第二次世界大戦 戦時下の暮らし

第二次世界大戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 04:41 UTC 版)

戦時下の暮らし

日本

木炭車の広告(1938年)
「ぜいたくは敵だ」と書かれたポスター(1940年)
日用品・食料
日中戦争の開戦後に施行された国家総動員法以降、軍需品の生産は飛躍的に増加し、これを補うために自家用車や贅沢品などの生産や輸入が抑えられ、「国民精神総動員」政策の下に「ぜいたくは敵だ」との標語が多く見られた。さらに1938年よりガソリンの消費を抑える目的で木炭自動車が導入され、1939年にはカフェなどの営業が23時までに制限された。
1938年には車両、部品、燃料など物資統制から全てのタクシー営業を法人格を持つ者に限ることとし、175社へ集約統合を行った。その後、メーター制も復活し、料金は初乗り2km30銭、1kmごとに10銭となった。
1920年代後半から1930年代には、日産やオオタ自動車オースティンフォードシボレーなどの自家用車が都市部の大衆にも広まりつつあったが、1940年に外貨の流出を防ぐため個人利用目的の欧米からの自動車の輸入が禁止され、翌年にはアメリカによる経済制裁で日本フォードや日本ゼネラル・モータースも生産停止となり、さらに日産やオオタ、トヨタ自動車などによる自家用車の生産も中止された。
電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。さらに、戦時下において団結や地方自治の進行を促し、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行うことを目的に、1940年に「隣組」制度が導入された。
しかし、生活必需品や食料の生産および流通はこれまでと変わらず、また首都圏阪神を中心に遊びや贅沢に慣れた生活はなかなか変わらず、営業時間が制限されたにも拘らずレストランやビヤホール料亭食堂車などの営業は通常通りに行われ、繁華街観光地遊園地野球場では相変わらずの賑わいを見せた[230]
1941年12月に対英米戦が開戦すると、1942年に食糧管理制度が導入され物価や物品の統制がなされた。政府に安い統制価格で生産品を売り渡すことを嫌った地方の農家が売り渋りを行ったため1944年以降は農家などによる闇取引が盛んになった[231]
また生産量は変わらなかったにも関わらず食糧の流通量が減った[232] ほか、など一部の食糧は配給制度が実施された。
食料の配給の優遇を受けていたレストランや食堂、ホテルや旅館などで外食をしたり、闇で食料を調達することもできた上、新たに占領下に置いたジャワやマレー半島から原油などの資源や食料の調達も可能になり、さらにこれらの占領地から自動車やレコードなども輸入された。
1941年以降も、大戦が終結する1945年の初め頃までは、石鹼マッチなどの生活必需品や食料が極端に不足することはなかった[233]。1944年4月まで国鉄の食堂車も廃止にならず、このようにNHKや民放のテレビドラマで好き好んで描かれるような、「戦中の飢えた姿」は真実ではない
1945年初め頃になると、南方とのルートの制海権を連合国側に握られ、本土への空襲が本格的に始まると、コーヒーやバナナなどの外地からの食料のみならず、肥料などの生産に必要な各種原料の輸入、漁船を動かすための燃料の供給が急激に減ったことや、漁船も潜水艦や航空機のターゲットとされたことから、食料の生産や魚類の生産、配給量も急激に減りその質も悪化していった[231]
連合国軍の潜水艦は日本の商船を532万トン撃沈した。攻撃対象のほとんどが攻撃しやすい商船であったことから、連合国が通商破壊を意図していたことは明確であった[注釈 24]。しかし、電気やガス、水道については、燃料や原料の石炭が日本国内で自給できたため滞ることはなかった。
1945年春過ぎに入ると、連合国軍機による本土空襲が相次ぎ、発電所や工場、鉄道や国道が破壊され、電力の供給がたびたび滞るようになった。そのほか、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。
終戦後の1945年冬から1946年春に配給やその遅延による窮乏生活はピークに達し、ララ物資など諸外国の民間団体による助けも行われた。ただし、ララ物資などの食料は贅沢な日本人の口に合わず受け取りを拒否される場合も多く余剰物資となり、1948年にはそのほとんどが保護施設などの食料に回された[234]
もともと日本は食料の産出量は農業、漁業ともに多く、イギリスやドイツ、ポーランドなど国によっては食料統制が1950年代まで続いたヨーロッパ諸国に比べると回復は早く、1947年頃には生活必需品や食料の配給が次々に終了し、通常に戻った[234]
勤労動員され働く女性工員(1941年)
軍需産業
日中戦争から英米開戦に至り、航空機や船舶など、軍需の生産数はかつてないほどの量に達したが、徴兵年齢に達した多数の男性が徴兵されたために多くの熟練工も動員された。そのため英米開戦後1943年頃には多くの女性や大学生を含む非熟練工が現場に動員された。
1944年後半に入るとさらに多くの男性が徴兵されたため、中高校生までもが非熟練工として現場に動員された。
政治
翼賛政治体制協議会(1942年)
1942年の第21回衆議院選挙は、1941年の衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって1年延長の措置が第2次近衛内閣によって採られていた。対英米戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。
1942年2月23日に元首相の阿部信行を会長に頂く翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者議員定数いっぱいの466人を選考・推薦していった。もっとも既成政党出身者全てを排除することは実際には不可能であり、既成政党出身の前職の推薦に翼賛会内部の革新派が反発する動きもあった。
推薦を受けた候補者は選挙資金(臨時軍事費として計上)の支給を受け、さらに軍部や大日本翼賛壮年団をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合や、選挙運動で候補者や支持者に有形無形の妨害を受けた場合が知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。
言論
日中戦争当時から対英米戦の開戦前までは、ある程度の政府や軍批判や、枢軸国のドイツやイタリアの批判、それに反してイギリスやアメリカを好意的に見た言論も、マスコミや国民の間で自由に行われた[235]
しかし対英米戦の開戦前後には、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等といった国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、朝日新聞報知新聞など当時の極右の新聞や、さらに「隣組」を通じて言論、情報管理を行うことで、国民には積極的に戦争に協力する態度が要求された。しかし、1942年に行われた第21回衆議院選挙の際など国民の間では政府に対する批判も行われたほか、雑誌などでは政府批判も比較的自由に行われた[232]
東條内閣下で言論統制が徐々に厳しくなり、スパイと思われるような発言や戦争に反対する言論、また特に思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧した。この対象は政治家や官僚も例外ではなく、1945年2月には終戦工作を行ったとの理由で元駐英大使の吉田茂憲兵隊に逮捕されている。
明治神宮を訪問するヒトラーユーゲント(1938年)
出陣学徒壮行会(1943年)
教育
日中戦争当時から小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、欧米諸国同様に戦争や軍隊への親近感を抱かせるような教育が行われた。また日中戦争最中の1938年にはヒトラーユーゲントが来日し、東京市民から大歓迎された。1941年には国民学校令に基づいて国民学校が設立された。対英米戦の開戦以降も国民学校による初等教育中等教育は変わらず行われた。しかし本土への連合国軍機の空襲の本格化を予想し、1944年8月4日には学童疎開が開始された。
対英米戦の開戦以降も大学専門学校などの高等教育も変わらず行われていたが、対英米戦の戦局が悪化しつつあった1943年11月には、兵士の数を確保するために大学生や理工系を除く高等専門学校の生徒などに対する徴兵猶予が廃止され、学徒出陣が実施された。
熟練工が戦場に動員された代わりに学生や女性が工場に動員された(学徒動員)。また日中戦争開戦後、徴兵年齢に達した多数の男性(大学生などや軍需生産、開発に従事した者を除く)が徴兵されたために医師の数が不足した。このために戦時中の医師不足対策が実施された。
対英米戦の開戦以降はドイツ語イタリア語などの同盟国語以外の多くの外国語は、民間の間で「敵性語」とされ、新聞や雑誌などのマスコミにおける使用が自粛された。しかし、東條内閣は「英語教育は必要である」とし、戦争中も高校以上での英語教育は続いた[232]
「燃ゆる大空」のポスター(1938年)
娯楽
日中戦争当時より日本の娯楽映画作品は変わらず製作されていたものの、1930年代後半のこの頃より『上海陸戦隊』(1939年)や『燃ゆる大空』(1940年)をはじめ、欧米諸国同様にプロパガンダ映画が多数制作、上映されるようになった。また、多くの歌手や芸人、俳優などが戦地や工場への慰問活動を行っている。
日本の娯楽映画は英米開戦後も多数制作され、1945年に当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め喜劇への検閲を廃止した。1945年の正月の東京の東横映画劇場は、喜劇役者古川ロッパの新作が満入り御礼の賑わいであったが、翌月から東京も空襲を受けるようになりついに4月には上映中止となった。しかし、東京宝塚劇場日本劇場横浜オデヲン座などは営業を続け、さすがに数は減ったものの1945年夏の終戦直前まで日本では娯楽映画が作られ、横浜オデヲン座は9月30日に、東京宝塚劇場は12月に営業を再開した。
1941年夏に日本の資産がアメリカ政府により凍結されるまでは、アメリカの映画会社の日本支社も営業していただけでなく、対英米開戦後にもアメリカ映画の上映は禁止していなかったものの、さすがに1941年12月27日に英米映画の上映は禁止になり[236]映画配給社により映画の配給が統合され英米の映画が配給禁止となった。しかし香港や昭南などで没収された最新作が上映されたりした。なお、同盟国のドイツやイタリア、フランスの映画は変わらず上映されたが、人気が低い上に配給の制限により上映数は激減した。
1940年に、ディック・ミネなどの英語風の芸名や藤原釜足などの皇室に失礼に当たる芸名は、内務省からの指示を受け改名を余儀なくされ、また取り締まり対応の警察の自主規制も多く、例えば上記の「ロッパ」から、「緑波」に改名された。
日中戦争以降は欧米諸国同様に子供の遊びにまでも戦争の影響が現れ、戦意発揚の意図の下戦争を題材にした紙芝居漫画玩具、中でも「のらくろ」は大ヒットし、空き地では「のらくろ」をもとにした戦争ごっこが定番になったが、「のらくろ」は1941年に「兵士を犬に例えるとは不謹慎」とされ連載中止された。
東京オリンピックのポスター(1940年)
スポーツ
1940年夏に開催される予定であった東京オリンピックと同年開催の札幌オリンピックは、日中戦争の激化と国家総動員法のあおりを受けて開催権返上を余儀なくされたが、代わりに東亜競技大会が開催された。なお1940年のオリンピックは第二次世界大戦により中止された。
高校野球は英米戦の開戦後の1942年から開催が中止されたが、日本プロ野球はその後も継続して開催され、選手が戦場に持って行かれながらも1944年夏まで開催された。
ゴルフは戦争中でもプロの大会がしばらくは行われたが、1943年中盤には軽井沢のコースが閉鎖され、以降プロの大会が禁止されてしまった。
テニスは戦争中でも行われ、大戦末期までアマチュアのプレイは自由に行われた。
スキーは大戦末期までは自由に行われた。
モータースポーツも1936年にオープンした多摩川スピードウェイで盛んに行われたが、ガソリンやオイルを使うことから4輪レースは1939年に日中戦争の激化で中止、2輪レースも対英米戦開戦で1942年に中止された。
競馬は戦争中でも国営競馬を中心に盛んに行われ、1944年中盤まで開催された。
大相撲も選手が戦場へ持って行かれながらも大戦末期まで変わらず行われたが、1944年両国国技館大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年は10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。これ以降の本場所は中止となった。
家屋疎開された京都(1945年)
空襲
日中戦争時代より国民の意識を高めるために防空訓練が行われ、1942年にアメリカ海軍の艦載機の最初の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものに過ぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民は少なかった[232]
しかし連合国軍機の空襲が1944年6月の九州北部への小規模なものから始まり、さらに同年11月からは東京、名古屋大阪方面にも本格的な空襲が始まった。これにより空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯を設けるために、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する「家屋疎開」が京都静岡新潟など中規模都市に至るまで行われる。
1945年春に入ると空襲の回数が増え、室蘭釜石、沖縄に限らず全国の沿岸地域では、アメリカ軍艦やイギリス軍艦による艦砲射撃や、イギリス海軍の艦載機による機銃掃射なども加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。空襲による発電所の破壊などで停電が増えたほか、爆撃や機銃掃射などにより鉄道の遅延も相次いだ。
地上戦
1945年春以降の大戦末期では、沖縄ではアメリカ軍とイギリス軍の上陸による地上戦が行われた。さらに8月に入りソ連軍により侵攻が行われた南樺太北方領土の島々では、8月15日の停戦後にも関わらずソ連軍の侵攻による地上戦が行われ、沖縄同様に一般市民が最前線に立つことを余儀なくされた。
台北市内(1945年)
外地・南洋諸島(空襲と地上戦)
日本の主要な外地で、重要な軍事戦略拠点であった台湾島は英米戦の当初戦火を受けず、日中戦争当時から英米開戦後まで本土の食料原産地として賑わった。しかし、台北や台南基隆などの大きな軍港や基地があったため、大戦終盤には連合国軍機の空襲や艦砲射撃を受けた。
戦禍を全く受けなかった京城(1945年)
もう一つの日本の主要な外地であった朝鮮半島は、日中戦争から大東亜戦争に至るまで大きな戦禍に見舞われなかった上に、戦争中を通じて日本海を通じた本土との交通も比較的順調だったものの、大戦終盤には一部に連合国軍機の空襲を受ける地域があったほか、1945年8月15日以降は、かねてから朝鮮半島への領土的野心を持っていたソ連軍が北部に侵攻した。
南洋諸島は英米戦の末期にそのほとんどが戦場となり多くの戦死者を出した。一連の戦いの嚆矢となったのは、1944年2月に行われたクェゼリンの戦いからで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は玉砕した。1944年6月のサイパンの戦いは凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。7月にはテニアンの戦いが行われ、テニアンでも多数の民間人が犠牲になった。
1944年にアメリカ軍はパラオ諸島への侵攻を開始し、第1海兵師団ペリリュー島に上陸させた。このペリリューの戦いにおいて、日本軍は従来の戦術からゲリラ戦と縦深防御戦術に転換したためアメリカ軍に出血を強要し、73日間の戦闘で日本軍の戦死者とほぼ同数である10,786名の死傷者を出している[237]
ペリリューの戦い以後、1945年8月15日の日本の降伏まで、連合国軍による南洋諸島での大規模な軍事行動は起こらなかった。しかし、連合国軍によって日本本土との補給線と連絡網を断たれた孤島では飢餓に見舞われ、ウォッジェ環礁ウォレアイ環礁などでは多数の餓死者を出した。

占領地

昭南(1942年)

日中戦争で日本軍の領土となった中華民国の他、対英米蘭戦で日本軍の領土となったイギリス領シンガポール、香港、マレー半島やビルマ、オランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの占領地は即座に軍政が敷かれ、また、そのいくつかの地ではそれまで使用されていた中国語や英語、オランダ語名が即時に廃止され、「シンガポール」が「昭南」、香港の「ハッピーバレー競馬場」は「青葉峽競馬場」などと改名された。

また、教育ではそれまでの英語やオランダ語などが廃止され、日本語が第一外国語として教育の場で使われるようになった。また多くの地で軍票が発行され、それをもとにした切手や宝くじなども発行された。

さらに民間の企業も多くが現地に渡り、日本風の旅館やレストラン、料亭などが営業を開始し、これらを楽しむ軍人や官僚、民間人などで賑わった。また香港で接収されたイギリス系の百貨店「レーンクロフォード」には「松坂屋」が開店した。

またイギリス領マラヤに住むイギリス人、アメリカ領フィリピンやグアム、アッツ島などに住むアメリカ人、オランダ領東インドに住むオランダ人の民間人は、1941年12月以降の日本軍の進出後はそれぞれの地の日本軍の保護下に置かれ、その一部は交換船によって返され、軍人はそれぞれの地域の捕虜収容所か日本の捕虜収容所に、民間人は日本の収容所に運ばれて終戦まで置かれた。

在日外国民間人

ここでは第二次世界大戦中(主に記述がない限り、1941年12月7日の開戦から1945年8月15日の終戦まで)に日本に永住していた外国人および無国籍人の民間人、および企業派遣や研究者、留学生および通信社などのジャーナリストなど一時滞在の民間人、外交官の処遇について記載する。戦時国際法における軍人の捕虜は、特に記述がない限りは除く。

立場による違い

在日外国民間人は、警察による分類では大別して枢軸国人と中立国人、無国籍人そして敵国人に分けられる。当然のことながら枢軸国人、同盟国人と中立国人は「友好国」ということもあり優遇された立場に置かれ、例えば食料配給も日本人よりもかなり優遇されていた(これも相互主義に基づき同盟国に住む日本人も同様であった)。また白系ロシア人をはじめとする無国籍人はイデオロギーで対立することがなかった上に、ソ連に対抗する目的で満州国軍に浅野部隊という日露満の混成部隊が設立されるなど「友好国民」扱いであった。

敵国人(適性国人)は開戦から終戦に至るまで男性のほとんどが抑留所に入れられ、性差別がひどい地方では女性が入れられることも多かった(これは相互主義に基づき敵性国に住む日本人も同様であった。しかし人種差別が酷かったアメリカやカナダ、ペルーのように、日本の大使館員や駐在員などの一時在留者を除く、現地の国籍を持つものや、永住権を持つ男女の多くが強制収容所に入れられるという酷い場合もあった)。また、開戦から終戦に至るまですべての外国人は臨時措置法により、旅行する際に地元警察への届けが必要になった[107]

横浜港に戻った第1次日英交換船の鎌倉丸(1942年)

なお1942年から1943年にかけてイギリスとアメリカとの間に3回運航された交換船[238] で、イギリスやアメリカ、カナダやオランダ、ブラジルやオーストラリア、ニュージーランドや英領インドなどの敵性国民は、これらの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本やタイ、満州国、ドイツ、イタリアの駐在員や外交官、留学生と交換される形で帰国した[239]

1943年9月29日以降は、全ての同盟国人や敵性人を含む外国人の住んではいけない場所が決められ、神奈川県横浜市中心部や神奈川県横須賀市千葉県木更津市など軍機が多い都市がこれに指定された。その後多くの西洋人が自主的に東京市内や横浜市内の指定地域外、または西洋人が多い別荘地の箱根や軽井沢に移ったが、これは結果として1945年以降の連合国の空襲から逃れられるという利点があった。

1945年初頭には神奈川県の全ての外国人の住人は箱根へ移るように通告され、同年7月には全ての同盟国人や敵性国人を含む外国人が地方への移動を通告されたが、これも同様であった。なおこれらの居住地の移動に掛かる予算は、個人的なもの以外全て国費から払われ、これは同盟国人、中立国人、無国籍人、敵性国人いずれも全て同様であった。また1944年冬には、ドイツ、イタリア、タイ、中華民国(南京国民政府/汪兆銘政権)、満州国、ソ連などの大使館の一部施設が、激しくなると予想される連合国の空襲から逃れ東京から神奈川県箱根に移った。

なおイタリアやフランス、そして大戦末期にはドイツなど、戦況やどの政権につくかで同盟国人から敵性国人と立場が一変するケースがあったものの、ドイツは1945年5月に枢軸国として敗北し、すなわちその後即座に敵性国人として抑留されるべきであったが、元は同盟国で友好的な在日ドイツ人が多いことや、日本側の都合で終戦に至るまで河口湖や箱根などへの軟禁程度で済んだ場合もあった。

枢軸国人
大東亜会議で演説する自由インド仮政府スバス・チャンドラ・ボース(1943年)

ドイツやイタリア、タイ王国や中華民国、満州国、フランス(ヴィシー政権)、自由インド仮政府などの同盟国の外交官や駐在員、ジャーナリストや留学生は、日中戦争後や英米間との開戦後もこれまで通りの生活を送ったが、1939年以降はヨーロッパ各地も戦火に見舞われたことから、同地域の同盟国の外交官や駐在員の多くも本国への帰国もままならなくなった。

さらに1941年の独ソ戦、同12月の日英米の開戦で、本国との連絡も潜水艦やそれによる手紙、無線に限定されることになった。しかし満州国や南京国民政府、タイ、フランス(仏印)や自由インド仮政府の国民は、同盟国であり距離的な問題も少ないことから英米の開戦後も比較的自由に移動できた[107]

なお、ドイツ、イタリア、ブルガリア、フィンランド、タイ王国、ルーマニア、ハンガリーの「旧枢軸国国民」の国民は、1945年9月には凍結されていた銀行口座から生活費として限られた金額を下すことを連合軍から許可される[240] など、いくつかの記録が残っているが、中華民国や満州国、自由インド仮政府の国民と外交官については、戦後の連合国の占領時や帰国時の混乱からか明確な記録が残されていない。また自由インド仮政府A.M.ナイルのように、連合国政府からの逮捕を逃れるべく地方に逃れたものもいた[241]

ドイツ

ベルリン訪問中の松岡洋右外相(左)とスターマー(右)、ヴィルヘルム・カイテル(中央)

約3,000人の在日ドイツ人は外交官のみならず、第二次世界大戦開始後オランダ軍に抑留されていたオランダ領東インドからの引揚者や、シーメンスボッシュバイエルコメルツバンクなどの駐在員、大学院や大学の教員、留学生の多くが対英米戦開戦後も同盟国である日本に残留した。

またドイツ人は、食料の配給では1945年に入り日本人への配給が厳しくなってからも、優先的に食料品や缶詰などを配給されていた(これはドイツにおける日本人についても同様であった)[103]。また、日本やその占領地を拠点にしていた仮装巡洋艦やUボート、封鎖突破船などが拿捕したイギリスやアメリカなどの貨物船より、ソーセージコンビーフピーナツバターなど一般の日本人が好まぬものを廻してもらうことも多くあった[103]

東京だけで500人いたナチ党を中心とした住人組織が置かれ、相互監視が行われた。また、反ナチス的なドイツ人を取り締まるために、駐日ドイツ大使館付警察武官兼国家保安本部の将校であるヨーゼフ・マイジンガーが駐在し、反ナチ的なドイツ人は捕えられ18人が収容所に入れられたほか、ヴィリー・ルドルフ・フェルスターのような在日ドイツ人が危険人物として監視下に置かれた。また、1943年6月にジャーナリストのイヴァル・リスナーは、マイジンガーの調査により友人のヴェルネル・クローメ、日本人秘書およびドイツ人秘書と共にスパイ容疑で逮捕された。リスナーは憲兵に引き渡され日本の刑務所でドイツ敗戦までの2年間を過ごした。またこれに先立つ1936年に、東京の大森にある独逸学園はナチ党配下に入っていた[242]

1942年11月、横浜港に停泊中のドイツ海軍の仮装巡洋艦「ウッカーマルク」が大爆発を起こして轟沈する「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」が起きた。多くのドイツ海軍の乗組員が被害を受けたが、爆発の原因は、大規模な被害により物証となるものが破壊されてしまった上に、戦時中のことであり現在でも明らかになっていない。連合国のスパイの犯行とも噂されたが、目撃者の証言などからウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員の喫煙との説が有力である[243]。この事故により、ドイツ海軍将兵ら61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住人など5人の合計102名が犠牲になり、周辺の住民や労働者、ドイツ海軍艦船を見学に来ていたドイツ大使館員のエルヴィン・ヴィッケルトをはじめ多数の重軽傷者を出した[243]

ドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール

また、ウッカーマルクとその近辺に停泊していたドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」、およびトールに拿捕されたオーストラリア船籍の客船「ナンキン」(拿捕後「ロイテン」と改名)、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻が失われ、横浜港内の設備が甚大な被害を受けた[244]。なお、1944年秋に300人の生徒を持つ独逸学園が軽井沢に疎開し[242]ハウプトシューレは解散された。

1945年5月のドイツの敗戦後は、ドイツ本国が連合国の占領下に置かれたことで法的に「敵国人」扱いになり、外務省の命令でナチ党の解散、さらに党員バッジもつけることが禁止された。また占領地で日本軍への協力の継続を表明したドイツ軍人以外の在日ドイツ人が軟禁状態に置かれ、さらに6月8日、日本政府は「ドイツ政府はもはや存在しない」として、ドイツ大使館ならびにドイツ領事館の職務執行停止を正式に通告した[245] ことで、駐日ドイツ大使および外交官としての地位を喪失した。なおこの際に日本政府はハインリヒ・ゲオルク・スターマー駐日ドイツ大使宛に、5月25日東京大空襲で焼失した[246] 旧ドイツ大使館の跡地を外務省の管理下に移すことを通知している[247]

東京や関東にいたドイツ人は、6月以降戦争終結まで富士五湖近辺や軽井沢などの地方の別荘地などに送られた[233]。その頃はもはや日本人よりこれらの地に「収容」されている感じはなく、旧同盟国人が「軟禁」されている状況で、行動は許可が必要になったが軍機以外の場所は比較的自由で、撃墜された連合国軍のパイロットと間違われるのが唯一避けるべき行動であったという。

ドイツとイタリア社会共和国の大使館員が1945年5月以降抑留された富士屋ホテル

今や国家として存在しなくなったドイツが日本にとって事実上の「敵国」となり、スターマー旧大使以下全ての大使館員らが軟禁された6月以降も、マイジンガーは日本の憲兵隊特高と一種の協力関係を持ち、自動車の利用も許され、東京と大使らが軟禁されていた箱根富士屋ホテル、他の大使館員らが軟禁状態に置かれた河口湖の富士ビューホテルを行き来しつつ、「反ナチス的」と目された在留ドイツ人の情報を憲兵隊や特高に流した[248]

ドイツの敗戦後に河口湖や箱根、軽井沢に軟禁されたドイツ人は、8月の日本の終戦後に今度は関東を占領地域に置いたアメリカ軍により監視下に置かれた。その後連合軍によりナチス党関係者や軍関係者、マイジンガーら約50人が逮捕され、マイジンガーはヨーロッパに返されその地で死刑になった。またこれまでの日本政府でのような自由な行動は厳しく制限され、居住県外に出る際は理由と許可が必要になった[103]

最終的にユダヤ系、もしくは日本に第二次世界大戦前から住んでいた者を除くドイツ人(在日ドイツ人や日独戦ドイツ兵捕虜の残留者など)は、1947年までに所有していた不動産は売られ、強制的にドイツに帰国させられた[103]

イタリア

イタリアの「コンテ・ヴェルデ」

約300人の在日イタリア人は、1943年9月のイタリアの降伏後まではドイツとともに同盟国の国民として安泰な地位にいたが、その後枢軸国と連合国との2つに分かれたイタリアの、イタリア社会共和国(ムッソリーニ/枢軸国)側につくか、イタリア王国(連合国)側につくかで、民間人や外交官を問わず、その地位が明確に振り分けられた。

民間人のうち190人はイタリア社会共和国につき、イタリア王国側についたために抑留されたのはわずか10人にも満たなかったが、イタリア大使館内でイタリア王国側についたものはマリオ・インデルリ大使以下武官を含む50人で、2人のみがイタリア社会共和国側についた。イタリア王国側についた商務参事官のローモロ・アンジェローネは、抑留されたことを日本政府に強硬に抗議したが、これは敵国側についた者として当然のことと跳ね付けられた。アンジェローネ参事官自身は元々熱心なファシスト党員であり、日伊の通商に大いに貢献した外交官であるが、日本にとって敵国であるイタリア王国側についたものに対する態度は当然ながら冷徹であった[249]

また、1943年9月当時日本の占領下にあった上海に停泊中の「コンテ・ヴェルデ」は、イタリア人船長以下船員が、連合国に降伏したイタリア王国政府の指令に基づいて船底を爆破し横転した。この時、日本占領域にあった「コンテ・ヴェルデ」を含む合計17隻の軍民イタリア艦船がイタリア社会共和国につくことを拒否し自沈している。この事件は日本政府ならびにイタリア社会共和国の心証を悪化させ、その後イタリア王国側についた在日イタリア人に対する冷徹な処遇の一因になったとされる[250]

日本が認めたイタリア社会共和国側につくことを拒否したものは、イタリア社会共和国側についたオメロ・プリンチピニ代理大使の要請の下で、警察の監視の下で外交官は東京の田園調布にあるサンフランシスコ修道院に、民間人は京都大学講師であるフォスコ・マライーニのように、名古屋とその後は秋田の収容所で終戦までの間を過ごした(なお1943年9月9日に自沈したイタリア特務艦「カリテア2」の150人ほどの軍人のうち、イタリア王国側についたほとんどは兵庫県姫路市広畑区の捕虜収容所に収容された)。

イタリア王国側についたイタリア人は、当然食料などの配給は同盟国であった頃に比べ少なくなり、大戦終盤は田畑で自分たちの分を自給自足することを余儀なくされた[249]。また、ミルコ・アルデマンニ館長の下、九段に1941年3月にオープンしたばかりのイタリア文化会館も閉館を余儀なくされた。

ヨーロッパ終戦以降の1945年8月以降に運航される予定であった第三次日米交換船には、イタリア社会共和国側につくかイタリア王国側につくかは関係なく、1943年9月に連合国に降伏した後に日本で抑留されていた駐日イタリア大使館員や、第一次日米交換船に使用されたイタリア客船「コンテ・ヴェルデ」の乗組員ら民間人、さらに降伏に伴い日本海軍に接収された(その後ドイツ海軍に貸与。乗組員の多くはイタリア社会共和国側についた)イタリア海軍潜水艦の「ルイジ・トレッリ」などのイタリア海軍の軍人も含まれることになっていた。しかし第三次日米交換船は8月の終戦により運航されなかった。

なお、イタリア社会共和国は5月のドイツ降伏時に消滅し、その後はイタリア社会共和国側についていた者もドイツ人同様軟禁扱いされ、同国の代理大使オメロ・プリンチピニも、富士屋ホテルで抑留されたまま終戦を迎えている。また、マリオ・インデルリ元大使やカルロ・バルサモ元提督、ローモロ・アンジェローネ元商務参事官以下、イタリア王国側についた大使館と軍関係者50人弱と民間人10数人、また横浜から疎開した27人のイタリアの民間人が、秋田の敵国人抑留所で終戦を迎えている。これらのイタリア人外交官や将官、民間人の多くが、1945年の暮れから1946年初頭にかけて帰国している。

大戦後も日本に残ったイタリア人もおり、カルロ・バルサモ元提督の専属料理人のアントニオ・カンチェーミは、戦後神戸に在留後、東京都港区に本店を構えるイタリア料理レストラン「アントニオ」のオーナーとなった。

満州国

日中戦争中より日満の交流は友好国らしく皇室から軍官民共に活発に行われ、海運と航空による自由な交流は終戦まで続いた。なお満州国の大使館は東京の麻布区桜田町の広大な敷地内にあり、日中戦争中よりその場所で大使館として機能していたが、他の国の大使館同様に連合国の空襲を避けるため1944年秋より軽井沢に疎開し、そのまま終戦を迎えた。

フランス(ヴィシー政権/インドシナ植民地政府)

明号作戦で中華民国側に逃亡するフランス領インドシナ植民地兵士(1945年3月)

数百人の在日フランス人は、1940年7月のヴィシー政権の成立後や1941年12月の英米開戦時も、駐日大使館とフランス領インドシナの植民地政府がヴィシー政権につき日本との友好関係を保っていたために、自由フランスドゴール派)につくことを表明した少数の外交官以外の在日フランス人は、中立国民と同様の扱いを受けていた。

さらに、1944年8月に行われた連合国軍によるフランス本土解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー=日本間の協定無効宣言の後も、フランス領インドシナ植民地政府は日本とともにインドシナ統治を継続するという微妙な位置についていたため、敵国人となることは逃れた。

その後の1945年3月の日本軍による仏印政府への攻撃(明号作戦)以降は、敵国人となり、軽井沢などで警察の監視の下事実上の軟禁状態に置かれることとなった。原則としてフランス人以外との接触は禁止されたが、軽井沢にいた数千人の中立国人との接触は自由に行われ、また地元の住人との接触も寛容であった。8月15日以降は自由となり、8月下旬以降に「戦勝国民」として連合国と接触した[251]

中立国人および無国籍人

在日人数が約200人以上に上ったスペインやポルトガル、バチカンや、チリやアルゼンチンなどの遠方の中立国の外交官や駐在員、通信員や船員、留学生の多くは、1939年以降はヨーロッパ各地も戦火に見舞われたためヨーロッパ経由での帰国が困難になり、さらに1941年12月以降はアメリカやカナダなどが参戦したために、これらの国経由での帰国も全くままならなくなってしまった。

ただしソ連だけは、日本海およびシベリア鉄道経由で1945年8月9日の開戦まで自由に行き来できた。またこのルートは、ビザが発行される限りアフガニスタンやトルコ、スウェーデン、スイスなどの中立国への帰国にも使われた。また巨人軍のヴィクトル・スタルヒンなど白系ロシア人は無国籍扱いであったが、幸いなことに日本ではソ連人と同様中立国人の扱いであった。またポルトガル公使館とマカオ、ティモールとの交流は、両地が日本の占領下に囲まれていたことから、比較的自由に行うことができた。

これらの中立国の国民はこれまで通りの生活、仕事を続けられ、配給以外の食料も潤沢に与えられた。駐日スイス公使であったカミーユ・ゴルジェドイツ語版以下スイスの外交官は、対英米開戦後に日本政府が委託した中立国の外交官として、赤十字国際委員会の中央捕虜情報局の傘下に置かれ、日英米交換船の運航がきちんと行われているかどうかの同乗確認や、日本全国に及んだ連合国の国民の抑留所の監視などを行うなど、その信頼は高かった。

外務省出張所が置かれた三笠ホテル

1943年9月以降外国人に居住不可地域が設けられたり、1944年夏に連合国軍による本土への空襲が増加すると予想した後は、中立国人の多くは軽井沢箱根などの別荘地にあるホテルや別荘へ疎開して活動した。もちろんこれに伴う引っ越し費用は全て日本政府が負担した。

特に、これらの中立国と枢軸国の約300人の駐日外交官と、およそ2000人以上の一般外国人の疎開地となった軽井沢では、利便性を考え三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が設置され、1944年8月には民間の貸別荘だった深山荘にスイス公使館が置かれることとなった。

ソ連大使館が置かれた強羅ホテル

ソ連の大使館は1944年末以降は同じく疎開を主な目的に、箱根の強羅ホテルに置かれた。1945年当時、ソ連を通じた終戦交渉を模索していた東郷茂徳外相の意を受け、広田弘毅首相ヤコフ・マリク大使と数度にわたって接触したことが知られている。

また1945年初頭には、軽井沢にフランス(ヴィシー政府)大使館、トルコ大使館(同年2月に対日宣戦布告)、アルゼンチン大使館(同年3月に対日宣戦布告)、アフガニスタン公使館、ルーマニア公使館、ポルトガル公使館、スウェーデン公使館、スペイン公使館、スイス公使館、デンマーク公使館(同年5月に対日宣戦布告)と赤十字国際委員会などが置かれ、または疎開していた。

終戦により日本が連合国の占領下に置かれたことで、これらの中立国の外交官は、日本が連合国の占領下に置かれ「対象となる国家が存在しなくなった」ため、家族ともども連合国の船で帰国した[252]

敵性国

パンアメリカン航空シコルスキー S-42(在グアム港/同港では日本軍に捕獲されなかった)
帝国船舶から船舶運営会が傭船した交換船の「帝亜丸」(元はメッサジュリ・マリティムの「アラミス」)

1937年の日中戦争開戦後も、イギリスやフランス、オーストラリアやアメリカ、オランダやカナダ、英領インドなどその後の連合国とその植民地の駐在員や外交官、宣教師や留学生などの民間人の多くは、日本や外地などで戦前と変わらない生活を行った。

しかし1941年12月の対英米開戦後は、これらの国の国民は敵性国民となった。日本と香港やジャワ、シンガポールなどの日本の占領地、そして枢軸国側になったタイ王国や満州国に取り残された、イギリス人やアメリカ人、オーストラリア人やカナダ人、ギリシャ人オランダ人グアテマラ人やアルメニア人ノルウェー人や英領インド人などの敵性国側の民間人は、開戦後次々と抑留所に収容され軟禁された。また、日本や香港などにいた民間の船舶やパンアメリカン航空などの航空会社の乗組員も抑留所に収容された。

ただし、抑留されるのは男性のみで、女性は抑留されなかった。また日本の大学などで教員に就いていたイギリス人やアメリカ人、オランダ人などの敵性国人は、開戦後も抑留されず、しばらくの間は警察の管理の下で仕事に就き、通常の給与が与えられた。

抑留された男性は戦時国際法に則り軍に管理された捕虜とは異なり、主に警察によって管理された。警備は厳重であるが、しかし民間人抑留者に対する取り調べや取り扱いでの暴力を伴う違法行為、国際法違反などは皆無であった[132]。また妻や娘など家族がいるもののみ外出も認められた。日本という海に囲まれた国にあるため脱走は皆無であった。

全ての民間人抑留者の情報は、戦時国際法に則りスイスのジュネーブ赤十字国際委員会に置かれた中央捕虜情報局に置かれることとなった。委員会駐日代表フリッツ・パヴァラッツイーニ博士が各地で数回にわたり中立国の局員の収容所の見学や聞き取りを行ったが、生活や食事、医療や待遇などについての言動は日本側からは制限を課されず自由に行われた[132]。その結果、苦情は皆無ではなかったものの、おおむね良好であった[132]

抑留、逮捕されるのは45歳以上の男子に限り、女性や子供は対象外であったが、男子でも45歳以上というのは地方では無視されがちであった。また福島県秋田県青森県島根県などの地方では、田舎にありがちな人種差別的、宗教的差別的そして性差別の観点から、独身女性(その多くが修道女であった)も開戦後に抑留された[249] が、女性の抑留といった逸脱した地方警察の暴走および国際法違反は本部から問題視され、1942年5月13日に解除、開放の命令がなされている。

しかし1942年9月以降方針が変わり、修道女や教師などの女性独身者と、宣教師や教師などの男性高齢者も抑留された。これはアメリカやイギリスなどが、僧侶や教師も関係なく、日本人の抑留者を男女年齢問わず強制収容所に入れていたためであり、これらの国との相互主義に基づくものであった。なお、結婚女性や娘などは例外のままであった[249]。これは男女年齢差別なく収容所に入れる例がほとんどであったイギリスやアメリカ、オーストラリアやカナダなどと違い、日本が連合国に比べ圧倒的に紳士的であったといえる。

また、戦時中に日本海軍やドイツ海軍、イタリア海軍の軍艦によって拿捕されて、横浜港や神戸港などに連行された連合国の軍艦の民間の乗務員や、民間船の船員や搭乗者なども、民間抑留者として抑留先に入れられた。

アメリカ側が交換船として借り上げたスウェーデンのスウィーディシュ・アメリカン・ラインの「グリップスホルム

これらの敵性国抑留者の多くは、1942年から1943年にかけてアメリカとイギリスとの間に3回運航された交換船[238] で、同じくイギリスやアメリカなどの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人やタイ人、ドイツ人の駐在員や外交官などの民間人と交換される形で帰国した[239]。だが、フォード・モーターワーナーメディア、パンアメリカン航空やP&Oなどの大企業勤務の者も、妻や息子、娘などの家族が日本人であることなどの個人的都合や、病気などの理由から帰国せず終戦までの間自主的に抑留された者もいた[132]。宣教師や修道女の多くも、信者を残して帰国できないなどの理由で日本に残った。

なお、戦前より日本に進出していたIBM香港上海銀行ゼネラル・モーターズやフォード・モーター、スタンダード・オイルなどの企業の資産は、戦中は日本政府により没収され、全て三菱信託銀行をはじめとする信託銀行に管理された。売却されることなく、戦後にきちんと返還された。

根岸競馬場
横浜港のバンドホテル

首都圏ではバンドホテルやブラフホテルなどの洋風ホテル[132] や、横浜ヨットクラブや根岸競馬場などのクラブハウス、船員会館やバターフィールド・アンド・スワイアーの社宅、神戸ではイースタンロッジなどのホテルやカナディアン・スクールの寄宿舎などの洋風施設など、全国34か所が民間人抑留先に指定されたが、広島県や長崎県、北海道や福島県などの地方では洋風の施設がある抑留先を探すのはままならず、教会修道院保育園または自宅などが多かった[249]

また、1943年中頃の第二次日米交換船の行き来により民間人抑留者が劇的に減った後、同年暮れに抑留先が再編され、同時期にバンドホテルがドイツ海軍に借り上げられたことなどから、神奈川県の抑留所が横浜市戸塚区や神奈川県箱根、厚木市七沢、足柄暁星学園の寮などに抑留先が移ったり、自宅に残っていた無職の老人や、妻などの家庭婦人、子どもまで対象になるなどの変更があった[253]。最終的には、日本国内の連合国の民間人抑留所で一時的なものを含むと、北海道から九州まで全国50か所以上に上った。なお、これらの民間人抑留施設の家賃(から引っ越し代や食事代、治療費に至る)まで全て日本政府から終戦に至るまで支払われていたか、政府により施設そのものが買い取られていた。

食事は当初、都会のホテルやクラブハウスでは洋食をベースにした豪勢なものが提供されることも多く、他の民間人抑留先でも外国人であることを考慮し肉やパン、スープなどもあった上に、1日3食で量も比較的考慮されていたため、日本人から「豪勢だ」と批判が出たり、太る者も少なくなかった[132]。なおこれらの代金は全て日本政府から払われていた。なお妻などの家族や知人の日本人、信者からの差し入れも自由に行われた[249]。1943年中頃の日英米交換船の終了までは、先方に抑留されている日本人や同盟国人への配慮もあり、量や質もそれなりに配慮されたが、1944年以降はその量と質も外の配給とともに少なくなっていった上に、配給だけでは足らずに、愛知県のイタリア人向け民間人抑留所をはじめ、抑留者自ら農作業をし自らの食料を調達することも多くなった。また抑留所外に住む妻などの家族などの差し入れに対する警察官による横領も多くなっていった[249]

三渓園

娯楽が無く、男性しかいない中で、民間人抑留所内では、野球やサッカー、ジョギング、卓球、チェスやカードゲームなどが盛んに行われた。また横浜など抑留先が複数ある場合は、抑留先同士の交流を図るため野球などの交流戦が三渓園などで開催された[132]。なお、横浜球場では連合国軍人の捕虜収容所が置かれていたが、民間人と軍人捕虜の間は明確かつ厳密に区別され、それらとの交流は一切なかった。

また民間人抑留所内では、新聞の購読(しかし英語の新聞は、当時日本政府の管理下にあった「ジャパンタイムズ&アドバダイザー」だけであった[254])や信仰の自由が保障され、プロテスタントカトリック長老派教会、またユダヤ教僧侶牧師などによるミサなども自由に行われた[255]

医療も日本側として十分なものが行われており、また病気のために抑留を解かれ病院や自宅などで療養するものも多かった。しかし1944年の末以降は、戦況の悪化とそれによる感情の悪化により医療などの環境が悪くなり、また高度な医療を受けられないことや、長期にわたる療養で亡くなる例もあった[249]。また1945年以降は連合国軍の空襲を受けて被災する抑留所も増えた。

さらに1945年5月7日のドイツの敗戦や8月9日のソ連による日本への侵略以降、満州国などの数少ない同盟国、そしてスイスやアフガニスタン、スウェーデンやポルトガルなどの中立国を除くほとんどの国が敵対国となってしまったが、15日の降伏まで抑留は続いた。15日にほとんどの民間人抑留所と連合国の捕虜収容所で日本の降伏と解散が申し伝えられたが、16日以降も治安維持の観点や、抑留所や捕虜収容所に対して慰問袋や食料品などが連合国軍機から投下されたことから、数日間から数週間は抑留先へとどまるものも多かった[253]。なお全国11か所の抑留所や、数十の捕虜収容所に対して慰問袋や食料品などを落とす連合軍機などが、停戦後の8月中旬から9月初旬にわたり5機も墜落している。

戦時中に3度に渡って行われた日英米交換船により、終戦時には抑留所に置かれた民間人抑留者は609人に減っており、一部のドイツ人やフランス人など、戦況により敵国人となり、新たに「軟禁」された者を含めると民間人抑留者は850人以上が確認されている(抑留所に入れられた者のみ。ホテルや旅館、自宅などに軟禁されていた者数千人は除く)。また、数千人の規模のイギリスやアメリカ、オーストラリアやニュージーランドなどの連合国軍の戦時捕虜が、終戦時に日本とその占領下の収容所に収容されていた。

ドイツ

防空壕に避難するベルリン市民

総統アドルフ・ヒトラーは大戦中、できるだけ国民生活水準の維持を考慮せざるを得なかった。これは第一次世界大戦の敗北が、国民の社会主義への裏切りによるもの、とヒトラーが見なし、同じ失敗を繰り返すのを懸念したからだった。しかし、食糧や生活必需品が配給制となることは避けられなかった。敗戦間際までドイツの喫茶店ではコーヒーを飲むことができたが、実際に供されたのは代用コーヒーであった。しかし、ソ連軍が侵攻する直前まで、牛乳配達や新聞配達が途絶えることはなかったという。

そして、国民の裏切りを防止するため、各地に強制収容所を設置し、秘密警察ゲシュタポが国民生活を監視し、反政府・反戦的言動を徹底的に弾圧した。スターリングラード攻防戦でドイツ軍が大敗すると、ミュンヘン大学生の反戦運動が表面化した(白いバラ)。その時期、宣伝大臣ゲッベルスは有名な「総力戦演説」を行い、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始された。軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力により、1944年には激しい空襲下でもドイツの兵器生産はピークに達した。

連合軍の空襲は1940年に開始され、1942年5月にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、「自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い」とまでいわれた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ」というブラックユーモアが流行した。

総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレー等、庶民の娯楽の場が次々と閉鎖された。そのような状況にもかかわらず、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団等、ドイツのみならず世界を代表する楽団は敗戦直前まで何とか活動を続けた[256]。ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭い、それがドイツの芸術に与えた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。

ベルリンで合流したソ連軍とイギリス軍(1945年6月)

敗戦間際、ソ連軍による侵攻した地域での民間人へのレイプや虐殺などの噂を耳にすると、残虐な報復から逃れるため西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いには、少年や老人までもが動員され、ソ連軍と戦った。そのような中で、ゲシュタポや親衛隊は、逃亡兵や敵への内通者と見なした市民を即席裁判で処刑して回ったという。また各地の強制収容所では、敗戦間際には劣悪な環境と食料不足から伝染病が蔓延し、多数の死者を出した。その惨状は進駐した連合軍に強い衝撃を与えた。

また1945年5月の終戦時に駐在していた数百人の日本人は、当時すぐに日本にとって中立国のソ連に占領された側と、日本と戦っていた英米側のどちらに付くかで明暗が分かれた。ドイツ降伏後の5月中旬、ソ連軍の占領下にあったベルリン西方のマールスドルフに逃れた200人弱の日本人外交官や駐在員は、その後中立国の国民として手厚く扱われ、ソ連軍と政府の手引きでソ連経由でシベリア鉄道で満州国経由で無事に帰国した。

しかしドイツ降伏後に英米軍側に捕まった外交官や駐在員は、すぐに敵国の抑留者として収容された。ドイツからフランス経由でアメリカに送られ、さらにアメリカでも抑留所に入れられ、1945年8月の日本の敗戦後に帰国した。なお大島浩ドイツ大使は横浜港よりそのまま戦犯として収容所に送られた。

フランス

本土と植民地

開戦後、ドイツ軍の侵攻を受けるまでは平穏な日々が続いた。日本人は開戦前は600人程いたが、その後多くが戦火を避けてフランスを後にした。ドイツによる占領後、徴兵された農民の多くはそのまま捕虜となり、植民地との貿易が途絶し、ドイツの戦時経済体制に組み込まれて農産物の生産量が激減、食糧や生活物資の供給は逼迫し、生活は困窮した。また戦場となった地域では、多くの民間人が戦闘に巻き込まれ死亡した。

ヴィシー政権成立後、インドシナやモロッコ等多くの植民地はヴィシー政権についた。しかし同政権の植民地政府に対する拘束力はほとんどなく、フランス領西アフリカ等は、自由フランス側に参加していった。シリアレバノンは独立し、連合国に加わった。一方、インドシナは1940年にヴィシー政権の了解の下で日本軍の駐留を受け入れ、フランス植民地政府と日本軍による支配が1945年まで継続された。

ドイツ占領下の本土
ハーケンクロイツが掲げられたパリのオペラ座
キャバレームーラン・ルージュ」の前でフランス人女性と談笑するドイツ軍兵士

パリを含む北部と西部地域は、行政機構はドイツの軍政下に置かれ、道路標識などはフランス語とドイツ語の両国語併記となった。ドイツはフランスでもユダヤ人迫害政策を実施し、ユダヤ人は外出時にダビデの星を衣服に付けることを義務付けられ、強制収容所に送られた者も多かった。ドイツの支配に不満を持つ市民はレジスタンスを結成し、その動きはマキのように、右派から共産主義者までの広範囲な層に広がった。一方、ドイツ側も対抗して親ナチス的民兵団を結成させ、レジスタンスを弾圧した。また、自己保身や利害のため、自発的にドイツ軍に協力(対独協力者)したり、様々な形でドイツ軍と関係を持つ一般市民や経済人、芸術家も多かった。

非武装都市として破壊を免れた中心都市パリでは、ドイツの軍政下でインフラの維持が図られ電力やガスの供給が継続され、食糧や生活物資の供給は減少したが、多くの市民は闇市で不足分を補った。戦場とならなかったので、占領開始からしばらくの間は多くのドイツ人が観光目的で訪れ、また制限は有ったが、オペラ等の芸術活動も継続された。アンドレ・ジッドパブロ・ピカソなどの独創的な作家・芸術家にとって、ドイツ軍占領下のパリはヴィシー政権統治下と比べ自由だと感じられたという。ヴィシー政権の検閲はナチスより対象が多かったためである。

1942年に北アフリカのフランス植民地が連合国の勢力下になり、フランス全土は枢軸国側に占領された。ドイツによる経済収奪は激化し、ドイツ経済の4分の1がフランスからの収奪で成り立っている有様だった。また、食糧事情も悪化し強制労働に従事させられる国民も多かった。一方、レジスタンス運動も激化し、サボタージュや破壊活動が増大した。

1944年6月以降、フランス本土からドイツ軍は敗走。8月のドイツ軍撤退後、対独協力者たちは糾弾され、住民から報復、リンチされた者も少なくなかった。なお、ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルはスイスに亡命し、「売国奴」、「売春婦」といわれ戦後長くその行為を非難された。

パリ解放前後の日本人

開戦後も帰国しなかった150人から200人といわれた日本のうち、外交官や企業駐在員、留学生など多くが、連合軍によりパリが解放される前の1944年8月13日から14日にドイツに去った。その後パリには連合軍が進出してくるが、パリに残留した日本人は出頭するよう指令が出る。多くが抑留の身となった。

しかし早川雪洲薩摩治郎八は、ドイツ軍占領と南部にヴィシー政権が設立された後もパリに住み、特に治郎八は戦前より日仏交流のために尽力しフランス人のみならず、在住邦人たちにも頼られていた。さらに2人ともに日本人ではあるものの対独協力に積極的でないために、連合軍によるパリ解放後も自由フランスや連合国軍による逮捕や追放を逃れた。なお早川は日本人であったがアメリカのパスポートも所持していたこともあり、抑留を逃れた。

イギリス

大戦初期
爆撃を受け炎上するロンドン

開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、1940年のベルギーやオランダ、フランスの降伏後は単独でドイツと戦った。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷し、児童の地方への疎開や防空壕の設置、地下鉄駅への避難が行われた。なおイギリスのほぼ全土がドイツ軍の爆撃圏に入った。

また1942年頃まではドイツ軍の本土進攻が伝えられたことから、ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。なお1939年11月には、ロンドン航路についていた当時中立国の日本の日本郵船照国丸が、テムズ川河口で機雷に触れ撃沈されている。

ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により食糧や生活物資の供給は逼迫、さらに燃料の枯渇と近海での軍事作戦のために漁業活動にも影響が出たことで、食料品をはじめとする生活必需品は配給となり国民は困窮した生活を余儀なくされ、ガソリンやタイヤ、肉などあらゆるものが配給された。

大戦末期
V1に翼を当てるスピットファイア戦闘機(右)

1944年には戦局がイギリス有利になり、国民生活にもわずかながら余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV2ロケットでの攻撃も加わり、市民に多数の死傷者が出た。V1のイギリスの被害は死者および重傷者24,165人を出した。

戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、ロンドンを中心とした大都市市民への心理的影響は決して小さくなかった。なおガソリンや食料品の配給は長く続き、菓子類への砂糖の統制は戦後の1953年まで続いた。

アメリカ

サンフランシスコ市内に張り出された日本海軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令
フォードの航空機工場(1944年)
本土への攻撃と防衛体制

ハワイの真珠湾にある海軍基地が日本海軍艦船の艦載機による空襲を受けて壊滅状態に陥り、またオアフ島内の民間施設が被害を受けたほか、開戦後から1942年下旬にかけて、カリフォルニア州からオレゴン州ワシントン州までの本土西海岸一帯、そしてアラスカ州アリューシャン列島が、日本海軍艦船の艦載機による数度に渡る空襲や、日本海軍の潜水艦による砲撃を受けたほか、西海岸一帯からハワイ、アラスカやメキシコにかけての広い地域で日本海軍の潜水艦による通商破壊戦も盛んに行われた。

これを受け、開戦後から終戦にかけて西海岸一帯およびハワイ、アラスカ州では、日本陸軍部隊の上陸を恐れ厳戒態勢に置かれ続けたほか、1942年末までは学童疎開の実施が検討された。また、西海岸一帯でロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市圏では防空壕の設置や灯火規制、対空砲の設置が行われたほか、「ロサンゼルスの戦い」のような誤認攻撃が起き市民に死者が出る有様であった。

さらにハワイでは、日本軍による占領に伴い島内で流通している紙幣が日本に押収され、物資調達などの決済に使用されることを恐れ、島内で使用されている2億ドルのアメリカドル紙幣に「Hawaii」とスタンプが押された[257]。また、このような対日戦に対する恐怖と日本人に対する人種偏見をもとにした日系人の強制収容が、西海岸一帯を中心にしたアメリカで行われた[258]

ドイツやイタリアからは、軍による本土への攻撃は行われなかったが、ドイツ海軍潜水艦による東海岸やメキシコ湾沿岸での通商破壊戦や、メキシコ湾などから潜水艦で上陸した工作員による破壊工作がいくつか行われた[259]。しかし、ドイツ系やイタリア系などへの人種差別は皆無であった。

1942年に行われた日本海軍機による本土空襲以降は本土への攻撃が行われることはなかったものの、西海岸一帯の厳戒態勢は終戦に至るまで継続されたほか、東海岸一帯やカリブ海沿岸においても軍民による警戒態勢が継続して行われた[260]。また、1944年から1945年にかけては日本陸軍の風船爆弾による攻撃を受けて民間人が死傷したほか、本土内の軍施設にも被害が出た。

日用品と食料配給制

1941年12月に対日戦、続いて対独伊戦が始まると、アメリカでも他国同様に肉類[257] や砂糖、チーズなどの食料品や、靴やストーブなどの日用品の配給制の導入が全土で行われた。また、食料の需要を満たすために「勝利農場 (Victory Garden)」と呼ばれる家庭農園が全国で行われた。

また、1941年12月以降、全土の一般家庭からのアルミニウムの回収、供用が行われたほか[260]、ガソリンやオイルタイヤの配給制の導入も行われた。さらに、民需向け自動車の生産制限[261] も行われ、生産台数および販売台数が激減した。

当時世界最大の食肉産出国であるアルゼンチンやブラジル、メキシコやカナダとは、同盟国もしくは中立国で、地続きでもあり、さらに船舶での運行も比較的安全に行われたため、食肉の輸入ができた。加えて、本土で原油生産ができたこと、本土が日本軍の空襲や砲撃以外に大きな戦災を受けることがなかったこともあり、食糧をはじめとする生活必需品の生産と供給が、1940年以降のイギリス本土やドイツ、ポーランドなどのヨーロッパ諸国、1945年以降の日本本土のように極端に滞った状況に置かれることはなかった。

しかし、肉類や砂糖の購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[262]。また、ガソリンの配給制は終戦後間もなく解除されたものの、ゴムの供給がひっ迫したため、タイヤの購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[262]

国民の動員
軍需工場に動員され働く女性工員

アメリカの参戦をきっかけに多くの若者を中心とした男性は徴兵され、志願する者も少なくなく、最終的に兵士の数は1200万人になった。これは当時のアメリカの人口10.5%に当たる。

単純作業者から熟練工まで戦場に動員されたことを受けて、軍需品の生産現場では人員不足になることが危惧されたため、多くの軍需工場で女性が工員として働くことになり[263]、他の大国に比べ遅れていた女性の社会進出を後押しすることになった。

また、全米で医師の多くが軍人として戦地へ軍医として取られたため、一般的な医師の往診が難しくなった。また太平洋沿岸では、日本軍による空襲や上陸に備えて学童疎開の実施が検討された。

人種差別
アフリカ系アメリカ人部隊

当時のアメリカで法により人種差別が認められていた中で、差別を受け続けていたアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種も多くが戦場へ狩り出された。

アフリカ系アメリカ人兵士が戦線で戦う場合は下級兵士として参加し、「黒人部隊」としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊からアフリカ系アメリカ人は排除されていた。さらにアフリカ系アメリカ人が佐官以上の階級に任命されることはほとんどなかった。また、ある陸軍の将官は「黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、全体のレベルが大幅に低下する」と公言した[264] ように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく根拠のない差別的感情も蔓延していた。しかしアフリカ系アメリカ人兵士は勇敢に戦い、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げ、アメリカの勝利に大きく貢献した。

アメリカ軍兵士の監視下で強制収容先に運ばれる日系アメリカ人

敵国であるドイツ人やイタリア人をルーツに持つ者は、その主義主張が反米的でない限りこれまでと同様の生活を続けたものの、同じ敵国である日本人をルーツに持つ日系アメリカ人は、有色人種であるがゆえに人種差別を元にした政府の差別的方針を受けて、その主義主張は関係なく強制収容されることとなった。

第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領(1946年7月15日)

しかし、強制収容されていた多くの日系アメリカ人の若者がアメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団に志願した。ヨーロッパでの戦いで、死傷率31.4%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残したほか、対日戦においても暗号解読や通訳兵、兵士の日本語教育として貢献した。これらはアメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、戦後の日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。

しかしそれでも戦後も日系人アメリカ人に対する差別は続いた。1978年に、日系アメリカ人市民同盟は強制収容に対する謝罪と賠償を求める運動を立ち上げ、1988年ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法英語版」(日系アメリカ人補償法)に署名することとなった。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償を行った。

また、同じく人種差別を受けていたネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の多くの若者も戦場へと向かい、同じくアメリカの勝利に大きく貢献した。しかし、これらの少数民族に対する差別は銃後でも行われ続けていた上に、差別が合法化された状況は終戦後も続き、そのような状況が終結するのは終戦から20年近く経った1964年の公民権法制定まで待たねばならなかった。

娯楽・スポーツ

バーやダンスクラブなどは全土で営業制限が行われた。これは1943年まで続いた。また、日本軍の上陸が危惧された太平洋沿岸で行われた灯火管制の実施時には、レストランや映画館などの夜間営業も制限された。

カサブランカ』をはじめとする、戦意高揚を目的とした娯楽プロパガンダ映画が多く製作された。

メジャーリーグベースボールは日本のプロ野球同様継続されたが、多くの有力選手が戦場へと向かったほか、終戦の年の1945年にはMLBオールスターゲームが中止を余儀なくされるなど、戦争の影響を大きく受けることになった。

ポルトガル

本土

アントニオ・サラザール政権下で中立国となったポルトガルの首都であるリスボンは、ヨーロッパの枢軸国、連合国双方と南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を結ぶ交通の要所となり、さらに開戦後にはヨーロッパ各国からの避難民が殺到した。

中立国ではあるものの、ポルトガルからスペイン経由でドイツの占領下にあるフランスやドイツ本土へ流れる各種物資の流れを止めることを目論んだイギリス海軍による海上封鎖が行われたために、生活物資をはじめとする各種物資の輸入が激減した[265]

植民地
東ティモールのディリ

中立国であるにもかかわらず、大戦勃発後に大西洋上にある植民地であるアゾレス諸島を、イギリスとアメリカによる圧力により連合国軍の物資補給基地として提供させられることを余儀なくされたほか、大東亜戦争勃発後には、アジアにある植民地であるマカオもポルトガルの植民地として中立の立場を堅持したまま日本軍の影響下に置かれることを余儀なくされた。

さらに同じアジアにある植民地である東ティモールは、大東亜戦争開戦後の1942年にオランダ領東インド駐留オランダ軍とオーストラリア軍が「保護占領」し、その後両軍を放逐した日本軍が同じく「保護占領」下に置くなど、あくまで名目上は中立国としての立場を尊重されたまま、枢軸国と連合国の間の争奪戦の中に置かれた。なおこれらの植民地との交易は、上記のイギリス海軍によるポルトガル本土周辺海域の海上封鎖や戦禍の拡大を受けて激減した[265]


注釈

  1. ^ ただし日本国との平和条約では、本戦役は第二次世界大戦の一部とは定義されていない
  2. ^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのドイツの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
  3. ^ この調印に際してドイツ軍は第一次世界大戦時に当時のドイツ帝国が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車を特別に調印場所として用意させた。
  4. ^ アフリカ大陸では、広大な植民地を持つフランスが降伏し、北部のフランス植民地、アルジェリアチュニジアモロッコ、アフリカの東沖マダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。
  5. ^ イギリスのウィンストン・チャーチル首相は地中海地域を「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。
  6. ^ ソ連書記長スターリンは情報部からドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。
  7. ^ 奇しくも3年前の独ソ戦開始、バルバロッサ作戦発動日と同じ日付である。
  8. ^ なお、国民の士気低下を恐れて陸軍の英雄、ロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され10月18日、盛大な国葬が営まれた。
  9. ^ さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告と見なすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられたと勝手に日本が判断した時点で、これは宣戦布告に等しい、と見なす考えもある。最後通牒の項も参照。
  10. ^ 1940年3月、日本の協力の元に汪兆銘を首班として南京に設立された政権
  11. ^ しかし後にポルトガル政府は暗黙の下、両地を事実上統治下に置いた。
  12. ^ 当時はイギリスとオランダの植民地
  13. ^ オランダの植民地
  14. ^ 現在のスリランカ
  15. ^ 正式にはドイツ占領下のフランス
  16. ^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティは浮揚修理され、アッドゥ環礁に移動。同地でドイツ軍のUボートU-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年1月5日に浸水により沈没した。
  17. ^ 戦死後海軍元帥となる。
  18. ^ 「インディアナポリス」はこの損害の修理のためにアメリカ本土に曳航され、修理完了後前線に復帰する際、原爆輸送の極秘任務をこなし、原爆を揚陸後に日本海軍の潜水艦「伊58」に撃沈された。
  19. ^ 原爆死没者名簿の人数は2020年8月5日現在で32万4129人
  20. ^ 林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力した。
  21. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、無条件降伏があくまで日本軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  22. ^ カティンの森事件については、1990年にソ連政府がスターリンの指示による犯行を認め遺憾の意を表明した。
  23. ^ 日本兵のシベリア抑留については、1992年にロシアのエリツィン大統領が謝罪した。
  24. ^ Joint Army - Navy Assessment Committee
  25. ^ 実際の戦闘に参加したものは5%に過ぎなかった。
  26. ^ アメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人に対する法的な差別の解消は、1960年代に活発化した公民権運動とそれの結果による公民権法の成立を経なければならなかった。ただし、現実の差別解消はその後数十年経った現在もなお完全に実現されたとは言い難く、法の下では平等であっても、社会の生活階層や職業階層に占める人種割合に差が残るなど世俗慣習として差別は依然として残っている。アメリカ政府はアメリカは自由で平等な国であるので、差別は国内には存在しないとしている。
  27. ^ ナバホ族の難解な言語をそのまま暗号として用いた。コードトーカー参照。

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