進貢について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「進貢について」の解説
中国への進貢は、これまで述べてきたように洪武帝が琉球を招諭してから1475年までは事実上制限が無かった。1475年から1506年までは二年一貢、1507年から1521年までの間、いったん一年一貢に戻るものの、1522年には二年一貢となる。そして薩摩藩による琉球侵攻後、1612年には十年一貢、そして1622年に五年一貢となり、1634年には二年一貢が復活してその後1874年の最後の進貢まで継続する。そして1689年以降、二年一貢の間の年に接貢船の派遣が定例化する。 なお進貢時、各国は決められた朝貢品を献上することになっている。この決められた朝貢品のことを常貢品と呼ぶ。明代、琉球の常貢品は馬と硫黄であった。17世紀に入るとヤコウガイが加わり、清代に入ると馬、そしてヤコウガイが外れて銅と錫が加わり、最終的には硫黄、銅、錫が常貢品となった。なお、硫黄は琉球国内の硫黄鳥島で産出するものの、銅と錫は琉球では産せず、薩摩藩を通じて確保するしかなかった。1793年には薩摩藩側から銅の入手が困難となったため、量の削減ないし常貢品の品替を求めてきたものの琉球側が押し返している。 朝貢品には常貢の他に、慶賀使などが持参する特別の朝貢品もあった。明代の特別の朝貢品には刀、扇など日本との交易品や、胡椒、象牙などといった東南アジアとの交易で入手した品であったが、16世紀半ば以降は屏風紙や芭蕉布といった琉球の産物となっていき、清代になるとそれが定着する。 進貢に対して中国側からはお返しに当たる回賜品が贈られる。回賜品の中心は絹織物であり、明代は国王には皮弁冠服が下賜されたが、他は布地であった。その他大統暦や明代初期には船舶も下賜された。清代に入ると国王にも既製服と冠の下賜は無くなり、布地の下賜となった。下賜される布地は宮廷用の高級絹織物であったが、清の国力が衰えた19世紀の同治年間になると、規定通りの布地の下賜が困難となって質が劣る布地を代わりとすることが一般的となった。ただ、いずれにしても基本的には進貢品よりも回賜品の方が高価であった。
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