歴史を動かす原動力とは?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:36 UTC 版)
「歴史の終わり」の記事における「歴史を動かす原動力とは?」の解説
フクヤマは歴史を動かす原動力は、認知を求める奴隷の労働だと主張する。気概が、優越願望が、人間のモチベーションを駆り立て、歴史を発展させるのである。経済的な貧困そのものが問題なのではない。貧困であるというコンプレックス、劣等感、ルサンチマン、認知の乏しさ、資本家や富豪に対する嫉妬や羨望が、階級闘争の原因になるのである。戦争や内乱が起きるのも、経済的利害ではなく、気概の衝突によって起こる。現実に2度の世界大戦は、戦勝国も敗戦国も両方大損害を被って、両者得る所なく終わった。経済的利益を重視する功利性の原理や功利主義、合理的選択論では、城を枕に討ち死にするとか、首都が瓦礫と化すまで徹底抗戦するとか、滅びの美学をもって特攻するという人間の行動は説明できない。もし人間が生存欲求を最優先するのなら、大規模な戦争は起こらず、せいぜい軍事力の誇示や威嚇、国境付近の小競り合い程度で終わったはずである。劣勢な側は命を奪われる前に不利な条件でも降伏し、優位な側も相手の了承しやすい講和条件で妥協し、必死の徹底抗戦を受けないように配慮したはずである。実際に、生存本能の強い動物の世界では、同種同士で争いが起きても、殺し合いまでエスカレートすることはほとんどない。 戦争は元々経済的には不合理な行為であり、戦争原因は居丈高に盛り上がった民族主義やナショナリズム(過剰な優越願望)にある。命あっての物種である以上、単純に経済的利害のみで動く人間は、むしろ戦争を避けようとする。命がけで戦うのは、命よりも大事なものがあるからである。生命保存の欲求を越えて戦うことができるからこそ、人間は本質的に自由なのである。これは、戦争の原因を経済的利害の対立に見ようとするマルクス主義的唯物史観、レーニン的な帝国主義論に対する批判である。 たとえば、身寄りのない孤児の少年が一切れのパンほしさに強盗殺人を犯したというような事件は、単純に飢えと貧困が生んだ争いといえるかもしれない。しかし、一国家の正規軍による組織的な戦争は、それとはまったく次元が異なるのである。自国民を飢えや貧困から救いたいのであれば、大軍を擁して長期的な戦争を行えるほどの政治力や組織力があるのであれば、その人員や予算を農業や工業などの内政に振り分け、自国民の生活水準を上昇させたほうがはるかに効率的である。自国民の生活のために多大な人員や戦費を犠牲にして、命がけで他国に軍事侵攻を行うということは、経済的にはまったく本末転倒で不合理な行動なのである。また、自国民が飢えに苦しむほど経済が逼迫しているのであれば、近代的な軍備を整えることすら不可能なはずである。大規模な戦争はむしろ、経済的な余裕があるから行えるのである。人間は経済的な理由で戦争をやめることはあっても、本質的な意味で、経済的な理由で戦争を行うことなどありえないのである。 唯物論的な立場に立つマルクス主義者は、精神的なイデオロギーは虚偽意識や仮象形態に過ぎず、経済対立や生存競争が本質的であると指摘していたが、むしろ、ナチスドイツの社会ダーウィニズムにもとづいた生存圏構想などのほうが後付であり、虚偽で仮象なのである。
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