文学との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:27 UTC 版)
同校から暁星中学校に進んだが、権威主義的な校風に反撥。同校では国語教師から文才を認められ、『平家物語』『源平盛衰記』など日本の古典からフランス語の原書までを読みこなす早熟ぶりを示したが、鼻が巨大だったためハーフでない生徒からシラノ・ド・ベルジュラックをもじってヒラノ・ド・ベルジュラックと呼ばれ、また大隈重信の国粋主義的演説がきっかけで非国民扱いされるなどの差別待遇を受ける(在米中の父がこのことを手紙で大隈に訴えたところ、威馬雄は早稲田の大隈邸に招かれ、大隈から直々に謝罪と励ましを受けた)。当時から無神論者でもあり、旧制暁星中学校5年の初夏にはミサの最中に手で卑猥なジェスチャー(いわゆる女握り)を示したことが理由で諭旨退学処分を受ける。葉山町の堀内海岸に一家の別荘があったことから逗子開成中学校の4年次に編入されたが、ここでもハーフとして差別を受け、相撲部員たちからリンチを受けそうになり、反撃で相撲部員の一人の片目を抉り出してしまう。同校在学中もフランス文学に傾倒し、加藤鐐造(のち衆議院議員)や清水長一(のち清水一郎の芸名で俳優となる)や近藤重輔(詩人近藤東の兄)と共に同人誌『エトワル』を創刊し、モーパッサンの短篇小説『野蛮な母』の翻訳を発表する。『文章倶楽部』『中央文学』などの投稿誌に詩や短文を発表して賞を受け、江見水蔭・武田鶯桃・高須林渓・佐藤浩堂から激励の葉書を貰う。傍ら詩作に熱中し、萩原朔太郎から詩作品を賞賛されたこともある。 18歳のとき、父が9年ぶりにサンフランシスコから来日する。これに伴い、一家で東京府豊多摩郡渋谷町荒木山(現在の渋谷区円山町)に転居した。父の友人ヨネ・ノグチの紹介で詩人正富汪洋と知り合い、正富の紹介で詩誌『新進詩人』に参加すると共に、正富が国語教諭を務める私立名教中学校(現在の東海大学付属浦安高等学校)に逗子開成中学5年から編入、同校を卒業する。父親は2年間日本に滞在後、帰国してほどなくアメリカで死亡した。威馬雄が父親と会ったのは、これが二度目であり、最後となった。 卒業後ただちに東京外国語学校(現在の東京外国語大学)フランス語科へ入学したが、ドイツ語専門の獨協中学校から入学した学生たちと同じ扱いを受け、「獨協出身者たちのフランス語の力がお前と同じ程度に進むまでお前は学校へ行かずに待っていろ」と命じられ、1年間を無駄にされたため中退した。当時、乳酸菌に関するメチニコフの論文を訳していたため、乳酸菌について学ぶため聴講生として京都帝国大学植物学科に入学したが、京都の橋下の淫売を買って重症の梅毒に感染し、入院を余儀なくされたために学業を廃して東京へ戻った。
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