田中角栄 田中角栄の概要

田中角栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 04:44 UTC 版)

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田中 角栄
たなか かくえい
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 1918年5月4日
出生地 新潟県刈羽郡二田村
(現:柏崎市
没年月日 (1993-12-16) 1993年12月16日(75歳没)
死没地 東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院[1]
出身校 中央工学校卒業
前職 田中土建工業社長
越後交通代表取締役社長・会長
中央工学校校長
所属政党日本進歩党→)
民主党→)
同志クラブ→)
民主クラブ→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党→)
無所属
称号 陸軍上等兵
西山町名誉町民
一級建築士
配偶者 田中はな
子女 長男:田中正法
長女:田中眞紀子
二男:田中京
三男:田中祐
親族 田中角次(父)
田中直紀(入婿)
山科薫(甥)
サイン

第64-65代 内閣総理大臣
内閣 第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
第2次田中角栄第2次改造内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1974年12月9日
天皇 昭和天皇

内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1971年7月5日 - 1972年7月7日

第67-69代 大蔵大臣
内閣 第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
在任期間 1962年7月18日 - 1965年6月3日

第12代 郵政大臣
内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日

選挙区 新潟県第3区
当選回数 16回
在任期間 1947年4月26日 - 1990年1月24日

その他の職歴
第6代 自由民主党総裁
1972年7月5日 - 1974年12月9日
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衆議院議員(16期)、郵政大臣第12代)、大蔵大臣(第676869代)、通商産業大臣第33代)、自由民主党総裁 (第6代)、内閣総理大臣(第6465代)等を歴任した。

来歴・人物

自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。次世代のリーダーの一人として自民党総裁の座を狙っていた頃は、その膨大かつ明晰な知識と、徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた[2]。大正生まれとして初の内閣総理大臣となり、在任中には日中国交正常化日中記者交換協定金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論による日本列島改造ブームは一世を風靡したが、その政策はインフレーションを招いてこれを狂乱物価と批判していた政敵の福田赳夫を蔵相に抜擢して日本は安定成長期に入った。その後の田中金脈問題によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国航空機製造大手ロッキード社の全日本空輸への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件(ロッキード事件)で逮捕収監され、自民党を離党した。

首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたキングメーカーだったことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。また、高等教育を受けていないにもかかわらず[注釈 1]首相にまで上り詰めた経歴から「今太閤」とも呼ばれた。

道路法の全面改正や、道路港湾空港などの整備を行う各々の特別会計法など、衆議院議員として33件の議員立法を成立させ[3]、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省運輸省、大臣として着任していた通商産業省郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。

1972年8月7日の駐日アメリカ大使から本国への機密の報告書には「田中の粘り強さと決断力の源は、自らの力でのし上がってきた、その経歴にあると思われる。彼の大胆さと手段を問わないやり方は終戦直後の混乱からトップに登り詰めたことを反映している。」とある。通産大臣時代に担当した戦後初の日米貿易摩擦とされる日米繊維交渉ではアメリカに対して粘り強く交渉し、貿易戦争の瀬戸際になるまで妥協しなかったこともあった[4]

経歴

小学校卒業まで

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現:柏崎市)に父・田中角次(1886〜1964)、母・フメ(1891〜1978)の二男として生まれる。ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった[5]。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという[6]。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼い頃、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い[7][注釈 2]浪花節を練習して矯正した。

1933年昭和8年)、二田高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かった。しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが[8]、専門学校を含める専修学校1976年(昭和51年)に創設された学校制度であるため[9]、彼が学んだ当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという[10]。高等小学校の卒業式では答辞を読んだ[11]

上京

卒業後の田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた[12]旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という[13]

1934年(昭和9年)3月、「理化学研究所大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する[14][注釈 3]。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う[15]。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた[16]。一時は、海軍兵学校入校を目指して研数学館正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた[17]

1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する[17]。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた[17]。この頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了)[18] にも籍を置き、商事実務を学ぶ。

1938年(昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役たる騎兵として陸軍騎兵第24連隊への入営が通知される[19]1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く[20]。軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む[21]。入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった[22]1940年(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した[23]。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

1943年(昭和18年)12月に、事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し[24]、理化学興業(ピストンリング製造、現:リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった[24]

1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(韓国のテジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る[25]。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した[25]。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた[26][27]。田中土建工業は戦災を免れる。

国政進出

長岡鉄道社長の頃
「泥沼の政界決算白書――決算委員誌上討論會」(『文藝春秋』32巻16号、文藝春秋新社1954年10月)に掲載された肖像写真

1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する[28][注釈 4]。田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動を行ったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した[30]。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めて佐渡まで陸続きにすればよい」という演説をした[30]

1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する[31]。民主党は日本社会党国民協同党の3党連立による片山内閣与党となったが、1947年11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た[32]。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く[32]

1948年10月、芦田内閣昭和電工事件により総辞職すると、後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上するが、連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田を嫌い、幹事長の山崎猛を首班とする工作を行った(山崎首班工作事件)。しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、第2次吉田内閣が発足する[注釈 5]。新内閣で田中は法務政務次官に就任した。まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される[33]。12月12日、衆議院は逮捕許諾請求を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された[34]。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたものの、わずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした[35]。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした[35]。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した[36]。炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった[37]

再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだ[38]。その主なものとして建築士法[注釈 6]公営住宅法などがある。公営住宅法では、池田勇人蔵相に増額を説得し[39]、後に日本住宅公団が設立された[39]。また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952年に成立した[40]二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた[40]。1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした[40]

民主自由党は1950年3月に自由党となる。田中は1954年に自由党副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった[41]。1955年3月、衆議院商工委員長となる。同年11月の保守合同で自由党は日本民主党と共に自由民主党を結党する。

政界外では、長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化を実現させる切り札として要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任した[42]。田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる[42]。電化に際しての莫大な費用は国庫から捻出されたが[43]、これは大蔵大臣だった池田勇人が一肌脱ぎ[43]、池田が創設した日本開発銀行が巨額の融資を行った[43][44]。これを契機に西村は晩年まで田中の支援者となる。また、それまで大野市郎亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった[42]。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。

このほか、1953年4月には、母校の中央工学校の校長に就任している。1972年に退任。また、同じく1953年に『越山会』が誕生した。

閣僚・党幹部を歴任

首相在任時

内閣総理大臣に就任した頃の肖像写真

首相退陣後

  • 1976年(昭和51年)
  • 1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。
  • 1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。
  • 1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。
  • 1982年(昭和57年)11月 - 第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。
  • 1983年(昭和58年)
    • 10月 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。
    • 12月 - 第37回総選挙11月28日に衆議院解散(田中判決解散)。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3区から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。
  • 1984年(昭和59年)
    • 10月30日 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。
    • 12月 - 田中派内の中堅・若手により、「創政会」の設立準備が進められる[68]
  • 1985年(昭和60年)
  • 1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
  • 1987年(昭和62年)
    • 7月4日 - 竹下が経世会を旗揚げ[70]。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。
    • 7月29日 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告
    • 10月 - 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。
    • 11月 - 竹下内閣が発足。
  • 1989年(平成元年)10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。
  • 1990年(平成2年)
    • 1月24日 - 衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。
    • 2月 - 第39回総選挙。元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。
  • 1992年(平成4年)
    • 8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
    • 12月 - 経世会が分裂。
  • 1993年(平成5年)
    • 7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
    • 12月16日 - 慶應義塾大学病院にて午後2時4分に痰が喉につかえたことからくる肺炎のため75歳で死去[1]戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物には正二位大勲位菊花大綬章以上に叙されることが慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため位階勲章は与えられなかった。

没後


注釈

  1. ^ 正規の学歴は高等小学校卒。その後、当時は各種学校の扱いであった中央工学校の夜学に通い卒業している。
  2. ^ 田中がのちに『私の履歴書』に記したところでは、2歳のときにジフテリアに罹患したことが原因と祖母から聞いたという[6]
  3. ^ 馬弓良彦著『人間田中角栄』(ダイヤモンド社)には「旧制海城中学校に編入する予定で上京した」と、書かれているが、田中自身が長い政治家人生の中でそのような発言をしたことは皆無であり、上京直後に井上工業に入社していること、また、過去に田中自身が「家が貧乏だったから高小を出たらスグに働かなくてはならなかった」と述べていること等から、当該部分は創作である可能性が高い。
  4. ^ 大麻の献金要請は、進歩党党首をめぐって宇垣一成町田忠治が対立し、その仲裁として大麻が「先に300万円作った方を党首にする」と提案(大麻は町田を推していた)したことに由来する[29]
  5. ^ 戸川猪佐武の『小説吉田学校』では、この過程で田中は山崎首班の動きに対して党総務会で「いくら占領下でも露骨な内政干渉が許されるのか」と吉田らに訴えたとされる。
  6. ^ 田中はこの法律による一級建築士資格取得者である。建築士登録が「第1号」であるとする逸話については建築士#その他 2を参照。
  7. ^ これについては確かに田中と小佐野は親しい間柄で仕事上では懇意にしていたものの「刎頚の友」とまで言える間柄ではなかったと秘書であった早坂茂三や佐藤昭子の著書には著されている。早坂によれば、田中が上京後に働いていた井上工業からの知り合いだった入内島金一が唯一の「刎頚の友」であったという。立花隆によれば、1973年(昭和48年)の国会答弁で田中が入内島金一について「この世の中にある三人の一人であるというぐらいに刎頸の友である」[103]と発言したことから、マスコミ関係者の間で残る2人についての詮索が行われ、その結果、小佐野賢治と中西正光が候補者として挙がり、入内島と中西はマスコミへの露出が少なかったことから、小佐野が「刎頸の友」として有名になったものという[104]
  8. ^ 山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日)によれば自自公連立政権樹立前の1998年8月中旬、竹下登元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けたとある。
  9. ^ 実刑確定になれば、公職選挙法第11条・第99条及び国会法第109条により国会議員を失職し、刑期満了まで国会議員となることができない。
  10. ^ 小説吉田学校にはゴルフをしながらのやりとりとして書かれている

出典

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