でんし‐メディア【電子メディア】
読み方:でんしめでぃあ
⇒電子媒体
電子メディア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 20:19 UTC 版)
「ドイツ民主共和国における検閲」の記事における「電子メディア」の解説
戦後、SMADの管理下で設立された地方ラジオ放送局(例えば、ベルリン市民放送、中部ドイツ放送、ドレスデン、シュヴェリーン、ハレ、エアフルト、ポツダムなどの地域放送局)は、ソ連軍政府が統制していたベルリン市民放送の管理下に置かれていた。 1949年10月12日に東ドイツ政府は、ラジオ放送の管理を引き継ぎ、1982年に放送局を一元化した。SED中央委員会アジテーションとプロパガンダ部門は、中央放送事業を管轄し、ラジオ中継の放送を独占した。1968年9月4日には、ラジオとテレビが区分され、それぞれのメディアには東ドイツ評議会からそれぞれ委員会が割り当てられた。それら二つの委員会は、国営ラジオ放送委員会(ドイツ語版)と、国営テレビ放送委員会(ドイツ語版)であったが、例にもれずSEDの管理下にあった。 東ドイツの人々はラジオ・テレビ番組を西側から受信できる状態にあったので、電気メディアの検閲は、ほとんど効果を持たなかった。西ドイツの第1ドイツテレビ(ARD)・第2ドイツテレビ(ZDF)といった西側のテレビ(ドイツ語版)の情報が住民たちにとって重要な役割を持つ以前から、西側のラジオ放送局RIAS(ドイツ語版)(独: Rundfunk im amerikanischen Sektor)のような東ドイツ指導部の情報独占体制を打ち破るラジオ放送局が存在していた。政府はジャミングをかけて中波帯(300kHz – 3MHz)の周波数の受信を妨害しようとしたが、西ドイツの放送は超短波帯(30 – 300MHz)の周波数での発信も可能であり、技術的に妨害することができなかった。そのため、東ドイツのほとんどの地域で、受信は問題なく可能であり、住民たちにとっては当り前のことであった。SEDの党員すら「わが国には5チャンネル(東ドイツ国営のドイツ民主共和国テレビ放送の2つのチャンネルと西側のドイツ第1・ドイツ第2・ARD加盟の各地方公共放送の地域放送)ある」というジョークを言う程であり、東ドイツ人の多くは政治的プロパガンダ色の強い自国のテレビニュース番組を信用していなかった。 西側の放送局を利用すれば、一部罰せられた。しかし、1980年代には、西ドイツの番組をより良く受信するためにケーブルネットを建設する市民運動があり、国家は黙認せざるを得なかった。 未検閲情報のフローを妨害するという東ドイツ指導部の試みは、「無知の谷(ドイツ語版)」のように地理的な条件で西側の電波を受信することができなかった東ドイツ北東部と南東部を除いて、西側の放送番組が利用可能であったことによって成功しなかった。1979年時点で東ドイツ領の80%のエリアで西ドイツのテレビ番組が視聴可能な状態にあった。
※この「電子メディア」の解説は、「ドイツ民主共和国における検閲」の解説の一部です。
「電子メディア」を含む「ドイツ民主共和国における検閲」の記事については、「ドイツ民主共和国における検閲」の概要を参照ください。
「電子メディア」の例文・使い方・用例・文例
- 電子メディアのページへのリンク