進行過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:30 UTC 版)
「将軍家光の乱心 激突」の記事における「進行過程」の解説
1987年9月の時点での仮タイトルは 『忍びの者たち』で、公開は1988年6月を予定し、『敦煌』の公開に当てようという計画だった。高岩は中国本土の本物の武芸者を出そうと中国に行き、合作公司に頼み、その足で『敦煌』の撮影を見学し、本物の煉瓦や材木を使って本建築で城を作っているのにビックリ。高岩は徳間康快に「あなたは素人だからこんなことが出来るけど、ウチはプロだから怖くてこんな映画は作れない」と言った。しかし徳間の情熱に感心し、帰って岡田社長に「『敦煌』みたいに45億円もいらんけど15億円は使わせて下さい。ウチだけが最近大きな映画を作ってないですから」と訴えた。 岡田は1970年後半は盛んに外部提携を進めたが、10年経って映画を取り巻く環境がガラリと変わり、当時は逆に外部提携をしない、他社のように積極的に外部と組ませない、自前での映画製作の方針を打ち出していた。メディアの多様化が進展し、家庭用ビデオレコーダーの普及で、レンタルビデオ店が急増し、当時で全国1万5000店ともいわれ、映画興行は大きな影響を受け、特に二番館はビデオの影響でたくさん潰れた。ところが東映など大手映画会社はビデオ収入やテレビ放映料などの二次使用で、劇場配給以外の収入が大きくなり、まったく損をしていなかった。また当時はバブル景気で、テレビ局は勿論、電通や商社、大手企業の映画製作の資本投資が大流行していたが、電通の木暮剛平社長は、岡田の東大同期の親友でもあり、電通の映画担当者・入江雄三常務とは、日本アカデミー賞を創設するなど古い付き合いで、スポンサーはいくらでもあり、超大作の製作も可能ではあった。しかしそれらがスポンサーに入ると当然版権を分けなければならず、映画が大好きで金を出したいという人も中にはいるが、大抵は情報産業分野に収益源を求め、映像ソフトとそれに附帯する各種権利を目的としたもので、当時のビデオやディスクメディア、CATV、将来的な衛星放送などのニューメディアの普及を考えると二次使用市場の拡大は必至で、版権を東映一社で持っておいた方が良く、スポンサーからたくさんの出資を受けて超大作を作るより、自前で大作を作る方がよかった。特に東映はビデオ部門(東映ビデオ)が強く、岡田は映画製作は自身が直接イエス、ノーの判断を下し、製作費6~7億円で、水揚げ(配収)6~8億円程度の作品を指向していくという方針を打ち出していた。 岡田は「情勢が非常に厳しいときにあまり冒険はしたくない。損をしない映画を確実に作っていく体制を敷かざるを得ない。映画というソフトをテレビに、あるいはビデオに売るにしても版権が他社のものではどうにもならない。当社自身が作って、版権を持っているからこそ、映画が他のメディア市場に拡大し伸びてゆく。東映グループが成長を続けているのは版権を持っているからです。ビデオが儲かっていると言っても、この主力は映画であり、しかも100%東映がこの版権が握っているから成り立っているんです」などと話していた。 1988年1月5日に岡田の年頭挨拶で、1988年の東映ラインアップの発表があり、この時タイトルが改められ、『激突』に変更された。また公開予定は1988年秋と変更され、1988年の春に1989年の正月映画と変更され公開時期が正式に決まった。『激突』というタイトルは日下部が昔から一回使ってみたいと言っていたタイトルで、題名が決まらず、突然日下部が『激突』はどうだと言い出し、番組に書いていたら何となしに決まったという。
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