第二次世界大戦 背景(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > できごと > 事件・事故 > 戦争・紛争 > 20世紀の戦争 > 第二次世界大戦の解説 > 背景(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ) 

第二次世界大戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:02 UTC 版)

背景(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)

満州事変(1931年-1933年)から、日中戦争と日本の参戦までの経緯(1937年-1941年)

満州事変と満洲国

満洲国の皇帝溥儀(1932年3月)
満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団(1932年3月)

1931年9月18日南満州鉄道が爆破されたとして、日露戦争の勝利後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた日本陸軍の関東都督府陸軍部が前身の関東軍と中華民国軍の間で戦闘が勃発。日本が勝利し関東軍が奉天、南満州を占領する(満州事変[32]

12月に中華民国政府の提訴により、国際連盟では満州での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる6ヵ国、事実上4四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満州における匪賊の討伐権が日本に認められた[33]

1932年1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突する第一次上海事変が勃発し、3月1日に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、満州国が中華民国から独立して建国宣言をした[32]。3月3日に、中華民国国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった英仏伊独の国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。

3月に国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲国と日本、中華民国を調査し、満州国皇帝愛新覚羅溥儀とも面会し9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年2月24日、このリットン報告を基にした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項[34] および6項[35] についての条件が成立した。

前後して上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、1932年3月22日の下院審議において、与党保守党の重鎮オースティン・チェンバレンは、「労働党議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しない」とした上で、中華民国には「国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたこと」を指摘し、「銃剣はボイコットへの適切な対応ではない」としつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。国際連盟の対応を受けて5月5日に上海停戦協定が結ばれ、日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。

国際連盟脱退

国際連盟脱退翌日の新聞(1933年2月)

だが、翌年の1933年2月23日に日本軍が熱河省に侵攻するなど、中華民国との関係がさらに悪化すると、日本に対する国際連盟加盟各国の態度も硬化した。

翌日にはジュネーブで行われた国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告が採択された。さらに満州国建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服として、あらかじめ準備していた宣言書を朗読して会場から退場し、日本のマスコミからは大喝采を受けた。

日本代表はジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは首相ベニート・ムッソリーニと会見している。帰国後の3月27日に国際連盟を脱退する。またドイツも同年脱退した。

なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となり、脱退宣言から1935年までの猶予期間中に日本は分担金を支払い続けていた。また正式脱退以降も国際労働機関 (ILO) には1940年まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。そのほか、アヘンの取り締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。

五・一五事件と二・二六事件

犬養毅の葬儀

1932年5月15日には、海軍の軍人らに首相の犬養毅らが殺害されるという「五・一五事件」が起きていた。さらには、内大臣官邸や立憲政友会本部を攻撃し、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う計画であったが、未遂のままで鎮圧された。

後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望に対して後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。

西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば「憲政の常道(=民主主義)」に戻すことを考えていたが、ともかくもここに8年間続いた「憲政の常道」の終了によって、まともな政党政治は大戦後まで復活することはなかった。

二・二六事件でカメラマンに銃口を向ける兵士(1936年)

さらに1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らはクーデターを図り、1,483名の下士官兵を率いて、首相官邸や大蔵大臣高橋是清私邸、内大臣斎藤実私邸や教育総監渡辺錠太郎私邸などを襲ったが、このクーデターは未遂に終わる(「二・二六事件」)。首相の岡田啓介は辛くも大丈夫だったが、大蔵大臣の高橋や内大臣の斎藤、教育総監・陸軍大将の渡部などはこの事件で殺害された。

この事件の結果広田弘毅が首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平が出た。「好ましからざる人物」として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務した。さらに陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。

1931年には「三月事件」、1934年には「陸軍士官学校事件」が起こり、当時の日本では、このように選挙で選ばれたわけでもない単なる軍人(役人)が、国が自分の気に入らない方向に向かうと、武力でクーデターを起こして自らの向かう方向に仕向け、さらに陸海軍が組閣に口を出すことが度々起き、まかり通るようになった。

軍部大臣現役武官制復活

広田内閣(1936年)

さらに1936年5月に軍部は広田内閣に圧力を加え、一度は廃止された軍部大臣現役武官制を復活させた。この制度復活の目的には、「二・二六事件への関与が疑われた予備役武官(事件への関与が疑われた荒木貞夫真崎甚三郎が、事件後に予備役に編入されていた)を、軍部大臣に就かせない」ということが挙げられていた。

広田内閣は腹切り問答によって陸軍大臣と対立し、議会を解散する要求を拒絶する代わりに1937年2月に総辞職に追い込まれた。その後、宇垣一成予備役陸軍大将に対して天皇から首相候補に指名されて大命降下があった際、陸軍から陸軍大臣の候補者を出さず、当時現役軍人で陸軍大臣を引き受けてくれそうな小磯国昭朝鮮軍司令官に依頼するも断られ、自身が陸相兼任するために「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、同意を得られなかったため、組閣を断念した。この様に、1910年代以降日本に浸透してきていた議会制民主主義は、1930年代中盤以降急激に軍国主義に傾いていく。

西安事件と国共合作

1933年5月31日の塘沽協定により満州事変は停戦したが、中華民国政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、日本軍や中国共産党軍との散発的な戦闘は続いていた。1936年10月に蔣介石は共産党軍の根拠地への総攻撃を命じたが、国民党軍の身分ながら共産党と接触していた張学良楊虎城は、共産党への攻撃を控えていた。

軟禁中の蔣介石と関係者(1936年12月)

12月12日に張学良と楊虎城はいわゆる「西安事件」を起こし、張学良の親衛隊第2営第7連120名で蔣介石を拉致、拘束した。蔣介石の拘禁は、上海や国外で「張学良のクーデター」と報じられ、その後の動向が着目された[36]

張学良と楊虎城は日本軍に対して中国共産党との共闘をするよう要求したが、監禁された蔣介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶した。さらに国民政府は張学良の官職剥奪と軍事討伐を検討し、軍事委員会の緊急強化を決定した[36]。また、中華民国全国の将軍から中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が国民政府に続々と到着していった[37]

張学良の目算通りに人民戦線派および各地将領が動かず、世論は張学良と反対の立場であった。形勢が不利となった張学良は、北支の閻錫山の下に特使を派遣して調停を依頼、妥協条件と旧東北軍の処置について協議を求めた。また事情を知った世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。

12月23日にいったん蔣介石と張学良の和解が成立したが、2日後の12月25日に張学良は「西安事件」の敗北を洛陽で認め、その後に西安に戻った。反逆罪により張学良は逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。

しかし張は極刑や国民党から永久除名にされず、12月31日に軍事委員会高等軍法会議により懲役10年の刑を受けたが、結局1991年まで国民党から軟禁の身で過ごし、軟禁解除後の2001年にハワイのホノルルで生涯を閉じた。しかしこの事件をきっかけに、国共合作が進むことになる。

日中戦争

日本軍による北京占領(1937年)

1937年2月に開催された中国国民党三中全会の決定に基づき、中華民国の南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[38]。地方軍閥に対しては山西省閻錫山に民衆を扇動して反閻錫山運動を起こし[39]、金融問題によって反蔣介石側だった李宗仁白崇禧を中央に屈服させ[40]、四川大飢饉への援助と引き換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[41]宋哲元冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[42]

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[43]上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊と何ら変わるものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[44]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[45] 対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[46]。この他にも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[47]

しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし[48]、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取り調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[49]

宛平県城から出動する中華民国軍(1937年7月)

盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[50][51]、国民党からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[52]。副参謀長張克侠[53] をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[52]

第二十九軍は盧溝橋事件より2カ月余り前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日にはすでに対日抗戦の態勢に入っていた[54]

そしてついに1937年7月7日、第二次世界大戦がヨーロッパで始まる約2年2か月前に、日本軍と中華民国軍の衝突である盧溝橋事件が勃発、ここに全面戦争である日中戦争が始まった。

中華民国軍による上海共同租界への爆撃(1937年)

一旦中華民国側は遺憾の意思を表明し、「責任者を処分すること」、「盧溝橋付近には中華民国軍にかわって保安隊が駐留すること」、「事件は藍衣社(青シャツ隊)、中国共産党など反日暴力団体が指導したとみられるため今後取り締る」という内容の停戦協定が締結されたが、その後中華民国側でも日本軍を挑発し対日武力行使決定が決定、通州事件第二次上海事変北平占領など日中戦争は瞬く間に中華民国全土に拡大していく。

1937年8月に中華民国は中ソ不可侵条約を結んで、ソ連空軍志願隊とともに在華ソビエト軍事顧問団を再招聘し、1941年に日ソ中立条約が結ばれるまで中華民国軍を援助し続けた。しかしその後もソ連は中国共産党などへ様々な援助を続けた。

アメリカの新聞の論調は、未だ直接介入を主張するものは少なく、その多くは対日強硬策を支持するものの、論説は非常に穏やかであった。反対に、孤立主義の立場から、中華民国からのアメリカ勢力の完全撤退論を主張するものもあった。1938年1月のギャラップ調査によると、約70%のアメリカ人が中華民国からの完全撤退を望み、孤立主義的態度を示していた[55]

アメリカ海軍のパナイ号

しかし1938年3月に起きたドイツオーストリア併合(アンシュルス)の翌週、第1次近衛内閣の下で野党は反対勢力を失い、日中戦争を鑑みた国家総動員法が成立した。さらに日中戦争が激しさを増す中、陸海軍の強い反対を受けて、日本政府はベルリンオリンピックに次いで1940年に開催される予定であったアジア初、有色人種初のオリンピックである札幌東京オリンピックを7月に返上した。

欧米諸国でも中華民国内に租界を置く国は多く、自国の権益を守るためもありイギリスやフランス、アメリカ、イタリア、そして日本と「五大国」はこぞって租界を置いた。そして日本と同盟関係にあるにもかかわらず、租界があるイタリアやドイツなど親中的な政策をとる国も多かった。

さらに日中戦争が起きると日本陸軍とこれら列強の駐留軍との間にいざこざが起き始め、例えば上海でのヒューゲッセン遭難事件、揚子江パナイ号事件蕪湖レディバード号事件等が起きたが、近衛内閣の外相広田弘毅(元首相)が何とか善処し、イギリスのロバート・クレイギー大使とアメリカのジョセフ・グルー大使から高く評価された。

日独伊の急接近

中独合作中にヒトラー総統を訪問した中華民国の孔祥熙財政部長
フィアットM1935重機関銃

なお上記のように、ナチス政権下のドイツの極東政策は、1936年に広田内閣下の日本と日独防共協定を結ぶ一方で、中独合作で中華民国とも結ばれていた。中華民国は孔祥熙をドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は日中戦争を戦う中華民国軍に、蔣介石の個人顧問として中将アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンをドイツ軍事顧問団団長として派遣するなど、日本と中華民国との間で大きく揺れていた。

ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携を重視していたが、外務省では日本との協定に反し中華民国派が優勢だった。さらにドイツはモリブデンボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために、中華民国とバーター取引を行っていた。

しかし1937年7月に日中戦争が始まると、日本からの抗議を受け中華民国に派遣されていたドイツ軍事顧問団は撤収、イタリアに続きドイツ製武器の供給も停止することになり、完全に親中派は止めを刺された。しかし、ドイツ製の武器の現金調達は日本の抗議を受けながらも、中華民国との契約が完全に切れる1938年中頃まで続いた。

一方、天津に租界を持つイタリアも、1930年代中盤に元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問として、さらに空軍顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問を中華民国に常駐させ、フィアットランチアソチェタ・イタリアーナ・カプロニアンサルドなどのイタリア製の兵器を日本からの抗議を受けつつも大量に輸出した。

イタリアの外相ガレアッツォ・チャーノ(1938年/中央)

しかし、1935年に始まった第二次エチオピア戦争での対イタリア経済制裁に中華民国が賛同したことに対して、上海総領事として勤務した経験もあった伊外相ガレアッツォ・チャーノは「遺憾」とし、1937年11月には日独に次いで防共協定に調印し、ここに日独伊三国防共協定となった。

さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満州国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、天皇や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。完全に日本重視となった。さらに同年11月、イタリアは満州国を承認し、両国は公使館を置き正式な外交関係を開始している。

これらの返礼もあり、日本陸軍や満州陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。またイタリアも満州国からの大豆の全輸出量が5%を占め、アメリカからの輸入を停止するなど、イタリアもドイツも完全に同盟関係にある日本重視となる。

なお、中華民国はドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさまこれらとのこれらとの関係が悪化している、アメリカやソ連、イギリスやフランスとの武器調達契約を結び、1939年以降はこれらの国が主な武器の調達先となった。

オトポール事件

陸軍少将の樋口季一郎

ドイツでは、ナチ党政権は国民からの絶大な支持を受け、国単位で反ユダヤ主義政策を進めていたが、同盟国の日本ではヨーロッパ各国のようなユダヤ人差別などは皆無であり、むしろ日本では官軍によるユダヤ人擁護がドイツ政府の反対を受けつつ、1930年代後半から終戦まで行われた。

1937年12月に第1回極東ユダヤ人大会が満州国で開催された際に、この席で日本陸軍の陸軍少将樋口季一郎は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と言い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。これを知ったドイツの外相リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。さらに1938年には五相会議でユダヤ難民の移住計画である「河豚計画」が日本政府の方針として決まった。

また同年3月8日に、ユダヤ人18人が害下から逃れるため、満蘇国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らと共に即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、さらには膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。これで逃れることができたユダヤ人の数は数千人から2万人ともいわれる。

日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満州鉄道の総裁松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[56]。これは「オトポール事件」と呼ばれることとなる。この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツの外相リッベントロップからの抗議文書が届いた[57]。また、陸軍内部でも樋口への批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[57]。そのような中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東條英機中将と面会した際には「ヒトラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[58]。この言葉に理解を示した東條は、樋口を不問とした[59]。東條の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[60]、独国からの再三にわたる抗議も、東條は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[61]

ノモンハン事件

擱座した赤軍BA-10装甲車の横で機関銃を伏射する日本兵(1939年9月)

1939年5月から同年9月にかけて、関東軍とソ連軍の間で、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)が断続的に発生した。

なお満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満州国軍モンゴル軍に警備を委ねていたが、日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連軍が日本軍の3倍以上の軍事力を有していた。これに対し日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。

8月に発生したノモンハン事件は満州国軍とモンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった日本陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。結果はソ連側が優勢なまま、第二次世界大戦が勃発した直後の9月15日に双方で戦闘終結で合意、戦闘は収まった。

第二次世界大戦開戦

平沼騏一郎(中列右)(1939年)

そのような中で起きた8月23日の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与えた。これを受けて、当時の首相平沼騏一郎は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残し政治責任から8月28日に総辞職した。

また大島浩大使も、ノモンハン事件が起きる中でこの締結を前もって知らされなかった責任を取り、ベルリンより帰朝を命ぜられ(帰国後の12月27日に大使依願免職した)、これ以後のドイツとの交渉は中止となるなど、日本の政界も揺るがす大混乱となった次の駐独大使にはドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」といわれた来栖三郎が継いだ。しかし続く阿部内閣も短命に終わり、対独同盟派の勢いは停滞した。

9月1日にドイツがポーランドに侵攻した。これに対して9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついにヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。ノモンハン事件が9月15日に終結し日本との戦いの心配もなくなったソ連は、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日にソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄し、ポーランドへ東から侵攻した。

南京国民政府/汪兆銘政権成立

タイムの表紙を飾る汪兆銘
汪兆銘主席とドイツのハインリヒ・ゲオルク・スターマー特命全権大使の会合
台湾日日新報の「祝新国民政府成立」の新聞広告(1940年)

日中戦争の勃発に伴い、中華民国の蔣介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。汪兆銘は「抗戦」による民衆の被害と中華民国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[62][63][64][65]。汪は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[65]

1938年3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、国民党に初めて総裁制が採用され、蔣介石が総裁、汪が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された[64][66]。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである[64]

一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している[64]。こうした中、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった[67]。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した[64][65][67][68]

6月に汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触。高宗武自身は日本の和平の相手は汪以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権を維持した上での和平工作を考えていた[67]10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蔣介石との対立は決定的となった[65]

1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心の曽仲鳴を射殺するという事件が起こった(汪兆銘狙撃事件[69]。蔣介石が放った暗殺者は汪を狙ったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が犠牲になった[69]。ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした[69][70]4月25日、影佐と接触した汪はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日上海に到着した[70][71]。ハノイの事件は、汪が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった[72]

日本は蔣介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪の擁立を画策した。しかし1940年1月に、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた[73]。最終段階で腹心とみられた部下が裏切ったことに汪は大いに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった[73]

汪は日本の軍事力を背景として、北京中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日に蔣介石とは別個の国民政府を南京に樹立、ここに「南京国民政府」が成立した。

汪は自らの政府を「国民党の正統政府」であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌をそのまま使用し、記念日も国恥記念日を除けば、国民党・国民政府のものをそのまま踏襲した。

政府発足後に、イタリア王国フランスヴィシー政権満州国などの枢軸国バチカンなどが国家承認した。しかし蔣介石政権とのしがらみがあったドイツが最終的に承認したのは1941年7月になってからだった[74]。さらに日本との間で日泰攻守同盟条約を結んでいたタイ王国が汪の南京国民政府を承認した[75] のは、対英米戦が始まってからの1942年7月になってからであった。

第2次近衛内閣

首相近衛文麿第2次近衛内閣の閣僚(1940年7月)

その後ドイツとフランス、イギリスの間で戦闘は起きなかったが、1940年に入りドイツがベルギーやオランダに侵攻しすぐに降伏するなど、枢軸国の勢力が拡大しヒトラーの快進撃が伝えられるようになると、日本でもマスコミが騒ぎ出し、右派朝日新聞も「バスに乗り遅れるな」という言葉で国民と軍とを積極的に煽った。

そのような中、1月には日米通商航海条約が失効し、日米関係は両国開国以来の無条約時代に突入した。悪化しつつある日米情勢の打開が求められたが、後の祭りであった。同年7月には参謀総長閑院宮載仁親王陸軍三長官会議により、親英米派の米内内閣は辞任に追い込まれた。

日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣の後を受け、7月22日に誕生した第2次近衛内閣では、勢いのいいドイツやイタリアなど枢軸国との提携を再度主張する外相松岡洋右らの声が高まった。

同じ日には第2次近衛内閣により「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定され、日独伊の関係はより密接になってゆく。

命のビザ

杉原千畝領事

1939年9月に第二次世界大戦の発端となるドイツのポーランド侵攻が始まると、ソ連はドイツほどではなかったがユダヤ人には冷淡で、同国のユダヤ人は亡命を余儀なくされ、その一部は隣国リトアニアへ逃れた。だが、独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始する。10月10日にリトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。

さらに1940年6月15日にソビエト軍リトアニアに進駐する。当時、ドイツ占領下のポーランドなどから逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていたが、ソ連が各国に在リトアニアのカウナス領事館・大使館の閉鎖を求めたため、もはや逃げ道はシベリア鉄道を経て極東(日本と満州、中華民国)に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。ユダヤ難民たちはまだ業務を続けていたカウナスの日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。

在カウナスの杉原千畝領事は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。しかし杉原領事の権限でこれらのユダヤ系難民たちにビザを出すことを決め、1940年8月31日までの間にソ連によってカウナスの日本領事館を退去させられ、杉原領事がカウナス駅を出る直前まで、杉原領事と妻、スタッフたちによって発行された日本を経由するビザに救われることとなった。

1940年7月からユダヤ系難民は、シベリア鉄道でソ連のウラジオストク、および満州国の満州里[76] 経由で、約6,000人が通過ビザを手に敦賀港などを経由して日本に入国した。そして1941年9月には、全員が神戸港などを経由し出国しアメリカ、もしくは中華民国の上海の国際共同租界にある「上海ゲットー」や虹口地区などに亡命した[77]

さらにドイツは「上海ゲットー」の存在に対しても、日本政府へ1945年5月のドイツ敗戦に至るまで再三抗議していたが、日本政府はこれを黙認し、エリアこそ狭いながら亡命ユダヤ人の安全な滞在を認めて保護していた。

日本軍の北部仏印進出

北部仏印進出(1940年9月)

フランスでは、1940年に入りドイツの猛攻が続く中、フィリップ・ペタンマキシム・ウェイガン陸軍総司令官と共に対独講和を主張した。6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日に独仏休戦協定が成立した。その後7月10日にペタン率いる親独のヴィシー政権が成立した。

これを受けて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した[78]。当時のフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー英語版将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関)の受け入れを行った[79]

日本軍の仏印進駐について協議した富永恭次少将、ドクー総督、西原一策少将(1940年8月)

ヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・ドクー英語版提督を後任の総督とした[80]。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、むしろヴィシー政権はこれを進め、日本の外務大臣松岡洋右とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ協定が締結された。その後9月22日に日本はフランス領インドシナ総督政府と「西原・マルタン協定」を締結し、これを受けて平和裏に日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。

また、フランス海軍の船舶は武装解除の上サイゴンに係留されることになったが、日本政府は仏印植民地政府との間で遊休フランス商船の一括借り上げの交渉を開始していた[81]。フランス側のドクー総督は、イギリス海軍による拿捕のおそれや、仏印とマダガスカル島や上海との自国航路の維持に必要なこと、フランス海軍が徴用中であることなどを理由に難色を示し[82]、交渉は1942年まで持ち越すことになった。

なお、同様に仏印領内に残ったフランス船籍・仏印船籍の商船は、1941年末時点で500総トン以上のものが27隻(計10万総トン)、うち10隻は4000総トン以上の船であった[83]

日独伊三国同盟締結

ベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)

日独の関係も「オトポール事件」や「命のビザ」などユダヤ人問題で対立を見せたが、1940年初頭のドイツ軍のヨーロッパ戦線の好調から持ち直した。9月7日に新同盟締結のためにドイツから特使ハインリヒ・ゲオルク・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。9月27日にはイタリアを含めた日独伊三国同盟が締結された[84]

これは実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、1940年11月にハンガリールーマニアスロバキア独立国が、1941年3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が加盟した。これに対してアメリカの大統領ルーズベルトは「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。

しかし、三国同盟実現には「親米」といわれた来栖三郎では「力不足」との声が上がり、そこで1940年12月に、これまで左遷されていた陸軍の大島浩が駐独大使に再任された。

また枢軸国の一員となったフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満州は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。中華民国南京政府と防共協定に加盟したスペインフランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、フランコ政権は戦争の前半期においては協力的な関係を持った。

泰仏戦争勃発

タイの首相プレーク・ピブーンソンクラーム

1940年6月にフランス本国がドイツに敗れたこと、独仏休戦1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、その上に日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイはフランスに対して旧領回復への行動を開始した[85]

タイのプレーク・ピブーンソンクラーム政権は、フランスのヴィシー政権に対し、1893年仏泰戦争英語版でフランスの軍事的圧力を受けて割譲せざるを得なかったフランス領インドシナ領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオスフランス語版の領土と主権や、フランス保護領カンボジア英語版バタンバンシェムリアップ両州の返還を求めたが、ヴィシー政権下の仏印政府はこの要求を拒否した。

ついに11月23日にタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、物量と地の利に勝るタイ軍は仏印軍に対して優位に戦いを進め、本国が占領下に置かれ武器や兵士の追加もままならない仏印軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。

戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、日本は、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイと同じく友好国のフランスが戦い国力が疲弊することを憂慮し、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。しかし両国の主張は平行線をたどり、タイとフランスの間の戦いは日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。しかしタイ王国はこの紛争でフランスが奪った旧領を回復し、事実上の勝利を収めた。

アメリカの対日禁輸とレンドリース

レンドリース法案に署名する米大統領ルーズベルト(1941年3月)

1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、アメリカは、日本にとって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へ圧力をかけてくることとなった。7月26日に日本への輸出切削油輸出管理法を成立させる。8月に石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)などの輸出を許可制にし、10月16日に屑鉄を輸出禁止にするなど次々と禁輸攻勢を打ち出した。

これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、ブラジルアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内に民間ルートでの開拓を断念した。

さらにアメリカは中立法に現れていた非介入主義を米大統領フランクリン・ルーズベルトがさらに緩和し、1941年3月にはレンドリース法を設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。1945年8月の終戦までに、総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中華民国へ提供された。

なお日中戦争中の中華民国は、日本からの抗議を受けて1937年から1938年にドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさまアメリカとの武器調達契約を結び、その後も第二次世界大戦に参戦しなかったアメリカとレンドリース法案を結び、大戦を通じてアメリカが主な武器の調達先となった。

アメリカの日中戦争への軍事介入

中華民国軍の「フライングタイガース」に所属するP-40Cトマホーク(1941年)

さらにアメリカは、1940年8月に蔣介石総統と宋美齢夫人からの数度にわたる軍事支援の要請を受け、大統領ルーズベルトの指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍 (American Volunteer Group, AVG) を設立し、ここに日中戦争へのアメリカによる本格的な軍事介入を開始した。

アメリカ陸軍将校のクレア・リー・シェンノートはルーズベルトの後ろ盾を得て、その後アメリカ軍内でパイロットの募集を開始したが、なかなか人が集まらず「日本軍の飛行機は旧式である」というならまだしも、「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がない」と人種差別的な見通しを述べてまで募集する面接官もいた[86]

最終的に、カーチスP-40などの約100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、日本を刺激せぬようシェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年3月に中華民国に送った。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。またシェンノートは健康上の理由により軍では退役寸前であったが、蔣介石は空戦経験の豊富な彼をアメリカ義勇軍航空参謀長の大佐として遇した。義勇兵は月給1000ドルであった[87]

シェンノートらAVGのメンバーは、日本を刺激せぬようあくまで「民間人」として、友好国イギリスの植民地ビルマに向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、イギリス−領ビルマのラングーン(現:ヤンゴン)の北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。ここでのAVGの目的は、中華民国軍への援助物資の荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蔣ルート(「ビルマ・ロード」)上空の制空権を確保することであった。

だがフライングタイガースは、日本軍の最新鋭の零式艦上戦闘機をはじめとした最新の航空機と練度が高い戦闘機乗りの多さ、さらに中華民国軍の事故の多さに悩まされて苦戦を強いられた。さらに、撃墜数による出来高制の給与(日本軍機を1機撃墜することに500ドルのボーナス)のために、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。さらに1941年12月に正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって「義勇軍」の意味はなく、1942年7月3日にアメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。

独ソ戦と外相松岡の更迭

日本の外相松岡洋右とアドルフ・ヒトラー(1941年3月)
日ソ中立条約に署名する松岡とスターリン(1941年4月)

1941年2月、アメリカが管理するパナマ運河の利用がアメリカ船とイギリス船のみに制限されたが、4月からは東京とワシントンD.C.で行われていた日米交渉が本格化され、「全ての国家の領土保全と主権尊重」、「他国に対する内政不干渉」、「通商を含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持」という「ハル四原則」を提示し、首相の近衛ら日本政府側はこれを歓迎した。

しかしドイツやイタリア、ソ連を訪問中で、この4月に日ソ中立条約を結んだばかりの外相松岡洋右は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、強硬な反対によって提案を白紙に戻させた[88]

さらに松岡は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだばかりのわずか1年10か月しか経たない6月22日にドイツがソ連を奇襲攻撃し独ソ戦が始まり、その望みは打ち砕かれた。なお松岡の考える「ユーラシア四ヶ国同盟締結」も、ドイツのソ連への奇襲計画も、3月にヒトラーと会談した時には伏せられていた。

松岡はドイツのソ奇襲攻撃に合わせ即時対ソ宣戦を主張し、ドイツも強くそれを望んだが、そもそも日本が日ソ中立条約を結んだばかりのソ連に参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、閣内にあって「暴走状態」にあった松岡の更迭は、政権存続のための急務となっていた。

ここに近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣を発足させ、松岡はここで内閣から完全に外された。

しかし、松岡は常々からイギリスやソ連との戦争は避け得ないと考えていたが、自らのかつての留学先でもあり、知人も多かったアメリカと日本との戦争は望んでいなかった[89]。松岡は「英米一体論」を強く批判し、たとえイギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた[89]

日本軍の南部仏印進駐

サイゴン市内の日本軍(1941年)

1941年6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され(南進論)、フランスの同意の下で南部仏印への進駐が決まった。一方、7月に対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。その中で仏領インドシナを日本にとられることを危惧したアメリカは、日本に対する石油の輸出許可制を敷くことで日本を揺さぶった[90]

この措置に対向するため、日本は石油などの資源買い付け交渉を、本国がドイツ軍の占領下に置かれ、ロンドンに置かれた亡命政府の下にあるオランダ領東インドと行っている。一時は交渉成立したが、その後アメリカの圧力により、オランダ植民地政府側が供給する量は日本が求めた量の1/4に留められ、日本は6月に交渉を打ち切った。このせいで当時の日本では高オクタン価の航空機用燃料の貯蔵量が底を尽きかけた。

さらに7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し日米間の航路も遮断、同日日本はフランスの同意の下での南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油の輸出の全面禁止をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた[91]。しかし当時の仏印では現在のベトナムとは違い油田は見つかっておらず、石油は掘れなかった。

日英米蘭関係の悪化

大西洋会談のチャーチルとルーズヴェルト(1941年8月9日)
アラスカのジュノー(1940年頃)

8月1日にイギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等を廃棄。亡命先のイギリスの圧力を受けたオランダ植民地政府は、対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止。アメリカは、南部仏印進駐に対する制裁という名目の下石油輸出の全面禁止をそれぞれ決定した。

日本にとっては、中でも石油輸出の全面禁止は深刻であり、約8割をアメリカから輸入していた。このままではジリ貧になるため、開戦を早期にすべきとの強硬論が陸軍を中心に台頭し始めることとなった。これらの対日経済制裁は併せて、アメリカ (America)・イギリス (Britain)・中華民国 (China)・オランダ (Dutch) の頭文字を取って「ABCD包囲網」と呼ばれるようになった。

なおアメリカは、8月に大西洋憲章を締結した大西洋会談で、イギリス首相のチャーチルからドイツに対する参戦要請を受けていたがこれを保留していた。また日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。

開戦準備決定

これを受けて9月3日に御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、1941年10月末を目処とした開戦準備が決定された[92]

その一方で、8月7日に近衛首相は昭和天皇から「首脳会談を速やかに取り運ぶよう」との督促を受け、野村吉三郎大使に「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は、此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」と宛て、米大統領ルーズベルトとの首脳会談を提案するよう訓電した[93]。首脳会談の申し入れは野村からコーデル・ハル国務長官に行われたが(ルーズベルトはチャーチルとの大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった[94]。しかし実のルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、「ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうか」と返事をした[94]

ハワイの真珠湾全景(1941年10月)

さらに近衛首相は、8月27日、28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』で、総力戦研究所より日米戦争は「日本必敗」との報告を受ける。 しかしその一方で、中華民国との戦争が4年たっても勝利が見えない中、イギリス(とオーストラリアやニュージーランド、英領インドなどイギリス連邦諸国)とアメリカ、オランダという、日本に比べて資源も豊富で人口も多く、さらに明らかに工業力が大きい国家、それも複数と同時に開戦するという、暴挙とも言える政策に異を唱える者の声は益々小さくなっていった。

なおイギリスやアメリカとの開戦に関して日本の東条ら陸海軍首脳は、「アメリカ国民は厭戦気分が強く、緒戦で日本軍が圧倒した場合、日本に有利な条件で講和に応ずるであろう」、「イギリスはドイツと間もなく講和に向かい、日本に有利な条件でマレーや香港も手放さざるを得なくなるだろう」といった安易(または勝手)な想像と思いこみを根拠に開戦の準備を進めた。さらに東条らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスやアメリカ、オランダが、その後簡単に停戦、講和交渉に応じるという根拠はどこにもなかった(なお東条陸相は駐在武官としてスイスに駐在し、ドイツに訪問したことこそあるものの、イギリスやアメリカを訪問したことは1度もなく、英語もできないため両国の首脳陣に知人もいなかった。これは海軍ならともかく、当時の日本の陸軍官僚や政治家では標準的な事であった)。

いずれにしても、このような日英米蘭関係の悪化を受けて、日本海軍はホノルルやサンフランシスコ、メキシコ、サイゴン、マカオ、マドリードなどにスパイを送っている。例えば3月26日にホノルルに送られた吉川猛夫少尉は「森村正」の変名を名乗りホノルル領事館に勤務した。吉川が収集した情報は、真珠湾におけるアメリカ海軍の艦船の動向など多岐にわたり、喜多長雄総領事の名で東京に暗号にして打電していた。吉川の正体は総領事以外誰も知らされなかった。

東條軍事内閣成立

近衛首相(1941年10月)
東條内閣成立(1941年10月18日)

陸軍はアメリカ(ハル)の回答をもって「日米交渉も事実上終わり」と判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一荻外荘に呼び「五相会議」を開き、対英米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。

そこでは中華民国からの撤兵を行うことで、日米交渉妥結の可能性があるとする首相・近衛および外相・豊田と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする陸相・東條の間で対立が見られた[95]

近衛首相は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。(戦争をやるなら指揮を)自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した(これには直前の10月14日に内閣嘱託がソ連のスパイとして2人も逮捕され、自らの関与も疑われた「ゾルゲ事件」の責任を取っての辞任との噂もある)。

近衞首相と東條陸相は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は、戦争になれば皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せず、東條陸相が次期首相となった。

この推薦には「現役陸相の東條しか軍部を押さえられない」という木戸内大臣の強い期待があったが、その「期待」により、「軍人(=官僚)が選挙の洗礼を受けていないで首相という全権を得てしまう」という民主主義国家としてはあり得ないことが起こった。このことは、軍部の暴走がますます止まらなくなり、さらに日本が「文民(=党人)政権」から「軍事政権」へ移行し国家が「戦時体制」となったと民主主義国家から受け止められかねないという、2つの点を完全に無視していた[96]

またこれまで日本では、岡田啓介米内光政桂太郎のように、選挙を経ないで選出された軍事官僚が首相になることはあったものの、このように陸海軍が好きに国をコントロールする「軍事(=官僚)独裁体制」はかつてなく[97]、しかしこの体制は結局敗戦時の鈴木貫太郎まで続くことになる。

ゾルゲ事件

ゾルゲの外国通信員身分証明票
尾崎秀実
オイゲン・オット大使

このような中で、1941年9月27日アメリカ共産党員の北林トモや10月10日の宮城与徳、10月14日の近衛内閣嘱託である尾崎秀実西園寺公一の逮捕を皮切りに、ソ連のスパイ網関係者が順次拘束・逮捕された[98]。その後ドイツの「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の記者で、東京府に在住していたドイツ人のリヒャルト・ゾルゲなどを頂点とするスパイ組織が、日本国内でソ連並びにコミンテルンの諜報活動および謀略活動を行っていたことが判明した。

捜査対象に外国人、しかも友好国のドイツ人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では、特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。その後に宮城と関係が深く、さらに近衛内閣嘱託である尾崎や西園寺とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ、容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などによる逃亡、証拠隠滅が予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず総理退陣が間近な近衛文麿と近い尾崎、西園寺の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。

その後尾崎が近衛内閣が総辞職する4日前の10月14日に逮捕され、東條英機陸相が首相に就任した同18日に外事課は、検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼンと妻のアンナ、ブランコ・ド・ヴーケリッチの外国人容疑者を検挙し、ここにソ連によるスパイ事件、いわゆる「ゾルゲ事件」が明らかになった[99]

ゾルゲは日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。尾崎などからそれらを入手することができたゾルゲは、それを逮捕直前の10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊を、ヨーロッパ方面へ移動させることができたといわれる[100]

ゾルゲの逮捕を受けてドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部将校で、スパイを取り締まる責任者のヨーゼフ・マイジンガーは、ベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[101]。さらにゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオイゲン・オット大使や、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[102]。またオット大使やマイジンガーは、ゾルゲが逮捕された直後から、「友邦国民に対する不当逮捕」だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。

しかし友邦ドイツの大使館付の私設情報官という、万が一の時には外交的にも大問題となる場合に対し万全を尽くした警察の調べにより、逮捕後間もなくゾルゲは全面的にソ連のスパイとしての罪を認めた[103]。間もなく特別面会を許されたオット大使は、ゾルゲ本人からスパイであることを聞き知ることになる。その後の裁判で、ゾルゲやクラウゼンなどの外国人特派員や宮城や北林らの共産党員、そして尾崎や西園寺などの近衛内閣嘱託が死刑判決や懲役刑を含む有罪となった。なお当然ながら尾崎や西園寺と非常に近い近衛の関与も疑われたが、その後の辞職と英米開戦で不問となった。

なおオット大使は1941年12月に日英米が開戦し、ドイツもアメリカに宣戦布告したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続けた。オット自身からリッベントロップにゾルゲ逮捕についての報告はなかったとみられ、ドイツ外務省には満州国新京駐在総領事が1942年3月に送った通信でゾルゲ事件の詳細がもたらされたと推測されている[104]。これを受けてリッベントロップはオットに、ゾルゲに漏洩した情報の内容や経緯、ゾルゲが身分をカモフラージュしてナチス党員やドイツの新聞特派員になりおおせた事情の説明を求めた[105]。これに対して、オットはゾルゲのナチス入党の経緯や大使館が新聞社に推薦をしたかどうかはわからず、ゾルゲには機密情報と接触させなかったと弁解した[105]。さらに、事件が日独関係に支障をもたらしていないと述べた上で、自らの解任もしくは休職を要請した[105]

オットは1942年11月に駐日大使を解任され、後任は駐南京国民政府大使のハインリヒ・ゲオルク・スターマーとなった[106]。解任通知には「外務省に召還」とする一方で、ドイツへの安全な帰還が確保できないとして、私人として一切の政治的活動を控えながら当面日本にとどまるよう指示されていた[106]。その後華北政務委員会北京へと家族とともに向かった。

対するソ連は、ゾルゲが自白し裁判で刑が確定して以降も、ゾルゲが自国のスパイであったことを戦後まで拒否し通していた[107]。ゾルゲの死刑は、第二次世界大戦末期の1944年11月7日、関与を拒否し通していたソ連への当てつけとして、ロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。

なお、第二次世界大戦後日本に連合国軍最高司令官総司令部の参謀第2部の責任者として駐在したアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビーは、ゾルゲ事件とソ連やコミンテルン、またその関係者と、アメリカ共産党とそのシンパとの親密な関係に注目し、大掛かりかつ綿密な調査を行った[108]

南方作戦準備

東亜海運の大洋丸

10月15日と22日に相次いで太平洋航路に着いた臨時便の「龍田丸」と「大洋丸」は、択捉島沖からアリューシャン列島沖を通るなど、後の真珠湾攻撃と似通ったルートを取った変則的な航路を採った。また両船ともにホノルルに外務省や船員などの名目で海軍の諜報員を送っており、ハワイ沖でアメリカ海軍の哨戒機に遭遇したほか、真珠湾の哨戒、防衛の現状をつぶさに調べており、アメリカ海軍の北太平洋の哨戒や真珠湾の防衛の現状、さらに現地諜報員の情報を海軍本部に持ち帰るなど、南方作戦の準備は着実に進んでいた[90]

なお当時の日米間の関係悪化を受けて1941年8月に太平洋航路の定期便は運休されており、それ以降の太平洋航路の旅客船は「臨時交換船」扱いであった。さらに日本船は在米日本資産としてアメリカ政府に差し押さえられることを避けて、日本郵船東洋汽船から日本政府が貸切る形となった。このために横浜発の便はアメリカへ帰国するアメリカ人で一杯になっており、逆にホノルルシアトル発の便は日本へ帰国する日本人で一杯だった。なお日本郵船のロンドン線やハンブルク線などの欧州路線は、欧州戦域の悪化ですでに運休となっており、そのため太平洋路線でアメリカ経由でアジアとヨーロッパを行き来する乗客も大勢いた。

東條首相の下で10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[109]。10月14日に日本は対アメリカの最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した(これは当時の日本陸軍ができる最大の譲歩であった)。

マレー上空を哨戒するイギリス軍のF2Aバッファロー(1941年11月)

11月6日には、日本政府は帝国国策遂行要領に基いて、南方軍イギリス領マラヤやシンガポール、ビルマ、香港など、またオランダ領ジャワやアメリカ領フィリピンなどの攻略を目的とする「南方作戦準備」が指令され[110]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[111]。なお11月11日に、イギリス首相のチャーチルは「もしアメリカに日本が宣戦布告をした場合、1時間後にはイギリスも日本に宣戦布告する」と述べ[112]、マレーの哨戒を強化した。

真珠湾に向けて海軍機を満載して航行する「加賀」(手前)と「瑞鶴」(1941年11月28日)

日米交渉の期限切れを受け、11月26日早朝に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「瑞鶴」、「飛龍」などからなる日本海軍機動部隊の第一航空艦隊は、南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地に向け出港した。なおこれは、日米交渉のアメリカの出方により途中で引き返す可能性があることが、あらかじめ海軍上層部には伝えられていた。なおこの日本海軍の動きは、アメリカ側には全く察知されなかった。

さらに、太平洋航路の最後の臨時便となった龍田丸の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスへ入港する予定であった。だが、この時点で日本は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、対英米開戦とともに龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった。しかし大本営海軍部(軍令部)は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする。ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は龍田丸の木村庄平船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した。

龍田丸は12月8日に開戦の報を受けて即座に引き返し、12月15日(戦史叢書では12月14日着)に横浜に帰港した[113][114]。上述のように、龍田丸のこの航海は、まさに南雲機動部隊による12月8日の真珠湾攻撃をカモフラージュするための航海であった[113]

ハル・ノート

野村吉三郎大使と来栖三郎遣米特命全権大使(1941年11月)

11月27日(アメリカ時間11月26日)に、裏では日本軍による南方作戦準備が着々と進む中で、アメリカのコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と、対米交渉担当の来栖三郎遣米特命全権大使に通称「ハル・ノート」(正式には:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略/Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)が手渡された(なお、これの草案を手掛けた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトは、第二次世界大戦後にソ連のスパイであることが判明し、1948年に自殺している)。

この中には、「最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始」や「アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除」、「円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立」など、日本にとって有利な内容が含まれていたが、「仏印の領土主権尊重」や「日独伊三国同盟からの離脱」、日中戦争下にある「中国大陸(原文「China」)からの全面撤退」といった譲歩を求める内容もあった。

この文章はあくまでハルの出した「基礎提案 (Outline of Proposed Basis)」であり、その上に「厳秘、一時的にして拘束力なし (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)」と明確に書かれてあり[115]、題名の「基礎提案」通りに、ここから日米両国の当事者で落としどころを探るものであったものの、内容としては日本側の要望を全て無視したものであったことから、日本側は事実上の「最後通牒」と誤訳と意訳、解釈し、そして最終的に認識した。

そしてこの中にある日本側が最重要視する「満州国を含む全中国からの撤退」か、それとも「満州国を含まない全中国からの撤退」を求めているか否かなど、肝心かつ重要な点をハルをはじめ全くアメリカ側に対し明確にしないまま、12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定する。

暗号機の廃棄

駐英日本大使館

対英米蘭開戦が決定すると、1日に外務省は、ロンドンやワシントンD.C、シンガポールやマニラ、香港などの日本大使館や領事館に、開戦で接収される恐れのある暗号機を廃棄するよう命じた。さらにワシントンD.Cの日本大使館に暗号機を1機残して廃棄を命じた上で、館員が庭で残存文書を焼却した[116]

イギリスやアメリカ側では、こうした動きに気づいて不審に思い警察に報告した者もいたが、それは「イギリスやアメリカが攻撃することを恐れて日本側が機密文書の焼却を行っている」と、一方的に勘違いしているものであり、イギリスやアメリカでは大きな騒ぎにならなかった。

マレー方面出撃

マレー半島の上空を飛行するイギリス軍機(1941年12月)

そのような中で、日本は本土からアメリカのハワイに比べ比較的近い対イギリスやオランダの植民地に対しても隠密裏に進軍を開始し、12月4日、中華民国の三亜で、作戦の全船団の出撃を確認した日本海軍の馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将も出撃した[117]

さらに山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船も艦艇に護衛され、ついにイギリス領マラヤオランダ領東インドを目指して進撃を開始した。対するイギリス軍やオランダ軍は全く油断しており、これらに気づく者は皆無であった。

このように対英米蘭開戦を決定しながら、その裏ではマレー半島とハワイに向かう日本海軍機動部隊をいつでも反転できるようにしたまま、日本政府はぎりぎりまで来栖三郎野村吉三郎の両大使にコーデル・ハル国務長官との交渉を進めさせたが、ついに打開策は見つけらなかった。

対英米開戦と宣戦布告遅延

コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎大使と来栖三郎大使(1941年12月7日)

12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は首相東條英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げた[要出典]。これを受けて東條は外相東郷茂徳に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った(厳密にはこれは開戦通告ではなく、当時行われていた野村・来栖両大使による特別交渉の成果達成諦めの通知である。また、英国相手には初めから何か行うことは考えられていない。)東郷から駐米大使館の野村吉三郎大使宛に、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」が、現地時間12月6日午前中に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。

「昭和16年12月7日東郷大臣発在米野村大使宛公電第九〇二号」は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃(以下は全てアメリカ東海岸現地/ワシントンD.C.時間)から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日午前7時までに到着したとみられる。

九〇四号は機密保持の観点から「覚書の作成にタイピストを利用しないように」との注意があり、九〇七号では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。しかし、「タイピストを利用しないように」との注意に忠実に、解読が終わったものから順にタイプが不得意な一等書記官奥村勝蔵により修正・清書され、そのために時間を浪費してしまう。その上に館員の多くは6日夜には、ブラジルへ赴任する館員の送別会も兼ねてワシントンD.C.市内の中華料理店「チャイニーズ・ランタン」に向かい、多くはそのまま自宅へ戻ってしまう。

「翔鶴」からハワイに向け発艦する九七式艦上攻撃機(1941年12月7日/ハワイ時間)

さらに12月6日午後9時(日本時間7日午前10時)に米大統領ルーズベルトは昭和天皇へ親書を送り、ジョセフ・グルー駐日大使に暗号文の翻訳を急がせた[118] ものの、親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇の元に届いたのは開戦直前(日本時間8日未明)で手遅れであった[119]

12月7日の朝9時(日本時間7日午後11時)に日本大使館に出勤した電信課員は、午前10時頃に14分割目の解読作業を開始し、昼の12時30分頃(日本時間8日午前1時30分)に全文書の解読を終了した。14分割目も奥村により修正・清書され、そして午後2時20分(日本時間8日午前3時20分)に特命全権大使来栖三郎と大使の野村吉三郎より、国務省にてコーデル・ハル国務長官に手交された。しかし、これはそもそも日本政府の設定した「手交指定時間」から1時間20分遅れで、日本陸軍のイギリス領マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、日本海軍のアメリカのハワイの真珠湾攻撃の1時間後だった。そのために、日本政府は後にアメリカ政府より宣戦布告の遅延が非難されることになる。

こうして日本(外地含む人口:約1億人)は、中華民国と(人口:約4億人)の戦いを続けながら、ついにイギリス(オーストラリアやニュージーランド、イギリス領マラヤイギリス領インド帝国なども含む。大英帝国とそれらの植民地含む人口:約5億人)、アメリカ(アメリカ領フィリピンなども含む。植民地含む人口:約1億5000万人)、オランダ(正式には植民地であるオランダ領東インド。なお本国はイギリスへ亡命。植民地含む人口約2億人)、カナダ(人口:約1500万人)などとの間にも開戦することとなり、ここで、ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線から、アジア戦線やアメリカ・太平洋戦線へと全世界に戦域が広がり、まさに世界大戦となる。


注釈

  1. ^ ただし日本国との平和条約では、本戦役は第二次世界大戦の一部とは定義されていない
  2. ^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのドイツの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
  3. ^ この調印に際してドイツ軍は第一次世界大戦時に当時のドイツ帝国が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車を特別に調印場所として用意させた。
  4. ^ アフリカ大陸では、広大な植民地を持つフランスが降伏し、北部のフランス植民地、アルジェリアチュニジアモロッコ、アフリカの東沖マダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。
  5. ^ イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは地中海地域を「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。
  6. ^ ソ連書記長スターリンは情報部からドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。
  7. ^ 奇しくも3年前の独ソ戦開始、バルバロッサ作戦発動日と同じ日付である。
  8. ^ なお、国民の士気低下を恐れて陸軍の英雄、ロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され10月18日、盛大な国葬が営まれた。
  9. ^ さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告と見なすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられたと勝手に日本が判断した時点で、これは宣戦布告に等しい、と見なす考えもある。最後通牒の項も参照。
  10. ^ 1940年3月、日本の協力の元に汪兆銘を首班として南京に設立された政権
  11. ^ しかし後にポルトガル政府は暗黙の下、両地を事実上統治下に置いた。
  12. ^ 当時はイギリスとオランダの植民地
  13. ^ オランダの植民地
  14. ^ 現在のスリランカ
  15. ^ 正式にはドイツ占領下のフランス
  16. ^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティは浮揚修理され、アッドゥ環礁に移動。同地でドイツ軍のUボートU-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年1月5日に浸水により沈没した。
  17. ^ 戦死後海軍元帥となる。
  18. ^ 「インディアナポリス」はこの損害の修理のためにアメリカ本土に曳航され、修理完了後前線に復帰する際、原爆輸送の極秘任務をこなし、原爆を揚陸後に日本海軍の潜水艦「伊58」に撃沈された。
  19. ^ 原爆死没者名簿の人数は2020年8月5日現在で32万4129人
  20. ^ 林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力した。
  21. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、無条件降伏があくまで日本軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  22. ^ カティンの森事件については、1990年にソ連政府がスターリンの指示による犯行を認め遺憾の意を表明した。
  23. ^ 日本兵のシベリア抑留については、1992年にロシアの大統領エリツィンが謝罪した。
  24. ^ Joint Army - Navy Assessment Committee
  25. ^ 実際の戦闘に参加したものは5%に過ぎなかった。
  26. ^ アメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人に対する法的な差別の解消は、1960年代に活発化した公民権運動とそれの結果による公民権法の成立を経なければならなかった。ただし、現実の差別解消はその後数十年経った現在もなお完全に実現されたとは言い難く、法の下では平等であっても、社会の生活階層や職業階層に占める人種割合に差が残るなど世俗慣習として差別は依然として残っている。アメリカ政府はアメリカは自由で平等な国であるので、差別は国内には存在しないとしている。
  27. ^ ナバホ族の難解な言語をそのまま暗号として用いた。コードトーカー参照。

出典

  1. ^ 露、ソ連とナチスの「同一視」禁止”. 産経新聞 (2021年7月6日). 2021年7月7日閲覧。
  2. ^ Daniel R. Headric The Invisible Weapon: Telecommunications and International Politics, 1851-1945, オックスフォード大学 Press、1991, Chapter 12. Communications Intelligence in World War Ⅱ
  3. ^ a b c Steffen Prauser and Arfon Rees (2004). The Expulsion of the 'German' Communities from Eastern Europe at the End of the Second World War. 欧州大学院. p. 4. https://hdl.handle.net/1814/2599 
  4. ^ 戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎著、「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」(中央公論社 1991年)p.67
  5. ^ 武田知弘 p.135
  6. ^ a b c 武田知弘 p.137, pp.145-146
  7. ^ 武田知弘 p.138
  8. ^ 尼港事件と日本社会、一九二〇年 井竿富雄 山口大学
  9. ^ Patricia Blake (1986年12月8日). “Books: The War Against the Peasants the Harvest of Sorrow”. Time. 2011年4月20日閲覧。
  10. ^ “Recruited by MI5: the name's Mussolini. Benito Mussolini”. Guardian. (2009年10月13日). https://www.theguardian.com/world/2009/oct/13/benito-mussolini-recruited-mi5-italy 2011年4月20日閲覧。 
  11. ^ 油井大三郎古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論社 1998年 p.191
  12. ^ 大鷹正次郎『第二次大戦責任論』
  13. ^ Minus a Member at Time magazine on Monday, Dec. 25, 1939
  14. ^ 米大統領、中立守ると宣言(『東京朝日新聞』昭和14年9月5日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p362 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  15. ^ 武田知弘 p.232
  16. ^ Feng-Shan Ho - The Righteous Among The Nations - Yad Vashem”. 2015年9月9日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年9月15日閲覧。
  17. ^ Aristides De Sousa Mendes - The Righteous Among The Nations - Yad Vashem”. 2015年9月15日閲覧。
  18. ^ THE KINGDOM OF THE NETHERLANDS DECLARES WAR WITH JAPAN”. ibiblio. 2011年4月24日閲覧。
  19. ^ a b The dark side of D-DAY Unearthed files reveal thefts and assaults committed by some of France’s liberators ニューヨーク・ポスト 2013年6月15日。
  20. ^ Wieviorka, Olivier (2010). Normandy: From the Landings to the Liberation of Paris. Belknap Press of Harvard University Press英語版. p. 329. ISBN 0674047478. https://books.google.fr/books?id=rwCmJiSaREwC&pg=PA329&dq=Rape+during+the+liberation+of+France&hl=en&sa=X&ei=8r2sUbTVM4fPkQXb4oGYBw#v=onepage&q&f=false 
  21. ^ 油井大三郎古田元夫著、「世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ」(中央公論社 1998年)pp.104-105、およびウィンストン・チャーチル著、佐藤亮一訳、『第二次世界大戦』第四巻第19章(河出書房新社
  22. ^ 「ハンガリー人全体における最悪の苦難は強姦による。10歳から70歳までが苦難を受けるのが普通であったが、極一部の女性のみが助かった。」Swiss embassy report cited in Ungváry 2005, p.350.
  23. ^ Neville 2014, p. 212
  24. ^ Moseley 2004, pp. 311–313
  25. ^ Bosworth 2014, pp. 332–333
  26. ^ Garibaldi 2004, p. 78
  27. ^ Di Bella 2004, p. 51
  28. ^ Hanna Schissler The Miracle Years: A Cultural History of West Germany, 1949-1968 [1]
  29. ^ アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』白水杜
  30. ^ a b 「無条件降伏」とハーグ陸戦法規 日本にドイツ式「基本法」制定は可能であったか 松村昌廣『桃山法学』第17号、2011年3月
  31. ^ Joshua D. Zimmerman 『Contested memories: Poles and Jews during the Holocaust and its aftermath』Rutgers Univ Pr、2003年。ISBN 0813531586https://books.google.co.jp/books?id=uHJyoGiep2gC&pg=PA235&dq=the+1946+thousand+kielce&lr=&sig=ACfU3U3Tke1lvKWX6eZvt-CpRVaxXP_HQw&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=the%201946%20thousand%20kielce&f=false 
  32. ^ a b 臼井勝美『新版 日中戦争』p.3
  33. ^ 倉山満『満洲事変』KKベストセラーズ、pp.168-169
  34. ^ 紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ
  35. ^ 聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)
  36. ^ a b 「西安から釈放され飛行機で洛陽に安着 宋美齢夫人らとともに張学良氏も同行す」大阪朝日新聞 1936.12.26(昭和11年)
  37. ^ 児島襄 『日中戦争3』文藝春秋、1988年、294頁。 
  38. ^ 『読売新聞』1937年7月9日付朝刊 3面
  39. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月28日付朝刊 2面
  40. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月27日付朝刊 2面
  41. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月30日付朝刊 2面
  42. ^ 『東京朝日新聞』1937年7月3日朝刊 3面
  43. ^ 『支那事変実記 第1輯』1941 p.3
  44. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月26日朝刊 2面
  45. ^ 『東京朝日新聞』1937年5月24日朝刊 2面
  46. ^ 『東京朝日新聞』1937年6月12日朝刊 2面
  47. ^ 『国際写真新聞』同盟通信社 1937年8月5日 p.6
  48. ^ jikki1_07_08
  49. ^ 『国民新聞』1937年7月9日付朝刊 1面
  50. ^ 外務省 1937c pp.27-29
  51. ^ 外務省 1937d p.15
  52. ^ a b 安井 1993 p.91
  53. ^ 秦 1996, p.413
  54. ^ 坂本夏男「盧溝橋事件勃発の際における牟田口廉也連隊長の戦闘開始の決意と命令」『芸林』42(1), pp.2-23, 1993年2月。
  55. ^ 『太平洋戦争をめぐる日米外交と戦後米ソ対立』本橋正(学術出版会)2006年
  56. ^ [2] 満州でもユダヤ難民救出=「ヒグチ・ルート」孫が講演-イスラエル[リンク切れ]
  57. ^ a b 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、147頁。 
  58. ^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、147-148頁。 
  59. ^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、148頁。 
  60. ^ 早坂隆 『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文芸春秋、2010年、149頁。 
  61. ^ 樋口季一郎物語~中編~[リンク切れ]
  62. ^ 第二次世界大戦とは - コトバンク
  63. ^ ryuketsu02
  64. ^ a b c d e kamisaka1X120
  65. ^ a b c d 小島・丸山(1986)pp.170-172
  66. ^ 狭間(1999)pp.174-188
  67. ^ a b c 上坂(1999)上巻pp.144-164
  68. ^ arima218
  69. ^ a b c kamisaka1X188
  70. ^ a b 上坂 (1999) 上巻pp.218-238
  71. ^ hosaka195
  72. ^ tsuchiya2010
  73. ^ a b kamisaka1X240
  74. ^ 東久邇日記
  75. ^ sankei1X130
  76. ^ JACAR.B04013209400,I-0882/0057
  77. ^ JDC-1940 p.11 JDC Annual Report 1940: Aiding Jews Overseas; Report of The American Jewish Joint Distribution Committee, Inc. for 1940 and the first 5 months of 1941 (PDF)”. The American Jewish Joint Distribution Committee, Inc.. pp. 27,39. 2019年2月17日閲覧。A report of the work of the Joint Distribution Committee in bringing relief to thousands of distressed Jews throughout the world during the year 1941 and the first 5 months of 1942 (PDF)”. The American Jewish Joint Distribution Committee, Inc.. pp. .15-16, 33. 2019年2月17日閲覧。
  78. ^ 谷川栄彦 1967, pp. 734.
  79. ^ 立川京一 1999, pp. 42.
  80. ^ 立川京一 1999, pp. 42–43.
  81. ^ 東郷茂徳 外務大臣 「第22号 仏印船舶傭船に関する件」 1941年1月21日 JACAR Ref.B09030198500 画像2枚目。
  82. ^ 林 総領事「第215号(外機密)」1941年6月12日 JACAR Ref.B09030198500 画像8枚目。
  83. ^ 芳澤謙吉 駐仏印大使「第6号 対日輸出に関する仏印側船舶徴用の件」1942年1月3日 JACAR Ref.B09030198500 画像15枚目。
  84. ^ 『アジア特電 1937~1985―過激なる極東』ロベール・ギラン矢島翠訳 p.112
  85. ^ 立川京一 2000, p. 121
  86. ^ ボイントン『海兵隊撃墜王戦記』p.14
  87. ^ 中山雅洋『中国的天空(上)』p.157
  88. ^ アジア歴史センター
  89. ^ a b 斎藤良衛, p. 510.
  90. ^ a b c d e f g h i 『大日本帝国の興亡2』ジョン・トーランド著 早川書房
  91. ^ 『滞日十年』ジョセフ・グルー(ちくま文芸文庫、2011年11月)p.195
  92. ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 第6回御前会議(決定:帝国国策遂行要領、対米英蘭戦準備を概ね10月下旬を目途に完整)
  93. ^ 角田 1987, p. 258.
  94. ^ a b 須藤 1999, p. 51.
  95. ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 近衛内閣総理大臣、豊田外務大臣・東条陸軍大臣・及川海軍大臣・鈴木企画院総裁と戦争の是非について会談、陸軍は中国からの撤兵に反対
  96. ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 近衛内閣総理大臣、豊田外務大臣・東条陸軍大臣・及川海軍大臣・鈴木企画院総裁と戦争の是非について会談、陸軍は中国からの撤兵に反対
  97. ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 近衛内閣総理大臣、豊田外務大臣・東条陸軍大臣・及川海軍大臣・鈴木企画院総裁と戦争の是非について会談、陸軍は中国からの撤兵に反対
  98. ^ 特高資料では「9月28日」とされているが、上記「褒賞上申書」や和歌山県で北林の逮捕に立ち会った元和歌山県警刑事の証言により実際の逮捕日は9月27日であることが渡部富哉によって確認されている [3]
  99. ^ 『アジア特電』ロベール・ギラン著 矢島翠訳 p.141
  100. ^ 『アジア特電』ロベール・ギラン著 矢島翠訳 p.149
  101. ^ 『戦時下のドイツ大使館』エルヴィン・リッケルト(中央公論社)p.34
  102. ^ 『戦時下のドイツ大使館』エルヴィン・リッケルト(中央公論社)p.33
  103. ^ a b c d e 『戦時下のドイツ人たち』上田浩二/荒井訓(集英社新書、2003年)
  104. ^ 三宅正樹『スターリンの対日情報工作』平凡社<平凡社新書>、2010年、pp.136 - 142
  105. ^ a b c 三宅正樹『スターリンの対日情報工作』平凡社<平凡社新書>、2010年、pp.145 - 151
  106. ^ a b 三宅正樹『スターリンの対日情報工作』平凡社<平凡社新書>、2010年、pp.152 - 153
  107. ^ a b c 『アジア特電』ロベール・ギラン著 矢島翠訳 p.145
  108. ^ 「GHQ、知らぜらる諜報戦」チャールズ・A・ウィロビー著 山川出版社 P.108
  109. ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 第66回大本営政府連絡会議(議題:国策遂行要領再決定、対米交渉要領決定)
  110. ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 大本営、南方軍に南方要地域攻略準備命令
  111. ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 大本営陸軍部、南方軍に対し、南方要域攻略を発令(実際の作戦開始は保留)
  112. ^ 『滞日十年』下 ジョセフ・グルー著(ちくま文芸文庫、2011年11月)p.294
  113. ^ a b 氷川丸とその時代 195-197頁『龍田丸の囮航海』
  114. ^ 氷川丸とその時代 266-267頁
  115. ^ インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 野村・来栖両大使、ハル米国務長官と会談、ハルは「乙案」を拒否し、いわゆる「ハル・ノート」を手交
  116. ^ 『大日本帝国の興亡2』ジョン・トーランド著 早川書房 p.34
  117. ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 pp.379-380
  118. ^ 『滞日十年』ジョセフ・グルー(ちくま文芸文庫、2011年11月)p.316
  119. ^ https://www.sankei.com/politics/news/130307/plt1303070007-n1.html 「ルーズベルト親電」伝達遅れ、GHQ徹底調査 産経新聞 2013年3月7日
  120. ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 p.393
  121. ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 p.395
  122. ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 p.413
  123. ^ 『帝国海軍太平洋作戦史 1』p.30 学研 2009年
  124. ^ 草鹿 1979, p. 30
  125. ^ 草鹿 1979, p. 74
  126. ^ ダーヴァット 2001, p. 128
  127. ^ 『帝国海軍太平洋作戦史 1』p.34 学研 2009年
  128. ^ 海鷲決戦 p.37「飛行機對戰艦」
  129. ^ 神立 (2004) 44頁「戦場に投じた花束」
  130. ^ 目撃者昭和史6巻 262頁
  131. ^ 少年海国物語 p.27「數日後、我海軍旗は、その海の上を飛んで、さすがは、海の國イギリスの名を恥かしめず、最後まで大砲をうちながら沈んだ、フイリツプス大将と乗組員のために、美しい花束を投げおろした。」
  132. ^ a b c d e f g h 『ぼくは日本兵だった』J・B・ハリス(旺文社、1986年)
  133. ^ Hong Kong Clipper: Lost PanAm.org
  134. ^ 『戦時下の日本外交』(国民政治経済研究所。昭和17年)pp.94-95に「十二月十七日、豪蘭連合軍はチモール島総督の厳重なる拒否にも拘らず、強行上陸してしまつたのである。サラザール葡首相はこの暴挙に激昂し、英政府に対して強硬抗議を提出すると共に十九日議会に於て次の如く英国の不信不当を暴露し糾弾したのであつた。」と書かれ、同書pp.104-105に「それと同時に帝国政府は『客年十二月十七日英蘭両国軍は、葡領チモール総督の拒否に不拘、同領に侵入し、之を占拠するの措置に出でたり、爾来英葡両国間に撤兵方の交渉開始せられ、葡国政府は事態改善の為め努力したる模様なるも、事態は何等変更を見ずして今日に至れる為、今般蘭領チモールに在る英蘭軍兵力を駆逐するの必要に至れり、英蘭両国の国際信義を無視せる行為の為多大の迷惑を受くるに至りたる葡国の立場は帝国の充分諒とする所にして、帝国政府は葡領チモールの領土保全を保障し、且葡国政府が中立の態度を維持する限り自衛上の目的達成の上は速に兵力を撤収せんとするものにして帝国は葡国に対し何等他意ある次第に非ざることを玆に闡明す。』との声明を発し、この声明は直ちにリスボン駐割の千葉公使から葡政府に提示された。」と書かれ、1941年(昭和16年)12月17日、オーストラリアとオランダの連合軍が、ポルトガル領ティモールに、強行上陸し、その日のうちに全土を占領したことが分かる。また、オーストラリアが、イギリスから独立したのは、1986年3月3日であるので、pp.104-105では、「英蘭両国軍」となっていて、これは、pp.94-95の「豪蘭連合軍」と同一である。
  135. ^ 『帝国海軍太平洋作戦史 1』p.100 学研 2009年
  136. ^ a b 『帝国海軍太平洋作戦史 1』p.99 学研 2009年
  137. ^ 立川京一 1999, pp. 47–48.
  138. ^ 戦藻録 (1968) 79-80頁『二月九日 月曜日 半晴 風相當なり マカッサル上陸成功。』
  139. ^ 戦藻録 (1968) 80頁『二月十一日 水曜日 晴 バンゼルマシン占領。』
  140. ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 374頁
  141. ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 406頁
  142. ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 544頁
  143. ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 545頁
  144. ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 583頁
  145. ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 618頁
  146. ^ 『マレー作戦 第二次世界大戦史』
  147. ^ 戦史叢書1 マレ-進攻作戦 626頁
  148. ^ 日本の外務省の公式HPの『『日本外交文書』特集「太平洋戦争」(全3冊)』の『本巻の概要』の『V 中立国との関係』の『二 チモール問題と対ポルトガル措置』に「昭和16年12月17日、豪蘭連合軍がポルトガル領チモールに進駐すると、翌17年2月20日には日本軍が蘭領チモールにおける作戦上の進展を理由に葡領チモールを占領しました。豪蘭軍駆逐後も実質的な占領を続ける日本軍に対し、昭和19年6月、サラザール首相はチモールからの日本軍撤退を正式に要請、翌20年5月に交渉が開始されましたが、チモールにおけるポルトガルの行政権が回復されたのは日本の敗戦後のことになりました。」と書かれていて、1942年(昭和17年)2月20日に占領したことが分かる。
  149. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 (1967), 戦史叢書第3巻「蘭印攻略作戦」, 朝雲出版社, pp. 429-431, http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=003 
  150. ^ a b c 戦史叢書80巻183頁「K作戦」
  151. ^ ボ―ルドウィン(1967年)p.160
  152. ^ ボ―ルドウィン(1967年)p.162
  153. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、p.127
  154. ^ 本当の特殊潜航艇の戦い、p.131
  155. ^ Webber p.77
  156. ^ Rosselli p.20
  157. ^ 森瀬晃吉 1999, p. 65.
  158. ^ 米田文孝・秋山暁勲 2002, p. 13.
  159. ^ a b 児島襄 1974, p. 156.
  160. ^ a b 歴史秘話ヒストリア “裏切り”の声は甘く悲しく〜東京ローズ〜”. gooテレビ番組(関東版). goo. 2018年3月11日閲覧。
  161. ^ 『秘密のファイル』春名幹男 共同通信社 p.122
  162. ^ 『丸』2009年11月号
  163. ^ 艦長たち(続篇) 1984, pp. 215–216.
  164. ^ 岩崎、pp.192-193
  165. ^ a b 完本太平洋戦争、上 1991, pp. 356–358.
  166. ^ 艦長たち(続篇) 1984, p. 216-217粉砕された「PT一〇九号艇」
  167. ^ 人間の条件1942(温故一九四二)」を読むために」劉燕子 2015年11月12日 集広舎
  168. ^ 福田和也『悪と徳と岸信介と未完の日本』産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』pp.228-246
  169. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 14.
  170. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 14–15.
  171. ^ a b 叢書八一457
  172. ^ 星新一『きまぐれエトセトラ』角川文庫[緑303-14]ISBN 4041303141, p.127
  173. ^ 『法曹』1970年3月号、『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』白井久也
  174. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.56
  175. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.60
  176. ^ ロビン・L・ライリー『KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II』Mcfarland p.320
  177. ^ POW研究会「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」
  178. ^ a b 鈴木貫太郎傳 1960, p. 181.
  179. ^ 鈴木貫太郎傳 1960, p. 179-180.
  180. ^ 鈴木貫太郎傳 1960, p. 180.
  181. ^ 鈴木貫太郎傳 1960, p. 180-181.
  182. ^ 鈴木貫太郎傳 1960, p. 182.
  183. ^ 三好徹 2003, p. 95.
  184. ^ 平川祐弘 1993, p. 150.
  185. ^ ヴィッケルト 1998, p. 159.
  186. ^ 『秋霜の人 広田弘毅』渡辺行男 早川書房 p.217
  187. ^ 首相交代による。チャーチルは7月26日まで。アトリーは27日以降(ただし前半も次席として参加)。
  188. ^ a b c 有馬哲夫 (2020年9月15日). “そろそろ「無条件降伏」という間違いを正さねばならない”. デイリー新潮. オリジナルの2021年6月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210621060415/https://www.dailyshincho.jp/article/2020/09150615/?all=1 
  189. ^ 藤田宏郎 2011, pp. 333.
  190. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 葦書房 p.99
  191. ^ a b 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.215
  192. ^ 新人物往来社 1995, p. 39.
  193. ^ 半藤一利 2006, p. 24.
  194. ^ 昭和天皇実録より
  195. ^ a b 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.264
  196. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「昭和天皇実録 iza14090905120002 2/3」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  197. ^ 衣奈多喜男『最後の特派員』朝日ソノラマ 1988年7月、ISBN 978-4-257-17205-5
  198. ^ a b c 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.267
  199. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.265
  200. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.274
  201. ^ 新人物往来社 1995, p. 166.
  202. ^ 角田房子 1980, p. Kindle5159.
  203. ^ 半藤一利 2006, p. 66.
  204. ^ 阿部牧郎 2003, p. 461.
  205. ^ 半藤一利 2006, p. 68.
  206. ^ 伊藤正徳・5 1961, p. 284.
  207. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.275
  208. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
  209. ^ 森松俊夫 1994, 大陸命第千三百八十一号-第千三百八十二号.
  210. ^ 叢書九八432a
  211. ^ a b Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan, Library of Congress Catalogue Card # 67-27047, p.239
  212. ^ 『占領下の津京』佐藤洋一 p.25(河出書房新社)2006年
  213. ^ 「厚木でマッカーサーを出迎えた「太平洋戦争きっての名作戦家」2021年9月6日」 - 2021年9月6日 譚璐美 JBpress
  214. ^ 『占領下の津京』佐藤洋一 p.24(河出書房新社)2006年
  215. ^ 外務省
  216. ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なき戦争指導』)映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
  217. ^ 『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 p.318
  218. ^ 増田 2009, p. 332.
  219. ^ 袖井 1982, p. 122.
  220. ^ 『香港領事動乱日記』佐々淳行 文藝春秋 p.55
  221. ^ 『私を通り過ぎたスパイたち』佐々淳行 文藝春秋 p.178
  222. ^ 米と中東欧諸国、ロシアによる歴史「歪曲」を非難 戦後75年を控え”. 2020-05-08 (2020年5月8日). 2020年5月12日閲覧。
  223. ^ “アーミテージ氏が語る新しい日米安全保障体制”. 日経BP. (2006年7月11日). オリジナルの2008年6月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080608000617/http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/150/index3.html 
  224. ^ 伊藤カンナ「イタリアの戦後賠償 (戦後システムの形成における日米特殊関係 : 東アジアとヨーロッパ) -- (連合国の「寛大なる講和」と旧枢軸国の対応)」『名古屋大学法政論集』第260巻、名古屋大学大学院法学研究科、2015年、 211-229頁、 NAID 110009881691
  225. ^ ポーランド侵攻から80年、復活するドイツへの戦後賠償要求の動き”. AFP (2019年9月2日). 2019年9月23日閲覧。
  226. ^ ドイツを揺さぶる戦後処理 財政危機のギリシャ賠償額36兆円と試算 独政府は「解決済み」”. 産経新聞 (2015年5月6日). 2019年9月23日閲覧。
  227. ^ 佐々木和義 (2020年8月4日). “韓国、最愛のドイツが“G7参加”に反対…こだわる文在寅への冷めた視線”. デイリー新潮. オリジナルの2020年10月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201016223209/https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08040800/?all=1 
  228. ^ 1947年2月にパリで締結された諸講和条約(英語) - オーストラレーシア法律情報研究所英語版
  229. ^ 羽場久浘子「東欧と冷戦の起源再考:ハンガリーの転機:一九四五〜一九四九」『社會勞働研究』45(2)、法政大学、1998年、 1-56頁、 NAID 110000184615
  230. ^ 『ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記』P.75 小学館
  231. ^ a b 『アジア特電』ロベール・ギラン著 矢島翠訳 毎日新聞社
  232. ^ a b c d 『ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記』ジョン・モリス著 小学館
  233. ^ a b 『戦時下のドイツ大使館―ある駐日外交官の証言』エルヴィン ヴィッケルト著 中央公論社
  234. ^ a b 昭和館
  235. ^ 『ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記』P.46 小学館
  236. ^ 総務省 「太平洋戦争の年表」
  237. ^ The Stamford Historical Society: Peleliu(英語)
  238. ^ a b 『滞日十年』ジョセフ・グルー(ちくま文芸文庫、2011年11月)p.336
  239. ^ a b 『日米交換船』鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創(新潮社、2006年3月)
  240. ^ SCAPIN-87: AUTHORIZATION NO. 1, LIVING EXPENSE ALLOWANCE TO AXIS NATIONALS DOMICILED IN JAPAN
  241. ^ 『知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録(新版)』 河合伸訳、風涛社、2008年
  242. ^ a b 「Die Deutsche Schule im Nationalsozialismus」
  243. ^ a b エルヴィン・ヴィッケルト著『戦時下ドイツ大使館 ある駐日外交官の証言』中央公論社、1998年、ISBN 4-12-002745-7
  244. ^ 高松宮日記5巻、261頁(欄外解説より)
  245. ^ 21.独逸大使館及領事館職務執行停止ニ関スル件」 アジア歴史資料センター Ref.B14090613800 
  246. ^ ドイツ連邦共和国大使館 建物と庭園-ドイツ大使館
  247. ^ 20.独逸国大使館防空壕及大使館焼跡ニ関スル件」 アジア歴史資料センター Ref.B14090613700 
  248. ^ 荒井訓資料 終戦前滞日ドイツ人の体験(2)終戦前滞日ドイツ人メモワール聞取り調査」『文化論集』第16号、早稲田商学同攻會、2000年3月、 269-311頁、 hdl:2065/6043ISSN 09184589NAID 120000791990
  249. ^ a b c d e f g h 『敵国人抑留』小宮まゆみ(吉田弘文館、2008年)
  250. ^ 石戸谷滋『フォスコの愛した日本―受難のなかで結ぶ友情』風媒社、1989年,pp.96-97, ISBN 4833130424.
  251. ^ 『アジア特電』ロベール・ギラン著 矢島翠訳 p.146
  252. ^ 戦時下、小林亀久雄公使のアフガニスタンへの道
  253. ^ a b 『横浜と外国人社会―激動の20世紀を生きた人々』横浜外国人社会研究会、横浜開港資料館編集
  254. ^ 『ジョン・モリスの戦中ニッポン滞在記』P.145 小学館
  255. ^ 『清里の父ポール・ラッシュ伝』 ユニバース 1993年
  256. ^ 中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』幻冬舎新書、2007年、112頁。ISBN 978-4-344-98021-1
  257. ^ a b 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター
  258. ^ 『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班 産経新聞ニュースサービス ISBN 4-594-03318-0
  259. ^ 『Uボートで来たスパイ―あるナチス・ドイツ諜報員の回想』エーリヒ・ギンペル著 村田綾子訳(扶桑社 2006年)p.35
  260. ^ a b 『ウディ・アレンの映画術』エリック・ラックス著 p.82 清流出版 2010年
  261. ^ 自叙伝『アイアコッカ - わが闘魂の経営』リー・アイアコッカ著 p.143 ダイヤモンド社 1985年
  262. ^ a b Rationed Goods in the USA During the Second World War”. ameshistoricalsociety.org. 2013年9月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年6月19日閲覧。
  263. ^ 『マリリン』グロリア・スタイネム草思社 1987年
  264. ^ 「ゲイ兵士差別はもういらない」 ニューズウィーク日本版 2009年04月22日
  265. ^ a b 『最後の特派員』衣奈多喜男 p.14 朝日ソノラマ
  266. ^ 毎日新聞1968年3月22日付
  267. ^ 週報第281号 pp.5-6「シンガポール陥落の意義」
  268. ^ 大東亜共栄圏写真大観 p.40「シンガポール陥落!新しき世界史の一頁」
  269. ^ 週報第270号 p.14「シンガポールとマレー事情」
  270. ^ 週報第280号 pp.4-5「シンガポール陥落の後に來るもの」
  271. ^ スタッズ・ターケル 著、中山容 訳 『よい戦争』晶文社、1985年7月。ISBN 4794959761 






第二次世界大戦と同じ種類の言葉


固有名詞の分類

20世紀の戦争 コントラ戦争  ポーランド・ソビエト戦争  第二次世界大戦  グレナダ侵攻  エリトリア独立戦争
フランスの戦争 ウィリアム王戦争  フロンドの乱  第二次世界大戦  四カ国同盟戦争  普仏戦争
イギリスの戦争 ズールー戦争  ウィリアム王戦争  第二次世界大戦  英緬戦争  四カ国同盟戦争
アメリカ合衆国の戦争 米比戦争  ウィリアム王戦争  第二次世界大戦  シベリア出兵  グレナダ侵攻
日本の戦争 満州事変  日中戦争  第二次世界大戦  シベリア出兵  台湾出兵
イタリアの戦争 イタリア統一運動  イタリア遠征  第二次世界大戦  ヴィットリオ・ヴェネトの戦い  第一次世界大戦
朝鮮の戦争 丁卯胡乱  羅唐戦争  第二次世界大戦  ベトナム戦争  丙寅洋擾
中華民国の戦争 (1912年-1949年) 満州事変  日中戦争  第二次世界大戦  第一次世界大戦  奉直戦争
オランダの戦争 ウィリアマイト戦争  フランス革命戦争  第二次世界大戦  四カ国同盟戦争  八十年戦争
ソビエト連邦の戦争 冬戦争  中ソ国境紛争  第二次世界大戦  ノモンハン事件  ベトナム戦争
ドイツの戦争 義和団の乱  ラップランド戦争  第二次世界大戦  普仏戦争  第一次世界大戦
東南アジアの戦争 第一次インドシナ戦争  米比戦争  第二次世界大戦  カンボジア内戦  英緬戦争
台湾の戦争 日清戦争  国共内戦  第二次世界大戦  ベトナム戦争  南日島戦役
映画作品 鉄蹄乱舞  エイリアンVSヴァネッサ・パラディ  第二次世界大戦  珍戦花嫁争奪  女番長 玉突き遊び

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

第二次世界大戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第二次世界大戦のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第二次世界大戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS