「一国二制度」下の香港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 15:08 UTC 版)
「香港の歴史」の記事における「「一国二制度」下の香港」の解説
主権移譲後の香港では中華人民共和国が外交権と軍事権を掌握し、イギリス軍に代わって人民解放軍部隊が香港に進駐、これまでの英語、広東語とともに普通話(標準中国語)も香港の実質的公用語となり、学校でも教えられるようになった。しかし、基本的な社会経済制度は「一国二制度」を元に変わらず、法体系もイギリス領時代のコモン・ローがそのまま用いられている。 さらにイギリスの植民地統治下では言論や報道、表現の自由がほぼ保障されていたものの、主権移譲後は中華人民共和国の中央政府による圧力のため、新聞や雑誌などに対する有形無形の言論統制が行われるようになった上、選挙への露骨な干渉が行われることで、市民の不満が鬱積するようになった。返還直前の香港市民の中にはイギリスの植民地から中国の植民地に変わるだけで政治的な転換はないとみる者もいた。 そのような中で、あまりにも中華人民共和国の中央政府寄りで香港市民に不評だった董建華行政長官は2005年3月12日に辞任し、全国政治協商会議副主席に転じ、曽蔭権が長官代理となった。新しい行政長官を決める選挙は2005年7月に行われ、曽蔭権が正式に行政長官に就任したものの、直接選挙による行政長官選出と、さらなる民主化を求める香港市民による抗議デモが数度にわたり行われた。 香港主権移譲直後に始まったアジア通貨危機の影響で香港の不動産価格は大暴落し、中華人民共和国との貿易の中継基地としての役割も次第に減少して香港の失業率は上昇、香港の衰退がささやかれた。とりわけ2003年には広東省が発端となったSARSが香港でも急速に拡大し、2000人が感染、299人が死亡する事態となり、観光客は激減、香港経済は大打撃を受けた。 しかし同時期に中華人民共和国本土からの観光での来訪が解禁された他、2005年9月には新香港国際空港近くに香港ディズニーランドがオープンし、香港への観光客は再び増加に転じた。さらにSARSやアジア通貨危機による経済への打撃を乗り越え、欧米諸国や日本、さらには中華人民共和国本土からの投資も増加し、現在では東京証券取引所に次ぐアジア第2の株式取引高を誇るなど、東京やシンガポールと並ぶアジアにおける金融センターとしての地位を確立している。 香港主権移譲から12年を経た後の2009年に行われたアンケートでは、香港人の2割のみが「自分は中国(中華人民共和国)人」と認識していることが分かった。その後の2012年11月に香港中文大学伝播・民意調査センターが発表した調査結果では、自分の身分を「中国人」と答えた人は12.6%である。1997年の32.1%から大幅に低下し、調査を始めた96年以降で最低となった。一方で「香港人」と「香港人、ただし中国人でもある」を合わせた香港人の身分を優先する割合は65.2%に達し、過去16年で最高となった。 2013年、エドワード・スノーデンによってNSA(アメリカ国家安全保障局)の国際的監視網が暴露され、香港の民主派・親中派・市民によるスノーデン支援デモも起き、香港政府の対応が国際社会で注目された。 2014年、雨傘運動(反中デモ、反政府デモの総称)が起きた。 2019年、中国本土への「容疑者」の引き渡しを可能にする逃亡犯条例改正案の撤回を求め、およそ200万人を超える反政府デモが起きた。このデモは香港政府による法案の撤回決定後も収束せず、同年10月4日に1967年の香港暴動以来52年ぶりとなる戒厳令に近い権限を林鄭月娥行政長官に与える「緊急状況規則条例」が発動された。
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