「逆の運動も可能」となり、それにより安吾の精神はますます安定を欠いてしまうのだと論考している。 七北数人は、坂口の『南風譜』にみられるピグマリオン奇談的テーマの発展が『白痴』にもみられるとし、「この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか」という主人公・伊沢の心のつぶやきが、「自閉的な恋」であることを暗示していると述べ、以下のように評している。 白痴の女との空襲下の道行きが夢のような幸福感に包まれているのも、二人の世界がまるで伊沢一人の内面世界であるかのように閉ざされているからだろう。男が女を犯しながら女の尻の肉をむしりとって食べる、そんな不気味な夢想に行き着くラストは、初期作品から続く神経症的な不安が覆いかぶさってくるようで狂おしい。 — 七北数人「解説」
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人間がロボット(機械・鉱物)になる『R62号の発明』について渡辺広士は、「単なる人間対機械ではなく、機械になった人間が機械を発明して人間に復讐するというところに、安部流の二元連立方程式の少しこみいった解き方がある」とし、この作品にも、安部の他の短編に散見される「疎外の観念」から人間が「物」に変身したり、「動物=人間という混合形」となる「観念の物質化」の発想があり、それは「現代科学の野心」から見て「未来にありうること」を利用し、「一種のSF的未来物語と見ることが可能な側面」を持っているが、「安部公房の〈人間中心主義〉へのアンチは決して非人間主義ではなく、人間の運命という問題意識を中心に据えたものであること」がその作品の結論から看取され、「この動物・植物・鉱物主義は、その問題意識において人間主義的である」と安部の作品傾向を解説している。 ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタは『R62号の発明』の主題について、戦後復興を遂げた日本社会や産業がアメリカ産業の急速な導入と共に、「テクノロジーが人間世界を支配」しはじめていることへの批判姿勢が明確だとし、ここでロボットは「人間社会を支配し人間の労働力の尊厳を侵しているメタファーとなっている」と解説している。またデバシリタは、チェコの作家・カレル・チャペックの戯曲『R.U.R.(ロッサム万能ロボット会社)』と『R62号の発明』の両者に共通する問題意識に触れ、『R62号の発明』は、一般人がほとんど気にかけることのない、「機械の存在」が長期的に人間に与える影響や脅威への警告が示され、「人間性の機械化に焦点が当てられ、将来の人間の危機が予言されている」とし、そこでは、「機械としてのロボットが人間の知識をモノ化した物体であり、忠実な仲間として作動するものでありながら、それが逆転して人間さえ機械化の犠牲になってしまうというパラドックス」が浮かびあがり、「ロボットの発明は社会構造を変化させ、人間存在にかかわる重大な問題を証明する。ここにロボットの役割の移行または逆転が起こる」と論考している。 またデバシリタは、主人公が冒頭では無名であったのが、ロボット化されてからR62号の存在が認められ、高水社長に復讐をするという構図に触れ、それは逆に見れば、産業社会が高度になればなるほど人間が無力化されるという諷刺なのではないかとし、以下のように論考している。 それは勝利と悲劇の象徴である。R62号はロボットになって非人間的な社会から脱出しようとするのはパラドックスの極限表現といってよかろう。その意味からすると、本作品は人生の否定・拒否から始まり回復・解放に終わる。人間としてできなかったことはロボット化されてから可能になり、労働者(ロボット)は資本家を殺す。しかしここで概念は衝突する。技術に支配されないように警告する一方で、主人公はロボットになったからこそ、社長を殺すことができた。彼は管理社会の外側に逸脱したからこそそれに立ち向かう力を得たのである。作家自身果たしてロボットを人間の象徴と見ているのかテクノロジーの枠と見ているのか、それとも両方なのか。疑問は読者に投げ出されている。 — ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタ「安部公房にとってのロボット文学――短篇小説『R62号の発明』をめぐって」
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『燃えつきた地図』は、従来の小説の慣習(プロットや人物の自然な展開)を破る安部の前衛的な手法が「長編小説」において最初に活かされた作品とされている。また、「他人への通路の探検」というテーマへの一つの到達点をなした作品だとされ、その後の『箱男』『密会』へと、そのテーマは展開して引き継がれている。 三島由紀夫は『燃えつきた地図』を、安部が小説の中に「会話の天才」を見事に活かし、『砂の女』や『他人の顔』よりも、「はるかに迅速に疾走してみせた小説」だと高評し、以下のように解説している。 これは動いてゐる小説である。動いて、動いて、時々おどろくほど鮮明な映像があらはれながら、却つて現実の謎は深まつてゆく。たえざるサスペンス、そして卓抜な会話が社会の投影図法を描き、犯罪の匂ひと、尾行と襲撃と、……その結果、イリュージョンがつひに現実に打ち克ち、そこから見た現実自体の構造が、突然すみずみまで明晰になる。ラストのモノロオグが、この小説の怖ろしい解決篇であり、作品全体の再構築であるところに、一篇の主題がこもつてゐる。失踪者の前にのみ、未来が姿をあらはすのだ。 — 三島由紀夫「推薦文」 ウィリアム・カリーは、『燃えつきた地図』の文体の反復表現の構造を「円環的パターン」と名づけ、それを、疎外された人間のはてしない苦境を見出す構造であると分析しつつ、「終わりのない疎外」という問題の体現を強調するための構造だと述べている。 徐洪は、ウィリアム・カリーの指摘した『燃えつきた地図』の構造分析を敷衍しながら、その反復表現がもたらす表現効果として、「時間の線条性が意味をなさない世界の創造」という効果について考察しながら文体を解析し、以下のように説明している。 「輪」の反復表現は、物語の冒頭と終結で現われることにより、冒頭と終結がつながり、始めは終わりとなり、また終わりは初めとなって、時間は循環するものとして提示されることにより、線条的な時間の流れは破棄される。また、「尻取り式」反復表現は、物理的に与えられたテクスト上の空白を同じ言葉で繋げることにより、両出来事の間に存在していた時間の断絶は埋められてしまうのである。 — 徐洪「『燃えつきた地図』における反復表現」 そして作品を一つの生地に譬え、「この生地は平らな生地ではなく、反復表現により、多くの襞を持つ生地に作り上げられている」とし、その表現方法で物語の時間を縮めたり、元に戻したりすることにより、「生起順の時間」は意味を持たなくなり、「線条的な時間の概念の廃棄により、因果律は破られる」と考察しながら、「原因はなく結果だけが存在する〈失踪〉という本作品の内容はより浮き彫りになる」と解説している。
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「東京のプリンスたち」の記事における「作品評価・解釈」の解説
三島由紀夫は『東京のプリンスたち』を「心情の美しさに充ちた作品」だと評し、「刻々に移りゆき、刻々に変幻する十代の少年男女の心理は、ここではそのまま音楽に化身してゐる。これは現代そのもののフーガだ。今まで誰もが求めながら、誰もが実現しなかつた真の『若さ』の純粋な表現がここにある」と賞讃している。また、深沢が作中に多くの流行語をまじえながらも、「完全に現実を遮断した文体」を作っていることに敬意を表すると述べつつ、作品の最後で一人の青年が激しい睡魔におそわれる場面に触れ、「重い眠りの姿で登場人物の肩にのしかかりながら『現実』が姿を現はすおそろしい効果はすばらしい」と解説している。 日沼倫太郎は、『東京のプリンスたち』を、「何ものにもとらわれることのない人間の理想の生き方を、ロカビリーに熱狂する一群の青年たちの姿をかりて追求した小説」だと評し、深沢七郎の旅好きな面に触れつつ、「ここに日本近代文学が明治以降一度も定着出来なかった旅の思想、『伊勢物語』や芭蕉を源流とする流転文学の系譜がよびもどされている」と考察しながら、この「旅にも似た束縛のない生き方」を、十代の明るい世界に置きかえてはいるが、「本質的にはかなり暗い小説」だと解説している。 また、複数の登場人物を交互に並行して描くという構成に触れつつ、そういった深沢の「メタフィジックが周到な配慮の下にかたられている」場面が特徴的に示されているのは、「正夫がエルヴィスを聴きながら、明治時代に出版された天文学の書物を拾いよむ場面」だと解説している。そして、深沢が天文学の文章のパラグラフを六個所も執拗に入れている理由について、「世界が、その本質としてエネルギーも速度もないノッペラボーの空間であること、個人もまた発生と終末を無によって包囲されていることを強調したかったからだ」とし、主人公の高校生たちの「明るい生活」は、「未来に無を約束された生活の束の間のあかるさなのである」と解説している。
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「二流の人 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説
1940年(昭和15年)の35歳の時に切支丹ものや歴史に興味を抱きはじめる以前、坂口安吾は1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)にかけて、矢田津世子との恋愛と自己の半生に決着をつけるために、渾身の力を込めて野心作である長編『吹雪物語』を執筆したが、それは失敗作に終わっていた。奥野健男は、そのことと『二流の人』の主題を関連づけながら、「自分の才能の限界を知らされ二重の失意」に陥った安吾がその「挫折の痛み」を、「ついに志を得なかった黒田如水」に託して描いた歴史小説が『二流の人』だと解説している。 上野俊哉は、ビートルズからしたら、明らかにローリング・ストーンズは二流だろうが、ザ・フーから見たら、ストーンズの方が一流になるかもしれないというふうに、「二流」とは常に「相対的な価値づけ」にしかすぎないと述べつつ、『二流の人』の主人公・黒田如水は、「覇を競う天下人の間で、彼らにときに畏れを抱かせながら、いささか邪魔な軍師、策士としてふるまい、そのかぎりで〈二流〉を生きつづける」と解説している。そして「知略の人」と言われながらも、この知略において苦労を重ね、「何度も失墜しては浮かび上がる芸当」を見せた黒田如水の「食えない感じ」を、「安吾がどうにも愛していたように読める」とし、次のような作中の一節を引きながら、優等生にも一流と二流があるが、安吾は後者(二流)に惹かれてしまっていると考察している。 崩れる自信と共に老いたる駄馬の如くに衰へるのは落第生で、自信の崩れるところから新らたに生ひ立ち独自の針路を築く者が優等生。官兵衛も足もとが崩れてきたから驚いたが、独特の方法によつて難関に対処した。 — 坂口安吾「二流の人」 そして、「豪放に見えて繊細、磊落にふるまいながら天下御免とはいかない〈虚心と企みと背中合せ〉の黒田如水に安吾が惹かれたのは、この「二流の人」如水が「自分を〈モノ〉のように突き放して、なおかつ自分を見つめ、その巨星たちに弄ばれる運命と位置取りを自らの創造と発見の原理にしてしまうような者であったからだ」と上野は述べつつ、秀吉、家康ら英傑の中で自らの才能を出過ぎず、「その〈機能〉(他人から見た使い方)の塩梅を勘案する」策士・黒田の中に、「もうひとつのいきいきとした〈堕落〉、今ひとつの〈戦後〉」を安吾が読み取っていたと、『堕落論』と関連させて、安吾が「二流のキャラクターたちの位置取りに歴史の筋目を見てとり、同時に様々な価値の相対化と転倒を積極的に生きぬいた」と考察している。
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「密会 (安部公房)」の記事における「作品評価・解釈」の解説
『密会』は、『箱男』から約4年半後に発表された長編であるが、その前作の複雑な作品構造や小説空間と比較されて論究される面があり、『箱男』が「覗き屋の小説」であるなら、『密会』が「盗聴者の小説」であるとみなされることもある。 高野斗志美は『箱男』を、「都市の廃棄物」「死んだ有機物」の群れ、群衆への「鎮魂の散文詩」とするなら、それに対して『密会』では「残酷な無機物による管理システム」が描かれているとしている。そして高野は、妻を捜していた主人公が、「出口のない迷路の全体そのものが巨大な管理の構造」だと気づいた時に、「すべての行為が無益」であり、自分が「管理の迷路(病院)のなかにとじこめられていること」を知り、〈申し分のない患者になること〉を院長に訴える様相を、「疎外の状況にとじこめられることは、出口をみつけないかぎり、さらに深い疎外へと追放されることなのであり、見はられ管理され、追いつめられていく日常のなかで、人間が感覚の断片に転化していくということ」だと解説している。 平岡篤頼は、現代の「未曾有の性的表象の氾濫」状況を、性が解放されスポーツ化されただけでなく、「営利目的をもって煽り立てられ、常に鼻先に突きつけられ、増産され薄利多売されている」とし、それは、「公娼制度以上に管理と統制の色を濃くし、社会全体の神経をピンク漬にしている」状況であり、社会の煽動と個人の色情が互いに増大させ合う関係性となり、いわば『密会』はそういった「悪循環がエスカレートした果てに現出する、色情地獄という逆ユートピア」を描いていると解説している。
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『聖家族』は、文壇から認められた出世作であるが、日本の文学史的に見ても、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』やコクトーの小説の心理分析の手法をうまく取り入れて成功させた意味は大きいとされている。当時『聖家族』を高く評価した作家の一人の横光利一は初版本の序文で、文学史的な位置づけを含めて以下のように評している。 聖家族は内部が外部と同樣に恰も肉眼で見得られる対象であるかの如く明瞭にわたくし達に現実の内部を示してくれた最初の新しい作品の一つである。それは譬へば海底が典雅な未知の世界に溢れてゐるのと等しく聖家族の構造も端整妍美馨香時に溢るともいふべき雍容をもつて姿勢の妙を尽してゐる。確にこれは堀氏の一時代の頂点を示す作品であつて、堅密非常、暗移漸轉、綿密廻環、まことに得難い逸品である。 — 横光利一「序文」(『聖家族』) ラディゲやコクトーのフランス心理小説の手法から学んだ『聖家族』の論理的で理知的な心理描写について丸岡明は、「何んとも解き難い方程式が、幾度か繰返して因数に分解されてゆくうちに、遂に綺麗に解かれてゆく――そういった印象を読者に与える」と評している。松田嘉子は、主人公・扁理が旅立った後の、細木夫人と絹子の心理の描き方において、コクトーの『山師トマ』や、詩『表と裏』などの類似が見られるとしている。 『聖家族』は、師・芥川龍之介の死という現実を元に執筆されたものであるが、堀は芥川の死の後に、自らの小説理念として、「現実よりもつと現実なもの」が「どれだけ確実に、しつかりと捕まへられてゐるか」により、芸術の作品価値が決定されるとし、そういった「現実を超えたもの」には、ただ「それらのよい作品を通してしか、触れることが出來ない」と考え、翌年には、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』について、「作者が少しも告白をしてゐない」ところに感動したとし、「さういふ少しの告白もない、すべてが虚構に属する小説こそ、僕は純粹の小説であると言ひたい」と述べている。 源高根は、堀が述べている「現実よりもつと現実なもの」や、堀が自身の文学について述べた以下のような言葉や、『聖家族』の冒頭文を引きながら、『聖家族』も、「堀辰雄の切実な人間的体験が、次第に文学的体験に転化して行く」一つの例であると解説している。 私の興味は、何と言つても、その作家が自分を棄てるのにどれだけ独特の苦痛をかけたか、といふ点に専らかかつてゐるやうである。(中略)私の作品は――といつて悪ければ、それらの作品を書いた感興の多くは、――フィクションを組み立てることにあつた。私は一度も私の経験したとほりに小説を書いたことはない。(さうかと言つてまた、自分の感じもしなかつたことは一ぺんも書いたことはないが…) — 堀辰雄「小説のことなど」 水島裕雅は、堀は『聖家族』を書くことで、師・芥川の死を形象化し、「自己のあり方を確立すること」を試みたとしている。丸岡明は、象徴的な冒頭文で始まる『聖家族』を、堀の作家としての「最初の脱皮であり、宿命的な作品であった」とし、堀が随筆『小説のことなど』の中で重視している「作家が自分を棄てるのにどれだけ独特の苦痛をかけたか」という言葉を受け、「(堀の)その独特の苦痛は『聖家族』のあの心理小説の手法と、芥川龍之介の死から受けた打撃の処理の仕方のうちに、見られる」と解説している。また、堀の文学は、身近な人々の死を体験し、堀自身も健康を害していたことから、「生は常に死に裏づけられて存在し、風景の描写までが、常に死を背景にして、生き生きと陽に輝く」と考察している。 福水明人は、芥川の死の影響を最大に受けたのが堀辰雄だとし、『聖家族』で扁理(堀自身)と九鬼(芥川)の関係性や類似について堀自身が自覚していた点に触れながら以下のように考察している。 堀は、芥川が自己の弱さを世間に隠しながら、そうすることでかえってその気弱さにたえられなくなる性格であった故に、芥川の悲劇があったとする。こうした気弱さの点で芥川と性格的類似を自覚した堀にとって、芥川の死は自己の危機であった。この危機を乗り越えるためには、堀は芥川の弱さを隠そうとする人生態度とは別の態度を取らねばならない。「そこで彼とは反対に、さういふ気弱さを出来るだけ自分の表面に持ち出さう」という、芥川の裏面を表面とした堀の人生態度が決定されるのである。 — 福水明人「芥川龍之介研究―堀辰雄へのつながり―」 そして福水は、この堀の人生態度が、その文学の方法と密接な関係を持ち、自身の人生における「苦悩する自己の魂」を「文学の核」として位置づけた堀の魂を支配した問題が「死・生・愛」であったとしている。また、堀文学が「私小説」を感じさせない文学である点も、芥川から受けついでいるとし、芥川の晩年の「告白的小説」が小説形式を喪失していたのを見逃さなかった堀が、「告白だけの悲劇」を芥川の死の中に見て、「自己の最も求心的問題」を核としながらも、芥川文学の特色であった「小説の構想性」や「虚構」をそこに付加して復活させたと福水は解説し、「『聖家族』『菜穂子』の主題の展開の中にみられる知的構想性こそ、一見私小説的に見える堀文学と私小説との間に一線を画するものである」と論考している。
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『水中都市』は安部公房が日本共産党員だった頃の作品であるが、発表から25年後に安部公房は『水中都市』について、以下のように述懐している。 舞台化しようとして、久し振りに読み返しながら、びっくりした。あれは僕がコミュニストとしていちばん活躍していたときの作品なんだよ。除名されても無理ないと思ったな。あの頃僕は、下丸子へんでオルグして壊滅しかかっていた工場の組織の再建をやっていた。その時期なんだよ、『水中都市』を書いたのは。いわゆる党の方針とはしじゅう衝突していたけど、まださほど懐疑的ではなかった。 — 安部公房「都市への回路」 田中裕之は、『水中都市』の魚への「変形」の意味について、同時期の短編『洪水』の液体人間の変身の意味とはやや異なる面はあるものの、共産党の新聞売りの言う、〈魚をなくすためにはこの水をなくする必要があります。この氾濫がすべての根本的な原因です〉という言葉や、『水中都市』の魚への変形の前提には街全体が水中世界に変わっているという変化があり、この作品でも「水」と「変革」が関係性を持っていると解説し、刑事でもある〈念珠屋〉の言う、〈それに、この水加減はどうです。舶来ですぜ。ジャズの粉で味つけしてあるから魚の育ちがいい〉という言葉や、当時の安部の共産主義的立場の文学運動を考え合わせ、共産党の新聞売りの言う〈この氾濫〉は、「アメリカに植民地化されている日本の悪しき経済状況――いわゆる水浸しの経済状況――を表しているもの」と受け取れると考察している。 ドナルド・キーンは、『水中都市』を気に入っているユーモアの多い作品として挙げ、冒頭の文章から興味をそそられると述べている。そして、「安部氏の短編を説明したら、詩の説明や歌舞伎のあらすじみたいなものになってしまう恐れがある。説明できないところにこそ安部文学の魅力が籠っているのである」とし、「安部文学の中に存在する哲学的な要素や現代絵画や写真との関係」など学問的な研究はひとまず置き、初期の短編はすなおに楽しく読んでもらいたいと解説している。
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福島正実は、『人間そっくり』を一種独特の構造と雰囲気を持っていると述べ、「読者は、それに引きまわされ、目まいに似たものを感じないではいられない――ほとんどが会話と、ト書きに近い状況説明しかない小説なのに、状況そのものがくるくると二転三転して、何が事実で何が妄想なのか、その区別がしだいに曖昧化していく。ついに“人間”とは何か“火星人”とは何かの概念規定までが失われ、すべては単に“そっくり”なものでしかなくなる」と解説している。 高野斗志美は、SF小説の『人間そっくり』にも、他の作品同様に、「他者」「関係」への安部の関心が看取され、「関係の構造の逆転という角度から読むことができる」作品だと解説している。 永野宏志は安部の「仮説の文学」という語を用い、「認識されないほど環境と自己が電子メディアに接続された現代という実際の世界を、「仮説の文学」から説明するモデル」だと指摘する。
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中野孝次は、安部がガルシア・マルケスの『百年の孤独』を讃辞した文章の一節の、〈現代というこの特殊な時代の人間の関係を照射する強烈な光なんです〉という言葉に着目しながら、安部の他のいくつかの作品同様に『棒になった男』も、「現代における生の構造そのもの」を照射している文学だとし、地獄の男が〈われわれの仕事は、彼等の生を忠実に記録しておくことなのさ〉、〈人間の、見せかけの形に、つい迷わされてしまうんだな。しかし、棒はもともと、生きている時から棒だったってことが分ってしまえば……〉という台詞を引いて、このときの〈棒〉は、戯曲『友達』における「〈家族〉のイメージ」同様に、「われわれ自身の問題としていろんなエコーを呼び起しだす」と考察している。 ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタは、第三景の「棒になった男」において、「他者の道具にしか過ぎない棒と似たような人間存在」を集め分析する「地獄からの使者たち」は、「人間世界の他者」、「大胆で残酷な世間」を表わすとし、それにより、「人間が生きている世界を他者の目で見つめることで世の中に混乱している様々な状況」を浮き彫りにし、「人間が社会制度のなかに取り込まれ、生存枕争、所有欲などによって人間性を失いつつあることが示されている」と解説している。 また、デバシリタは、都市に生活する個々の人間が他者と葛藤しながら生きているのは、生育環境や家庭環境、仕事や交友関係、物事の考え方や価値観や習慣にかかわらずに共通しているとし、そういった近代消費社会の中で、それぞれの道を選択しながら生きている人間存在を「現代都市における〈孤独〉〈アイデンティティーの喪失〉などのシチュエーション」で取り上げ戯曲化し、「現実社会に存在する問題」を提示するのが安部の意図だと考察し、以下のように解説している。 現代社会に広がる人間疎外状況はますます深刻化している。都市の発達に伴う価値観の多様化は、一方では価値観の混乱、人間関係の危機、アイデンティティーの喪失を拡大させている。さらにいえば、現代社会が危機現象に陥っていることを公房は作品を通して読者に伝えようとしていた。 — ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタ「『棒の森』の超時代性をめぐって―安部公房『棒になった男』論―」
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「緑色のストッキング」の記事における「作品評価・解釈」の解説
『緑色のストッキング』は読売文学賞戯曲賞を受賞するなど、同時代評は高い評価をされた作品で、ドナルド・キーンも、「輝かしい成功」作だと評し、幕が上がる前から鳴る効果音(腹の鳴る音)は、草食人間が主人公のこの戯曲に「最もふさわしい〈音楽〉」だと述べ、主人公が下着泥棒だと家族に見抜かれてしまうところを「実によく出来た場面」としている。またドナルド・キーンは、登場人物たちに「名前」が付けられていないのは、必ずしも「普遍性」を狙っているというわけでなく、それが芝居に必要のないものと安部が捉え、「個人の悲劇よりも社会ないし地球の悲劇や喜劇に最も深い関心を寄せている」と解説している。
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作品評価・解釈
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『完全な遊戯』は、精神障害の女性を陵辱して殺すというその内容が、あまりにも反道徳的だと発表当時弾劾されたが、それと同時に文学的な面から擁護する作家や評論家もいた。なお、『処刑の部屋』とともに2010年(平成22年)の東京都青少年の健全な育成に関する条例改正でも石原都知事のこの作品が問題になった。 佐古純一郎は、「もういいかげんにしたまえと叫びたいほどのものである。君たちはこういう小説が書けることに若さの特権を誇っているのかもしれないが、いったい人間というものを少しでも考えてみたことがあるのか。石原はどこかで自分の文学は人間復活の可能性の探求だとうそぶいていたが、作家としての良心を失っていないのなら、少しは自分の言葉に責任を持つがいいのだ」と怒りを露わにしている。 平野謙は、〈完全な遊戯〉という題名を作者・石原が思いついた時、「ニヤリとほくそえんだかもしれぬ」と述べ、以下のように批判している。 作者はすでに昨日の流行でしかないドライ派の青年どもをラッしきたって、残酷を残酷とも思わぬ彼らの完全に無目的な行動を描破したつもりらしい。私はこういう作品をマス・コミのセンセーショナリズムに毒された感覚の鈍磨以外のなにものでもない、と思う。美的節度などという問題はとうに踏みこえている。私はこの作者の『処刑の部屋』や『北壁』には感銘したものだが、あの無目的な情熱につかれた一種充実した美しさは、ここでは完全にすりへらされ、センセーショナリズムのワナに落ち込んだ作者の身ぶりだけがのこっているにすぎない。 — 平野謙「文芸時評」 江藤淳は、「果たして〈完璧〉という観念に人間的なものがあるか。石原氏がここで試み、成功したのは、この観念のほとんど厳粛な空虚さを、抽象化された運動の継起のなかに象徴しようとすることである。〈純粋行為〉がとらえられればよい」と述べている。 三島由紀夫は、『完全な遊戯』に集中した「文壇の悪評」に対し、「日本の批評はどうしてかうまで気まぐれなのであるか」と異議を唱え、『太陽の季節』から『処刑の部屋』へと読み進んだ読者にとり、『完全な遊戯』はその「透明な結晶の成就」で「筆致は澄んでゐる」とし、作品の性質は、「抽象的な美しさ」に集中している「モダン・バレエのやうなもの」と評しながら、「ここには肩怒らした石原氏はゐず、さはやかな悪徳の進行に化身してゐる。一連の汚ならしい暴行と輪姦が、透明な流れのやうにすぎる。ここには自分の方法をちやんとした芸術の方法に高めた石原氏がゐるのである」と考察し、その作品構成を以下のように説明している。 感情の皆無がこの作品の機械のやうな正しい呼吸と韻律を成してゐる。相手は狂女であり、こちらには無頼の青年たちがゐる。一瞬の詠嘆の暇もなしに、行為は出会ひから殺人まで進む。しかも人物の間には、狂女のそこはかとない恋情を除いては、感情の交流は少しもないのである。(中略)そのために狂女は純粋な肉になり、かうした暴行にお誂へ向きの存在になり、青年たちに「完全な遊戯」を成就させるわけであるが、「完全な遊戯」を望んだ青年たちと、それを理想的に成就させた女との間には、何ら感情の交流はないのに、一種完璧な対応関係があつて、そこにこの小説の狙ひがあることに気づかなければ、ただの非人道的な物語としてしか読まれない。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) そして、『完全な遊戯』の主眼は、「青年たちと女との、不気味な照応の虚しさ」であるとし、三島は以下のように解説している。 おとなしい狂女が純粋な肉にすぎずその内部が空洞にすぎないことは、青年たちのがむしやらな行動の虚妄と無意味とを象徴してゐる。青年たちは谺のかへらぬ洞穴へ向つて叫び、水音のしない井戸へむかつて石を投ずるのと同じことで、最後にそのやうにして女は「片附け」られる。しかも最後まで、青年たちは自分の心の荒廃へ、まともに顔をつきあはせることがない。このやうな無倫理性は、「太陽の季節」のモラリストが、早晩到達しなければならぬものであつた。(中略)石原氏は、倫理の真空状態といふものを実験的に作つてみて、そこで一踊り踊つてみる必要があつた。その踊りは見事で、簡潔なテンポを持つてをり、今まで誰も踊つてみせなかつたやうな踊りなのであつた。「完全な遊戯」は、人々が見誤つたのも尤もで、小説といふよりは詩的な又音楽的な作品なのである。それは対立ではなく対比を扱つてゐる。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) また、『完全な遊戯』発表から13年後、文芸評論家・古林尚と三島の対談において、古林が、「石原慎太郎が『完全な遊戯』を出したとき、三島さんが、これは一種の未来小説で今は問題にならないかもしれないけれど、十年か二十年先には問題になるだろう、と書いていたように記憶していますが…」と問うと、三島は以下のように答えながら、カトリック的な絶対者の概念や神的なものへの信仰が崩れてしまうと、「エロティシズム」もなくなり、石原が作中で描いたような虚しい頽廃的セックスだけしか残らないと論じている。 あれは今でも新しい小説です。白痴の女をみんなで輪姦する話ですが、今のセックスの状態をあの頃彼は書いていますね。ぼくはよく書いていると思います。ところが文壇はもうメチャクチャにけなしたんですね。なんにもわからなかったんだと思いますよ。あの当時、皆、危機感を持っていなかった。そして自由だ解放だなんていうものの残り滓がまだ残っていて、人間を解放することが人間性を解放することだと思っていた。ぼくは、それは大きな間違いだと思う。人間性を完全にそうした形で解放したら、殺人が起こるか何が起こるかわからない。つまり現実に起こる解放というものは全部相対的なもので、スウェーデンであろうがどこの国であろうが、ルスト・モルト(快楽殺人)というものは許されない、人間が社会生活を営む以上は、そういう相対的な解放のなかでは、セックスというものは絶対者に到達しない。 — 三島由紀夫(古林尚の対談)「三島由紀夫 最後の言葉」 秋山大輔は、上記のような三島の『完全な遊戯』評から、「(三島は)人間が思考を止めて、欲望のみで行動する時代の到来を石原の小説から眺めていたのかもしれない。現代の社会情勢。セックスの低年齢化や、性犯罪の多様化、ドメスティック・バイオレンスの横行を三島は予見していた、極論かもしれないが、『完全な遊戯』の評論は、的を得ているのかもしれない」と述べている。 中森明夫は、『完全な遊戯』に対する三島の作品評を踏襲する形で構成などを考察しながら、「これは石原文学の最高峰であることは間違いない」と述べ、100年、200年後に石原慎太郎という名や存在が忘却される時代が来たとしても、「必ずこの作品だけは生き残る」と断言したいとし、「『完全な遊戯』は日本語で書かれた短編小説の最高傑作である」と賞讃しつつ、以下のように解説している。 『完全な遊戯』は未来小説とも実験作とも称されたが、考えてみれば、この物語のなかで描かれている蛮行はいつでもどこでも現実に起こりうるものではなかったか。いや、21世紀の今日に生きる我々は、既に頻発する少女の拉致監禁事件や、あるいは1980年代末の女子高生コンクリート詰め殺人事件として件の小説と酷似する事態が現実化していたことを知っている。(中略)『処刑の部屋』の非道なエピソードもまた、近年、世を騒がせた大学生サークルによるスーパーフリー事件としてすぐに誰もが想起するだろう。こんな衝撃的な事件とそっくりの物語を、はるか半世紀も前に執筆していたというのは、作家の想像力によるものか、(中略)いや、単に当時の若い“太陽族”作家が、おそらく自分の周りで起こる不良少年たちの蛮行をいささかデフォルメして書き留めたにすぎないのかもしれない。そう、ちょっとしたチンピラ話を一丁“小説”にでもでっち上げただけなのだと。そして、そう思わせるところが、石原慎太郎という作家の真の“才能”の恐ろしさでもある。 — 中森明夫「解説―石原慎太郎の墓碑銘」
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『夕映少女』は、少女と少年の悲しい恋愛と、画家夫婦と、不思議な性格を持つ宿の女中(窃視症の女)との絡まりを、瀬沼という男の視点で描いているが、この瀬沼は作者・川端康成の分身的な人物とされている。巖谷大四は、この男の視線を「遠くの方から射るように眺めている」と表現し、『夕映少女』を、「一幅の名画を見るような哀しく美しい作品」と評しながら、美しい少女の画像が、「物語の一つのかなめ」になっていると解説している。 瀬沼(作者・川端)の観察者の視点を鑑みながら、『夕映少女』を、「『禽獣』の主題」の明確な発展だと考察している三島由紀夫は、『夕映少女』では、 官能的な女中・「お栄の体」に「作者の目」が喰い入っているようでいて、実はそれよりも、窃視症癖のある「お栄の目」に「作者の目」が喰い入っているとし、しかしそれは、『禽獣』の主題が「客観性を得た」と簡単に言えるものではなく、「さらに錯綜して苦しみを増した」と説明している。そしてその複雑さについて三島は、「お栄の性格の秘密」が、「お栄にとつて無意識なもの」(『母の初恋』の雪子や、その他の川端作品のヒロインの少女たちのように)である限りにおいては、作者(川端)の目」を逃れることは不可能であり、「お栄の秘密」(窃視症)が「作者にとつて既知のものであり、意識されてゐる」限りにおいては、「お栄の目」には「作者の目」が憑いて来ると三島は解説している。 そして三島はその理由について、作者・川端自身の目は、「未知で不可知である“いのちの核心” “いのちそれ自体”(少女や禽獣のようなもの)以外のもの」に対しては、多かれ少なかれ、「それらの持つ眼差に、苦く痛々しく混じって来る習わし」だからだと説明し、この『夕映少女』では、「お栄を通じて、『禽獣』の苦痛が二重の苦痛になり、ある意味では救はれ、ある意味ではますます救ひがたくなつてゐる」と論考しつつ、それは、お栄がそれ自身一匹の「禽獣」でもあるからだと、その二重性について解説している。
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『壁―S・カルマ氏の犯罪』は発表当時、画期的な作品として反響を呼び、それまでの日本近代文学において主流だった「私小説の伝統とそこに密集する近代的自我という人間中心主義の幻想」を打破したという点で、その2年前に発表された三島由紀夫の『仮面の告白』と双璧をなす作品だと高野斗志美は解説している。 芥川賞の選考審査員の川端康成は、『壁―S・カルマ氏の犯罪』を、部分によっては鋭敏でなく、冗漫と思えたところもあるとしながらも、最も高く評価し強く推した理由について、「『壁』のやうな作品の現はれることに、私は今日の必然を感じ、その意味での興味を持つからである。(中略)作者の目的も作品の傾向も明白であつて、このやうな道に出るのは新作家のそれぞれの方向であらう」と述べて、新味があり好奇心を誘った作品だとしている。同じく、芥川賞に推薦した瀧井孝作は、「寓話諷刺の作品にふさわしい文体がちゃんと出来ている。(中略)文体文章がちゃんと確かりしているから、どんな事が書いてあっても、読ませるので、筆に力があるのです。自分のスタイルを持っている。これはよい作家だと思いました」と評している。 『壁―S・カルマ氏の犯罪』の文体について市川孝は、小説の文脈は説明的で饒舌な、蔓衍体的な一面を持つと同時に、簡潔な手法とテンポの速さ、きびきびした会話の展開を含むとし、また、具象的、印象的な図形類を配している点が特色だと述べ、その特色が、「切れることなく続く全体の構成と、印象的なクライマックス」と共に、超現実的な世界を描く観念的な作風と一つの調和をなしていると解説している。 この市川孝の解説評を受け、安部は『壁―S・カルマ氏の犯罪』で「意識的に工夫」した説明的な文章について、「形式的には説明だが、内容的には、単なる前文の繰返しにすぎないのである。分かりきったことを、もっともらしく、あるいは驚きをもって反復しているにすぎない」とし、それは市川の感じた「理屈っぽい傾向」というより、「むしろぎこちない思考」であり、〈ので〉〈から〉等の接続助詞の多出も、「関節の単純さのために、すべての行動をたやすく予見でき、予見できすぎることによってかえって謎めいてくる、あのマリオネットのとぼけたおかしさに近いもの」や、「即物性から飛躍できない、子供の〈理由さがし〉のこっけいさに似たもの」を意図した文体だと説明している。 『赤い繭』について森川達也は、「この作品の生命は、何よりもまず、『赤い繭』そのものが持っているイメージの美しさ、にある」と評し、『赤い繭』が一般的に言われるように、「ユーモアとアイロニーをこめた寓話的な手法によって、現代の人間の置かれた状況を描き出した短篇」には違いないが、単にその寓意を探って合理的に解釈することよりも、作品全体の詩的イメージの美しさを重視したいと解説をしている。
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『菜穂子』は、永年「ロマン」を目指していた堀辰雄の生涯唯一の長編小説となり、晩年の代表作である。『菜穂子』以後、病苦のために長編が書かれることなく、堀は亡くなるが、釈迢空(折口信夫)はその死を悼み、以下の弔歌を詠んだ。 菜穂子の後 なほ大作のありけりと そらごとをだに 我に聞かせよ —釈迢空 菜穂子の物語であったはずの『菜穂子』が、徐々に都築明の比重が大きくなっていったのは、立原道造の夭折に関わりがあり、明の比重が増すにつれて本当の小説に近づいていったと小久保実は解説している。堀の創作ノートによると明と菜穂子は、「冬の旅(Winterreise)彼の生き方は、彼の死によつて、一層完成す。夭折者の運命。 雪(The snow)彼女の生は、彼女の耐へた生によつて、一層完成す。生者の運命。」という対位法的な主題となっている。また、「秋 絶望視せられてゐた荒地からの真の夫婦愛の誕生。貧しけれども匂なけれども、誇らかに美し。――このあたりより、Rembrandt-ray を与へよ」と記されていたが、この主題は実現されなかった。 この最後の主題が暗示的な予感のままだけで終わってしまったことについて佐藤泰正は、日本的な風土において、「〈受胎告知〉的なモチーフ」、「神の人間界への問いかけ」という一種メタフィジックなテーマの実現が難しいことを、この作品は逆説的に示しているとし、この困難な課題は、最も日本的な風土と背景を用いた堀の最後の小説『曠野』でも試みられていると解説している。 少年時代に堀文学を愛読していた三島由紀夫は、『菜穂子』の副主人公・都築明と石原慎太郎の『亀裂』の主人公が同姓同名であるという着眼から、書かれた時代も作風も青年の性格も全く異なる二作品を詳細に比較し評論している。三島は、石原の『亀裂』がその破天荒な悪文にもかかわらず、「為体のしれない活力」の効果により「現代小説」として成功している一方、堀はその優れた文体の名文家にもかかわらず、『菜穂子』は成功作とならずに息切れしてしまい、都築明が老人か子供のようで、黒川圭介に凡俗の悪が足りないことを指摘しつつも、堀の動植物の描写が美しく巧緻な点や、都会人や別荘人種の描写が得手と思われている堀が、実は村娘・早苗のような素朴な田舎の人物の描写に長じ、ある意味、早苗が菜穂子より「ヴィヴィッド」に描かれている利点を挙げている。 また、都築明と黒川圭介の人物造型に、逆にもっと「多量のアクテュアリティー」を与え、実在感を持たせてみる修正案を三島は提示しながらも、ヒロイン菜穂子については、「どんなに周囲の物語が変貌しても、菜穂子だけは古びない」とし、その理由は、「菜穂子だけが作者が真に創造した人物であり、作者の文体にしつくり合つて、その文体と共に呼吸してゐる人物だから」だと解説している。そして、堀が『風立ちぬ』で試み、さらに『菜穂子』で「もつと徹底的に試みたこと」は、フランス古典小説の手法や日本の王朝女流日記(蜻蛉日記や和泉式部日記)の伝統に沿って、「小説からアクテュアリティーを完全に排除し、古典主義に近づかうとしたこと」だったと指摘し、もしも自分(三島)の修正案のように、副人物に「多量のアクテュアリティー」を与えてしまうと、菜穂子と副人物が「異質異次元」の「別の星の住人」になるため、「(堀)氏が決然と小説のアクテュアリティーと身を背けたことは、氏として正しかつたのであり、日本における古典性(これは西欧的な古典といふ意味とは大いにちがふ)の達成においても正しかつた」とし、その理由は、「日本で小説が成立する方向は、文体を犠牲にしてアクテュアリティーを追究するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体を追究するかのどちらかに行くほかはないから」だと説明し、「堀氏はその一方向を徹底した点で立派なのである」と解説している。 さらに三島は、『菜穂子』を支えている三つの「方法論」として、「情念の純粋化による菜穂子の創造(フランス的方法)」、「形而上学的な生の模索の主題」、「自然描写」を挙げ、堀は、「二つの異質の抽象化と自然描写とを一応みごとに結合させ、氏一流の文体のうちに、さしたる不自然もなく融解させてしまふ」と説明し、それは堀の中に、雪舟や光琳や宗達と同じ東洋人の風土的な「抽象衝動」が本能的に潜在していたためで、それゆえに「形而上学と自然と人間との、東洋人らしい、また日本人らしい混同と融和が可能であつた」とし、堀の文体についても、「いかにも西欧的な文体と見えながら、氏は根本において、知的・精神的なものと無縁な抽象衝動によつて動かされ、独自の装飾的文体を創始した」と論考している。 そして最後に、「現代における純粋行為の不可能」という、『亀裂』と『菜穂子』に共通性のある主題に三島は触れ、『亀裂』の「現実」の意味は、「はしなくも菜穂子があのやうに誘はれあのやうに追ひ求めた“生”の意味に似通つてくる」と解説し、『亀裂』も『菜穂子』も共に、「暗い穴の記念碑」であり、「到達不可能の現実に対する絶望的な模索の試み」であるとし、その点で『菜穂子』は、「小説の広義の自然主義的要請をしりぞけず、それにこたへ得てゐるのかもしれない」と考察しながら、「作家の信じた“生”や“現実”の存在は、それへの到達が不可能であることによつて、却つて作品の鞏固な存在条件をなす」と論じている。また三島は『菜穂子』の先蹤的作品として、芥川龍之介の短編『秋』を挙げ、そこにはすでに「近代心理小説の見取図」が出来上っていて、「あとは作者のエネルギーの持続を待つだけだつた」と解説している。 竹内清己は、母・三村夫人が自己省察する、「自己の外貌が自己の実在なのか、第三者の目にみえない自己の内界が実在なのか」という問題は菜穂子にも引き継がれているとし、三村夫人が、自己の内面が「気まぐれな仮象にしかすぎない」のではないかという疑問を持つ点に触れ、以下のように解説している。 この「仮象」の内界を生の準拠としようとすることこそが三村夫人の存在律である。その「仮象」の表象としての、「絶えず生の不安に怯やかされてゐる」「悲劇的な姿」こそ彼女の本体なのである。娘の菜穂子も全く同様の存在様式を持っている。小説『菜穂子』における唯一の実在は、菜穂子その人の「内面仮象」(もはや仮象ではない実在)である。さらに明も圭介すら例外でなく、自己の内面に目覚め、菜穂子との対位関係に入ってはじめて実在性を獲得している。小説の内在律即菜穂子の内面の律動であるといってよい。 — 竹内清己「堀辰雄『菜穂子』論――存在様式の極北」 また、この存在様式は、堀が「生をかけて得ようとした芸術的形象」であり、「ロマネスク」とは、作中に見られるそういった感応の想念のドラマを「古雅な静謐のなかに存立させること」だと竹内は解説し、そのロマネスクを帯びていた母に反発しつつも菜穂子の内界は、「母への同化回帰を志向」し、この二律背反が菜穂子の孤独や虚無を厳しくする、「大いなるクラシシズムを喪失した近代そのものの悲劇」であり、「ロマネスクなるものをもはや望みえない近代人の実存」だと考察している。 そして竹内は、その堀が求めてやまない、ロマネスクなものを抱ける「新しいクラシシズム」は、リルケの『愛する女性』に見られる「ついに苦しみがきびしい氷のよな美しさに変貌」していくような、「心の中だけは自分一人の杳かな世界を守る孤独な方法」を、『かげろふの日記』のヒロインに付与したものであったが、『菜穂子』においてはそれが、「その戸口に立っただけで終り、“孤独な方法”をみいだし生活のなかで実践しうるかどうか今だ提示していない」と解説している。また竹内は、三島由紀夫が、ヒロイン菜穂子が新しく古びないと解説したのは正しいとし、それをさらに敷衍し、菜穂子が古びないのは、「菜穂子の生が人間の存在様式の極北を示している」からだ考察している。
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作品評価・解釈
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「不器用な天使 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説
『不器用な天使』は、主人公の「僕」の意識を中心にして描かれており、「僕」が恋する娘の容姿などが具体的に詳らかに描写されてもなく、客観的な物語の進行を書くというよりも、「僕」の心理を分析するような描き方が主眼となっている。こうした作風は、当時の日本の文壇としては新風として受け止められ、〈ジャズが僕の感覚の上に生まの肉を投げつける〉といった文章や、〈その時、この友人たちが彼等と一緒にカフェ・シャノアルに行くことに僕を誘つた〉という翻訳調の文章も新しい書き方であった。 発表当時の作品評では、平林初之輔が『東京朝日新聞』にて、「ブルジヨア社会の末端からほとばしり出た非生産階級の生活とイデオロギイを現してゐる」と批判しているが、室生犀星と宇野千代は、形式の新しさを賞讃している。 室生犀星は、『時事新報』の文芸雑筆にて、「感覚から起る心理への速度、速度の新しい飛躍」、「横光君以後の作家であり、或意味で横光君よりも素晴らしい新時代にゐるものかも知れぬ」と新しさを強調し、「過去文壇の垢や埃をあびてゐない」、「その描写には自然主義文学から全然隔離された、別種の神経感覚から作為されたものであることに注意せねばならぬ」と全面的に高評価している。 宇野千代も、『時事新報』の月評にて、小説から色彩や匂いが感じられるとし、「何と言ふ手の切れるやうな斬新さだ」、「ここでは一切の心理描写が動作になる。そしてそれはスバラシイ速度を持つてゐる」、「このやうな小説があるならば、私はもうあの好きな活動を見に行くまいかと思つてゐる」と全面的に賞讃している。 川端康成は、平林初之輔のブルジョア批判的な感想について、「そんなに仰々しい形容を持ち出す程の生活も事件も描かれてゐない」と疑問視し、また一方の、室生犀星や宇野千代の賞讃評も大袈裟なものと捉え、『文藝春秋』昭和4年4月号の文芸時評にて、室生犀星の賞讃した「過去文壇の垢や埃をあびてゐない」堀の形式上の努力と才能は否定しないとしつつも、「この作品は徹頭徹尾作者の誤算に成り立つたものとしか思はれない」、「多くの点から若々しい誤算」が感じられると以下のように手厳しい作品評価をしている。 女給や学生達の感情、及びその感情の客観的価値にも、若々しい誤算が感じられる。一言にして云へば、こんな下らない材題を書いたのは、作者の勇ましい誤算としか感じられない。その若々しい誤算はいいとしても、その若々しい誤算のままに我々を捕へるやうな積み重なつて行く魅力のないのは、作者の経験の不足よりも、小説家としての肉体的健康の不足のせゐではないかとさへ思はれる。詩人であつても、小説家としては不足なのだ。これは形式に就ても云へる。 — 川端康成「堀氏の『不器用な天使』」 澁澤龍彦は、自身が翻訳したことのあるジャン・コクトーの『大胯びらき』(少年期の恋愛心理を題材とした作品)との類似を見て、『不器用な天使』がそれを下敷きにして書かれたものだと推察している。澁澤は、『不器用な天使』の「ロマネスクな設定、筋や人物の出し入れから、スタイルやレトリックの細部にいたるまで」コクトーの作品の影響が染みついているとして具体的な文体の類似例を挙げ、「主人公の僕が『大胯びらき』のジャック・フォレスティエだとすれば、そのライヴァルでもあり、奇妙な同性愛的感情の対象でもある槙は、オックスフォード大学出の幅跳びの選手ピーター・ストップウェルである。そしてカフェ・シャノアルの娘は踊子のジェルメーヌであろう」と解説している。 文章は圧縮すればするほど密度が濃くなり、したがって読む側から見れば、スピード感が増したように感じられるのだという創作上の秘密を、堀辰雄はコクトーから学んだのである。たぶん、これが堀辰雄のコクトーから受けた、何よりの大きな贈物であった。実際、後の『風立ちぬ』あたりにも、この教訓はよく生かされているのが感じられるのである。 — 澁澤龍彦「堀辰雄とコクトー」 中村真一郎は、『不器用な天使』の特徴を、「その才気に満ちた表現の連続の下に、実に微妙な〈心理小説〉が隠されていること」だとし、堀辰雄の小説の魅力が、「正にこの、人物たちがその動機を自ら知らずに演ずる行為、またそのための行き違いのドラマにある」と、堀のジョイスやプルーストの影響を鑑みながら解説している。 主人公は彼が気に入りたがっている友人の、その夢中になっている娘に惚れてしまうのである。友人に気に入られるために、友人に感情移入する。友人の目でその娘を見る。それがこの小説のドラマの起原である。(中略)伝染現象は、二人の人物のあいだの意識上の反応ではない。より深部における、ほとんど動物的な感応現象であり、これは第二次大戦後に、フランスの女流作家ナタリー・サロートが「トロピスム」と名付けて描写した、心理小説としては最も深層心理に属するドラマである。(中略)これは彼の生来の繊細で鋭敏な気質が、現実の交友関係のなかで、いわば男女関係にたとえれば女性役の受身の心の働かせをすることによって、感得したものに相違ない。(中略)最初、気に入られたく思っていた友人、槙の眼で少女を見ていた主人公は、今度はその少女の眼で、もう一度、槙を見かえすことになる。 — 中村真一郎「堀辰雄―その前期の可能性について」 また中村は、堀の心理小説は常に「愛の心理の研究」であり、その愛は「苦痛の別名」であるとし、その苦痛は肉体の苦痛のような鋭い感覚として表現されるため、苦痛を除去しようとする心の動きが外科手術のように喩えられるとしている。 池田博昭は、『不器用な天使』の主題が処女作『ルウベンスの偽画』と同じく、アンドレ・ジッドの『贋金づくり』の影響のもとで書かれたとし、『贋金つくり』の登場人物(小説家エドゥワール)の日記中の言葉〈愛する者は、愛している限り、また愛されたいと願っている限り、自分のありのままの姿を示すことができない〉、〈何を見ても、何を聞いても、すぐに「彼女は何と言うだろう?」と考えずにはいられない〉というような恋愛の心理を分析的に描くことが『不器用な天使』の目的であったとしながら、『贋金づくり』の中の〈真に愛する者は、自己への誠実さなど、放棄するものなのだ〉、〈現実の世界と、現実からわれわれが作りあげる表象との間の競合〉という命題と同様のものを主題にしていると解説している。
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作品評価・解釈
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『美しい村』は堀辰雄の軽井沢文学の代表的作品の一つであるが、その美しい自然描写は評価が高く、横光利一も堀へ直接に賛辞の手紙を送るなど、総体的に評論家や作家からも評価が高い作品である。 丸岡明は、『ルウベンスの偽画』に始まる堀辰雄の文学活動は、『聖家族』において一つの頂点を示し、その後のいくつかの作品を経て、この『美しい村』に到達したとし、『美しい村』の各4章は、「互いに精巧な歯車で直接小説の核心に結びつき、ここでは論理と理知とが、一体に溶け合って、雪の華のような不思議な均衡を保っている」と評している。 三島由紀夫は『美しい村』を、「人物が自然の陰に、ちやうど赤い木の実が葉むらの陰に見えかくれするやうに見えかくれしてゐる不思議な小説」だとし、作者・堀辰雄の目を通して見た「精緻な人工的な自然」が、ほぼこの小説の「音楽的主題」を成していると評している。そして、物語そのものよりも「自然描写」が小説の価値を決定づけている例として、堀が藤づるを美しく描写している部分を引用し、日本の小説が「小説よりも詩に近い要素」を多く持っている一例として解説している。そして、本来西欧的な意味において「小説」とはあくまで「人間関係の物語」で、その発生過程がそもそも反自然的なものではあるが、堀のような日本の作家のもつ「自然描写の特殊性」は、そういった人間ドラマの「ダイナミックな要素」より、「自然の静的な象徴的な要素」の方が、昔から今に亘る日本の作家にとり、強い吸引力を持っていることの表われであり、それが「独特な日本の小説の特殊性を作っている」プラスの面であると三島は考察している。 前田愛は『美しい村』が、主人公が4本の散歩道を何度か辿るうちに、「小説のテクストが生成しはじめる」という「入れ子構造」を持っていることに触れ、堀辰雄が小説のなかの風景を描くというよりも、「風景のなかの小説」を描くという独創的な試みをしようとしたと解説している。また「序曲」の章(かつての恋人におくる手紙の章)が、「寄物陳思(ものによせておもひをのぶる)の作法」にかなっているとし、「誰にも見られずに散つてしまふさまざまな花(野薔薇や躑躅)」を自分1人だけでいくつしもうとする堀の感性のはたらきは、『古今集』の中の「五月待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(読人知らず)の心と通じるものがあり、「戦後の雑駁な世界」に生きている現代人よりも、よほど「平安時代の風流心」に近づいているとし、以下のように解説している。 この野薔薇のモチーフをサナトリウムの道へ、水車の道へと変奏させて行く、『美しい村』の音楽的手法を理解するためには、ラディゲやプルーストの影響をつよく受けていたと信じられている昭和初頭の堀辰雄が、ごく自然に古典的な美意識の枠組にそくした発想くりひろげることができた文化の逆流に思いを致すことが必要なのである。 — 前田愛「幻景の街文学の都市を歩く」 また堀の作品の中でも、特にプルーストの影響が強くあらわれている『美しい村』には、『失われた時を求めて』の架空の町・コンブレの風景描写が溶かし込まれ、4本の散歩道に沿って現れるそれぞれの心象風景が微妙に描き分けられるところは、『失われた時を求めて』のスワン家の方の道と、ゲルマントの方の道で回想される恋人たちとの出会いを二つに切り分けているところとの共通性が鑑みられ、花と少女が重ね写しになるところの着想は、『失われた時を求めて』の中の「花咲く乙女たちのかげに」からヒントを得ていると前田は指摘しつつも、『美しい村』は『失われた時を求めて』の単なるミニチュアではなく、「ミニチュア以上の何か」であるとし、向日葵の少女・矢野綾子との「偶然の宿命といってもいい幸運な出会い」が作品生成の力となり、彼女の登場する「夏」の章からは、「失われた時を求めるプルースト風の小説」から「現在時の小説」へと成長しはじめ、風景が「呼吸づきはじめる」と評している。
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『アメリカひじき』は、野坂自身のアメリカへの複雑な思いを描いている作品であり、直木賞を同時に受賞した『火垂るの墓』は、家族の中で一人だけ戦後に生き残ったということの贖罪やうしろめたさや、妹への鎮魂が執筆動機となっており、共に戦争体験がモチーフとなっている作品である。 しかし野坂には、そういった敗戦体験に対するうしろめたさや怯えを定式化しようとする意思はなく、「概念化することでなく、そのもの自体をそれとして描き、発見することにつとめている」と、尾崎秀樹は述べ、野坂独特の劇作的な文体も饒舌的な語り口も、「ふかく彼の体質にまつわるものだ」とし、以下のように解説している。 彼は小説を書くことによって、焼跡闇市への回帰をくり返してきた。死んだ肉親や過ぎ去った過去を悼むというよりも、内発的な声にしたがってそれをまとめたというところに、彼の文学の独自性があるのだろう。事柄を概念化したり、図式化したりするには、あまりにも大きな体験だった。したがって書くことだけが唯一の方法だといった彼のありかたが、語り口の個々の言いまわしのなかにまでしみとおっている。 — 尾崎秀樹「解説」
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堀辰雄の処女作である『ルウベンスの偽画』は、『聖家族』の序曲的な作品であり、堀の特徴的な文体がよく表れている作品であるが、三島由紀夫は堀のその文章の特徴について、「まるでどの文章にも堀辰雄といふ印鑑が捺されてゐるやうに誰の眼にもすぐわかる特徴」を持つとし、「作家がこれほど特徴のある文体をもつことは、作品の世界を狭くする危険もないではないが、堀氏はそれを堂々と押し通して、長く病床にありながら、自分の芸術的世界を守り通した稀有な作家」だと評している。 そして三島は、作中の「彼女の顔はクラシックの美しさを持つてゐた。…」から始まる有名な二段落をその特徴的文体の一例として引用しながら分析し、堀がフランス文学のエスプリ・ヌーヴォーの作家たちの影響を受け、その文章が一見まるで日本文学の伝統から遠いように見えながら、堀が後年傾倒した王朝女流日記の文体よりも、「むしろ鏡花のやうな作家の文体に近い」とし、その類似性を、「自分の気に入つたものだけを取り上げて、自分で美しいと思つたものだけに筆を集中しながら、自分の気に入つた言葉だけでもつて、美しい花籠を編みます」と表現し、堀の文章は一見「フランス的な明晰さ」を持っているように見えながら、そこに「おそろしい強さ」はなく、「明晰さに仮装された感覚の詩」であると解説している。 池田博昭は、堀がアンドレ・ジッドの「(筋とか、事件とか、風景など)小説に特有でないあらゆる要素を、小説から取除く」という理念や、レイモン・ラディゲのいう「ロマネスクな心理学」としての心理小説を書くことを意図して、自身も「純粋小説」を目指し、「古典主義の原理」に従って作品創作していたことを解説し、それに関連させながら、『ルウベンスの偽画』の主題も、アンドレ・ジッドの『贋金づくり』の作中の言葉である「愛する者は、愛している限り、また愛されたいと願っている限り、自分のありのままの姿を示すことができない。のみならず、相手の姿も見ることができず、その代り、自分が飾り立て、神として祭り上げ、創作した偶像を見ているにすぎない」という考えに影響され、それを取り入れていると考察している。 そして池田は、『ルウベンスの偽画』はジッドの『贋金づくり』よりはるかに小規模作品ではありながらも、「現実世界と、現実からわれわれが作りあげる表象との間の競合」ということが根本主題となっているとし、そこには、「諸人物の現実からつくりあげる表象が現実そのものと抗争して、崩れてゆく過程」が描かれていると解説している。
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『処刑の部屋』の文学的な評価は石原文学の中では比較的評価が高く、酷評の混じっている『太陽の季節』や『完全な遊戯』に比べると総体的に安定した評価がなされている。 山本健吉は、『処刑の部屋』について、「背徳をえがきながら実に健康」で、「小説の原型への郷愁さえこの中に脈打っている」とし、以下のように評している。 「太陽の季節」の方が、虚飾的な文体だけにかえって感銘がナマであり、世の母親たちをして怖れさせるような要素があるのだ。「処刑の部屋」も、リンチの描写はもっと簡潔に書けるはずだし、結びの独白のごとき、ヘミングウェーの「誰がために鐘は鳴る」の結末の手法そっくりでもある。だがともかく、この作品に新人石原の成長ぶりを認めたい。 — 山本健吉「文芸時評」 『処刑の部屋』と『黒い水』が石原慎太郎の小説で「最もいいもの」と評する三島由紀夫は、その会話の場面にリアリティーがあるとして以下のように解説している。 『処刑の部屋』にゑがかれた世界は、映画ではそんなに珍らしい世界ではない筈だが、ああいふ世界を描いて、あれだけリアリティーのある会話を駆使したものは、映画にも小説にも見当たらない。あの会話に、作者および現代の若い人たちの生活感情がよく出てゐる。ぶつきらぼうで、叩きつけるやうな会話、口に出して言へないやうなことを物の見事に言つてしまふ会話、あのスピード、あの行動性、……ああいふ会話は、今まで会話の部分に来ると、描写が停滞する感のあつた日本伝来の小説と正に逆である。 — 三島由紀夫「『処刑の部屋』の映画化について」 その設定や構成については、『太陽の季節』のようなブルジョア家庭の背景がないため、主題が矛盾なく提示され、舞台と登場人物も「特殊化」され、「いきいきとして写実的な会話で物語がつながれながら全体は抽象化」し、「甘さの印象を与へかねない〈愛〉の主題」が引っ込められている代りに、「反理知主義、反知性主義が正面に押し出されてゐる」とし、「インテリの劇画」的な吉村という「非力な」登場人物も配置され、「多分にメロドラマティックな調子で、血なまぐさいクライマックスへ向つて押しすすめられる」物語の構成には「ほとんど瑕瑾がない」と三島は評している。 また、作中の「反知性主義」の最も重要な一行として、〈これが夢か、こんなに手応えがあるじゃねえか〉という主人公・克己の言葉を挙げ、その「ひたすら〈張って行く肉体〉に対する克己の信仰」には、自らの行動の「無意味」を要請するものがあり、克己は〈本当に自分のやりたいこと〉をやろうとするが、それが何であるのかを知らない状況に自らを置きつづけるために、「最後に彼が縛られてあらゆる行動を剥奪される成行」は、いかにもそれを象徴的に表すが、作者・石原の主眼はその先にあると三島は説明しつつ、「抵抗も責任もモラルも持たない行為が、肉体の苦痛の強烈な内的感覚に還元されるところに、一篇の主題がこもつてゐる」とし、その理由を、「肉体の苦痛の究極は、(彼が克己であつてもなくても)、知性の介入を厳然と拒むから」だと考察している。そして、苦痛が「厳密に肉体的なものである」ということに、「克己が今まで求めて来た本当の〈無意味〉」があり、「どんな野放図な行動にも平然と無意味を見てゐた主人公が、自分の置かれた究極の無意味の中に、意味を見出さうとするところでこの作品は終る」とし、以下のように論じている。 だからこの死苦は、彼自身の必然的帰結であり、彼が自ら求めたものなのだ。克己の言ひたいことは、肉体にはかうした自己放棄が可能であるのに、知性にはそれが不可能ではないか、といふ嘲笑的思想であらう。皮肉なことに、これは又、多くの宗教家、肉体的苦行者が内に抱いてゐる嘲笑的信念と同じものである。肉体は知性よりも、逆説的到達が可能である。何故なら肉体には歴然たる苦痛がそなはり、破壊され易く、滅び易いからだ。かくてあらゆる行動主義の内には肉体主義があり、更にその内には、強烈な力の信仰の外見にもかかはらず、「脆さ」への信仰がある。この脆さこそ、強大な知性に十分拮抗しうる力の根拠であり、又同時に行動主義や肉体主義にまとはりついて離れぬリリシズムの泉なのだ。石原氏の共感が、いつも挫折する肉体的力、私刑される学生、敗北する拳闘家へ向ふのは偶然ではない。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) また三島は、「力の勝利」と「知性の勝利」がオリンピックの冠のように相似るのは、「勝利」の性質が「肉体の向う側」へ人を放り出し、「勝利」(幸福)を人は「厳密に肉体的に味はふことができない」からであり、「幸福といふのは精神の発明物」であるからだとし、しかしそれが「敗北」においては二者(力と知性)が「截然と」違う様相となり、肉体と力が「生々しい知性への侮蔑」を表わすのは、「肉体的敗北は明白な苦痛」だからであり、「苦痛こそ純肉体的領域であつて、どんな精神的苦痛も目前の歯痛を鎮めることはできないのだから」と説明しつつ、〈これが夢か、こんなに手応えがあるじゃねえか〉の一行に、『処刑の部屋』の芸術的特色があるとし、その時の克己は、「夢」と「手応へ(現実)」の中間にいて、その場面は、克己の考えた「現実」が、物語の始まりからどんどん「限局」「圧縮」され、「かつて思ひのままに行動した世界の花やかなひろがりは、記憶の中の喚起にすぎず、圧縮された現実はつひにベルトに縛られた掌の感触の一点にまで絞られて、ともすると夢がこの現実をくつがへしてくれさうな予感にをののきながら、主人公が小さな一点の感触に向つて必死に集中する」と考察しながら、「この件りは、石原氏の書いた最も美しい文章の一つである」と評している。
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『桜の森の満開の下』は坂口安吾の作品の中でも評価が高いだけでなく、その幻想的な作風からも人気があり、翻案作品も多いが、初出当時はあまり注目されておらず、安吾の死後に讃辞されるようになった作品である。 奥野健男は、『白痴』、『青鬼の褌を洗う女』、『夜長姫と耳男』と共に『桜の森の満開の下』を挙げ、「これは天才でなければ絶対に書けぬおそろしい傑作であり、坂口文学の最高峰といえよう」と述べている。また、坂口の全作品でどれか一つを選べと言われれば、『桜の森の満開の下』を挙げるとし、「芸術の神か鬼」が書いたとしか思えず、世界の文学の中でもこれほど「美しく、グロテスクで恐ろしい作品」は稀だと評している。 『桜の森の満開の下』の主題について福田恆存は、「人間存在そのものの本質につきまとう悲哀」を追求しようとして、安吾は執筆に至たり、素材のもつ現実性を避けるために説話形式をとったと解説している。 王愛武は、『桜の森の満開の下』は、『堕落論』や『白痴』に引き続き、安吾が「反逆の筆」を取り、メタファーの手法を用いて、「孤独と虚無」を描写していると述べ、安吾の言う「救いがないということ自体が救いである」(『文学のふるさと』)という言葉を引きながら、そこに老子とほぼ同じ思想が見られるとし、「自然は人間の力を借りずに物事をその軌道に乗せるものである。孤独は救いのないものなら、救いのないままにすれば、自然に救われる。孤独は人間の本質なので、人間を人間らしくするものではないだろうか」と論考している。そして終結部での、山賊はもはや孤独を怖れず、「彼自らが孤独自体」という箇所に触れ、それは安吾の一連の作品に共通する「堕ちるを堕ちきる」べきである主題と通じ、人間の孤独を強調して描いていると解説している。 七北数人は、『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』を、「年々人気も評価も高まり、幻想作家としての一面を鮮烈に印象づけている」作品だと評し、「残酷で気高い女王の歓心を買うため、命をすりへらす下賤の男」というその構図は、泉鏡花の『高野聖』や谷崎潤一郎の諸作とも通底し、西洋の説話文学の『雪の女王』『石の花』『タンホイザー』などにも多くみられる話型である解説し、「安吾作品では、女が残酷であればあるほど無垢な聖性がきわだち、血みどろの世界にふしぎな透明感が漂う。マゾヒズムに陶酔境を見いだす谷崎とはこのあたりが決定的に違う」とし、「(安吾には)恋するがゆえに死を賭してでも被虐に堪えようとする、恋の苦しみのほうに関心があったように思われる」と考察している。
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『舞踏会』は芥川龍之介の中期を代表する名品の一つで、この作品を好む作家も多い。 芥川の短編の中で『舞踏会』に「もっとも愛着を覚える」という江藤淳は、「多分私は、鹿鳴館の夜空にきらめいて消える花火が好きなのである」と述べながら、「一切の道具立てがこの花火のために存在する」ように見えると評している。 なお、H老夫人はフランス人青年を、ピエール・ロティだと知らなかったことになっているが、初稿では、最後の場面で青年小説家から海軍将校の名前を訊ねられた夫人が、それに答える部分は以下のようになっており、彼女がロティの素性を知っていたことになっている。 「存じておりますとも。Julien Viaud(ジュリアン・ヴィオ)と仰有る方でございました。あなたも御承知でいらつしゃいませう。これは『お菊夫人』を御書きになった、ピエル・ロテイと仰有る方の御本名でございますから。」 —芥川龍之介「舞踏会(初稿)」 芥川は、この結末を刊行本収録の際、夫人がロティの素性を全く知らないということに改変している。芥川が終結部で、対照的な夫人と青年の関係を描いていることについて、江藤淳は、青年小説家の「教養主義の空虚さ」を浮き立たせるものであると解説している。また、三好行雄は、「名を知ることで実を喪失する知的教養主義の〈空虚さ〉」を批判するためだと考察している。 芥川の『舞踏会』を下敷きにして戯曲『鹿鳴館』を創作した三島由紀夫は、『舞踏会』を「短編小説の傑作」、「芥川の長所ばかりの出たもの」と評し、後期の衰弱したものより「よほど好き」だと述べている。また「美しい音楽的な」作品とも評し、以下のように作品解説している。 芥川の持つてゐる最も善いもの、しかも芥川自身の軽んじてゐたものが、この短篇に結晶してゐるやうな感じがする。それは軽やかさと若々しさとうひうひしい感傷とである。時代思潮に毒された擬似哲学的憂鬱ではなくて、青春の只中に自然に洩れる死の溜息のやうなものである。(中略)この短篇のクライマックスで、ロティが花火を見て呟く一言は美しい。実に音楽的な、一閃して消えるやうな、生の、又、死のモチーフ。この小説の中に一寸ワットオのことが出てくるが、芥川は本質的にワットオ的な才能だつたのだと思ふ。時代と場所をまちがへて生れてきたこのワットオには、本当のところ皮肉も冷笑も不似合だつたのに、皮肉と冷笑の仮面をつけなければ世を渡れなかつた。「舞踏会」は、過褒に当るかもしれないが、彼の真のロココ的才能が幸運に開花した短篇である。 — 三島由紀夫「解説」 野村圭介は『舞踏会』を、「まことに珠玉の名品と呼ぶにふさわしい作品」と評し、ヒロイン明子の名前は、文明開化、明治の「明」を表わしていると解説している。そして、作中の随所に描かれている「菊の花」は、この作品の「基調」をなし、冒頭の「殆人工に近い大輸の菊の花」は、花火と照応していると考察しながら、明子がその花火を見て、「殆悲しい気を起させる程」その花火を美しく思う部分に触れ、「明子の味う始めての悲哀。彼女は花火を、已れの恋の幻影に、一瞬燃え上って今たちまち遇ぎ去ろうとしている恋の幻影に、何程かは重ね合せて見つめる故に、ことさらそれを悲しいまでに美しいものと感じるのであろう」と評している。 そして、菊の花を見るたびに、鹿鳴館を思い出すH老夫人となった明子が、汽車で鎌倉に向うことと、17歳の明子が馬車に乗って鹿鳴館に向った時代の対比に触れ、32年前の馬車も鹿鳴館も、一緒に同乗していた父親ももういないが、老夫人の中の「おびただしい大輸の菊の花、ならびに夜空に咲いた人工の大輸の菊」は、青年小説家の持っていた小さな菊の花束に、「収縮され、収束されて、網棚の上にひっそりと存在する」とし、それは夫人の追憶の中で、「再び一挙に、数多の大輸の菊となって、華やかな舞踏室の中に、秋の夜空に開花する」と解説している。
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『砂の女』は日本国内のみならず、海外でも注目され、「現代文学の最良の収穫」という高い評価をされている。この作品を機に、安部公房は、国際的な作家とみなされることになった。 大佛次郎は、「『砂の女』は変わったもので、世上に繰り返されている小説ではなく、また二度と書き得ないもので、新鮮である」と評し、「私は新しいイソップ物語りとして愛読した」と述べている。 三島由紀夫は、「詩情とサスペンスに充ちた見事な導入部、再々の脱出のスリル、そして砂のやうに簡潔で無味乾燥な突然のオチ、……すべてが劇作家の才能と小説家の才能との、安部氏における幸福な結合を示してゐる」と評し、以下のように解説している。 日本の現実に対して風土的恐怖を与へたのは、全く作者のフィクションであり寓意であるが、その虚構は、綿々として尽きない異様な感覚の持続によつて保証される。これは地上のどこかの異国の物語ではない。やはりわれわれが生きてゐる他ならない日本の物語なのである。その用意は、一旦脱出して死の砂に陥つた主人公を救ひに来る村人の、「白々しい、罪のないような話しっぷり」一つをとつても窺はれる。 — 三島由紀夫「推薦文」(『砂の女』) 阿刀田高は、「小説の一番の面白さは、謎が提示され、それが深まり、最終的にそれが解けてゆくことだが、この作品はその構造を持っている。砂がもう一つの主人公になっていて、砂は日ごとに変わり、独特の模様を描き、無機的である。生きているような様相を持っているし、何もないように見えながら、生命体を隠していたりして、非常に不思議な存在の砂に目をつけたというところが、この小説の面白さじゃないかと思う。人間の自由とは何なのか? 自分たちが接している日常とは何なのか? と、根本から問いかけるような側面があって、男と女の根源にも問いかけるようなことも持っている。これだけ小説の望ましい姿が詰め込まれている作品は、なかなか見当たらない。このぐらいの小説を生涯に一つ書けたら、死んでもいいぐらいに(同作品に)惚れている」と評している[要出典]。
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清水邦夫は、『幽霊はここにいる』に登場する「幽霊そのもの」が何を意味するか、という「象徴主義的な」捉え方はナンセンスで、そういった「哲学的価値判断」の観点は作品そのものへのアプローチをすでに最初から間違えてしまうことになるとし、『幽霊はここにいる』は、そういう判断がずっと背後に押しやられた世界だと解説している。そしてそこが単なる「諷刺劇」と大きく違うところで、「安部公房が常に目ざす、実在物のような顔をして日常の中をうろついている(非実在物)の姿をあばき出す作業の優れた有効性を示すところ」だと説明し、そういった「実在物のような顔をしている非実在物の発見」は、「今日の状況の複雑な相」を新しいユニークな視点からいくつも重ね合せて衝突させるところからなされるものであり、その内容は、「思いもかけぬ出会いに満ち満ちた巨大な“迷路”としかいいようのない、そら恐ろしいもの懐深いもの」に思えると評している。 高橋信良は、『幽霊はここにいる』の元となったとされる小説『人間修行』や未発表戯曲『仮題・人間修行』と比較し、元作品では幽霊が実体を持ち、観客や読者の「感情移入の対象」となっているのに対し、『幽霊はここにいる』の幽霊には「ブレヒト的な異化効果」が機能しているとし、観客を「何者にも同化させない効果」として、論理的な人物(ミサコ)が重要な役割を果たし、唯一、幽霊が見えていた深川も、「幽霊のおかげで論理的にならざるをえない」人物であり、深川(実は吉田)は、「観客の代わりに幽霊の論理化を試みる」存在だと説明している。そして高橋は、安部公房自身が〈幽霊たちの事業が、ますます繁栄を約束されたところで、幕になるのである。幕がおりた瞬間、舞台と観客とは、完全に逆な方向をむいている〉と語っている構図を鑑みながら、「深川にとっての幽霊は、論理化されて消滅することで、枯尾花となってしまう。しかし、深川が観客という存在のパロディ的役割を果たすとき、枯尾花でない〈幽霊より強い幽霊〉は消滅しない」と解説している。
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作品評価・解釈
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『楢山節考』は発表当時、多くの作家や評論家から反響をもって迎えられ、この一作で深沢七郎の名が有名となった出世作でもあり、処女作である。 辛口評論家として知られる正宗白鳥も、「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である」とし、「私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」と絶賛している。また福田宏年も、「私は戦後三十年の日本文学の作品の中でただ一作を選べといわれたら、ためらうことなくこの『楢山節考』を挙げたいとおもいます」と評している。 中央公論新人賞の審査員であった武田泰淳は、「いかなる残忍なこと、不幸なこと、悲惨なことでも、かえってそれがひどくなればなるほど、主人公の無抵抗の抵抗のような美しさがしみわたってくる」と選評し、伊藤整も、「僕ら日本人が何千年もの間続けてきた生き方がこの中にはある。ぼくらの血がこれを読んで騒ぐのは当然だという感じですね」と選評している。三島由紀夫は、その読後感を、「総身に水を浴びたような感じがした」と選評し、「何かこわいというか『説教師』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」とも語っている。 また三島は、後年のエッセイの中で、審査員が新人の作品を読む時の心境を、年ごとに祭の神輿の若い担ぎ手が下手になっていくのを嘆く町会の旦那衆の心境に喩え、同時に審査員は「これが小説だ」という新人の出現を密かに期待して、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持」も伴っているとし、そういった「慄然たる思ひ」を只一度感じたのが、深沢七郎の『楢山節考』の生原稿を読了した時だったと振り返り、「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」と述懐しながら、以下のように語っている。 しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、「楢山節考」のこの最初の読後感に源してゐる。 — 三島由紀夫「小説とは何か」 日沼倫太郎は、『楢山節考』の印象について、孝行息子が「はりさけんばかりの心」で母を捨てに行くという「残酷な行動」と、それに背馳した「肉親間の美しい愛情」とが、「奇妙にないまぜられ、全体として、酸鼻とも明るさともつかぬイメージをみなぎらせている」と評し、そういった深沢の作り出す「イメージの世界のつよさ」に定評がある理由については、「あらゆる素材が物として処理されているから」、あるいは「物としてとらえる存在把握、ないしは存在透視力、ないしはメタフィジックにもとづいているから」だとし。その世界観について以下のように解説している。 深沢氏にとって世界とは、それ自身としては何の原因もない「自本自根」のものすなわち無であり、空間の拡がるかぎり時間の及ぶところ、何時はじまって何時終るとも知れない流転である。万象はその一波一浪にすぎない。あらゆる事象は「私とは何の関係もない景色」なのである。このような作家が、作中に登場させる人物たちをあたかも人形か将棋のコマのように扱ったとしても無理はないだろう。(中略)このように深沢氏は、近代の人間中心的な思想とはまったく対蹠的な地点に立っている。これは深沢氏が徹底したアンチ・ヒューマニストであることを示している。 — 日沼倫太郎「解説」(文庫版『楢山節考』) 木村東吉は、「おりんは死ぬべき人間として運命づけられており、彼女は自分の死を完全無欠のものにするために全力を傾注している」とし、自ら歯を折り、自分の死後、家族が困らないように全ての知識を伝授する、その振舞いや生き方に触れ、「自分の本能的欲望を主張しようとする姿はまったくなく、彼女は自己犠牲の道を誇り高く歩んでいるのである」と解説している。そして、そのおりんの行動を無言で感じる息子・辰平が隠れて泣くのを、またおりんも無言で知るような、「あらゆることが相互に理解されている」関係性があることを指摘しながら、「おりんの生き方や誇りは地域社会の価値体系に合致」し、それはすべて無言のうちに辰平や村人に通じているため、おりんは孤独に陥ることなく、自分の行き方を貫徹でき、自己犠牲でありながらも十分幸福であったと論考している。 そして木村は、こういった強い「おりん像」は、作者・深沢自身の母親の像と重なっているとし、深沢が肝臓癌で死んだ母親を、「誇り高い女であった」と述懐し、葬儀の夕方から振り出した雨を、「私は雨をあんなに美しいと思ったことはなかった」と『楢山節考』の雪を彷彿させる場面を語って、母親と同じ肝臓癌で死ぬのを理想としていると日頃から口にしていたことを鑑みながら、「根っこのおりんの生き方は、そのまま作者自身の理想であったと考えられるのである。すなわち、おりんは作者の母の理想化された像であると同時に、作者の夢を託した人物だったということができる」と解説している。 大木文雄は、日本独特と思われる『楢山節考』が外国人留学生たちにも感動を持って受け入れられたことから、その民族を越えた「感動の源泉」を探るため、フランツ・アルトハイムが『小説亡国論』の中で説いている要旨を説明し、アルトハイムが賞讃するダヌンツィオとロレンスの小説は、その中に「根源神話を孕んでいるゆえに飼い慣らされた文明を突き抜け、根源にひそむものに触れ得る力を持った文学」であり、「人間以前の動物的な深淵に触れさせることによって飼い慣らされた文明に風穴を開けさせ、革命させることのできる文学」であると纏めながら、『楢山節考』の「感動の源泉」もまた、アルトハイムの説く「根源神話」と同じ次元から来ているとし、「姥捨伝説」は「太古から存在し、現在でも生きている」根源神話で、世界中に類似のものがあると解説している。 そして、「姥捨て」は「高齢者福祉」という21世紀の大きな問題として現在し、介護施設に親を入れることは、「楢山まいり」に行くことと重なり、老いと死は人間の根本的な問題の「根源神話」であるとし、大木は以下のように考察している。 まさに「飼い慣らされた文明」を突き抜けてさらに太古にまで溯る動物的な、ロレンスの言う「血と肉」と結びつく根源神話である。子孫のために自ら死を選ぶというありようは、突き抜けると動物の本能にまで溯る。鮭は産卵のために壮絶な死を選ぶ。生のための死。それは自然の根源法則が支配する世界である。それはゲーテのあの「至福なる憧憬」の詩の中にある「死して成れよ」Stirb und werde! の次元である。それはもはや神秘の世界に属する。それは汚すことのできない神聖な領域である。「楢山」には神が住んでいるというのはそういうことを意味する。 — 大木文雄「深澤七郎の小説『楢山節考』とフランツ・アルトハイムの『小説亡国論』」 また大木は、「姥捨て伝説はなかった」と主張する古田武彦の根拠の一つである、「親子みんなで、腹をへらしてがんばる、というのが本当じゃないかな」という発言を、まさに「飼い慣らされた文明」の世界での発言だと指摘し、「誰かが死ななければ子孫が生き残れないほどに生活が苦しい状況」に直面した際に、そんな言葉は「戯言にすぎない」と反論して、誰もが持つ人間の生存本能や死の恐怖を突き抜けた世界は、「それよりもはるかに壮絶な動物的な愛の本能にまで触れる世界」であり、「おりんの『楢山まいり』とそれをいやいやながら手助けする辰平の姿は、恐ろしく、壮絶だが、しかしそこには壮絶故の美が宿っている」と述べている。
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作品評価・解釈
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『南京の基督』は谷崎潤一郎の『秦淮の夜』に依拠しているが、フローベールの『聖ジュリアン』の文学的技法や描写法の影響もあるのではないかと西原大輔は考察している。 なお、『南京の基督』は芥川の技巧の冴えた傑作短編の一つとして、評価の高い作品であるが、その一方で、よく出来た作品ながらも、前作『秋』でせっかく近代心理小説の新しい転換を図ったのに、また以前の得意な作風になったことを惜しむ久米正雄の評もある。 三島由紀夫は『南京の基督』を、「実によく出来た、実に芥川的な短篇」としながらも、「古典的名作」とされているこういった作品が、案外「芥川のもので一等早く古びさうに思へる」とし、その理由を、芥川が本来的に持っているナイーブさが見られないという主旨で以下のように解説している。 それはあながち、一篇の主題の、アナトオル・フランス的な悠々たるシニシズムのためばかりではない。十九世紀趣味の物語手法のためばかりではない。似たやうな手法の谷崎潤一郎の初期作品に比べると、短篇技巧では谷崎のはうが粗雑かもしれないが、あの悪童が泥絵具をおもちやにしてゐるやうなヴァイタリティーがここにはない。「南京の基督」を成立たしめてゐる作者の人生観が、谷崎より幼稚でないならばないなりに、それだけ作者の本来のものではない感じを与へる。つまり完全にナイーヴィテが欠けてゐる。 — 三島由紀夫「解説」(芥川龍之介著『南京の基督』) しかし三島は、こういった評は、「後人のないものねだり」で、短篇小説というジャンルを、その当時の時代にここまで完成させることは、芥川以外の他の誰にもできなかったことであり、「近代日本の急激な跛行的発展の一つの頂点の文学的あらはれ」だと賛辞している。そして、その巧さを、「日本人本来の繊細なクラフツマンシップ(職人芸)が、ここまで近代芸術としての短篇小説を完成せしめたのは、現在のカメラ工業の発展とも似てゐる。この精妙なカメラは、本場物のライカをさへ凌いでゐる」とし、これに比して「昭和文学の短篇」はだらしない作品が増え、「川端康成と梶井基次郎と堀辰雄のみが短篇小説の孤塁を守るにいたる」と解説している。 主題に関連するものを芥川龍之介が示唆していたものとしては、南部修太郎の批評(巧い作品だとしながらも〈ただそれだけのものに過ぎない〉という辛口評)に応えて、以下のような反問の手紙を芥川は書き記している。 僕等作家が人生から Odious truth を掴んだ場合その曝露に躊躇する気もちはあの日本の旅行家が悩んでゐる心もちと同じではないか。君自身さういふ心もちを感じるほど残酷な人生に対した事はないのか。君自身無数の金花たちを君の周囲に見た覚えはないのか。さうして彼等の幻を破る事が反つて彼等を不幸にする苦痛を甞めた事はないのか。 — 芥川龍之介「南部修太郎への書簡 大正9年7月15日付」 この手紙の中で芥川は、人生がOdious truth(醜悪な真実)に満ち、残酷なものだとしたら、「幸福とはしょせん無知の恩寵ではないのか」という答えのない懐疑を問うていると三好行雄は説明しながら、「芥川はここでも架空の幻影に生をゆだねた少女をあわれんでいる。いや、芥川好みの語を借りていえば、ほとんどなつかしんでいる」と、『南京の基督』のモチーフを考察している。 また三好行雄は、未見の土地の雰囲気を芥川がよく描き、無邪気な娼婦の人物造型もそれなりに血が通っているとし、「手馴れた技巧が、しかもうわすべりのない重さで、かっちりとした小宇宙を造型するのである」と評している。そして、芥川が南部修太郎宛て(大正9年7月17日付)に送った手紙(梅毒について言及したもの)に、金花の病状が完治していないことが示唆されているとして、金花の知らない「残酷な真実」は、外国人がキリストでもなんでもないという事実だけではなく、彼女が夢みた奇跡(梅毒の根治)が起こっていないということだとし、以下のように解説している。 これが芥川の本音だとしたら、奇跡を信じた金花の目に見えぬところで、梅毒はもっとむざんに彼女の肉体を蝕んでいたことになる。娼婦が奇跡の不毛に醒める日も必ずくる。〈西洋の伝説のような夢〉はけっして永遠ではないのである。〈晴れ晴れと顔を輝かせ〉た金花の背後には、芥川だけに見える暗黒な人生が広がっている。巧緻な仕上がりとはうらはらに、作者の暗い認識を底に沈めた作品である。 — 三好行雄「作品解説」(文庫版『杜子春・南京の基督』)
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「ドルジェル伯の舞踏会」の記事における「作品評価・解釈」の解説
ラディゲの遺作である『ドルジェル伯の舞踏会』は、フランス心理小説の傑作とされ、日本の作家や評論家からも多くの讃辞がなされている。 舟橋聖一は、『ドルジェル伯の舞踏会』の読後感を、「こいつは当分、他の小説は、読むに耐へぬぞ 」と思い、それほど素晴らしい傑作だったと評している。そして、これほど心を動かされた小説は、谷崎潤一郎の『蓼喰ふ虫』が浮かぶが、それ以上に『ドルジェル伯の舞踏会』は戦慄したとし、20歳の青年ラディゲが、〈この小説の中では、心理がロマネスクなんだ〉と明瞭な意識の元で執筆したことに尋常でないものを感じさせると述べて、それが「怪奇」でないためには、コクトオの言うように、〈日附のない本の年齢のない作者〉だと思うことで辛うじて許されるばかりだと讃辞している。 堀辰雄は、『ドルジェル伯の舞踏会』が我々に感動を起こさせるのは、そこに描かれている「ごく普通な感情の特異さ」によってであり、そこにいわゆる「古典主義」なるものを発見したい者はそうするがいいとし、第一次世界大戦後当時の作家たちは、「心理の新しい発見」のみを心がけ、「異常さ」に導かれ「誇張とデカダンス」の作品ばかりを積み重ねているが、ラディゲは「平凡さ」を持していると論じながら、ラディゲの「平凡であろうとする努力」ほど、ラディゲの作品を貴重にしたものはないとし、「ラディゲの持っている平凡」というこの一点を中心にして、「僕は大きな感動をもつて一つの円周を描かう」と強い感銘を受けている。 三島由紀夫は、プルーストもラディゲも別な形で、「小説といふ文学形式の終末を予言したやうな究極の小説」を書いたとし、プルーストでは「時間の純粋持続が小説の現実再現の能力の極限に君臨」するために、作者・プルーストが「完全な受動的状態」に置かれ、「永きにわたる“私”の文学的懐疑のおわるところ」で同時に小説も終結するのに対して、ラディゲの場合は、「〈時〉は捨象され、作者(ラディゲ)は完全に身を隠し、作品は古典劇のやうに、純粋な空間に展開される情念の機敏な運動の図式」になり、マオとフランソワの生き方は、「光輝ある典型」になっていると解説している。 また三島は、そこでは「人間の心が血を流す場面」が飽きもせずにくり返され、終盤の数節において、「流血の惨事」が看取されるとし、「古い酸鼻な叙事詩が忠節といふ倫理的主題に貫かれてその血の匂ひを清らかなものにしてゐるやうに」、『ドルジェル伯の舞踏会』にもその意味で「貞節」という主題を用いていると考察しつつ、血は自然の凝結作用があるため流れきらないが、折に触れては流れ、人間が死に至るまで絶えることのないということに、「愛が一生人を責め苛む秘密」があると喩えて、悲劇の、より一層大きい要素も、この「凝結作用」にあり、小説の結末近くのドルジェル伯爵の心理描写で、それが暗示されていると解説している。 さらにマオが終盤において〈別の世界に坐って〉変化した女になる展開については、それまでの「人間心理のミニアチュールの画面」が突然と破られて、その奥に広がる「壮麗な自然の風光」が現われ、「王朝風のゆたかな雅趣」が、「古代のかがやきなかへ放り出される」と三島は説明しつつ、ラディゲが取り入れた『クレーヴの奥方』の「古典的節度」も、『危険な関係』の「肉感的な抽象性」も、マオとフランソワがロバンソンの踊り場で飲み合う「媚薬」に象徴される『トリスタン・イズウ譚』の主題も、その瞬間に、「一つの異常な啓示の同じ光のもとに照らし出され、それが一せいに目をみひらき、きらめく瞳で目まぜをする」とし、それまで「重い端麗な均整の中にとぢこめられた希臘的苦悩が垣間見られるのはこの時だ」と解説している。
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平野栄久は、〈仮面〉の作成の過程や、〈ぼく〉の〈仮面〉との分裂・対立を描く安部の筆は、「自由かつ精緻」で、安部の力作であることが充分うかがえるとし、「〈純粋な自由の消費が、じつは性欲だった〉ということについての綿密な考察や、仮面が大量生産されたらという仮定から出発し、その社会的な意味を問いつめることにより、〈国家自身が一つの巨大な仮面〉ではなかろうか、という結論を出されるまでの着想と論理などすぐれた部分は少なくない」と評している。しかしその一方、作品全体としては物足りなかったとし、「『デンドロカカリヤ』や『壁』以来――殊に戯曲の中で――安部の文体に常に蔵されていた、しぶといフモール(の精神)といったものや、『第四間氷期』がもっていた無意味さや、また『砂の女』が与えてくれたアクチュアリティも感じなかったものである」とも述べている。 三島由紀夫は、近来ほとんど見られなくなった、横光利一の傑作『機械』のような「思考実験小説」の位置を安部文学全般に期待しつつ、『他人の顔』は作品として『砂の女』よりも重要であるとし、主題に対する安部の意図について、以下のように解説している。 顔はふつう所与のものであつて、遺伝やさまざまの要因によつて決定されてをり、整形手術でさへ、顔の持つ決定論的因子を破壊しつくすことはできない。しかも顔は自分に属するといふよりも半ば以上他人に属してをり、他人の目の判断によつて、自と他と区別する大切な表徴なのである。つまりわれわれは社会とのつながりを、自我と社会といふ図式でとらへがちであるが、作者はこの観念の不確かさを実証するために、まづ顔と社会といふ反措定を置き、しかもその顔を失はせて、自我を底なし沼へ突き落とすことからはじめるのだ。この自我の絶対孤独が仮面を作り出すにいたる綿密きはまる努力は、あたかも作者の芸術的意慾とおもしろく符合してゐて、読者は作者と共にこんな難事業に取り組むことを余儀なくされる。仮面を作るに当つて、古典的客観的基準といふものは存在しないし、たとへ存在しても何の役にも立たない。第一、純粋自我がそのやうにして「他」の表徴を生み出すことができるかどうか、論理的な難点が先行するわけである。 — 三島由紀夫「現代小説の三方向」 そして、「仮面」作製作業は、その問題性を突き詰めれば、「やがて、宇宙の秩序にひびを入れ、自然の歯車を狂はせるやうな、とてつもない作業」で、それは「もつとも徹底的な、認識による革命」であり、「この世界にもし一個の完璧な仮面が現はれたが最後、社会秩序の崩壊はつい目の前にある。もちろんこれが、芸術行為が真に社会的現実性を帯びることを禁じられてゐる根本原因なのである」と三島は説明しつつ、作中で主人公が、仮面の作製と完成途上で、「芸術的昂奮」「戦慄的な陶酔」を語る部分が美しいと評している。 また三島は、『他人の顔』と同時期に発表された大江健三郎の『個人的な体験』と比較しつつ、技術的な面では『個人的な体験』の方が優れ、大江の苦闘的な文体、「言語のエロス」で導かれる文体、「誘惑的な汎神論的な」な文体の方が、安部の簡素な文体、「拒絶的な一神教的な」文体よりも三島の好みであると述べつつも、大江の『個人的な体験』の方は、副人物像や、暗い主題に対して安易に明るい偽善的なラストをつけてしまったことにがっかりしたと評し、芸術的な面では安部の『他人の顔』の方が優れていると総評している。
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『太陽の季節』は発表当時、新しい風俗として話題作となり、賛否両論で文壇を賑わせたが、文学的な観点からの本格的な論究はあまり多くはない。この件について、奥野健男は文庫版の解説の中で「既成の文学者たちが、先入観を持ってこの作品を否定的に眺め、まともに取り上げようとしなかったため」と分析している。「新しい風俗」とされたことについても奥野は「このような風俗は昔から避暑地にはざらに転がっていた。ただ世間も作家もそれを知らなかっただけ」としている。 山本健吉は、「スポーツ青年の無道徳な生態」を描いた『太陽の季節』について、以下のように評している。 これはたいへん魅力に富んだ小説だが、現代小説の行動性は、このような思考停止の状態においてしか、現われないのであろうか。似たような青年を描いても、三島は彼の抱いている小説美学の必然として現われてくるが、この小説では、完全に風俗小説的な場に風化している。そしてそれを、深刻に意味づけようとする作者の試みが、宙に浮いている。 — 山本健吉「文芸時評」 村松剛は、三島由紀夫の『沈める滝』のドライ青年の主人公・昇が、その3か月後発表の『太陽の季節』の主人公の先駆的存在となっているとし、三島の文体が石原に影響したことを指摘している。 『太陽の季節』が発表された時期、三島由紀夫は随筆の中で、学生や学校を卒業したばかりの人の中にもいる「通人」が、その知識を披露する時に能弁になり、無意識に「不自然な老い」を装う傾向となり、かつて自分自身も「学生文学通的文章」を書いていたため、そういった「若い趣味人」の文章に出会うと恥ずかしい思いがあると語り、「学生にふさはしい趣味は、おそらくスポーツだけであらう。そして学生にふさはしい文章は、その清潔さにおいて、アスリート的文章だけであらう。どんなに華美な衣裳をつけてゐても、下には健康な筋骨が、見え隠れしてゐなくてはならない」と考察しながら、「最近私は、『太陽の季節』といふ学生拳闘選手のことを書いた若い人の小説を読んだ。よしあしは別にして、一等私にとつて残念であつたことは、かうした題材が、本質的にまるで反対の文章、学生文学通の文章で、書かれてゐたことであつた」と評している。 また『太陽の季節』発表5年後に三島はこれを本格解説し、あらためて読み返すと、多くのスキャンダルを捲き起した作品にもかかわらず、「純潔な少年小説」、「古典的な恋愛小説」としてしか読めないことに驚いたとし、「『太陽の季節』の性的無恥は、別の羞恥心にとつて代られ、その徹底したフランクネスは別の虚栄心にとつて代られ、その悪行は別の正義感にとつて代られ、一つの価値の破壊は別の価値の肯定に終つてゐる。この作品のさういふ逆説的性格が、ほとんど作者の宿命をまで暗示してゐる点に、『太陽の季節』の優れた特徴がある」と評しながら、極度に「〈愛〉といふ観念」を怖れる竜哉は、「〈愛〉といふ観念」に奉仕するため恋愛をする「ロマンチック文学の恋人たち」とは逆だが、それはオクターヴ(スタンダールの『アルマンス』の主人公)が不能のために「〈愛〉といふ観念」を怖れるのと同様、男女関係の進行過程に、「いやでも〈愛〉が顔を出さなければならぬといふ強迫観念」を読者に与え、それは一般的な恋愛小説の主人公が「〈心ならずも〉愛するにいたるサスペンス」と同じで、『太陽の季節』では、「英子の死」により、「〈愛〉はあからさまにその顔を現はす」と説明し、「ここに小説家の工みがあるけれど、こんな救ひのために、『太陽の季節』は作品として本質的な恐怖をもたらさない」とし、その代りに竜哉の「たえざる恐怖」が深い印象を与えると解説している。 また、一定の系列がある「竜哉の恐怖の対象」は、「情熱の必然的な帰結である退屈な人生」と、「情熱が必然的な帰結を辿らなかつたときの、人生と共に永い悔恨」の二つで、「この二つのどちらか一つを、人は選ぶやうに宿命づけられてゐる」と三島は説明し、『太陽の季節』が「夏の短かいさかりのやうな強烈で迅速な印象」を与えたのは、この二つの「恐怖」に対する青年層の共感があり、象徴的意味を看取したためで、竜哉が「〈愛〉の観念の純粋性」を救うためには、「愛の対象」(英子)が死に、竜哉自身は「悔恨」に沈まなければならず、竜哉が「〈愛〉の観念」を全面的に受け入れるなら、「世俗に屈服」し、古い慣習的な象徴であるところの〈丹前をはだけ〉て子供を抱かなければならないという、「観念的な図式」が明確に作品に示されていると解説している。また、作者・石原が意図した、その観念的図式の構成とは無関係に、竜哉が別の顔を見せる細部の美しい挿話について、以下のように評している。 この作品そのものよりも、この物語が水溜りにうかんだ油の虹のやうに光彩を放つてゐるとすれば、その水溜りのはうで人を感動させたのだとも言へよう。従つて、この小説にちらりと顔を出す、最も美しい水溜りの一部は、固い腹筋を誇る父の腹にパンチをくらはして血を吐かせ、その償ひに自分のめちやくちやにされた顔を示し、しかもそれが生温かい肉親の心配をしか呼び起さぬのを見て失望する竜哉の別の肖像画である。志賀直哉氏の「和解」以来、かういふ美しい父子の場面は、あまり描かれたことがなかつた。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) さらに三島は、『太陽の季節』はスキャンダラスどころか、「つつましい羞恥にみちた小説」ではないかと提起し、障子紙を破って突き出される男根の場面も、「中年の図々しい男なら、そのまま障子をあけて全身をあらはす筈」だとし、英子の愛に素直になれない竜哉の「羞恥」について以下のように解説している。 ひたすら感情のバランス・シートの帳尻を合はせることに熱中し、恋愛の力学的操作に夢中になり、たえず自分の心をいつはり、素直さに敵対し、自分の情念のゆるみを警戒するのは、ストイシズムの別のあらはれにすぎないではないか? 恋をごまかす優雅な冷たい身振の代りに、恋をごまかす冷たい無駄な性行為をくりかへすのは、結局、或る純粋な感情のときめきを描くために、ロマンチックの作者が扇や月光を使つたやうに、扇の代りに性行為を使つただけではなからうか?……これだけ性的能力を誇示した小説にもかかはらず、この主題が奇妙にスタンダールの不能者を扱つた小説と似てゐるのは偶然ではない。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』) そして、その「〈愛〉の不可能と〈現実〉との関はり合ひ」という石原の「もつとも大切な主題」は、のちに発展して秀作『亀裂』を生むと三島は解説している。 中森明夫は、『太陽の季節』の主人公・竜哉の「心性」は、「〈おたく〉(個に自閉して、他者性を欠いた心性のありようの総体)」の「メンタリティー」と極めて近く、それはいわば、「もてる〈おたく〉、アクティブな〈おたく族〉」と呼べるかもしれないとし、「〈おたく〉の誕生は豊かな社会―すべて(物質的に)満たされている、ゆえに個に引きこもり、他者性を欠いて、決して(精神的に)満たされることのない社会―という存在条件が不可欠」であるゆえに、「『太陽の季節』の主人公の心性と存在環境は、〈おたく〉の誕生に三十年は先行していたとも言える」と考察している。また中森は、オウム真理教による地下鉄サリン事件(「おたく世代のテロ犯罪」とも呼ばれた)の、「すべて満たされている、ゆえに変化のない日常の息苦しさに耐えられず、世界破壊を夢見る若者たちが現れる―という透視図」は、1950年代後半の石原慎太郎の『亀裂』と、三島由紀夫の『鏡子の家』、1960年のフェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』にすでに先見的に描かれていたと分析している。
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作品評価・解釈
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『箱男』は複雑な構成を持ち、読み手がそれぞれの断章の転換や、その関連性を理解するのが困難な作品で、安部自身が自作解説で、〈アンチ・ロマン〉(反・小説)としているように、その構造が簡単には見通せない工夫となっており、最終的には、「小説を書くという問題」にまで発展する構造を孕んでいるために、物語世界の読解も複雑で多くの論究がなされているが、成功作か失敗作か、未だ定まった評価はなされていない。総体的には、その複雑な構成が実験的な手法だと評価されている傾向があるが、否定的な評価も見られ、岡庭昇などは、『箱男』は物語世界の「図式しか」書かれていないと、その手法について手厳しく批評し、主人公が「自分は現実なのだろうか、幻影なのだろうかと、そういうことばでいっているだけ」と指摘している。 高野斗志美は、〈箱男〉とは「都市の内部に失踪し、無視され、廃棄された者たち」を象徴し、「見る=見られるという関係から脱落することは、市民社会の日常性から脱落していること」であり、〈箱男〉は「内部に他者を喪失している群衆の生の状況」の形象だとし、以下のように解説している。 見られずに見るという特権は、箱男が、見られるという位置を失うことで社会から廃棄された一種に死んだ有機物にすぎないことをしめしている。廃棄物がだれであるかは問題にならない。だれでもが箱男になることができる。かぎりなく交換可能な箱男の運命は、だれのものとも分らぬモノローグが紡いでいく迷路のなかに分解されていく。「箱男」はこの点で、都市の深部にひそむ疎外へのあらたな照射をしめす転機の作品である。 — 高野斗志美「悪夢としての都市」 田中裕之は、自分だけの世界に閉じこもる「箱男」に、おたくや引きこもりの若者たちを想起し、「箱男」が、夜中に病院の窓を覗いて〈彼女〉(見習看護婦)に欲望を抱いてゆく過程に、「ストーカー行為」の類似を看取し、社会現象に対する安部の先駆性を見出している。 苅部直は、『箱男』が多種な「再構成」を読者に投げている作品ではあるが、挿入された写真や詩などを除けば、「小説のほぼ全体を一つながらりの物語として把握することも、見かけほど困難ではない」とし、小説の最後の3章を、元カメラマンの〈箱男〉が実際に見聞あるいは思い描いた記録と解釈して、〈贋医者〉と〈見習看護婦〉が、元カメラマンが現実に出会った人物と定めて、《死刑執行人に罪はない》の章の話者を、〈贋医者〉に殺された〈軍医殿〉と見ることは可能だとしている。 そして苅部は、「箱男」を目撃した者もまた、やがて感化され「箱男」になってゆくという側面について、「他人との交流の回路を失ない、みずからの周囲に壁を築いて閉じこもる姿は、いまの社会を生きる自分自身ではないか。――そう感じたとき、人は自分もまた〈毒〉に感化され、箱男になってしまう」と説明しつつ、この作品の執筆作業もまた、「安部公房自身がゆっくりと箱男に仮装してゆく過程だったのかもしれない」とし、終結部で「箱男」の居場所が、部屋の空間から路地裏となる転換について以下のように解説している。 閉じられた病院の建物は、外の雨風や音をほぼ遮断できる点からすれば、段ボール箱よりもずっと完璧な箱であろう。そのなかへの閉じこもりを達成できたと思った瞬間に、目の前の風景は都市の空間に転じてゆく。(中略)都市もまた「閉ざされた空間」であるという言葉は、『砂の女』の主人公が、日常の生活も砂の穴のなかの暮らしと同じだと見きわめた決意を思い出させる。「迷路」としての都市の姿も『燃えつきた地図』の読者にとってはおなじみである。ここに、都市を主題にした安部公房の仕事の、一つの到達点を見ることができるだろう。 — 苅部直「窓から覗く眼」(『安部公房の都市』) 平岡篤頼は、『箱男』における「ノート」の書き手を「〈記述者=箱男〉」(前半に登場する〈ぼく〉)一人だけに統一して、作品の物語を同じ世界で起こる出来事と見ながら、時系列順に解釈している。平岡は、《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》の章において、〈贋箱男〉が「ノート」の中で「ノート」自身に言及することから生じる「矛盾」に関しては、「〈記述者=箱男〉」の書かれうる未来の選択肢として捉え、「〈記述者=箱男〉」は、箱を脱ぎ〈贋箱男〉の前にいるか(記述者であることを止めるか)、海岸で「ノート」を書いているか(交渉を諦めて正当な箱男であることを容認するか)のいずれかを選ばなければならないとし、「〈記述者=箱男〉」は結局、「記述者」を捨て「行為者」を選択するが、その「矛盾」を引き受けながら書き続けると説明しつつ、「ああ、なんという矛盾! そう書いているのも〈ぼく〉なのである」と述べて、別の記述者の可能性が仄めかされている「ノート」は、「フィクション」の領域に位置づけている。そして平岡は、「箱男」(認識者)となり「自由」であったはずの〈ぼく〉が、ぼく自身でなくなった〈贋のぼく〉にならざるを得なくなる経過が、全体の物語に収まっていると解説している。 平岡は、『箱男』では「〈見る〉ことが〈見られる〉ことを呼び、〈ほんもの〉が〈贋もの〉を誘発する」とし、それらが絶えず相互に交換され、「対になることばを誘い出す言語そのものの自律的な運動の発現」と同じになるとし、物語の連続性が、「言葉の概念と概念の呼応、音と音との呼応」により成立し、「〈死んでいるのかもしれない〉→〈変死体の発見〉」、「〈贋箱男〉→〈贋医者〉→〈贋供述書〉」の連動の例を挙げている。よって、この小説で展開されているのは、「箱の覗き窓から見た外の光景」という実在ではなく、「すべて箱の内側に記された落書」、「現在進行中の〈物語〉」であり、「そこに吹き荒れているのは、フィクションの熱風」だと平岡は説明しながら、「その〈物語〉を記録してゆく箱男とは誰なのだ」ということは、「現代小説における作者の位置」について思いめぐらすことと同様だとし、作家・安部公房の存在を示唆し、それに関連して以下のように論考している。 小説を書くという作業の大きな部分が言語を解放するということだとしたら、書くのは作家なのか、言語なのか。〈贋箱男〉の職業を医者としたのは作者安部公房かも知れないが、彼を〈贋医師〉にしたのは安部公房だろうか。彼の〈解放〉した言語なのだろうか。作家は何かを表現しようとして言語という道具を用いるのか、それとも言語という一つの空間のなかで、みずから言語の道具となって書くものなのか。 — 平岡篤頼「二重化と象徴(迷路の小説論11)」 真銅正宏は、『箱男』の本文と「写真」の関係に着目し、「(カメラの)ファインダーと箱男の覗き窓が極めて相似的な関係」にあり、その両者の「相似」は、「読者も覗きの視線を共有」し、「小説というジャンル自体の越境が、写真という表現行為により為され」ていると指摘して、本文と「写真」の関係の中に、「言葉の内容のみならず表現自体に着目を誘う技法」の存在を看取しながら、『箱男』の「写真」が、「箱男」の視界だけではなく、読者自体の眼差しへも注意を促す機能があることを示唆している。そして真鍋は、終結部の以下のような安部の「箱」に対する言及を、「まさしく安部公房の小説観の寓意」だと指摘している。 じっさい箱というやつは、見掛けはまったく単純なただの直方体にすぎないが、いったん内側から眺めると、百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路なのだ。もがけば、もがくほど、箱は体から生え出たもう一枚の外皮のように、その迷路に新しい道をつくって、ますます中の仕組みをもつれさせてしまう。 —安部公房「箱男」 八角聡仁は、カメラと人間の二種の眼差しについて、「有用なものだけを、意味のあるものだけを取り出し、無用なもの、無意味なものを捨象すること」により、「初めて何かを見ることができる」人間の知覚と、「一切を無差別、無関心に見てしまう」写真の視点の違いから、『箱男』の「写真」が「見慣れていたものを異化し、いわば無意識の領域を写し出す」と説明している。 杉浦明恵は、『箱男』の構成が従来の小説のように読者が「物語世界」に没頭できない仕組みで、「〈語り〉行為そのもの」に読者の意識や注意を向けさせ、「小説を読む読者の態度を問い直している」とし、作品における「語り手が錯綜する点」と、「物語の成立に関わる語りの問題」(物語世界の出来事や登場人物が、語り手の「想像の産物」だと、「虚構性の自己言及」がなされている点)の二つの側面から分析考察している。 杉浦はまず、〈軍医〉の語る章《Cの場合》が、〈軍医〉=〈ぼく(箱男)〉が語っているのだとしたら「視点の侵略」になるとし、「〈ぼく〉の語る物語に無関係な〈軍医〉が語り手となりうる仕組み」を分析しながら、語り手が〈ぼく(箱男)〉以外の人物に変ったからといっても、「語り手としての箱男という立場」が「客体」になるわけではなく、〈ぼく〉が完全に語り手(記述者)としての立場を失ってはいない点(自分が本物でなくなることを自覚しながらも一貫して「主体」として語っていること)などを指摘し、「物語世界内の出来事のすべてを統一するような視点を持った特権的な語り手の不在により、〈ぼく〉と〈贋箱男〉、〈軍医〉は同列の立場となり、語り手が錯綜するという事態が起こった」と説明し、本物と贋物の対立という「読者に期待感を起こさせる手法」を用いながらも、それを「空所」(読者が知ったと感じた真相や解釈が絶えず否定・破棄され更新されるという繰り返しの作品構造)にさせて、従来の小説ジャンルの手法の機能を「意図的に否定すること」を目的にしている語りの構造を解説している。 そして杉浦は、もう一つの「物語の成立に関わる語りの問題」の側面から分析し、「虚構性の自己言及」がなされる〈ぼく〉と〈贋箱男〉の対話(《書いているぼくと、書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》の章)において、人物たちが「空想の産物」であることを自覚していることで「物語の決壊」が起こり、〈語り〉は内容伝達するための「透明な記号」でなく、〈語り〉自体へ注意を向けさせる「不透明な記号」となるため、上記で考察してきた「語り手の変遷」の分析はすべて無意味となり、〈贋医者〉は〈ぼく〉の空想の産物となることで、〈贋医者〉も〈軍医〉の存在も消滅し、すべては〈ぼく〉の創作したフィクション(語り手〈ぼく〉による一つの物語)になると説明し、『箱男』は「物語の中で〈誰が〉語り手となっているのかというよりも、物語の外部に向けて物語ること、それも語り手が虚構性を認識しながら語ることに重点が置かれている」とし、「虚構性の自己言及は、物語世界〈の〉ことではなく、読者が受け取る物語世界〈について〉の言及で、物語世界の一つ上の水準、いわばメタレベルに属する」と解説している。 永野宏志は、安部が『箱男』で掲げている〈帰属〉のテーマは、読者や観客との「コミュニケーション空間・編成の仕方を問う作品」をそれまでも送り出してきた安部の「本質的な課題」であり、安部がそこで実験してきた「異化」の点から、〈帰属〉のテーマがどう構成されているかに着目し、『箱男』を読む際に最も問われるのは「読者自身の〈帰属〉」だとしながら、様々な側面から論考している。永野は、安部が『燃えつきた地図』執筆時期に、〈いま必要なのは、けっして都市からの解放などではなく、まさに都市への解放であるはずだ〉と述べていたことから、『燃えつきた地図』が「物語世界のみならず読者と同時代の生活を、現代の環境として描く役割」を担うとし、「〈都市〉という言葉の意味の転換」を作品に課す際、「作品を物語世界の内側に収束させず、むしろ、読者を促し、〈都市〉の〈相対化〉と〈物〉の断片性の体験を促す契機が必要になる」と考察している。 そして、『燃えつきた地図』の終盤において、「〈都市〉もまた物語世界と読者の実際世界をメタレベルで包括する環境なる類ではなく、両者を知覚次元で〈相対化〉する一例ではないかと解釈できる場面」(過去の作品記述が引用される場面)があることや、『人間そっくり』で語られる「そっくり」の論理(トポロジー論)の挿入には、「物語の経過する時間を一瞬止め、物語から離脱して他の作品へ注意を向ける契機」があり、読者にとって、「物語の時間によって消去されつつある書物のページの物質性や読者の生きる実際世界への通路となる可能性を秘めている」と永野は説明しつつ、これらの「手法」が、「読者が物語世界の外の作品を埋め込んだページを知覚する次元への指示(引用)と、読者が物語世界に入りつつも実際世界をそのまま投影できない空間の指示(挿入)という、『箱男』の知覚次元における書物と、虚構内に広がる無際限の〈ノート〉の広がりの関係」に繋がるとし、『箱男』では「〈ノート〉の物質性を虚構内で主張する写真や別紙の挿入へと展開」し、それらの「時間的整序から逃れて出現する空間」の断片の散在は、安部の描く〈都市〉〈都市的なもの〉のようだと考察して、以下のように解説している。 この時、書物は物語や作者の発想を指示する閉じた時空ではなく、読者の関与によって開かれる「都市」に転換するのではないだろうか。ここにおいて「都市的なもの」は、作者の主張を離れ、書物として手渡された読者との対話という段階に移ることが可能となるだろう。というのも、諸部分の世界を強調し、包括する類自体を拒否することは、作者の包括的な位置をも脅かしているからである。個別性が優位の世界では、習慣がメタレベルを形成しようとすると、「都市的なもの」のダイナミックな対話が、作品の外へと「可能な展開」を始めるといえる。 — 永野宏志「書物の「帰属」を変える (II) : 安部公房『箱男』の折込付録「〈書斎にたずねて〉」の展開可能性」 工藤智哉は、『箱男』の物語内部の書き手である「箱男」と、『箱男』という物語の書き手である「作家・安部公房」の相似性の関係から考察し、安部がスタインベルグの漫画(自分で自分の肖像を描いている画家が、その自分の姿を同じペンで絵に描くというパラドックス)に言及していることを鑑みて、『箱男』全体を貫くテーマが、物語の因果律を否定する「パラドックス」により、「作品内部で確定不能な状況が作り出されるというカラクリ」ではないかとし、物語世界にある「ノート」(挿入的な記述を除いて、一人の記述者と想定される)を「架空のノート形式」と呼びつつ、様々な側面からその「ノート」の語り手が実在の人物(物語世界において)なのかを分析している。 工藤は、〈軍医〉が〈贋医者〉の「供述書」を見て書き写すという物理的な不可能性や矛盾点から、〈軍医〉の記述する章は〈軍医〉の妄想と仮定できるとし、一冊の「ノート」の記述者という「連続性」を考慮するなら、挿入や注解を除いて基本的に一人であると想定されるため、一見、〈軍医〉=〈ぼく〉(箱男)と見なされるが、時間的な矛盾から〈ぼく〉と〈軍医〉は同一人物ではありえず、どちらかが架空でなければならず、〈軍医〉が架空人物と仮定できるが、そうなると必然的に〈贋医者〉も存在しなくなりパラドックスに陥ると説明し、〈軍医〉の死体(死臭)があり、〈軍医〉の存在が仄めかされている点などを挙げつつ、どちらにしても整合性のとれない構造となっている物語世界を指摘し、『箱男』が「実に反物語的な物語」であり、「〈架空のノート形式〉の持つ危険性を逆手に取って、物語性を否定した位置」に立ち、さらには、「作家の存在証明」も脅かされる「小説観の寓意」にもなっているとして以下のように評している。 作家として作品を提示することはできる。しかし、我々読者が作家と作品を結びつけているものは制度以外の何物でもない。この結びつきを否定することはできないが、そこには何らの根拠もない。自分が書いているということを書くこと、つまり自己の存在証明を自ら書くことは不可能なのである。このような「書く」ということに関する根源的な矛盾は、おそらく論理的には解決不可能だろう。しかし、そのような矛盾を演じることはできる。『箱男』という物語は、作家・安部公房が自己の存在証明をも犠牲にして、「書く」という行為の持つ矛盾を演じて見せた物語と言えよう。その意味でこの物語は「物語」という形式の持つ根拠不在な不確かさの寓意なのである。 — 工藤智哉「『箱男』試論―物語の書き手をめぐって」 手塚治虫は『ばるぼら』の作中において『箱男』に言及している。
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作品評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 13:42 UTC 版)
「榎本武揚 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説
河野基樹は、安部が「思想や転向を相対化する〈意義〉」に自覚的になり、それを作品に形象化しようとした理由を、1956年(昭和31年)に安部がチェコスロバキア作家同盟の招聘で、新日本文学会代表としてプラハを訪問し、帰国後に書いた旅行記『東欧を行く――ハンガリア問題の背景』(1957年3月)が、日本共産党の批判を受け、党から除名の処分(1962年)となったことが原因ではないかとしながら、思想の〈相対化〉の契機は、ソヴィエト・ロシアの“覇権主義”を安部が目の当たりにしたことと、日本共産党からの除名処分にその要因があったと推察し、小説『榎本武揚』は、「政治的原理主義」を無力化するために、転向にまつわる従来の思想・思索を“パラダイムシフト”することを目的に創作された」と考察している。 武井昭夫は、「節そのものの否定が、変節のすすめとして横行しつつある今、この安部の榎本像は、どこでそれらの動向と自己を区別できるのか? 安部はこの作でそれに答えていない。現代との緊張関係がこの作者には決定的に欠落しているのではないか。この疑問が、不快な緊張を強いるのである」と述べ、『榎本武揚』を、「安部公房のアリバイづくり」と批判し、現代の「転向問題」を扱った、「新しい型の転向文学」だという見解を示している。 こういった武井のような批評に対して安部は、小説『榎本武揚』のテーマは『砂の女』や『燃えつきた地図』で一貫して追求してきた「人間社会における個と全体の問題」であるにもかかわらず、忠誠問題でアレルギー性の反響が起こり、「転向小説」と決めつけられたため、戯曲ではその批判に答えるように配慮したと述べている。石田健夫はこれを受け、『榎本武揚』を「転向小説」として読もうとするならば、そもそも「転向」とは何かという「転向論」に対する反措定の作品になるとし、しかしながら、「忠誠の概念」は、個と全体の問題を解く「補助線」として設定された、というのが安部の真意のようだと解説している。 磯田光一は、浅井十三郎という人物を、仮に三島由紀夫が書いたならば、浅井を主人公にして一人の殉教者を描き、花田清輝が書いたなら完全なコメディーになり、その中間に安部公房が位置していると考察している。そして、「浅井的な状況」というのは最先進国ではコメディーになってしまい、起こり得ないと考える安部に対して、磯田は、最先進国でもある意味では逆に「ニヒリズムに裏づけられたテロリズム」という形をとることもある得るのではないかと提示し、日本のトロッキストの中にも浅井を感じると述べている。安部は、浅井的なものは右翼に限らず左翼の中にもあるとし、『榎本武揚』の中の寓話的なものとして、小説にはない戯曲版のねらいを、「入札制(選挙)という、もっとも反浅井的な手段によって、浅井が選ばれてしまうという皮肉にあった」と説明している。 伊藤整は、戯曲版『榎本武揚』について、「僕は榎本武揚になるよりも浅井十三郎のほうになっちゃうんですよ。まだ僕の年代では」と、入札の場面でも、自分だったら浅井に投票してしまうとし、明治天皇の後を追って殉死した乃木大将の記憶が残っている年代の自分には、やはり榎本の思想的なものに対しては、「本質的な本当のところ」がよくわからないという見解を示しながら、自分よりも若い世代で一般大衆的な人でも「古き侍的」になる人や、インテリ階層でも情緒ぎみになると、侍になってしまう人もいるとし、「(舞台を)見ているうちに侍になって、やっぱり榎本武揚は嘘言うじゃないかと、感ずる」という感想を述べている。 そして伊藤は、安部がテーマの一つと挙げる、人間同士間の関係においても、機械に対する電子工学のような精密さと、「非常に楽しい孤独感」とが並行するような密接な関連性が可能なのではないかという提起に対して、「ちょっと僕はそこまではわからなかったな。わからなかったけれども、一般観客として言うと、やっぱり、浅井十三郎の活躍がうまくやればやるほどあそこにしがみついて、いまあなたの言ったことの前段階のもっと前段階のところでもって、情緒的にゆさぶられるわけです」とし、自分は浅井の方にどうしても心情的に惹かれると述べている。 松原新一は、「すべては相対的であって、時代が新しくかわれば、それに対応して人間は生きていけばいい(というほど)それほど単純な存在ではありえない。転向・非転向の問題は、明快な論理によっては処理されない人間の内的な痛みをともなう」と解説している。 中野孝次は、戯曲『榎本武揚』で榎本は、「時代を抜きんでた自由な思想の持主」として現れ、「その自由こそが忠義側から裏切りと疑われたり、変節漢とそしられたりし、つまりは彼を孤独な人間たらしめている」とし、そこでは歴史劇が描かれているのではなく、その人間関係図は、「根っこではやはり『友達』に共通するものがあるのに、慧敏な観客は気づくであろう」と解説している。
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作品評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 04:47 UTC 版)
野坂昭如の処女作『エロ事師たち』は発表時、明治時代以来の近代日本文学に見られなかった型破りな作品と評され、赤裸々で露骨な現実を表現しているにもかかわらず、野卑にならない世界を醸し出す古典的な「語り物文芸」口調のリズムを駆使した文体が特徴的で、吉行淳之介や三島由紀夫らが、雑誌『文藝』のアンケート・ベストワンに選ぶなど、高い評価をされている。内容的には社会の裏面的な性のグロテスクな素材のため、同じ野坂の名作『火垂るの墓』のように一般化されることはないが、野坂が文壇で認められるきっかけとなった出世作として位置づけられている。 澁澤龍彦は、野坂という小説家を「男女のからみ合うベッドシーンばかり書きたがる当節の通俗流行作家とは全く反対に、ひたすら観念のエロティシズム、欠如体としてのエロティシズムにのみ没頭する一種独特な性の探究家」と呼び、その表現方法は悪趣味的であるが、独自の「庖丁さばき」(文体)により調理され下品に陥ることがないとし、その「庖丁さばき」は、「既成の文壇作家のストイックで潔癖な趣味とは明らかに趣味を異にするけれど、しかもなお、現実を調理することによって文学の真実を救い出すという、その一点においては全く変りがない」と解説しつつ、社会の裏側の「ポルノグラフィックな最低な現実を文学の素材として用い、しかもそれを見事な庖丁さばきで料理した作家」は、それまでの日本文学において野坂以外にはいなかったと評している。 そして澁澤は、「エロ事師」である主人公を野坂が、「物語の途中から容赦なくインポテンツの立場に追い落としている点」に、作品全体の「辛辣なアイロニー」が生き、そういった操作は、女嫌いのオナニストの美青年がダッチワイフの人工美女に惚れるところなど各所に散見されるとし、さらには、「小説全体を象徴する最大のアイロニー」となる最後の主人公の死に方の滑稽な状態は、「性そのもののアイロニーとぴったり重なっている」と解説している 三島由紀夫は『エロ事師たち』を、「武田麟太郎風の無頼の文学」と呼び、「文壇の良識派」が「微笑をうかべて頭を撫でてやる」ような〈よく出来た中間小説〉という代物とは正反対の、「醜悪無慚」でありながら、「塵芥捨場の真昼の空のやうに明るく、お偉ら方が鼻をつまんで避けてとほるやうな小説」だとし、「『プレイボオイ』などと言つて空うそぶいてゐる野坂氏が、こんなに辛辣な人間だつたとは、面白いことだ」と述べている。そして、村松梢風の晩年を想起させる野坂のその文章を、「身も蓋もないその筆致は、雑駁さで雑駁を、卑俗さで卑俗を、そのまま直下に映し出すやうな透明な作用を持つてゐる」と解説している。 また、誘った女が迷った末に、なびく瞬間の表情にだけ「女の最高の美」を見て、その後の行為は月並と達観して自瀆に耽り、「何も人間や人生と相渉らない」青年や、他人にエロ・ショーを提供するうち、陶酔する客の顔だけ見て満足し、「自分の直接の行為の愉しみ」など捨ててしまう登場人物たちを、「われわれの芸術行為の劇画」だと、作家の暗喩として看取する三島は、「野坂氏は別にそんな大それた小説を書いたつもりではないが、現代社会の性的態度の売淫性が、そのもつとも低い形態において、芸術行為の象徴性にまですり代るといふ着眼点は、リアリティーをつかんでゐる」と述べて、以下のように解説している もつとも低いものがもつとも高いものに出会ふといふ無頼の社会観には、われわれの還流式噴水のやうな社会構造を見透かしてゐるところがあり、それではこのエロ事師たちだけが「見者」であるかといふと、彼らも亦、その性における窮極的な態度を余儀なくとらされる点で、一つの役割を荷はされてゐるのである。これは一種の悪漢小説であるけれど、おそろしいほど停滞した、追ひつめられたピカレスクであり、谷崎氏の「鍵」や「瘋癲老人日記」のやうな有閑老人の性生活とはちがつて、一つの職業(非合法な)の報告であるところに意味があるのだ。この小説は警抜なオチを持つてをり、自動車事故で死んだ中年男が、打ちどころがわるくて死後も勃起をつづけてゐるさまを、「どちらが顔かわからなかつた」と書く作者は、西鶴の時代に生れてゐれば、「知らず、いづれか顔なりけん」と結んだことであらう。 — 三島由紀夫「極限とリアリティー」
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作品評価・解釈
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『高野聖』は、泉鏡花の代表作というだけでなく、その語りの味わいや独特の文体で、妖怪世界がより効果的に表現され、日本文学史的にも、怪奇小説、幻想小説の名作として評価されている。 笠原伸夫は、「三層の異質の時間」が「入れ子型構造」をとりながら組み立てられている『高野聖』の構造を、「語りのなかに別の語りが嵌め込まれ、その別の語りのなかにさらに別の語りが参入する」と説明し、その構造により、「想像力の自己増殖とでもいうのか、奇異妖変の気配は内側へ行けばゆくほど濃密になる」と解説している。山田有策は、その鏡花の「〈語りの〉枠組」が、「必ずしも整然としたスタティックな形をとっていず、絶えず融化し流動する点にこそ鏡花文学の〈語り〉の最大の魅力があるとみてよい」と評している。 『高野聖』を、「鏡花の想念がみごとに落ちこぼれなく凝縮した短篇」、「軽佻を脱して成熟」した文体だと評する三島由紀夫は、この作品の構成が、「能のワキ僧を思はせる旅僧」が物語るという伝統的話法の枠組みにより、「幻想世界」と「現実」との間に「額縁がきちんとはめられる」ことで、読者が徐々に「天外境」に導かれ、その世界への共感がしやすくなる構造に、成功の一因があると解説している。また主題の成功要素に関しては、「ヨーロッパの『洞窟の女王(英語版)』風な、不老不死の魔性の美女の、悪にかがやく肉の美しさと、わが草双紙風な、みにくい白痴の良人とのコントラストが、人々にすでに親しまれる要素を秘めてゐたといへるであらう」とし、山蛭の森の場面の描写については、その「写実的手法のみごとさ」が、後段の「超現実的な場面を成立たせる大切な要素」になっていると解説している。 また〈優しいなかに強みのある…(後略)〉という一文に言い表されている「鏡花の永遠の女性」像が具現化し、それが、「手を触れただけで人を癒やす聖母的な存在が、その神聖な治癒力の自然な延長上に、今度は息を吹きかけるだけで人を獣に変へる魔的な力の持主になり、しかも一方では、白痴の良人に対する邪慳ともやさしさともつかぬ母性愛的愛情を残してゐる」女になっていることに三島は触れ、鏡花にはそういった「〈薄紅ゐの汗〉したたりさうな無上の肉体の美をそなへた女」に、「生命と人間性の危険を孕んだ愛し方で愛してもらひ、しかも自分だけの特権として、格別の恩寵によつて、命を救はれて帰還したい」願望があるとし、その裡にある「特権意識」こそ、鏡花の「詩人的確信」ではないかと考察している。 そしてその特権は、「努力や戦いの成果」でなく、「清らかで魔的な美女が自分にだけ向けてくれた例外的なやさしさのおかげ」で助かるという「愛」で「堕罪を免れる」ことであると三島は解説し、以下のように論考している。 鏡花は、かくて、芸術家としての矜りをここに賭け、そのやうな免罪符的な愛を受ける自分の資格は、あの馬に変へられる憐れな富山の薬売などとはちがつて、美を直視し表現する能力、いかなる道徳的偏見にも屈せず、ありのままに美を容認する能力が自分に恵まれてゐるからだと考へたにちがひない。では、そのやうな芸術家とは何物であらうか。彼自身が半ばは妖鬼の世界の属し、半ばは妖鬼を支配し創造する立場に立つことである。 — 三島由紀夫「解説」(『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』) 吉田精一は、『高野聖』の舞台である飛騨天生峠の、「蒼空にも雨が降るという飛騨越えの難所、蛇や蛭の棲む山道」は、「人生行路の苦難」を意味し、旅僧があえてその道を選ぶのは、「ブルジョア的卑俗、功利の化身のような富山の売薬を憎んだため」だと解釈しつつ、そこに「この時代にブルジョアのモラルに面を反ける者のたどらねばならぬ宿命が暗示される」とし、以下のように解説している。 愛情なくただ肉欲をもってのみ婦人に近づく世の男性、それが人間の化した馬や猿やむささびの姿であって、旅僧ひとりが身を全うしたのは、その愛情の無垢で純一なためであったとすれば、ここに作者のもつ恋愛観が見られる。かように見れば『高野聖』の舞台、布置は、ロマンティックな詩人の目に映じた人生の縮図である。 — 吉田精一「解説」(文庫版『歌行燈・高野聖』) そして、そういった分析の「概念的な影」は、物語を堪能している間には感じさせない『高野聖』の、「月光に輝やく」谷川の風景や妖艶な「裸体の美女」など、「ドイツの浪漫派の情景」を思わせる「神秘幽怪な書き割りの中」で、鏡花は「デモーニッシュな感情の奔騰に身を任せ」ていると吉田は解説しながら、「蛭の林や、滝の水沫や、〈動〉を写して神技に近い作者の筆致には、妖魔を実感し、神秘に生き切った作者の体験の裏打ち」があるとし、上田秋成の『雨月物語』と並び、日本文学史上、「絶えて無くして稀にある名作」だと評している。 河野多恵子は、以下のように述べている。 鏡花文学には、芸者の身辺はじめ当時の風俗が沢山取り入れられている。また、今日の見方からすると同調しかねるような考え方にも出会う。だが、そういう属性に拘泥って、彼のすばらしい世界の秘密に触れる歓びを知らずに終わるとすれば、まことに残念なことだと思われる。鏡花の天才は、人間というもの、異性というもの、生きるということの不思議さを、実に鋭く深く掘り、また、高らかに謳いあげている。すばらしい体操競技のように、自由自在に、柔軟に、奇抜に、何ものにも捉われずに……。そして、鏡花文学でしばしば非現実の世界が繰り展げられるのも、古風な物語性の必要からではなく、むしろ意識下の意識ともいうべきものの飛翔する美しい姿なのだ。だからこそ、鏡花文学の場合は、一見荒唐無稽な設定も、少しも不自然な感じを与えず、その世界へ読者を誘い込むのでろう。/そのような鏡花文学の特色を属性的な部分においてではなく、本質的に特によく感じさせてくれるのは、「高野聖」などではないかと思う。 — 河野多恵子「鏡花文学との出会い」 塩田良平は、「作者の神秘主義への強烈な信仰、ある種のアニミズムが虚実をのりこえて、有無をいわせず読者を引きずって行くところに、作品の魅力がある」とし、以下のように解説している。 要するに物語としては、最初から色々の捨て石をおき、次第にそれらの因果関係を解いて行くというやり方であるが、筋の起伏と話し手の呼吸とがぴったりとあい、話の運びに緩みがないところに構成力の巧みさがある。 — 塩田良平「作品の解説と鑑賞」(文庫版『高野聖・歌行燈
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「秋 (芥川龍之介)」の記事における「作品評価・解釈」の解説
『秋』は芥川龍之介が初めて、現代や日常を題材としながら自身の実生活の主題を取り込んでいる心理小説であるが、後の作品に本格的な発展がなされて開花するまでの可能性を切り開くところまではいかなかった。三好行雄は、この作品のモチーフが芥川の「もっと切実なモチーフだったに違いない」が、『秋』の最後は「抒情的な処理で円環を閉じ」られ、「現代に取材しながら現実の生そのものの内部にはけっして深く降り立ってはいない」と解説している。 『秋』を、堀辰雄の『菜穂子』の「先蹤」のような作品で、芥川にしては、「ボヴァリスムを扱つた小さな珍らしい作品」だと評する三島由紀夫は、『秋』は傑作ではないが、「流露感」があり、もっとこういった「非傑作」を芥川はどんどん書くべきだったとして、以下のように解説している。 この短篇には芥川らしい奇巧や機智はなく、おちついた灰色のモノトオンな調子を出してゐて、しかも大正期の散文らしい有閑的な文章の味はひがあつて、飽きの来ない作品である。かういふ方向を掘り下げ、拡げてゆけば、芥川にとつて最適の広い野がひらけたと思はれるのに、時代が熟してゐなかつたせゐもあるが、この作品が一個の試作に終つたのは惜しい。ここには近代心理小説の見取図がもう出来上つてゐて、あとは作者のエネルギーの持続を待つだけだつたのである。 — 三島由紀夫「解説」(芥川龍之介著『南京の基督』)
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堀切直人は『ゼーロン』に代表される牧野の中期の幻想的作品について、「明朗で、たいへん風通しがよく、軽妙で、すこぶる痛快」と評し、そこには、それ以前の私小説の「暗い翳」がやや残り続けているものの、「健康な活力」「酒神讃歌の高らかな笑い声」といった要素が、それらを凌駕するようになったとし、それを「いじけた幼虫」からの蝶への変化に喩えている。 牧野の多くの作品の舞台である足柄上郡の架空の村「鬼涙村」について三島由紀夫は、そこは生涯転居を繰り返した牧野にとっての「精神的故郷」であり、「そこに住む異邦人としての知識人牧野は、教養によつてのみ現実離脱を成し遂げ、その愛馬にすら『ゼーロン』と名付けて、中世騎士道や古代ギリシャの幻想へ、日本のドン・キホーテとして旅立つよすが」にしたと解説し、以下のように評している。 ドン・キホーテの自己諷刺と、その幻影の完成とは、小説「ゼーロン」をして、現実の幻滅と現実の壮麗化の二重操作を可能ならしめる。この日本の私小説のドン・キホーテは、一瞬の幻の中で、緋縅の鎧を着てゐるのだ。 — 三島由紀夫「解説 牧野信一」 河上徹太郎は、『ゼーロン』を傑作と評し、「正しく現代の神話である」と述べている。そしてそれは、「現代を神話化したといふ意味ではなくて、現代の中の神話的要素で描いた素朴多彩な劇画」だとしている。また河上は文芸時評で、「胸像を背負つてゼーロンに打跨つた主人公の姿は、比喩(アレゴリー)ではなくて象徴だ」と語り、佐藤泰正は、そういった「象徴の影の濃さ」がそのまま、河上の言う「作者の自意識の影の濃さ」につながるとしている。 そして佐藤泰正は、河上の論を敷衍し、主人公が、背中の「重荷」である「マキノ氏像」と、自分の父親とが「寸分違はぬ」ものであることを知らされ、「得も云はれぬ怖ろしい因果の稲妻」に打たれることや、騎馬行の間に背中にぶつかる「重荷」の「猛烈な苦悶」に殉じる点などに触れ、「重荷」の存在は、「寓意をこえて作者の心肉に喰い入」り、牧野の夢の背後で、「見えざる血は流れつづけていた」と考察し、「宿命の血につながる『重荷』を背部ににない、己の夢を運ぶ無二の従者ゼーロンにまたがる主人公の姿は、夢を抱く作者を等身にそのまま切りとって、まことに比喩ならぬ一個の象徴と化する」とまとめている。 小倉脩二は、「背中の像」「父親の肖像画の主」「私」「ゼーロン」が、ロココ調の「四人組の踊り」を踊る幻と、水中を走っているかのような幻視で終わる場面を、「夢幻的で美しい」と評しつつ、この場面は、「ギリシャ牧野」と呼ばれた中期文学の「幻視の在り方」を典型的に表しているとしている。しかしその美しい幻視の世界は、主人公の背中の重みの意識がふいに現実の意識に引き戻すという基調があるため、「ブロンズ像」である「自分の影」におびやかされ、「自らを嘲笑せざるをえない自分の姿を増幅した像」であるとも述べ、以下のように考察している。 その幻視の像に克明に刻まれているのは、実は、不安におびえたそういう自画像の方であった。そこに、彼の幻視世界がまやかしから出発しながら、単なる荒唐無稽ではない意外な原質感を我々に与える所以があったといってよいだろう。 — 小倉脩二「ゼーロン」 柳沢孝子は、主人公が「己のブロンズ肖像」と「父親の顔」との酷似に気づき、「怖ろしい因果」に打たれる場面に触れ、そういった「絶対の因果」とは、「自分の知らぬ間に定められているもの、自分には責任がないにもかかわらず、引き受けなければならないもの」、「もはや自力では如何ともなしがたい何ものか」だとし、それは「血のつながり」というものだけではなくて、「そもそも牧野信一という人間がこの世に存在することそれ自体」という不可抗力の「絶対の因果」であると解説し、その牧野の「執拗な『因果』へのこだわり」は、「存在する形あるものへの懐疑」でもなく、「存在することそれ自体に対する疑いと不安」ではないかと論考している。
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「夫婦善哉 (小説)」の記事における「作品評価・解釈」の解説
『夫婦善哉』は1947年(昭和22年)にも再刊されるなど大衆的な人気を博し、織田を戦後の流行作家第一号ともいうべき位置に押し上げた作品の一つで、今日まで映画やドラマなど数多くの翻案作品も生まれ、今や古典の名作の位置づけとなっている。 青山光二は、若書きの『夫婦善哉』には、「文章に未熟な個所が目立ち、構成にも起伏が乏しい」といった弱点があるとしながらも、以下のように評している。 この作品が今日まで多くの読者を獲得しつづけ、名品の風格さえ高いと思えるのは、題材と渾然たる調和をなす斬新な文体と、それによって一分の弛みもなく作品を支えている高度の緊張感、さらに作品の根底にある、作者の煮つまった情熱が、そくそくと伝わってきて、読者の心をうつからである。 — 青山光二「解説」
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『月澹荘綺譚』に対する論評はあまりないが、同時代評は賛否が分かれている。 否定的なものとしては、山本健吉が、三島が『月澹荘綺譚』で「古典的な事件のロマネスク」を目指したことを、「今日の小説界」にとって「一種の解毒剤的な効果」があるとしつつも、照茂の死の原因が「性的倒錯によるという種明かし」は、三島が「奇」を力んで見せただけで、照茂の話が「〈綺譚〉の名」に価するとは思えないとし、「〈綺譚〉の背後に人生が皆無である」と評している。江藤淳は『月澹荘綺譚』を含めた前後の作品に、「個人的な事情を超えた」戦後の終焉、「日本浪曼派的な思考の復活」の影響からの、三島の「岐路」「転機」を看取し、「三島氏は、今や正説と化しつつある思想を、逆説を語るために練磨した芸によって語らなければならない」として、「三島氏はあるいは行為者となることに一方の活路を求めようとしているのかも知れない」と鋭い指摘をしながらも、「ここに描かれた行為は、行為というより行為に関する儀式にすぎない」と評している。 その一方、磯田光一は、「輝かしい過去の喚起によって現在の空白を埋めようとする作者の心」は、ボードレールの「強靭な現実呪詛の心」と比類するものと高評し、「どれほど頽廃的に見えようと、これを充足した人間劇と呼ばずして何と呼ぼう」と述べている。 渡辺広士は、『月澹荘綺譚』について、「見つめる目と愛の不能、言い換えると意識と行為の絶対的な溝というテーマの、グロテスクで美しいフィクションである」と評している。 柳沢善治は、『月澹荘綺譚』の「水路」の描写が、『絹と明察』の終結部の「水」の描写や、『天人五衰』の「波」の描写に酷似していることに着目しながら、『月澹荘綺譚』の照茂と君江との関係と、『天人五衰』の安永透と絹江との関係の類似性を探り、『月澹荘綺譚』を『天人五衰』のエスキースと捉えている。また、「見る人」としての照茂の人物造型とその死を、『豊饒の海』などの「覗き」や「認識」のモチーフとの比較から探る必要性や、〈月澹荘綺譚〉が焼けたのが〈四十年前〉という、三島の当時の年齢と符合することの考慮を提起している。
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中野孝次は、『友達』の「善意家族」の「ぞっとするほど無気味」なイメージを「必然たらしめる語り口」が完璧だと評し、観客は知らず知らずのうちに、「わが身にふりかかった事件」として体験させられ、そこで繰り広げられる台詞は、日常でもどこかで聞いた覚えがある感覚となる効果があるとしながら、以下のように解説している。 家族なり、会社なり、学校なり、なんでもいい、自分の中を探ればこれと同じ状況を発見させられるのが、この芝居のおそろしいところである。安部公房は心理や人情のリアリズムを通してではなく、生を一度解体し、抽象的に再構成してみせることで、いわばわれわれの生の構造そのものをつきつけているのだ。 — 中野孝次「解説」(文庫版『友達・棒になった男』) 三島由紀夫は、谷崎潤一郎賞の選評で『友達』を「構成的にも間然するところのない戯曲」で、「安部氏の抽象主義的実験が、ここでは比類のない肉感性を克ち得てゐる」と評している。また、「安部公房氏の傑作である」とも述べ、以下のように讃美している。 何といふ完全な布置、自然な呼吸、みごとなダイヤローグ、何といふ恐怖に充ちたユーモア、微笑にあふれた残酷さを持つてゐることだらう。一つの主題の提示が、坂をころがる雪の玉のやうに累積して、のつぴきならない結末へ向つてゆく姿は、古典悲劇を思はせるが、さういふ戯曲の形式上のきびしさを、氏は何と余裕を持つて、洒々落々と、観客の鼻面を引きずり廻しながら、自ら楽しんでゐることだらう。まことに羨望に堪へぬ作品である。 — 三島由紀夫「安部公房『友達』について」 また、こういった「純粋な作品」は、あまり暗喩に心をわずらわされない方がいいとし、三島は以下のように評した後、観客がこの芝居を「不自然なところのない家庭喜劇」かと思っているうちに、殺人がすでに行われているとし、「これは決してアンチ・テアトルなんかではない。これこそはテアトルなのである」と解説している。 連帯の思想が孤独の思想を駆逐し、まつたくの親切気からこれを殺してしまふ物語は、現代のどこにでもころがつてゐる寓話であるが、この社会的連帯の怪物どもは、日本的ゲマインシャフトの臭気を放つことによつて、一そう醜く、又、一そう美しくなる。大詰の幕切れの、光りを浴びて次の犠牲を求めに出発する家族像は、ほとんど聖家族の面影をそなへてゐる。その疑ひを知らぬ理想の純潔、その善意、その人類愛は、幕切れの光彩を只ならぬ感動を以て増幅するにちがひない。人類最美の、そして人類最醜の家族像! — 三島由紀夫「安部公房『友達』について」 一方で、日本における不条理劇の第一人者である別役実は、『友達』を、「演劇性」と「文学性」の奇妙な混合がみられる、として、批判している[要出典]。
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「未必の故意 (戯曲)」の記事における「作品評価・解釈」の解説
高橋信良は、団員らの互いの本音が、模擬裁判を通じて明らかになるに従い、実際に手を下した若者たちを「全島民の期待」という偽善の下、被害者の江口同様に島を我がものにしようとする消防団長の意図が次第に明確になり、島民の力関係や個人の欲望といったものが浮き彫りなると作品経緯を説明しつつ、その消防団長の偽善が、「共同体意識というものが幻想であることを証明することになる」とし、共同体意識が、個人の行動を正当化すると同時に、「共同体そのものの幻想が、個人の孤独感を強調」し、「消防団長は、共同体の中心にいると認識していながら、それが幻想であることを確認していくことで、孤独である状態に気づくのである」と解説している。 さらに高橋は、この「現実が制御していると信じた、虚構の世界が、逆に現実を追い詰めていく」現象は、「舞台をウソと認識している、観客と舞台との関係にも当てはまることであり、演劇そのものへの問いを孕むことになる」とし、「個人は、常に、〈他者〉を意識し、外在する〈他者〉を内在化させようとする。そして、ありもしない、自己と同一の〈他者〉という幻想が、現実として認識されるとき、虚構が現実を侵蝕し始める」と説明しながら、以下のように『未必の故意』の「劇中劇」という構造について論考している。 安部公房は、このような虚構と現実の危うい関係を劇中劇という方法で、観客に突きつけている。ごっこ芝居を目撃する登場人物は、ごっこ芝居という虚構に対して、現実であり、それと同時に、劇場に来た本当の観客にとっては、ウソであり続ける。さらに、その最中に、客席のドアを開けて入ってきた人にとって、現実と自覚している観客たちが、ウソとしか映らないとしたら……あなたが、合せ鏡の間に立った瞬間、無限に連続する自分の姿の一つを切り取って、私に差し出すとき、あなたを含め、誰がその姿をウソだといえるだろうか。 — 高橋信良「劇中劇――安部公房の演劇論 III」 ドナルド・キーンは、『未必の故意』の最も劇的瞬間の一つとして、消防団長が反抗するつんぼの補聴器を、「ゆっくり、しかも正確に、踏み砕く」場面だとし、「人間を踏みつぶすのと余り変らない恐ろしい瞬間であるが、消防団長は冷静さを失わない」と解説している。そして『未必の故意』は単なる芝居に止まらず、安部の「思想の延長」であるには違いないが、単に「安部公房思想の賜物として分析することは適切ではない」とし、「実に面白い芝居であり、読みものとしてもみごとな盛りあがりがある。安部公房文学の最高峰の一つである」と評している。
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「愛の眼鏡は色ガラス」の記事における「作品評価・解釈」の解説
石沢秀二は、冒頭のシーンのゴム人形について、その人形が単に「小道具」ということではなくて、「一つの実体」として出ていて、小説『箱男』に共通するテーマである「狂気と正気」の関係が明確に出ていることが感じられるとし、ずっと読み進むうちに、そのテーマが「絶望と希望」という問題に次第に変化していくのが分かると解説しながら、「狂気と正気、また今度は出口が鏡だし、見る、見られるという関係が、線や面でなく点で対応している感じを受ける」と評している。 ドナルド・キーンは『愛の眼鏡は色ガラス』について、「安部さんの劇作家としての才能ばかりでなく、優れた演出家の舞台に対する深い理解を証明している」とし、安部演出作品の中で一番の成功作だと評している。そして、この作品のあらすじを述べることは極めて難しいにもかかわらず、観客は「走馬灯のように去来する人物の動きやせりふ」に見惚れ、「芝居の意味は何だろうかと疑問を感じる暇さえなかった」と、劇の様子を以下のように解説している。 「旅仕度の男」がシャベルや水筒やその他の七つ道具を下げて何回も違うドアから登場する度に観客が爆笑した。オレンジ・ヘルメットの学生やグリーン・ヘルメットの学生は当時の大学紛争を思い出させる。又、「白医師」と「赤医師」は東大医学部を卒業した安部さんの諷刺のお好みの対象である(安部さんだけではない。世界の諷刺文学の最も頻繁に選ばれた対象は女性であろうが、その次は医者ではないかと思う)。この芝居を見たことのある読者なら読みながら安部さんの奇抜な演出を思い出すだろうが、見たことのない読者もせりふの早いテンポに乗って同様に楽しむだろう。 — ドナルド・キーン「解説」(文庫版『緑色のストッキング・未必の故意』)
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「ファンキー・ジャンプ」の記事における「作品評価・解釈」の解説
『ファンキー・ジャンプ』は、戦後日本に初めて出現したモダン・ジャズ小説とされ、石原の作品の中では比較的に高く評価されている。主人公のジャズ・ピアニスト・松木敏夫(マキー)のモデルは、1955年(昭和30年)に自殺した守安祥太郎だとされ、守安にチャーリー・パーカーを重ねて造型されていると指摘されている。 平岡正明は『ファンキー・ジャンプ』について、「俺はあの小説を評価(か)っている」と述べ、単にジャズをBGMに使っているような「風俗小説とは類を異にする」とし、「ジャズの演奏が物語を派生させる」と作品構成自体が音楽的であることを解説しながら、「本物のビーバップ小説」だと高い評価をしている。また平岡は、石原がエリオット・グレナードの『スパロー最後のジャンプ』を参考にして書いたのではないかと推測している。 三島由紀夫は『ファンキー・ジャンプ』を「見事な傑作」だと述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」とし、一曲毎のジャズの題名を付けた節の構成については、「非常に粋で、卓抜なものである」と評している。また、戦前のモダニティー文学に比べ、この作品の特色が「モダニティーの極致に厳粛なものを内包している」とし、「次第に狂ほしくなつてゆく主人公が、麻薬の陶酔と苦痛の裡に、〈俺あ今 完璧に近いんじゃないか〉と自問する件りには、ひどくパセティックなものがある。表現への焦燥と表現との一致といふ、決して新らしくはない文学的課題が、かくも先鋭な神経的昂奮の頂点に、ありありと映し出されたのは新らしい」と解説し、「(石原)氏はあきらかに抒情詩を書いた」と評している。 また三島は作中の、〈夕焼けているのは俺たちだ〉という一行を引きながら、石原の言葉の感性について以下のように評している。 このやうなイメーヂへの直接の変身に、この作品の音楽的目的とでもいふべきものがあるのだが、それがいちいち音楽を介してゐるのはいかにももどかしく、言葉は、この一篇の裡を流れ高調してゆく「本物の音楽」「本物のビ・バップ」に対して、従者の立場に立つてゐるにすぎない。だから計らずしてこの作品は、完璧な言葉といふものの文学的劇画になり、氏の言葉に対する軽侮を、ひとつの芸術にまで高めたのである。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)
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作品評価・解釈
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『かげろふの日記』は、堀辰雄が描こうとしていた「恋する女たちの永遠の姿」を、日本の王朝女流日記文学に見出し執筆した第一作目の作品であるが、依拠とした『蜻蛉日記』の作者で「道綱の母」として語られる女性は、堀の『かげろふの日記』で、新たな光が与えられたと、縄田一男は解説している。 神品芳夫は、堀辰雄がリルケの『マルテの手記』を愛読し、リルケの称揚する「愛に生きる女たち」の生のかたちに最も印象づけられたとし、「愛されることを求めず、愛することに徹して、いつしかその愛が相手を突き抜けて高まってゆく」という生き方をするのが、リルケのいう「理想の女性」であり、その具体例としてリルケが挙げた、サフォー、エロイーズ、『ポルトガル文(ぶみ)』のマイアンネ・アルコフォラド、イタリアの詩人ガスパラ・スタンパなどは、いずれも失恋やその他の不幸に堪えて、愛を保ちつづけた女性ばかりであることを説明している。 そして堀がリルケの作品を通じ、そこに描かれる女たちの生き方に感動して、日本の王朝女流日記の作者たちにもそれに類似した「生のかたち」があることに思い至り、『かげろふの日記』や『姨捨』などの一連の王朝ものが書かれることになったことに言及しつつ、『かげろふの日記』が堀の意に満たないものになってしまったことを自ら告白していることを神品は鑑みて、世評では、堀がリルケに触発され王朝物を書いたとして好評価しているが、そのリルケが堀にもたらした愛の女性のイメージが、堀の内面で膨らみ発展した「未来のロマンの空間の大きさ」に比し、実際に出来上がったものは、その「未来のロマンの空間」にほんのわずか着手したものにすぎなかったのだろうと考察し、その「愛の女性のイメージ」は、のちに執筆される『菜穂子』の方によく生かされていると解説している。 山本裕一は、終盤の章「その七」で「逆転した女の心理」が描かれ、その「別人のやうに」思える女に不安になり、嫉妬に苦しみ乱暴になる男が描かれている「その八」には、『聖家族』にある「どちらが相手をより多く苦しますことが出来るか、私たちは試して見ませう」という言葉に象徴されるような「苦しめ合う愛」のモチーフが見受けられるとしている。また原典の『蜻蛉日記』に見られる「沸騰して逆巻く女の激情怨念」が、堀の『かげろふの日記』では「萎え、冷え」ているという批評 があることにも山本は触れながら、堀のヒロインには、「分析的、自嘲的な、しかし夢みがちな近代的な女性」としての性格設定があるとして、他の評者の分析(ヒロインに客観的、分析的態度があることなど) を鑑みながら解説している。 また山本は、『かげろふの日記』が『菜穂子』の前編『物語の女』(「楡の家」第一部) の続編として構想されたと思われるふしがあることが福永武彦によって指摘されていること を敷衍し、『かげろふの日記』が単に王朝小説の嚆矢ばかりでなく、『聖家族』、『物語の女』、『菜穂子』など、生涯にわたって書き継がれるロマン「菜穂子サイクル」の作品群に繋がる作品だと解説している。 三島由紀夫は書簡形式の自作『みのもの月』が、「王朝日記世界の模写」であり、「日本古典、および堀辰雄によるその現代語訳」から影響を受けた文体の作品だと自作解説し、堀の王朝ものが影響にあったことを示唆している。そして、堀の『かげろふの日記』が、堀の愛した『ユウジェニイ・ド・ゲランの日記』などの女流日記文学の系統に繋がっているように、三島自身もまた同じく、『美徳のよろめき』などの執筆に際して、自身の文学に意識的に王朝女流日記の「隠された熾烈な肉感性」を掘り起こそうとしていたと語り、とりわけ堀の『物語の女』や続編『ほととぎす』が好きで、堀の仕事を意識していたことを述べている。柳川朋美はこれを敷衍し、三島の『みのもの月』と、堀の『かげろふの日記』を論考し、原典にはない堀の最終部の展開が、三島の作品に影響を与えていると指摘し、主人公の女が自分を苦しめた夫を、逆に自分の方が翻弄し、苦しめるようになるという部分の影響関係を解説している。
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