旧三笠ホテルとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 建物・施設 > 施設 > 歴史的建造物 > 西洋館 > 旧三笠ホテルの意味・解説 

旧三笠ホテル


旧三笠ホテル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 11:01 UTC 版)

三笠ハウス(旧三笠ホテル)
ホテル概要
設計 岡田時太郎
階数 1 - 2階
部屋数 30室
開業 1906年5月
閉業 1970年
最寄駅 軽井沢駅
最寄IC 碓氷軽井沢インターチェンジ
所在地 〒389-0100
長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢字唐堀1339番342
位置 北緯36度22分23.5秒 東経138度37分34.5秒 / 北緯36.373194度 東経138.626250度 / 36.373194; 138.626250座標: 北緯36度22分23.5秒 東経138度37分34.5秒 / 北緯36.373194度 東経138.626250度 / 36.373194; 138.626250
公式サイト 公式サイト
テンプレートを表示
旧三笠ホテル
施設情報
正式名称 重要文化財・旧三笠ホテル[1]
前身 三笠ホテル
事業主体 軽井沢町
管理運営 軽井沢町教育委員会
所在地 389-0100
長野県軽井沢町大字軽井沢1339-342
プロジェクト:GLAM
テンプレートを表示

旧三笠ホテル(きゅうみかさホテル)は、長野県北佐久郡軽井沢町にある歴史的建造物。国の重要文化財

三笠ホテルという名称は、敷地前方の愛宕山奈良県三笠山に似ていることから、有島生馬里見弴、山本直光によって付けられたという。

概要

玄関
大正期に広間で開かれた晩餐会の風景。写真右から西尾忠方近衛文麿夫人(千代子)、徳川慶久夫人(實枝子)、里見弴有島武郎毛利高範夫人(賢子)、徳川義親山本直良黒田長和、黒田長和夫人(久子)、近衛文麿、山本直良夫人(愛)。
三笠通り

実業家山本直良によるホテル開業は1906年(明治39年)5月[2]

建物は1905年(明治38年)に竣工した日本人の設計による純西洋風木造建築で、設計は岡田時太郎、監督は佐藤万平、棟梁は小林代造。アメリカのスティックスタイル(Stick style)を採用したゴシック風の華麗な外観で、扉のデザインはイギリス風、下見板はドイツ風、用材は小瀬のアカマツを現場で製材した。国際避暑地・軽井沢の雰囲気を当時のまま今に伝える貴重な名建築の1つである。

欧米人とともに渋沢栄一団琢磨住友友純乃木希典愛新覚羅溥儀といった著名人が多く宿泊したことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれていた[3]上皇后美智子も独身時代に宿泊している。

現在は本館の一部のみが残るが、かつての広いホテル敷地内には、別館のほか、庭園テニスコートプールクリケットヤードなどもあった。なかでも同じくホテル敷地内に設置されていた窯元では、名匠宮川香山によって幻の焼き物「三笠焼」が創出され、この窯元にはバーナード・リーチ藤井達吉らも訪れた。

軽井沢駅から遠い立地であることから、古くは駅-ホテル間を馬車での送迎が行われていた[4]旧軽井沢の市街地とホテルを結ぶ道は、「三笠通り」という名の美しい並木道となっており、「新・日本街路樹100景」に選出されている。

なお、かつてホテルで振る舞われていたカレーコーヒーは当時のレシピをもとに再現されており、食べることができる。

歴史

1906年(明治39年)、営業を開始し、客室は30室、定員は40名、宿泊料は一等が12円、二等が8円、三等が5円。1907年(明治40年)、日本館が完成したが、1910年(明治43年)8月、明治43年の大水害のため流出した(なおこのとき、ホテルには渋沢栄一、森村市左衛門成瀬仁蔵が宿泊していた)。その様子は当時のニューヨーク・タイムズにも”The Mikasa Hotel Destroyed”と報じられた[5][6]

1919年、洋風別館が完成。1925年大正14年)に経営母体が変わり、(株)三笠ホテルとなり、明治屋に名義変更した。

1944年(太平洋戦争中)、休業した。また軽井沢が駐日外国人の主要疎開地として指定されたことから、外務省の軽井沢出張所が設置された。なおスイス公使館は三笠ホテルの向かいに位置し、各国外交団の中心的役割を担い、疎開生活の食料調達等の交渉にあたった。

戦後はアメリカ陸軍第一騎兵師団に接収され、進駐軍の施設となる。1951年、進駐軍の失火により別館が焼失。1952年、米陸軍第八軍の使用終了後、三笠ハウスの名称で営業を再開し(支配人山名伝兵衛)、1970年昭和45年)まで営業を続けた。

創業者山本直良の次男・直光によれば、ホテルとしては部屋数が少なく、ましてや夏季2ヶ月のみのビジネスであったことから、何年やっても黒字経営にはならなかったという[4]。直良自身ものちに「広く公衆と共に軽井沢の地を楽しもうと思ひ道楽半分に建てた」と述べている(なお建物の構造がホテルとしては独特である[7]ことから、もともと個人邸として建てられたのではないかという説もある)[5]

1972年2月、日本長期信用銀行によって買収され、1974年2月、現在地の南方から70m移転した。この移築の折、文化庁と協議した結果、建築的価値のある本体部分を残し、食堂、調理場、浴室等は解体されることになった。1980年(昭和55年)3月27日、日本長期信用銀行から軽井沢町に贈与された。

廃業の時点で竣工当初の建物のおよそ50%が現存しており、1980年5月31日に「旧三笠ホテル」として国の重要文化財に指定され[8]、保護されている。

2019年12月28日より、耐震補強を含む大規模保存修理工事を行うため、長期休館。工事終了は2024年3月の予定[9]

施設

  • 客室数30室(定員40人)
  • プール
  • 水洗トイレ


建築概要

  • 建築主 - 山本直良[2]
  • 設計 - 岡田時太郎[2]
  • 施工 - 小林代造
  • 工事監督 - 佐藤万平(初代)。[2]
  • 起工 - 1904年(明治37年)
  • 竣工 - 1905年(明治38年)
  • 構造 - 木造、2階建、玄関ポーチおよび屋根八角塔屋付、スレート葺
  • 所在地 - 〒389-0100 長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢1339-342

利用情報

内部公開は1983年4月から行なわれている。[2]

  • 開館時間 - 9-17時(入館は16時30分まで)
  • 休館日 - 年末年始(12月28日から翌年1月4日まで)

交通アクセス

周辺

脚注

  1. ^ 重要文化財・旧三笠ホテル条例 : 第2条 名称及び位置”. 軽井沢町例規集(HTML版). 軽井沢町役場. 2015年12月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e 旧三笠ホテルパンフレット
  3. ^ 軽井沢の鹿鳴館 日本郵船歴史博物館。
  4. ^ a b 富田昭次『ホテルと日本近代』(青弓社, 2003年)136頁
  5. ^ a b 慶應義塾福澤研究センター通信第18号
  6. ^ JAPANESE FLOODS NOW SUBSIDING; Casualties Reported Up to Dare Are 385 Dead and 500 Others Are Missing. FAMINE GROWING SERIOUS Vegetable and Fish Supplies Failing -- The Mikasa Hotel Destroyed, The New York Times, August 14, 1910.
  7. ^ 通常ホテルとして建物を設計した場合、一階部分はエントランスからロビーに直結するような構造にするはずであるが、三笠ホテルでは建物中央のエントランスを入るとすぐに階段がある構造になっていた。そのため、開業直後に新たなエントランスを東棟のロビー部分に後付けで直結するように造っている(1974年の移築の際にこのロビー部分のエントランスは閉ざされ、開業時と同様に中央口のみとなったが、2019年から始まった修繕工事では、再びこの東棟のエントランスが再現される予定となっている)。
  8. ^ 同日文部省告示第114号「文化財を重要文化財に指定する件」
  9. ^ 重要文化財・旧三笠ホテル 開館期間・入館料等のご案内(改修工事のため休館中)”軽井沢町

関連項目

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「旧三笠ホテル」の関連用語

旧三笠ホテルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



旧三笠ホテルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの旧三笠ホテル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS