第二次世界大戦 経過(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)

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第二次世界大戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

経過(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)

1941年

日本軍の侵攻に備えるイギリス領マラヤの、イギリス空軍のブルースター・F2Aバッファロー(1941年12月8日)
炎上するイギリス領マレーのゴム園(1941年12月8日)
日本軍と戦うイギリス軍インド師団(1941年12月8日)

1941年12月8日午前1時35分(日本標準時)に行われた日本陸軍イギリス陸軍との戦い(マレー作戦)により、太平洋における戦闘が開始され、アジア太平洋戦線が第二次世界大戦へ発展した(「アメリカ・ハワイに対する真珠湾攻撃がはじまり」というのは間違い、もしくは虚言である)。

当初予期されたイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況を鑑み、小沢治三郎中将は予定通りの上陸を決意した。「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下奉文中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した[118]。7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた[119]。日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、12月8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領マラヤ北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。

しかし、マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、日本軍の上陸に備えていたイギリス陸軍の水際陣地に苦戦した。日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功した。さらに、多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃し、マレー半島をシンガポールに向けて南下した[120]

イギリス陸軍はかねてから国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島およびシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600人、イギリス領インド帝国兵37,000人、オーストラリア軍15,200人、その他16,800人の合計88,600人に達していた。兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍やオーストラリア軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスより地中海を避けて喜望峰インド洋を通りドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。

イギリス空軍マレー半島司令部は、開戦前に本国へ幾度も増強の要請をしたが、本国ではドイツ空軍のイギリス本土猛攻に対する防衛(バトル・オブ・ブリテン)に手一杯であり、遠いマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、上記の陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けて運搬したため、時間が大幅にかかった。その結果、開戦当時のマレー半島のイギリス空軍の中心は、ブルースター・F2Aバッファローブリストル ブレニムなどの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。

さらにイギリス空軍は日本軍の技術に対する研究が不十分であり、「ロールス・ロイスダットサンの戦争だ」と、人種的な偏見により日本軍の航空部隊を見くびっていた。その結果、日本軍の零式艦上戦闘機一式陸上攻撃機九六式陸上攻撃機などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。

また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要である香港への攻撃を開始したほか、中華民国の上海のイギリスやアメリカ租界を瞬く間に占領した。日本に占領されたものの、残ったイギリスやアメリカ、オランダやオーストリア、デンマークやフランスなど連合国の職員と評議員は、その職から解任されたにもかかわらず、1943年に日本陸軍に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。

炎上するアメリカ海軍太平洋艦隊のウェストバージニア(1941年12月8日/日本時間)
日本軍による空からの奇襲に遭う真珠湾の太平洋艦隊基地」(1941年12月8日)

日本軍のイギリス領マレー半島上陸開始の約1時間半後、日本海軍6隻の航空母艦により、ハワイオアフ島(当時のアメリカ自治領で、アメリカが1898年に武力で統合)にあった、真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に、攻撃(真珠湾攻撃)が行われた[90]。日本海軍は山本五十六大将指揮の下、当時世界最大の空母機動部隊を保有していた。

前日12月6日(ハワイ時間)の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍のハズバンド・キンメル大将とウォルター・ショート中将にも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせると判断し、真珠湾にいる艦隊をそのまま在港させることとした。

また同日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方に米大統領ルーズベルトに翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ[90]。しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントは全くなかった。

しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後に、在アメリカの日本の外交団は全ての暗号機を破壊せよとの指令も付しており、攻撃時間を十分連想されるものであった。その「ワシントン時間午後1時30分」が、「ハワイ時間午前7時30分」であることを思いつく者はいなかった。さらに結果として日本陸軍のマレー上陸の報が、イギリス軍からハワイに展開するアメリカ軍に伝達されるのはコタバルへの攻撃開始のはるか後のことになり、その結果、ハワイの真珠湾ならびにアメリカ領フィリピンを含む太平洋地域のアメリカ軍の迎撃体制の緩みに影響することはなかった。

日本軍機から魚雷攻撃を受けるアメリカ戦艦群(1941年12月8日)
ハワイから帰投する日本海軍機(1941年12月8日)
日本軍機の攻撃を受けるイギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」(1941年12月10日)
「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗する駆逐艦「エクスプレス」(1941年12月10日)

ハワイ時間の7日の7時10分に日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」から攻撃を受けたが(ワード号事件)、ハワイ周辺海域では日本の漁船などへの誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった[90]。また、その直後にはアメリカ軍の哨戒機が湾口1マイル沖で潜水艦を発見し爆雷攻撃を行ったとの報告もなされたが、その報告を聞いた海軍参謀らは駆逐艦「ワード」からの報告も含めて長々と議論するばかりで結論を出すことができず、陸軍に連絡することすらしなかったため、陸軍は警戒態勢の強化を図ることができなかった。さらに、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかった真珠湾のアメリカ海軍の将兵のほとんどが、日米間の緊張した状況を知らされず、ほとんどが演習だと信じ込んでいた。

日本海軍の最初の魚雷は8時前に「ウエストバージニア」に命中し、8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中した[121]。以降は日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、9時前には第2次攻撃も開始し、オアフ島真珠湾上の「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17やカーチスP-40など陸海軍航空機328機破壊をはじめ2400人以上の死者を出し、これに対しわずか29機の未帰還機と特殊潜水艇5隻の未帰還の被害で終えた[90]

その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ海軍太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ海軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[122] 作戦目的を達成した[123]。なお激しい戦闘の最中に、ホノルル港に停泊していたオランダ海軍の「ヤーヘルスフォンテイン」が日本軍機に向けて搭載している対空砲の射撃を行い、大東亜戦争において最初のアメリカ軍の友軍による参戦となった[124]

アメリカ海軍太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ海軍空母が出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる[90]。なお、当時日本軍は短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、大統領のルーズベルト以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ諸島上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイ諸島のアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。さらに、7日昼にはサンフランシスコなどアメリカ西海岸に非常事態宣言が出された上、さらにルーズベルトは日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土西海岸から中西部への侵攻の可能性が高い、と分析していた。

また、日本が日米交渉の一方で戦争準備を進めていたこと、さらに宣戦布告の遅延があったことは、その後アメリカ政府による「卑劣なだまし討ち」というプロパガンダとして、長年後世に渡って使用されることとなった。ただし、先に開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかった上、1939年9月のドイツとソ連のポーランド侵攻の際も完全に宣戦布告が行われなかったなど、当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであり、このように喧伝されることはなかった。アメリカは、レンドリース法でイギリスやオーストラリア、中華民国に武器を与えていることに加え、米比戦争シベリア出兵、第二次世界大戦以後もベトナム戦争などで宣戦布告なく戦争を行っている[注釈 9]

マレー半島の橋梁を破壊するため爆薬を設置するイギリス軍工兵(1941年12月20日)

かねてよりイギリスの後押しもあり参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に対日宣戦布告を行い、連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、すでに日本と日中戦争支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国中華民国南京国民政府[注釈 10] も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやアッツ島、フィリピンを日本軍の手により失い、その上に本土西海岸も数度の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。さらにその後日本海軍は、真珠湾攻撃のアメリカ側の軍艦の損傷と修理の状況を、スパイであるベルバレー・ディッキンソンを通じて中立国のアルゼンチンにいる海軍情報部に送らせた。

12月8日夜半にイギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこともあり、イギリス海軍は哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。にもかかわらず、イギリス海軍東洋艦隊トーマス・フィリップス中将は、シンガポールの空軍司令部に戦闘機の艦隊支援に対する要望を書簡にして送付し、シンガポールにいる当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いて出撃した。9日中に日本軍に発見されない場合は、10日早朝に日本軍の船団を攻撃することを決心して北上を続けた[125]

しかし12月10日に日本海軍により発見され、マレー沖で日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機)の攻撃が開始され、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。この攻撃でプリンス・オブ・ウェールズは魚雷7本、爆弾2発。レパルスは魚雷13本、爆弾1発を食らった。日本陸軍側はわずか3機を失い、それに対してイギリス海軍側は2隻併せて将兵840名が死亡した[90]。これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。

なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した[126]。なお、日本軍航空隊は救助作業を行うイギリスの駆逐艦を攻撃せず、救助作業を妨害しなかった。さらに戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう[127]。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[128][129]

この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲に、後ろ盾になるはずの東洋艦隊を失ったイギリス軍は敗走を続けた[130]

ウェーク島で地上撃破されたアメリカ軍の戦闘機(12月23日)
九龍を進軍する日本軍(12月13日)
日本軍に降伏する香港のイギリス人(12月28日)

次いで日本陸海軍機がアメリカの植民地のフィリピンのアメリカ軍基地を攻撃し、12月10日には日本陸軍がアメリカ軍最大の基地があるルソン島へ上陸し、破竹の勢いでマニラへ向かった。さらに太平洋のアメリカ領のグアム島も占領。なおグアムにおける戦闘はわずか1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民合わせて650名であった。

12月11日、日本の対連合国への宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。

なおこの年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、スエズ運河が閉鎖されたために来日し、やむなく神戸港に停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一員となり、これらイタリア極東艦隊は日本からの燃料や食料などの供給を受けて、日本や満州国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送を担当し大活躍した。

これに先立ち12月8日に、イギリス領土の東アジアの要である香港へ攻撃を開始した日本陸軍は、ストーンカッター海軍基地などがある中心の九龍半島の攻略を開始した。啓徳空港もこの際に攻撃され、イギリス空海軍機や、サンフランシスコから到着したばかりのパンアメリカン航空シコルスキー S-42をはじめとする民間機など14機が日本陸軍に破壊された[131]。これによりイギリス軍が使用できる全航空機を失ってしまう。なお日本軍は攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され13日には九龍半島から撤退した。

さらに12日に日本陸軍が攻撃を開始した香港島では、中心地の中環を中心にイギリス陸海軍は頑強に抵抗し、日本陸軍にも多くの死者を出したものの、兵站に大切なレサボア(貯水池)を占拠されて25日に全面降伏し、日本陸軍は香港一帯を占領した[90]。降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた九龍半島の「ペニンシュラホテル」の3階で行われた。

日本陸軍は700人を超える戦死者を出したが、対するイギリス軍も1,700人を超える死者を出し、捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、英領インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了した(香港の戦い)。

日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地マカオには、中立国植民地を理由に侵攻せず、結局終戦まで進攻は行わなかった[注釈 11]。しかし12月17日[132]ポルトガル領ティモールは日本軍による利用を警戒したオランダ軍とオーストラリア軍に保障占領の名目で占領された。ポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、イギリスに対し抗議し、12月19日にポルトガルの議会でイギリスへの糾弾演説を行った。

アメリカ西海岸沿岸で通商破壊戦を行った日本海軍の伊15

12月17日には、伊7潜水艦とその積載偵察機がオアフ島を偵察し、アメリカ海軍が昼夜を問わず真珠湾の基地を修繕していることを確認。もう一度オアフ島の真珠湾をたたくことを検討する(K作戦を参照)。

12月23日には、井上成美海軍中将指揮の下で同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も占領した。このような状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9伊10伊15伊17伊19伊21伊23伊25伊26[133]。10隻との記録もある)を、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコなどの西海岸沿岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカやカナダに通商破壊戦を展開し、中でも商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れるほどの距離で砲撃、撃沈し、西海岸の住人を恐怖のどん底においた[134]

さらには、太平洋のアメリカ西沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、カリフォルニア州のサンディエゴ、モントレー、ユーレカ、オレゴン州のアストリアなどの複数の都市の海軍基地などの軍事施設を一斉に攻撃するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある[134]

1942年

マレー半島を進む日本軍(1942年1月)
カンタス航空のショートエンパイア機

東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、1月8日にイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。また日本が進出したフランス領インドシナでは、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[135]

1月に日本は、母国がドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命および植民地政府とも開戦し、ボルネオ島カリマンタン[注釈 12]ジャワ島スマトラ島[注釈 13] などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。

1月30日には、オランダ領東インド・西ティモール沖の戦闘区域で、カンタス航空のショートエンパイア機が日本海軍機に撃墜され、乗客乗員13名が死亡する事件が起きている。なおこれは、2022年現在同社での最大の死亡者数の事故となっている。また同航空は、この後も日本軍との戦闘で機材を失っている。

南米においては、ブラジルが、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦することを決定した。ただし、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。また、ドイツやイタリアと友好関係にあったアルゼンチンは中立を保った。

クアラルンプールで市街戦を戦う日本軍(1942年1月)

日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦オランダ海軍とアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日にマカッサル[136]、2月10日-11日にバンジャルマシンに上陸しこれを攻略した[137]。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。このような中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「ファン・イムホフ号事件」が発生している。

シンガポールにて降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将(1942年2月)

日本軍は9日にイギリス領マレー半島のセランゴールを占領、11日午前12時にクアラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した[138]。イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた[139]

ジョホール州に迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールに迫った。2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールへの攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[140]。8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡航開始[141]。11日朝、第25軍司令官はイギリス軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた[142]。しかしイギリス軍の最後の軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後にアーサー・パーシバル中将は山下奉文中将に降伏した[143]

日本陸軍第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、イギリス軍捕虜が約10万人、約5,000名が戦死し、同数が戦傷した[144]。日本の戦死1,713名、戦傷3,378名[145] に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで占領下に置いた。

2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍 (RAAF) のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。

2月20日[146] に、日本軍は、イギリス軍が占領下に置いていたティモール島全島を占領した。ディリの守備にあたっていた連合軍約1300名の大部分は山中に逃亡し、ポルトガル軍は日本軍に対して抵抗しなかった[147]。以降、ポルトガル領ティモールも事実上は日本軍の統治下になった。

「ロサンゼルスの戦い」を報じるロサンゼルスタイムズ紙(1942年2月)

2月24日に、日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃し、製油所の施設を破壊した。これで日米戦においては、先に日本がアメリカの本土を攻撃することとなり、アメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。アメリカ政府および軍は本土への日本軍上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。

さらに翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行い6人の民間人が死亡するという事件(「ロサンゼルスの戦い」)が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であるとし、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったともいわれる。

また、まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質終了した。3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝した。日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現:ミャンマー)首都ラングーン(現:ヤンゴン)を占領。連合国は日本軍に連戦連敗し、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊は完全に壊滅した。

オアフ島を再爆撃した二式大艇

前年の12月17日にオアフ島の真珠湾を偵察した日本海軍は、1月5日にも伊19より搭載機による偵察を行った。これによりアメリカ軍灯火管制もせずに急ピッチで真珠湾攻撃の損害の復旧をしていることを知った[148]。これを受けて大本営]軍部(軍令部)は、真珠湾の復旧活動を妨害すると同時に、当時各地で負け続けであった上に、本土さえ攻撃されているアメリカ軍の士気に更なる損害を加えるため、一三試大型飛行艇(二式大艇)による空襲計画が立ちあげる[148]

1月17日、連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第六艦隊(司令長官清水光美中将)と第四艦隊(司令長官井上成美中将)に、一三試大艇による作戦研究および計画立案を行うよう伝え[148]た。本作戦は「K作戦」と命名され、補給任務につく潜水艦3隻(伊15、伊19、伊26)は水偵格納筒を改造して、航空燃料補給装置を装備した。 その後2機の二式大艇が横須賀基地からマーシャル諸島ウオッゼ島を出発し、途中フレンチフリゲート礁で潜水艦から燃料補給を受け、3月4日に再度真珠湾のアメリカ海軍基地の爆撃を行ないこれに成功した。

インド洋で日本軍の攻撃を受けるイギリス海軍の「コーンウォール」と「ドーセットシャー」(1942年4月)

さらに日本海軍航空母艦の翔鶴瑞鶴を中心とした機動艦隊はインド洋に進出し、海軍空母搭載機がイギリス領セイロン[注釈 14]コロンボトリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。

イギリス艦隊は、第五航空戦隊などの日本海軍機動部隊に全く反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアキリンディニ港まで撤退した。さらにイギリス艦隊は日本海軍が勢いを増して追いかけてくることを懸念し、マダガスカル島まで撤収を余儀なくされるが、日本海軍はイギリス艦隊をさらに追い詰めた。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[注釈 15] へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。

アメリカ領フィリピンの日本軍は、4月9日にバターン半島を攻略、アメリカ軍の大量の捕虜を獲得したが、多数の死傷者を出したバターン死の行進事件が発生している。もはや日本軍に追い込まれ、食料も銃弾も尽きていたバターンの兵士全てが病人となったといっても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた[149]

コレヒドール島にて日本軍に降伏するアメリカ軍(1942年5月)
炎上するアメリカ海軍空母レキシントン(1942年5月)

マッカーサーは嘘の公式発表をするのと並行して脱出の準備を進めており、コレヒドール島にはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた[150]。5月6日にアメリカ軍のコレヒドール要塞を制圧したが、日本軍がコレヒドール島を攻略したとき、極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーの姿はすでになかった。3月12日にマッカーサーと家族や幕僚たちは、魚雷艇とボーイングB-17でコレヒドール島を脱出しミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。

4月18日にはアメリカ海軍は、アメリカ西海岸攻撃の仕返しに、空母ホーネットから発進したアメリカ陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)を実施、損害は少なかったものの日本の軍部に衝撃を与えたが、これ以降の日本空襲は2年半皆無であった。

5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。

日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月31日には、オーストラリアのシドニー港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われた。

日本によるシドニー湾攻撃で着底したオーストラリア海軍のクッタブル(1942年5月)

伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。

マダガスカルに向けた出港準備をする日本海軍の伊10(1942年5月)

イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地である南アフリカ沿岸のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃し[151]、南アフリカのダーバン港の他、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。

その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載した特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty, 6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された[注釈 16][152]

さらに、南アフリカ沿岸のマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日にイギリス軍と陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀拳銃で戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷させるなどの戦果を上げている。

日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でイギリス軍兵士1名の死者と5人に重軽傷を負わせるなど一定の戦果を上げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し東南アフリカ沿岸まで追いやるなど、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、また友邦のドイツ軍もいなかったことから、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。

日本海軍機の空襲を受けて炎上するダッチハーバーのアメリカ軍基地(1942年6月)

日本海軍は、同年6月3日から行われたアメリカのアラスカ準州アリューシャン列島西部要地の攻略または破壊を目的として行われたAL作戦で、アラスカベーリング海における漁業や通商の拠点となる重要な港であるダッチハーバーのアメリカ軍基地への空母龍驤」「隼鷹」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。

また6月6日には、アラスカ準州のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島に敵の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する(日本軍によるアッツ島の占領)。これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことで、続いて7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。日本軍にとってキスカ島、アッツ島上陸は戦略的には重要ではなく、実際に占領後も少ない守備隊しか置かなかった。

アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年米英戦争以来初めてのことであり、アメリカ軍にとっては自国の本土を取られた屈辱の日となった。なお第二次世界大戦で日本本土(沖縄県)に連合国軍が上陸するのは、1945年4月の事である。

ミッドウェー海戦で回避行動中の空母飛龍(1942年6月)

しかし同時に行われた6月4日-6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を一挙に失い、加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。アメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失するにとどまった。

アメリカ海軍は初めての海戦での勝利で、日本海軍によって瀬戸際に追い詰められた状況に一段落することが出来た。また日本海軍もミッドウェー経由でのハワイ攻略を中止させられることになる。この海戦は太平洋戦線で初の日本海軍の敗北となったが、日本のマスコミに緘口令を指揮、反対にアメリカは国威発揚のためにマスコミを総動員し、映画や新聞、ラジオを使いこの勝利を世紀の大勝利のように喧伝した(それは現在も続いている)。

しかし実際は、この後も日本軍との海戦でのアメリカ海軍の相次ぐ敗北やアラスカ準州の領土の占領、さらにアメリカ本土空襲と本土砲撃を受けるなど、アメリカ軍の敗北と後退は各地でまだまだ続いた。なおこの海戦後日本海軍保有の正規空母は瑞鶴翔鶴のみとなったが、上記のように水上機母艦を改装した空母がその穴を補った。またアメリカ海軍も虎の子の正規空母を撃沈され、以降は数少ない体制で1943年中盤のエセックス級航空母艦の大量就役までを乗り切ることを余儀なくされた。

さらに6月20日には乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦」が、第二次世界大戦で初めてカナダ本土を攻撃し、バンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった。

フォート・スティーブンスの被害を調べるアメリカ兵(1942年6月)

翌21日には「伊号第二十五潜水艦」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃)。当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入った所にあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29ハドソン攻撃機が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25へ爆撃を行ったが、巧みに攻撃をかわす伊25に損傷を与えることはできなかった[153]

この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては米英戦争以来のもので、日本軍の破竹の攻撃がついにアメリカとカナダ本土の軍の施設まで及ぶことになった。

上海のシナゴーグでの亡命ユダヤ人(1942年6月)

駐日ドイツ大使館付警察武官として東京に赴任したヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐は、6月にヒムラー内務大臣の命を帯びて上海に赴いた。マイジンガー大佐は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。「黄浦江にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する」、「ユダヤ人を岩塩鉱で強制労働に従事させる」、「長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする」。しかし日本政府は、悪質な上に人道にもとるドイツ側の提案を完全に拒絶した。

しかし、ドイツ政府からの再三の圧力を受けた日本政府により、上海のユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを禁じられた。亡命ユダヤ人は財産を処分するために日本政府の許可を必要とし、他の者もゲットーに移住する許可を必要とした。それまでゲットーには有刺鉄線も外壁も無かったが、これ以降は外出禁止令が敢行され、地域は警邏された上食料は配給制になり、区域からの出入りにはパスが必要になったが、いずれにしても日本政府により大戦中を通じて上海の亡命ユダヤ人の命は守られた。

横田基地内でサヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RTの前に立つ日伊の軍関係者(1942年7月)

この頃イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。6月29日グイドーニア・モンテチェーリオからイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、ドイツ占領下のウクライナザポリージャアラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル包頭に到着した。しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。その後東京の横田基地へ向かい7月3日から7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウクライナのオデッサを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。

しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在するアントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、日本では歓迎とは言えない待遇であった。また、事前に日本側が要請していた、辻政信陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけもついた。しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアは8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった[154]

日英交換船として横浜に向け航海中の龍田丸(1942年8月)
アメリカのオレゴン州空襲を伝える新聞記事(1942年9月)
南太平洋海戦で撃沈されたホーネット(1942年10月)

なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者留学生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。その後1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満州国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間についてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の交換船が運航されることになった。

また開戦以降、ドイツ側は生ゴムスズモリブデンボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために海上封鎖突破船を大西洋とインド洋経由で、昭南やジャワなど日本の占領する東南アジア方面に送ったが、大西洋とインド洋のアフリカ沿岸を拠点に活動するイギリス海軍南アフリカ連邦軍の妨害に遭うことが多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなった。

そこでドイツ側は酸素魚雷や無気泡発射管、水上飛行艇などの最新の軍事技術情報を日本から、日本側からもウルツブルク・レーダー技術、ジェットエンジンロケットエンジン暗号機等の最新の軍事技術情報をドイツから入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。遣独潜水艦作戦の1回目として、伊号第三十潜水艦8月6日にフランスのロリアンに入港した。2回目は駐独大使館付海軍武官横井忠雄海軍少将が便乗帰国するなど、その5回にわたり行われた。

8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。さらに同月に行われた第一次ソロモン海戦では、日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカとオーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。

日本軍の空襲を受けるオーストラリアのダーウィン(1942年12月)

9月9日と29日には、日本海軍の伊十五型潜水艦「伊二十五」の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまで外国軍機によるアメリカ合衆国本土への唯一の空襲となっている。日本軍によりアッツ島の本土上陸に続く、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府は、ラジオや新聞などのマスコミに徹底的な緘口令(情報操作)を敷き、日本軍の本土爆撃があった事実を国民に対しひた隠しにする。実際アメリカ政府は、このことを連合軍の攻勢が強くなる1944年頃まで隠し通した。

その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破、駆逐艦ポーターを撃沈するなど大勝した。

先立つミッドウェー海戦でアメリカ海軍は正規空母1隻を失い、さらに8月にサラトガが日本潜水艦による雷撃を受けて大破、9月にワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、南太平洋海戦の敗北で太平洋戦線での稼動正規空母が「0」となる危機的状況へ陥った。

上記のように連合国は太平洋戦線での稼動正規空母が皆無という厳しい立場にあったが、日本海軍はミッドウェー海戦で4隻を失ったものの瑞鶴や翔鶴以下5隻の稼動可能正規空母を有てしおり、1942年末では「5対0」と数の上では圧倒的優位な立場に立ち、他にも隼鷹飛鷹など年内に竣工した新鋭艦もあった。しかし、日本軍も度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、しかも連合軍の敗北に次ぐ敗北で予想以上に補給線が延び切ったことにより、新たな攻勢に打って出ることができなかった。

さらに11月に行われた第三次ソロモン海戦では、アメリカ軍とオーストラリア軍は2隻の巡洋艦と7隻もの駆逐艦を失ったが、日本海軍は戦艦2隻を失うなど、両軍ともに大きな痛手を負った。

日本軍の攻勢は各地でその後も続いた。2月より日本海軍機により実施されていたオーストラリア北部のダーウィンケアンズなどのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、冬になってもその勢いはとどまらず行われ、同地のオーストラリア空軍ならびに連合国の基地、政府の建物に大きな被害を出した。最終的に日本軍によるオーストラリア空襲は、対オーストラリア戦開始から2年後の1943年11月まで続いた。

インド洋一帯では、イギリス海軍は日本海軍艦船と航空機の勢いを恐れてほぼ完全に放逐され、連合国軍船舶は日本海軍艦船を避けて大幅に航路を変更するなど、その勢いは全く落ちてはいなかった。なお、その結果イギリス海軍がインド洋に戻れたのは、連合国の勝利がほぼ確定した終戦の年の1945年2月だった。

1943年

ビルマでイギリス軍の戦車を攻撃する日本軍兵士(1943年1月)

昨年暮れより行われていた「第一次アキャブ作戦」で、ビルマ方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、日本軍が占領したビルマ南西部のアキャブ(現:シットウェ)の奪回を目指すとともに、特殊部隊「チンディット」(いわゆるウィンゲート旅団)によりビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしイギリス軍インド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。さらに日本側はイギリス軍の戦車、装甲車40両および自動車73両の捕獲に成功した。

日本軍の魚雷を受け沈むアメリカ海軍の「シカゴ」(1943年1月)

またこの年に入っても、オーストラリア北部への日本軍の空襲や機銃掃射などの攻撃は優勢なまま継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈したほか、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を上げた。

さらに1月29日に日本海軍はソロモン諸島レンネル島沖海戦で、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃で打ち損ねたアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」を撃沈するという大きな戦果を上げたが、2月に日本陸軍はオーストラリア上陸への足掛かりと考えていたガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍とオーストラリア軍とイギリス軍、アメリカ軍ら連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。

前年にラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟英語版が昭南で設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤや昭南、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シン英語版と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた[155]。前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者を求めるようになった。

国内外に知られた独立運動家であり、ドイツにいたスバス・チャンドラ・ボースはまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・ボースと共に行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。

インド洋上の伊号第二九潜水艦乗員とスバス・チャンドラ・ボース(1943年4月)

その結果、日本とドイツを結ぶ空路よりは潜水艦での移動の方が安全であると結論が出て、2月8日に、チャンドラ・ボースと側近アディド・ハサン英語版の乗り込んだドイツ海軍Uボート U180フランス大西洋岸のブレストを出航した。その後大西洋を南下し、イギリス軍の海軍基地のある南アフリカの喜望峰を大きく迂回し、4月26日にマダガスカル島東南沖[156]でU180と日本海軍伊号第二九潜水艦が会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ[157]5月6日に伊号第二九潜水艦は、スマトラ島北端に位置する海軍特別根拠地隊指揮下のウェー島(サバン島)サバン港に到着した。現地で1週間ほど休養を取った後に日本軍の航空機に乗り換え、5月16日に東京の羽田飛行場に到着した[157]

3月に「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」が開始された。音楽と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍兵士に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。英語を話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送されることはなく愛称もつけられていなかった[158]。放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「東京ローズ」の愛称を付け[158]、その後太平洋前線のアメリカ軍兵士らに評判となった。同様の放送「日の丸アワー」も同年12月より行われた。

山本五十六大将(1943年4月)
アッツ島を守る日本軍(1943年5月)

4月7日から15日に、日本軍はガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行う「い号作戦」を行った。この作戦は日本海軍の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将自ら指揮し、自らはわずかな損失で、アメリカ海軍の駆逐艦アーロン・ワードやオーストラリア海軍のコルベット艦、油槽船やオランダ商船ヴァン・ヘームスケルクなど4隻を沈めるなど完全に勝利し、航空機による船舶への攻撃が有効であることを証明した。

作戦の成功に満足した山本海軍大将[注釈 17] は、4月18日に「い号作戦」前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキード P-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。

この頃日本陸海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており(もちろん日本軍もアメリカ軍の暗号を傍受、解読していた)、アメリカ軍は日本陸海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。またアメリカ軍は、日系アメリカ人二世や三世などをオーストラリアの連合国翻訳通訳局などで暗号の解読に従事させ、日本軍の暗号の解読や捕虜の尋問などに役立てた[159]

5月には北太平洋アリューシャン列島アッツ島にアメリカ軍が上陸。日本軍に占領されたアメリカ領土を初奪還すべく、日本軍の5倍近い人員と強力な陸海軍で及んだアメリカ軍に対し、戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。しかしアメリカ軍はこれ以上の南下をすると日本軍の強力な反撃が予想されるため、南下はしなかった。

瀬戸内海を行くイタリア海軍の「コマンダンテ・カッペリーニ」

前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、5月に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリーのみならず、西オーストラリア州内の基地に対しても空襲が行われ大きな損害を与えた。北西オーストラリア各地の空軍基地が大きな損害を受けた結果、オーストラリア軍やイギリス軍、アメリカ軍などからなる連合国軍への後方支援を決定的に弱体化させる結果となった。

第二次ベララベラ海戦における日本軍の攻撃で大破したアメリカ海軍の「セルフリッジ(左)」と「オバノン」(1943年10月)

これ以前から昭南やペナンジャカルタに置かれた日本海軍基地を拠点に、ドイツ海軍の潜水艦や封鎖突破船がインド洋において日本海軍との共同作戦を行っていたが、1943年3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」や「レジナルド・ジュリアーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。またイタリア海軍は、日本が占領下に置いた昭南に潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。8月には「ルイージ・トレッリ」もこれに加わった。

しかし昭南到着直後の9月8日イタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった[160])。なお船員らは一時拘留されたが、イタリア社会共和国(サロ政権)成立後、サロ政権に就いたものはそのまま枢軸国側として従事し太平洋およびインド洋の警備にあたった。

空襲下のラバウル島シンプソン湾(1943年11月)

なおイタリアの降伏後には、天津のイタリア極東艦隊の本部であったエルマンノ・カルロット要塞は日本軍に包囲され、海兵隊「サン・マルコ」との間で小規模な戦闘の後に降伏した。この後多くのイタリア極東艦隊の将兵はサロ政権側について以降も日本軍と行動を共にするものの、サロ政権につかなかったものは日本に送られ、名古屋の収容所に入れられた。なお天津のイタリア租界は汪兆銘政権の管理下に置かれた。

南方のソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍は軽巡洋艦神通を失うも、アメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を、アメリカ海軍駆逐艦グウィンを撃沈、軽巡洋艦ヘレナとホノルル、セントルイス、ブキャナン、ウッドワースとニュージーランド巡洋艦リアンダーを行動不能にさせた。また、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦でもアメリカ海軍の駆逐艦1隻撃沈、同2隻を大破し連合軍に完勝する。

大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパンホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース(1943年11月)

なおベラ湾夜戦では後のアメリカ大統領のジョン・F・ケネディがアメリカ海軍の魚雷艇 (PT-109) に乗船中、日本海軍の吹雪型駆逐艦天霧に8月2日未明と遭遇し、衝突して真っ二つにされてしまう[161]、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された[162][163]。2名が戦死したものの、残り11名と共に近くの小島に漂着の後[163]、1週間後に救助された[164]

ニューギニア島でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から10月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウルは孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。

一方、連合軍が依然として劣勢であったビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、新たに10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍への攻撃を開始したが、これは小規模なもので日中両国に大きな影響を与えることはなかった。また中国戦線ではアメリカ軍も加わり11月から常徳殲滅作戦が行われた。

外相重光葵の提案を元に、11月に日本の首相東條英機は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ自由インド仮政府中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、イギリスやアメリカ、オランダなどの白人国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、大東亜共栄圏の結束を誇示する。

なおこれに先立つ10月には、先にドイツから潜水艦で到着後インド独立連盟を引き継ぎ、イギリスからの独立運動を昭南を中心に行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府が設立され、ボースは同時に英領マラヤ、昭南や香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。

一方、初戦の敗退を何とか乗り越え戦力を整えた連合国軍は、この11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、11月にはギルバート諸島マキンの戦いタラワの戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が敗北、同島はアメリカ軍に占領された。また同月から12月にブーゲンビル島で行われた一連の戦い(ろ号作戦ブーゲンビル島沖海戦ブーゲンビル島沖航空戦)では日本軍は敗北したに見えたが、ブーゲンビル島を巡る戦いは均衡したまま1945年8月の終戦まで続いた。

大量な空母と艦上機を日本海軍との2年間の戦いで失ったアメリカ海軍は、前年から本格的に就役したエセックス級航空母艦の引き渡しが矢継ぎ早に進み、この後23隻が1946年までに引き渡された。またインディペンデンス級航空母艦の他にも、サンガモン級航空母艦カサブランカ級航空母艦などの50隻に上る護衛空母の就役も始まった。また新鋭機のグラマンF6Fチャンス・ヴォートF4Uの引き渡しもようやく1943年に始まり、これらの空母に搭載され、太平洋や大西洋の各戦地に送られた。

また11月には、去年の2月から連続して行われた日本軍のオーストラリア空襲が終わりを告げるなど、ようやく態勢を立て直したイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドからなる連合軍と、アメリカ本土からオーストラリア、インドから東アフリカまで、戦線を延ばし過ぎて兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じながら、事実上1国で戦わなければいけなかった日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は開戦後2年を経てついに後退を余儀なくされていく。

1944年

ビルマにて日本軍を攻撃するイギリス空軍のホーカー・ハリケーン(1944年)
洛陽を進軍する日本軍の機甲部隊(1944年5月)

ビルマ方面では日本陸軍とインド国民軍の共同軍と、イギリス陸軍で地上戦が続いていた。3月、インド北東部アッサム州の都市で駐留するイギリス領インド陸軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入し、昭南からスバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入した大規模な作戦であった。当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。兵站を無視し精神論を重視した杜撰な作戦により、7月までに約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。同作戦の失敗により翌年、アウンサン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。

しかし日本軍は5月頃、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦を開始し、ここに日本陸軍の建軍以来最大の攻勢である「大陸打通作戦」が開始された。

作戦自体は、京漢鉄道の黄河鉄橋の修復を1943年末に開始し、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通させるなど、周到な準備が行われた。対する河南の中華民国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。これが中華民国軍の敗北の大きな一因になったといわれる[165]蔣鼎文によるとほとんど一揆のような状態だったという。

仏領インドシナのサイゴン市内を移動する日本陸軍

日本陸軍の攻撃を受けて、4月にアメリカ軍は最新鋭爆撃機である出来たばかりのボーイングB-29の基地を成都まで後退させている。また長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の中華民国軍とアメリカ軍の共同飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり連合国軍は撤退していた。日本軍は、中華民国軍とアメリカ軍を12月まで相手に、計画通りに連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、結果として日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。連合国軍は航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた。

ルーズベルトは中華民国の蔣介石を開戦以来一貫して強く信頼しかつ支持していた。カイロ会談の際に、蔣介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蔣介石の戦線が総崩れになったことでその考え方を改めたという。実際、これ以降蔣介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談」と「ポツダム会談」)に招かれることはなくなった。

5月17日に、イギリス海軍とアメリカ海軍の合同機動部隊は、ジャワ島スラバヤの日本軍基地へ航空攻撃を開始し(「トランサム作戦」)、日本軍の航空機や艦船、陸上施設に打撃を与えることに成功した。これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。また6月にポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、日本に対しティモール島からの日本軍撤退を正式に要請した。しかし日本軍は即座に撤退は行わず、日本軍が撤退したのは日本の敗戦後であった。

日本の陸海軍、緒戦の予想以上の勝利で延び切った補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあったため、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である「絶対国防圏」を昨年9月に御前会議で設けた。

マリアナ沖海戦にて、攻撃を受ける日本の空母の瑞鶴および2隻の駆逐艦(1944年6月)

しかし6月に、早くも絶対国防圏の最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。旗艦大鳳以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。これらの島では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島テニアン島グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。

また6月に、中華民国の成都より九州官営八幡製鐵所を主目的としてアメリカ軍の新型爆撃機であるボーイングB-29による日本初空襲が実施された。この空襲の主な目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。その上6機が撃墜されている。しかしこのB-29による日本本土初空襲が両国に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側はその出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対して面目を失うこととなった。一方、アメリカでは本格的な日本本土初空襲成功の知らせは、素晴らしいニュースとして大々的に報じられ、ニュースが読み上げられてる間は国会の議事は停止されたほどであった。しかしその後の中華民国からの爆撃は九州を標的とした小規模なものとなり、本格的な本土空襲は11月にサイパン島とテニアンの基地が出来るのを待つこととなる。

戦況悪化とともに憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。サイパン島が陥落した7月に、岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。これに対し、東條英機は岸信介に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。ところが、岸信介は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。

小磯内閣の閣僚(1944年7月22日)

さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったといわれている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、7月22日に東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。しかしながら、憲兵隊を配下にもち陸軍最大の権力者でもある東條英機が内閣総辞職をして、次の内閣の背後に回ったため、その後の内閣も陸海軍の意向で大東亜戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸信介が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら大っぴらには検討しにくいという状態が続く[166]

ヨーロッパでは連合国軍がフランスに再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍がフランスの大半を奪還したことで、同年8月25日にヴィシー政権が事実上消滅した。これに対して日本政府は「フランス領インドシナ政府はすでに本国に政府が存在しない」という見解を採り、新たな正統政府に対応を一任する考えを明らかにした[167]。これを受けて9月14日の最高戦争指導会議では「フランス領インドシナ政府が日本に対して離反・反抗する場合には、武力処理を行う」ことを定めた「情勢の変化に応ずる対仏印措置に関する件」が決定されたが、これは原則として現状を維持するものであった[168]

サイパンのイズリー飛行場で日本軍機の空襲により地上撃破されたボーイングB-29の残骸

8月にはアメリカ軍は占領したテニアン島とサイパン島の日本軍の基地の改修を解消し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。これにより、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がアメリカ空軍の最新鋭爆撃機であるボーイングB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。実際に11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったボーイングB-29が初めて首都圏を爆撃、東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃した。しかし日本軍もサイパン島から撤退したもののサイパン島のアメリカ軍基地への奇襲攻撃を続け、大きな被害を出し続け、アメリカ軍は基地増設に4か月かかってしまう。その分本土空襲が本格化するのも1945年初頭になってしまう。また、この頃には既に戦争終結と戦後処理に向けた連合国の会合「ダンバートン・オークス会議」がアメリカ・ワシントンDCで行われていた。

部下を従えてレイテ島に上陸するマッカーサー(1944年10月)

ビルマ戦線でイギリス軍とアメリカ軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には沖縄に十・十空襲が行われ、続いてアメリカ軍とオーストラリア軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した(レイテ島の戦い)。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、アメリカ軍機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。

沈みつつある戦艦武蔵、駆逐艦磯風から撮影(1944年10月)

この海戦でアメリカ海軍とオーストラリア海軍も空母3隻、駆逐艦3隻などを失うものの、日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、アメリカ海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ陸軍は日本陸軍が占領していたフィリピンのレイテ島へ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった上に多数を失った去年までとは違い、今やM4中戦車火炎放射器、P-51戦闘機やP-47戦闘機など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ陸軍に対し、物質的に乏しい日本陸軍は敗走した。

日本は大量生産設備が整っておらず、その生産力はイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油や鉄鉱石などの物資のみならず、バナナコーヒーなどをほぼ外地や勢力圏からの輸入に頼っていた。それさえも1944年末頃には、連合軍による通商破壊戦で外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。また、このことによる日本本土の生活への衝撃は大きく、これまではレストランや旅館、ホテルなどは大幅な配給を受けて成り立っていたものの、これ以降はこれらへの配給も制限されていくことになる。

ネバダ州ニクソンで発見された風船爆弾

アメリカやイギリスでの10,000メートル上空を飛ぶ大型戦略爆撃機の開発と、それを打ち落とすことのできる高度攻撃機の開発に遅れていた日本は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。11月3日からアメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害はオレゴン州市民6名の死亡と、ネバダ州やカリフォルニア州の数か所に山火事を起こす程度であった。

ただし風船爆弾による心理的効果は大きく、アメリカ陸軍は風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し[169](特にペスト菌が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた[170])、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。

また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。アメリカ政府は厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した[169]

また日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四百型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。

なお、1942年に国防保安法治安維持法違反などで死刑の判決を受けたソ連のスパイのリヒャルト・ゾルゲは、11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された[171]

1945年

マニラを占拠したアメリカ軍(1945年2月)

1月にアメリカ軍はルソン島に上陸した(ルソン島の戦い)。2月から3月にかけてフィリピン最大の都市であるマニラを奪回する戦いが日本軍との間で行われた(マニラの戦い[172]

マニラの戦いでは市民をも巻き込んだ市街戦となり、10万人以上が死傷した。また日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれたドイツ人神父など数十人、スペイン人200人以上、スイス人10名が死亡し、旧市街のドイツやスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた。この時はアメリカ軍による被害も多かったにもかかわらず、「この際の日本による対応に抗議する」という名目(実際は日本とドイツの敗北を見越した乗り換え)で、4月12日にスペインは日本と断交し(ただし、元々スペインは太平洋方面に関しては中立的姿勢であり、日本に対してそれほど協力的というわけではなかった)、中立国のスイスも一時は日本に対して強硬な態度に変わった。

日本は南方の要所であるフィリピンの大半を失い、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源および食糧輸送の安全確保はより困難となった。実際日本本土では、この頃より急激に食料の流通が厳しくなっていく。

フィリピンの戦いの最中の2月4日から始まったソ連のリゾート地のヤルタで行われた「ヤルタ会議」は、主に対独戦についてスターリンとチャーチル、ルーズベルトの3か国の連合国首脳により東欧諸国の戦後処理が取り決められた。併せて、アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島樺太朝鮮半島台湾などの日本領土の処遇も決定した。

明号作戦で日本軍に降伏するフランス軍(1945年3月)
硫黄島の戦闘の様子(1945年3月)

フランス領インドシナにおいては、日本陸軍は1940年以来ヴィシー政権との協定の下に駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放によるヴィシー政権崩壊と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、駐屯していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動して戦闘を開始。連合国軍の支援を受けられなかったフランス植民地政府および駐留フランス軍はすぐさま降伏し、日本はバオ・ダイを皇帝に3月11日にインドシナを独立させた。

この頃においても中華民国との大陸打通作戦において優勢にあったインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥ることは少なく、またかなりの戦力と燃料、さらに豊富な食料を維持していたのでイギリスやアメリカ、オーストラリアなどの連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行わなかったため、マレー半島や昭南、ジャワやラバウルなどの占領地などとともにこのまま終戦までの間大きな戦闘もなく終わる。

この頃、元外相の松岡は旧友であり終戦工作に奔走していた吉田茂から、和平交渉のためモスクワを訪れるよう相談される。また吉田は、牧野伸顕や近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、殖田俊吉を近衛に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって2月の近衛上奏に協力したことが露見し、憲兵隊に拘束される。また、終戦工作はドイツの趨勢がほぼ決まったヨーロッパでも活発になり、駐スイス公使館駐在武官の藤村義一海軍中佐らが、アメリカのジョン・フォスター・ダレス率いる「ダレス機関」を通じた終戦工作を開始するが、海軍本部からの支持を得られず不調に終わった。

東京大空襲後の牛込市ヶ谷附近(3月11日)

2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。島を要塞化した日本軍守備隊とアメリカ海兵隊との間で大東亜戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(アメリカ軍の死傷者は日本軍を上回った)を出した[173] 末に、硫黄島は陥落した。これ以降アメリカ軍は死傷者を多く出すことに慎重になり、イギリス軍やオーストラリア軍を前面に出すことになる。

前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイングB-29爆撃機による小規模な日本本土空襲が行われていたが、この年に入り本格化していた。またそれまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃焼夷弾攻撃が行われるようになった。3月10日未明、これまで一度も本格的な空襲を受けなかった台東区新宿区江戸川区など、東京の市街地を狙った東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。その後も東京は、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回大規模な空襲に見舞われた。

アメリカ軍は占領した硫黄島を、ボーイングB-29護衛のノースアメリカンP-51DやF6F戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のボーイングB-29の不時着地として整備した。この結果、低高度であっても、護衛がついたB-29への高射砲などによる迎撃は困難となった。また航路に沿ってアメリカ海軍は潜水艦を配備し、往復時に不時着する航空機に備えた。

慶良間諸島に上陸中のアメリカ軍(3月26日)

これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000mの五式十五糎高射砲と連動した高射指揮装置付き防空陣地を築き、ボーイングB-29の撃墜に成功したほか、新型迎撃機の生産、開発を急ぎ、新型戦闘機の四式戦闘機烈風の生産を進め、ジェット機「橘花」を開発し8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。

3月26日に沖縄の慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し、さらにアメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は4月1日に沖縄本島に上陸して沖縄戦が勃発、凄惨な地上戦となる。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな戦艦と十数隻の空母、巡洋艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、空母や戦艦などの主要船艇を本土決戦のために保管する。ここに日本海軍連合艦隊は事実上その外洋戦闘能力を喪失した。

アメリカ海軍の戦艦ミズーリに突入直前の零式艦上戦闘機(石野節雄二飛曹搭乗)(1945年4月)

連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は貨物機や練習機さえ動員して必死の反撃を行うが、少数ながらも戦果は大きく、3月26日の1日で駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている[174]。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日には誠第39飛行隊の一式戦「隼」が、レイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、大破・航行不能にさせている[注釈 18]

アメリカ海軍やイギリス海軍は潜水艦攻撃や機雷敷設を行い、日本は沿岸の制海権も失っていった。さらに戦艦などからの艦砲射撃や、空母機動部隊の艦載機による日本沿岸への空襲、機銃掃射を頻繁に行った。しかし対する日本軍はこれらに戦闘機や対空砲火で反撃し、連合国の爆撃機や艦載機の被撃墜数も比例して急増した。多い日は1日に日本上空で数十機が撃墜され、その分連合軍の死者や捕虜が出る状況になった[175]

沖縄への連合国軍の上陸を許すなど、戦況悪化の責任をとり4月7日に辞職した小磯國昭の後継に、近衛文麿岡田啓介らは鈴木貫太郎を首相に推したが[176]、先にサイパンを失った責任を取り首相を辞任した東條は、「陸軍が本土防衛の主体である」との理由で元帥陸軍大将畑俊六を推薦し[177]、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った[178]。これに対して岡田が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條をたしなめ[179]、東條は反論できずに黙ってしまった[176]。こうして鈴木を後継首班にすることが決定された[180]

鈴木の就任後、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが亡くなり訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により深い哀悼の意をアメリカに送った。同じ頃、ドイツのアドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた[181]。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた[182]

岡山空襲(1945年5月)

4月30日にドイツの国家元首であるヒトラーが自殺した。日本政府は、ラジオでヒトラーの死を伝えるとともに、同時にデーニッツが国家元首の座に就いたことと、東郷茂徳外務大臣が「ドイツは三国同盟に違反した」ことを述べるにとどまった。さらに新しい外務大臣のルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクより、駐日ドイツ大使館に対して、海軍の通信経由で「ドイツ政府が同盟国としての義務を果たせなくなったことに対して残念なことと、連合国と停戦に向けて交渉を行っている」ことを日本政府に外交文書で伝えるように依頼したが、東郷外務大臣は受け取ることを拒否した。5月9日に、東京の駐日ドイツ大使館は、判明している限りでは世界の公的機関で唯一ヒトラーの追悼式を行った[183]

沖縄に強行着陸した義烈空挺隊の九七式重爆(1945年5月)
沖縄戦の特攻機の命中で炎上するイギリス海軍空母フォーミダブル(1945年5月)

5月に入ると連合国による空襲は激しさを増し、東京や横浜、大阪などへ再び空襲が行われたほか、これまでは空襲を受けてこなかった百万都市の他、仙台小田原福岡静岡岡山富山徳島熊谷熊本佐世保四日市奈良北九州彦根など、全国の60を超える中小各都市も終戦に至るまで空襲や機銃掃射にさらされることになる。だが、それに比例して日本軍の反撃も激しさを増し、戦闘機や対空砲火による連合軍の爆撃機や戦闘機の被害も増大した。

地上戦となった沖縄戦において、5月になりコマンド部隊である義烈空挺隊を編成した。連合軍に占領された読谷飛行場嘉手納飛行場を急襲し、伊江島の飛行場も猛爆するなど日本の軍民総動員による持久戦で連合軍を苦しめたが、6月23日に第32軍司令官牛島満中将が自決し沖縄は陥落する。18万8,136人が死亡し、うち一般住民は3万8千人に上った。アメリカ軍は7月2日に沖縄作戦終了を宣告したが、日本軍によるゲリラ戦は7月後半まで続いた。

沖縄や硫黄島での日本軍の徹底的な持久戦の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を無期限中止せざるを得なくなる。またアメリカやイギリス、オーストラリアやカナダ、ニュージーランド軍を中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)も計画されたが、沖縄戦や硫黄島での反撃で予想されるような日本の軍民による強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、最終的に計画は実行されなかった。

また、日本の領土であるものの、沖縄よりも本土に遠い台湾は、この頃よりアメリカ軍やイギリス軍の空襲や艦砲射撃に度々遭うようになったが、日本軍の反撃の激しさに、連合国軍は台湾への上陸を諦めた。また同じく外地の朝鮮は、北部こそ連合軍の空襲に遭うことがあったものの、京城釜山などの中心都市はほぼ無傷であった。また満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のアメリカ軍のボーイングB-29の空襲を受け始めた。

同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは、開戦以来元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国民軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウンサンはビルマ国民軍をラングーン(現:ヤンゴン)に集結させたが、集結後日本軍へ攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にはラングーンから日本軍を放逐した。

ポツダム会議に訪れた3か国首脳(1945年7月)

5月7日にドイツが連合国に降伏。同盟国である日本に対して事前協議も行われなかった無条件降伏であった。これで枢軸国で残るは日本だけとなり、その日本は1946年4月25日まで有効な日ソ中立条約を根拠に中立を保つソ連に頼るしかなかったため、ドイツの降伏後はソ連を通じた和平工作に注力する。しかしこれに先立つ2月、ヤルタ会談の密約で、ドイツを破った後のソ連軍は3か月後に満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。

また10日には、ウランなどを積んで大西洋上日本に向かっていたドイツ海軍のU-234がドイツの降伏を受けてアメリカ海軍に投降し、その直前に友永英夫技術中佐と庄司元三技術中佐が艦内で自決している。なお3,000人いた在日ドイツ人は、5月7日以降終戦まで日本国内に軟禁された。

6月初頭には、疎開先だった箱根の強羅ホテルでソ連のヤコフ・マリク大使は、元駐ソ連大使の広田弘毅元首相の2度の訪問を受け、非公式での終戦交渉を行ったが当然ながら良い返事はもらえず、さらに月末にも広田はわざわざ港区麻布のロシア大使館のマリク大使を訪れている[184] が、その後マリク大使は病気を理由に会談を拒否している。

7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムツェツィーリエンホーフ宮殿において3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー[注釈 19]アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)。

広島での核爆発によるキノコ雲(8月6日)

7月26日には、イギリス首相、アメリカ大統領、中華民国主席の名において、全13か条からなる宣言である日本軍の降伏に関する「ポツダム宣言」が発表された[185](8月9日に対日参戦したソビエト連邦は、同日に後から加わり追認した)。ポツダム宣言を受けた外務大臣東郷茂徳最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は(13条からなる)有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言し[186]、注意を喚起した。なお7月27日に日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。しかし鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連に一層の和平仲介を期待し、ポツダム宣言を黙殺する態度に出た[187]

米大統領トルーマンは、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から、史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日広島市への原子爆弾投下が行われ、投下直後には十数万人もの犠牲者が出た[188]。しかし、日本政府と軍は本土決戦とまだ中立を保っていたソビエト連邦を介した和平交渉に望みの綱をおいており、その意味では効果がなかった[188]

満州国で日本軍へ砲撃するソ連軍(8月9日)

また、当時日本でも独自に原子爆弾の開発が行われていたが、アフリカやドイツなどからウランなど必要な資材・原料の直接の調達が不可能で、ドイツやイタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのマンハッタン計画の進捗には及ばなかった。

日本政府と軍は連合軍との本土決戦に運命を託すと同時に、連合国の1国ながら、これまで日本との間に開戦していなかったソ連との中立条約の維持を唯一の根拠にした和平交渉に望みの綱をおいていた。

しかし、ソビエト連邦は上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を一方的に破棄、8月8日午後11時(以下日本標準時)に対日宣戦布告し、翌9日の午前1時に満州国と日本へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ポツダム宣言に署名していないソ連政府は、日本への侵攻と同時にポツダム宣言に署名した。

9日未明に、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、ソ連軍が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街がソ連軍の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分頃に新京郊外の寛城子が空爆を受けた。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、ソ連軍に対する市民含む地上戦が行われ必死に反撃を行うも総崩れとなった。関東軍総司令部は急遽対応に追われ、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令。しかし日本政府がソ連の対日宣戦の事実を知ったのは、9日午前4時にソ連のタス通信がその事実を報じ始めてからで、外務省では午前5時頃に外相の東郷に報告が上げられた。

長崎での核爆発によるキノコ雲(8月9日)

これはソ連との中立条約の維持を根拠に和平の道を辿ろうとしていた日本政府にとって、最後の頼みの綱が切れた瞬間であった。この日以降日本政府と軍は急激に降伏への道を進んでいく。

ソ連の参戦を受けて9日昼前に行われた最高戦争指導会議では「国体の護持」、「保障占領」、「自発的な武装解除」、「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、ポツダム宣言を受諾をするという方針が優勢となった。しかし「国体の護持」のみに絞るとする外相・東郷茂徳と、4条件にこだわる陸相・阿南惟幾との間で意見が激しく対立した[189]

特に陸相の阿南は、海相米内光政とのやり取りで「戦局は5分5分、負けとは見てない」、「海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」と主張し、さらに外相である東郷からの「交渉が決裂したらどうするのか」との質問に「一戦を交えるのみ」と答えるなど[190]議論は平行線をたどり、さらに徹底抗戦派の軍令部総長豊田副武が、招かれてもいないのに軍令部次長大西瀧治郎を同席させるなど問題行為があった。結論は9日未明に開催される天皇臨席の御前会議に持ち越された。

そして、ソ連軍の参戦に続いて、9日午前11時02分(最高戦争指導会議の最中であった)に、アメリカ軍のボーイングB-29により長崎市へ原子爆弾が投下された。原子爆弾の投下直後に当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡[注釈 20] し、長崎市の建物は約36%が全焼または全半壊し、インフラストラクチャーは停止し復旧までに多くの時間がかかった。この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された最後の核兵器となった。

ポツダム宣言受諾(8月10日-15日)

8月10日

8月10日午前0時3分[191]から行われた御前会議での議論では、外相の東郷茂徳、海相の米内光政、枢密院議長の平沼騏一郎が、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し陸相の阿南惟幾、陸軍参謀総長の梅津美治郎、海軍令部総長の豊田副武は「ポツダム宣言の受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。

松花江で進軍を続けるソ連軍(8月10日)
ヤコフ・マリク駐日ソ連大使

しかし唯一の同盟国であったドイツ政府は無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国のソ連も先日の開戦により日本領土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。ここで鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で承認された[192]

昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「(対日中立国の)ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[193]

日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。なおスウェーデンなど一部の中立国では、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、日本が降伏したと早とちりし、一部マスコミがこれを報じた場合があった[194]

ソ連大使館側の要請により、10日午前11時から貴族院貴賓室にて外相東郷と駐日ソ連大使ヤコフ・マリクの会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻、つまり沖縄に次ぐ日本固有の領土内での、市民を巻き込んだ市街戦も開始された[195]

なおポツダム宣言は日本政府により正式に受諾されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われておらず、それは「ポツダム宣言受諾=降伏ではない」ことから、完全な停戦を行っていないのはイギリスやアメリカ、ソ連などの連合国も同様であった[196]。なお実際10日にはアメリカ軍により花巻空襲が行われ、家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。

8月11日と12日

11日と12日の両日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかった。唯一12日午前0時過ぎに連合国は、日本のポツダム宣言受託を受けて、アメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による返答、いわゆる「バーンズ回答」を行った[192]

その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」というものであった。外務省は「subject to」を「制限の下に置かれる」だと緩めの翻訳、解釈をしたが、12日午前中に原文を受け取った参謀本部は、これを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、またアメリカ1国だけの回答ということもあり鈴木首相も再照会について同調した。

8月13日
小田原空襲後の市街地(8月14日)

13日午前9時から行われた軍と政府の最高戦争指導会議では、「バーンズ回答」をめぐり再度議論が紛糾した上、この日の閣議は2回行われ、2回目には宣言の即時受諾が優勢となった。しかし1日以上経っても「バーンズ回答」に対して日本政府側からの回答がなかったため、アメリカ軍とアメリカ政府では「日本の回答が遅い」、「政府と軍部で停戦の同意がなされていないのではないか」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむアメリカ軍が、東京に早期の申し入れと「バーンズ回答」を記したビラを散布している[197]

さらにイギリスやアメリカ、そして中立国の多くも日本政府のポツダム宣言受諾をラジオや新聞などで一般に伝えたが、日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、日本政府と軍の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍、ソ連軍との戦闘や爆撃は継続され、その後も千葉(下記参照)や小田原熊谷土崎などへの空襲や、南樺太および千島列島、満州国への地上戦も行われた[195]。が継続された。

8月14日
御前会議(8月14日午前11時/日本標準時

14日午前11時より行われた再度の御前会議は、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南陸相は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木首相に命じて、午前11時開始となった[198]

御前会議では依然として阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南や梅津は陸軍内でクーデターが起こることを認知していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、阿南陸相も了承し、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承した。

終戦の詔書の国務大臣署名欄(8月14日)

これを受けて夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送が皇居内で録音され、録音されたレコードが放送局に搬出された。また加瀬スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた[195]

また、昭和天皇によるラジオ放送の予告は、午後9時の全国および外地、占領地などのラジオ放送のニュースで初めて行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」、「15日正午に天皇自らの放送がある」、「国民は1人残らず玉音を拝するように」、「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」などが報じられた。なお昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのはこれが初めてのことであった。

阿南陸相は14日の御前会議の直後の午後1時に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」[199]、「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」[200]、と諄諄と説いて聞かせた。

しかしクーデター計画の首謀者の一人であった井田中佐は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南陸相は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」[201]「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた[202]

この期に及んでも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南陸相はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している[203]。なお終戦詔勅への署名の後、日本軍の上層部ならびに情報部などそれらの直属の部署には、終戦の連絡が伝わっていた[185]

8月15日

しかし8月15日未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍軍人らにより、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生し、森赳近衛師団長が殺害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件)など、昭和天皇の元ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きていた。また、午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。なお、クーデターか起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自殺している。

玉音放送を聞く日本国民(8月15日12時)
占守島で侵略を続けるソ連軍と戦う日本軍(8月16日)

また午前7時21分より全国および外地、占領地などのラジオ放送で、正午に昭和天皇自らのラジオ放送が行われる旨の2回目の事前放送が行われた[204]

正午に昭和天皇はラジオ放送(玉音放送)をもって、日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、ここに全ての日本軍の戦闘行為は停止された[205]

なお早稲田大学教授の有馬哲夫やその他多くの研究者が、NHKをはじめとする一部マスコミが主張する「日本が無条件降伏した」というのは間違いで、日本はドイツのような軍と政府を含む無条件降伏ではなく、政府が「ポツダム宣言」での英米中蘇の連合国側の諸条件を受諾した上での降伏であったと指摘している(「調印後」参照)[185]

公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーら日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイア零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉が無事パラシュート降下し陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。

なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の8月15日正午のみならず、9月2日の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。

また満州ではソ連軍と中華民国軍との戦いの中、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島択捉国後色丹歯舞朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく戦闘攻撃を終了した。

停戦後(8月15日-28日)

8月15日正午からの玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けていた[206]

また午後に大本営大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、自衛のための戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した[207]。しかし、日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。

特攻直前の宇垣纒中将(8月16日)

15日早朝の陸軍によるクーデター発生最中に自決した阿南陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と11機23名(うち5人が生還)とともに玉音放送を受け特攻機で命を絶った宇垣纏中将、ウルシー環礁から伊401で内地へ帰投する途中アメリカ軍に拿捕される直前、艦内で自決した有泉龍之助大佐[208]陸軍省参謀本部大正天皇御野立所で切腹した晴気誠少佐など、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って、または連合国からの逮捕を逃れ、皇居前や代々木練兵場、内外の基地、自宅などで自ら命を絶った軍人や政治家、民間人は数百人に渡った。また東條英機のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれたあと、自殺に失敗し逮捕される者もいた。

なお17日には日本本土を偵察に来たコンソリーデーテッドB-32を、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。しかし本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降起こらなかった上、すぐにイギリス軍やアメリカ軍が陸海空軍の相当数の部隊を上陸できる体制にあった。

しかしわずか20数年前の第一次世界大戦で負けたばかりで、その時と同様に本土が崩壊し首都が陥落、中央政府が崩壊したドイツとは違い[209]、およそ2千6百余年の歴史上始まって初めての敗戦で、さらに今だに本土と首都が陥落していなかった上に、中央政府は存続しており[209]、まだ相当の軍人と武器や航空機、船舶が残っていた日本に対する連合国軍の動きは慎重に慎重を重ねた。連合国軍の日本占領部隊の第一弾であるアメリカ軍やイギリス軍が日本本土に上陸するまでは、結果として約2週間という異例の長さであった。

なお、沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下、勢力下にあった。また、中四国イギリス連邦占領軍が後に駐留することが決まり、結果的にアメリカ軍とイギリス連邦軍だけで正式に日本を占領することとなった。

しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案したが、当然のことながら拒否され、駐在武官のみを送るにとどめた。しかしスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続し、22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土択捉島国後島は8月末、歯舞諸島での戦いは9月上旬になってからも続いた。なお、中華民国も軍事占領を検討したが、占領時の食料の大部分を日本に頼ろうとしたために、イギリス軍とアメリカ軍から正式に拒否された。

東久邇宮内閣(8月17日)

17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王が首相を継いだ。皇族が首相に就いたのは武器解除を速やかに進めるためともいわれ、皇族の首相は初めてのことであった。副総理格の国務大臣には近衛文麿、外務大臣には残留した重光葵、大蔵大臣には津島寿一内閣書記官長情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が23日に帰国するまでの間、東久邇宮が兼任した。

アメリカ海軍のグラマンF6Fに護衛される機上作業練習機「白菊」の緑十字機(8月19日)

この時点でも、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と樺太千島、台湾、朝鮮半島などの開戦前からの元来の領土の他に、中華民国の上海をはじめとする沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモール島などの北東アジアから東南アジア、ウェーク島からラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満州国などの友好国、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き揚げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。

そこで16日に連合軍は中立国のスイスを通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。これを受けて19日に、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行の塗装をした一式陸上攻撃機木更津から伊江島に飛行し、そこからダグラス DC-4でマニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将らなどと停戦および全権移譲の会談や、さらに日本本土進駐の際の安全の確保と情報提供を要求するなど、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やフランス軍、オランダ軍に対する停戦と武装解除、日本進駐の準備は順調に遂行された[210]

終戦後の中華民国漢口の日本軍の第85戦隊および第22戦隊

また、引き揚げを受け入れず「欧米諸国からのアジアの解放」という、大東亜戦争の理念を信じて、ジャワやビルマ、マレーなどで勃発したイギリスやオランダからの独立戦争に協力する日本軍の将兵や、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの(通化事件)、のちに個人の意思で中華民国国軍中国人民解放軍に編入されたものもいた[注釈 21]。また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(九九式襲撃機九八式直接協同偵察機など)や戦車、銃器など接収した武器がそのまま利用されることも多かった。

さらには、アメリカ領フィリピンのルバング島1974年まで日本軍の残留兵として戦い続けた小野田寛郎少尉のように、日本軍の将兵として戦闘行為を継続していた者や、アナタハン島のように島単位で引き揚げから取り残される者も発生した。

日本の後ろ盾を失った満洲国はソ連軍の侵攻を受けて崩壊し、18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀愛新覚羅溥傑ら満洲国帝室と、関東軍の吉岡安直中将や橋本虎之助中将などはその後日本への亡命を図るが、奉天に侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。なお日本と同盟下にあったタイは、16日の日本降伏後に日本側の内諾を得た上で「宣戦布告の無効宣言」を発し、連合国側と独自に講和した。

この様に日本側と連合国側の上記のような準備と混乱を経て、さらに22日から23日にかけて台風が日本を襲い上陸予定地の厚木飛行場も滑走路が水に浸かってしまい、さらに連合国軍の占領は遅れた[211]

占領開始(8月28日-30日)

到着したアメリカ軍のマッカーサー陸軍大将(8月30日)

ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。全面戦争において首都の陥落がなく、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことであった

また、同日東京の大森にある連合軍の捕虜収容所に、アメリカ海軍の軽巡洋艦「サンフアン」から上陸用舟艇が手配され、病院船「ビネボレンス」に、イギリス軍やアメリカ軍の病人や怪我人などを収容していった。

30日午前、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として、連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も、専用機「バターン号」で厚木基地に到着、一行は午後に横浜市内のホテルニューグランドに宿を取った。続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍の占領軍と、中華民国軍、フランス軍、オランダ軍、ソ連軍などの他の連合国軍の代表団も到着した[212]

降伏文書調印

USSミズーリ艦上の日本側全権代表団(9月2日)
連合国側全権代表団(9月2日)
退艦する日本側全権代表団(9月2日)

降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県よりの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上[213] で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。

午前8時56分にミズーリ艦上に日本側全権代表団が到着した。日本側代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将、随員は終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(軍令部総長豊田副武海軍大将は出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、大本営海軍部参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐、内閣情報局第三部長加瀬俊一、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎らであった。

先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日に参戦し、15日の日本軍の停戦を無視して満洲や択捉島などで進軍を続けていたソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。

9時2分に日本側全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式の終了が宣言され、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。

しかし、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果としてカナダ代表の欄が空欄となった。

その後各国代表は祝賀会のために船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてこれを拒否。結局、マッカーサー元帥の代理としてサザランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。

調印後

さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部は、アメリカの大統領ハリー・S・トルーマンの布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。

これに対して日本の外相重光葵は、マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは(フレンスブルク政府のように)政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時に重光の抗議を認め、トルーマンの布告の即時取り下げを行い、英米による占領政策は日本政府を通した間接統治となった連合国軍占領下の日本も参照)[214][注釈 22]

また、当日には連合国軍最高司令官総司令部よりすべての航空機の飛行が禁止されたほか、漁船を含む船舶の一切の移動が禁じられた。なお、マッカーサー最高司令官は9月8日まで横浜のホテルニューグランドに宿泊している。

連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し[215]、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。日本での戦犯逮捕を指揮したエリオット・ソープCIC部長は、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサー最高司令官に「戦犯を亡命させてはどうか」と提案したことがあったが、マッカーサー最高司令官は「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという[216]。さらに後年、「極東国際軍事裁判は失敗であった」と悔やんでいる[217]。最終的に逮捕したA級戦犯の容疑者は126名となった。

旅順口区を不法占領したソ連軍(9月15日)

一方、中華民国やイギリス領香港、マレー、シンガポール、ビルマ、インド、またはアメリカ領フィリピンやオランダ領ジャワ、フランス領インドシナ、オーストラリアなどにいた日本軍人、軍属はそれぞれの現地で捕虜となり、その後現地でB級ならびにC級戦犯として裁判に掛けられる者が多かった。これらの軍人、軍属に対する連合国のB級ならびにC級軍事裁判は1946年まで行われ、その結果、収容所に入れられるか[218] または現地で死刑となった。

さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、まともな裁判もないままにシベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。その後帰国してきた軍人も、共産党の教育下で赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれている者も多かった[219]

民間人や外交官、軍属などは1945年8月より帰国を開始する。自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナ、タイなどからは比較的順調に帰国したものの、中華民国や満州国では内戦やソ連の占領下にあるなど混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いていかれる者も多かった。


注釈

  1. ^ ただし日本国との平和条約では、本戦役は第二次世界大戦の一部とは定義されていない。
  2. ^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのドイツの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
  3. ^ この調印に際してドイツ軍は第一次世界大戦時に当時のドイツ帝国が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車を特別に調印場所として用意させた。
  4. ^ アフリカ大陸では、広大な植民地を持つフランスが降伏し、北部のフランス植民地、アルジェリアチュニジアモロッコ、アフリカの東沖マダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。
  5. ^ イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは地中海地域を「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。
  6. ^ ソ連書記長スターリンは情報部からドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。
  7. ^ 奇しくも3年前の独ソ戦開始、バルバロッサ作戦発動日と同じ日付である。
  8. ^ なお、国民の士気低下を恐れて陸軍の英雄、ロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され10月18日、盛大な国葬が営まれた。
  9. ^ さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告と見なすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられたと勝手に日本が判断した時点で、これは宣戦布告に等しい、と見なす考えもある。最後通牒の項も参照。
  10. ^ 1940年3月、日本の協力の元に汪兆銘を首班として南京に設立された政権。
  11. ^ しかし後にポルトガル政府は暗黙の下、両地を事実上統治下に置いた。
  12. ^ 当時はイギリスとオランダの植民地
  13. ^ オランダの植民地
  14. ^ 現在のスリランカ
  15. ^ 正式にはドイツ占領下のフランス
  16. ^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティは浮揚修理され、アッドゥ環礁に移動。同地でドイツ軍のUボートU-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年1月5日に浸水により沈没した。
  17. ^ 戦死後海軍元帥となる。
  18. ^ 「インディアナポリス」はこの損害の修理のためにアメリカ本土に曳航され、修理完了後前線に復帰する際、原爆輸送の極秘任務をこなし、原爆を揚陸後に日本海軍の潜水艦「伊58」に撃沈された。
  19. ^ 首相交代による。チャーチルは7月26日まで。アトリーは27日以降(ただし前半も次席として参加)。
  20. ^ 原爆死没者名簿の人数は2020年8月5日現在で32万4129人。
  21. ^ 林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力した。
  22. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、無条件降伏があくまで日本軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  23. ^ カティンの森事件については、1990年にソ連政府がスターリンの指示による犯行を認め遺憾の意を表明した。
  24. ^ 日本兵のシベリア抑留については、1992年にロシアの大統領エリツィンが謝罪した。
  25. ^ Joint Army - Navy Assessment Committee
  26. ^ 実際の戦闘に参加したものは5%に過ぎなかった。
  27. ^ アメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人に対する法的な差別の解消は、1960年代に活発化した公民権運動とそれの結果による公民権法の成立を経なければならなかった。ただし、現実の差別解消はその後数十年経った現在もなお完全に実現されたとは言い難く、法の下では平等であっても、社会の生活階層や職業階層に占める人種割合に差が残るなど世俗慣習として差別は依然として残っている。アメリカ政府はアメリカは自由で平等な国であるので、差別は国内には存在しないとしている。
  28. ^ ナバホ族の難解な言語をそのまま暗号として用いた。コードトーカー参照。

出典

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