「一切れのパン」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:37 UTC 版)
「フランチスク・ムンティアヌ」の記事における「「一切れのパン」」の解説
1950年代のルーマニアでの社会主義によるしめつけが解放された時代に活動を始めた。「一切れのパン」は、光村図書の中学校「国語一年」教科書に、1972年から1980年まで掲載されていた。結末にいたる一部分だけが掲載されていた(直野敦訳)。 筋は、ルーマニア人の「わたし」が、ブダペストの工場で働いていると、ナチス・ドイツの兵に捕捉される。ルーマニアはドイツ側について戦争をしていたが、1944年8月の政変(ルーマニア革命 (1944年))でソ連・連合国側についたためである。「わたし」は汽車の貨物にほかの人々とともに載せられるが、中にはユダヤ教のラビもいた。ほどなく脱走の企てがあるが、「わたし」はラビに、ユダヤ人だから今度つかまれば命がないと、汽車にとどまるよう説き、ラビは納得して、「わたし」に布切れに巻いた一切れのパンを渡し、これは途中で食べてはいけない、これがあると思えば心の助けになると言う。「わたし」は長い距離を逃亡して安全な場所にたどりつき、布切れを開いて愕然とし、「ありがとう、ラビ」とつぶやくのだった。 初出は筑摩書房の「世界文学大系」だが、ここでは「ラビン」となっており、教科書でも当初はそうなっていたが、のち一般的な「ラビ」に改められている。「ラビン」はルーマニア語の表記で、いずれもユダヤ教の僧侶の意味である。 当時中学生だった世代には忘れがたい作品となっており、「ありがとう、ラビ」という結末のセリフはみな記憶していた。ミルチャ・カルタレスクの『ノスタルジア』の解説を書いた高野史緒はこれを教科書で読んだ最後の世代で、これをルーマニア文学との出会いとして語っている。 ムンティアヌの他の作品には「ムレシュ河畔の町」「銅像はけっして笑わない」「幸福な商人」「私の友人アダム」などがある(「光村ライブラリー」の解説)。
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