後藤田正晴
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後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年〈大正3年〉8月9日 - 2005年〈平成17年〉9月19日)は、日本の警察官僚、政治家。位階は正三位。
注釈
- ^ 徳島では海浜の住民を海部族と呼び、山地の住民を忌部族と呼ぶ[3]。
- ^ 後藤田の水戸高に対する思い入れは深く、東大紛争のときに「東大なんて、いくら閉鎖されても、どうということはない。母校とも思わんし、一つの官庁みたいなもんだからほっといてもいいんだ。だけど水戸のガラス一枚でも割ってみろ。本部長に命じて全員を検挙する」と言い放った[4]。
- ^ そこで教えられたのは、「糧は敵に依る」という言葉や物資は戦地で調達するという軍の方針であり、後に後藤田は現地での軍票の乱発などを踏まえて「中国が怒るのは無理ない」と振り返っている[19]。
- ^ 後藤田は最後となった訪中で清華大学で講演した際にこのエピソードに触れ、「部下の中には台湾人がたくさんいて、とても仲が良く、私は日本人と台湾人ということで何の隔たりも感じていなかった。日本人は、台湾の統治は朝鮮とは違うと思っていた。温和な統治であったし、台湾人も十分協力的であった。しかし一九四五年八月十五日、日本が敗戦した日のことである。日本人が運命に困惑し、悲しみの淵に落とされたその晩、台北の町には爆竹が鳴り響き、人々は手に手を取って踊り、勝った!勝った!と喜びの声を上げていた。これで私は夢から覚めた。武力で異民族を統治するのは所詮無理な話であると完全に悟った。なぜなら彼らの心までは征服できないからだ。これは私のような、台湾人に対して差別的感情がない者で、台湾人のことを信じきっていた日本人を震撼させる現実だった」と語っている[26]。
- ^ 一方で、日本軍から引き渡しを受けた糧秣を強奪しに来た現地人に対し国民政府軍が発砲する事件が頻発しており、後藤田は後の二・二八事件の遠因ともなっているとの見解を示しながらも、「盗りに来るのが悪い」「中国の軍隊が日本軍から接収したんだから、台湾住民のものではない」と述べている[30]。
- ^ 台湾に配属されて間もなくチフス罹患の疑いで「あの病棟から生きて出てくるやつはいない」といわれた台南陸軍病院の病棟にチフス患者と一緒に隔離されたが、たまたま後藤田がチフスの熱型を知っていたことや院長とのコネもあって誤診とわかり、中隊に復帰することができた。台湾とフィリピンを船で往復した際には行きも帰りも魚雷攻撃を受け、汽車での移動中に米軍機から機銃掃射を受けたこともある。戦争末期に陸軍省の会議に出席するために東京に行くことになり当初のルートは沖縄経由であったが、敵機の行動半径や行動傾向を踏まえてより危険度が低いとおぼしき大陸経由のルートの便への搭乗を願い出た。果たして当初搭乗する予定であった沖縄経由の連絡便は撃墜され、陸軍省に出頭した後藤田は「お前ら生きておったのか」と驚かれた。空襲の際に防空壕に入るのが面倒になり同宿の中佐の誘いを受けて避難をしないでいたところ、避難するはずであった防空壕が直撃弾を受けて中にいた者が死に、結果として生き残ったこともある[33]。
- ^ 鈴木俊一が後藤田について「軍務勤務はあるが、主計の将校として通常の業務をこなしていただけで、諜報謀略とは無縁だ。六年間、兵役に行っているため、内務省の色もついていない」とGHQに報告したこともあって、公職追放は免れた[35]。
- ^ 自分は戦争に協力していないとして、別の者に責任を押し付けて逃れようとする者が跡を絶たなかった[39]。
- ^ 職員組合委員長としての後藤田の働きに着目した内務省人事課長の石井榮三の推薦によるものとも[41]。
- ^ これは国家公安委員長であった正力松太郎の指示によるものであった[49]。
- ^ 後に後藤田は収益還元の評価額のほうが公正で、売買時価にしたのは失敗であったと述べている[53]。
- ^ 後藤田の才能を惜しんだ小林が、後藤田を将来政界に送り出すことも視野に、自らの退官による玉突き人事で空になる財務局長に後藤田を据えてゆくゆくは次官にしようとした。これに対し前警察庁長官の石井榮三は「このワシが将来の警察庁長官にしようと十年がかりで養成したんだ。(警察庁に)返せ」と自治省に抗議し、警察への復帰を望む後藤田も自治省への登庁を拒否して自宅でストライキをする騒動にまで発展したという[56]。
- ^ 三島事件に対する後藤田の評価は「世相の一断面には違いない。が、異常な行動であり、一過性の事件だ」というもので、[58]。
- ^ 警視庁警務部長の土田國保私邸への爆弾テロを受けて、「今日からお宅に警察官を配置し、長官には警備課のSPを二十四時間つけます」と佐々が申し出たときには、「いらんッ、君はまちがってるよ。ワシを守る余裕があったら犯人をつかまえろ!!」と激しく叱咤した[63]。
- ^ 当時の慣例では、後藤田の前職であった警察庁長官の方が格が上であった[66]。
- ^ 後藤田と久次米は姻戚関係にあたる。ただし血縁関係はない[72]。
- ^ 後藤田は徳島の選挙区からあえて立候補した理由について、当時の慣習として警察幹部は自分の出身県以外からの立候補をしないこととされていたことや、記名式である全国区で出れば全国の警察官に迷惑を掛けることへの配慮があったことを上げている[67]。
- ^ 第4次防衛力整備計画策定の際、田中首相・後藤田官房副長官・相沢英之大蔵省主計局長の三者が防衛庁不在で次期対潜哨戒機(PX-L)の国産化を白紙にして輸入に決定したと久保卓也防衛次官が発言。対立候補や警察官僚時代の後藤田に取り締まりを受けていた共産党は、これを利用して選挙区で後藤田の「ロッキード疑惑」を喧伝した。これについて後藤田は防衛庁の業務日誌や自身が保管していた記録から事実無根であると抗弁。防衛庁は久保を訓戒処分にしてPX-Lの国産化という前提はなかったと調査結果を発表し、久保も陳謝文を後藤田に提出した[2][77][78]。
- ^ 前回の参院選での「金権」のイメージを気にしていた後藤田が選挙資金を扱う役目以外にして欲しいと西村英一に申し入れたことから、東京都での票集めを担当した[81]。
- ^ 第1次大平内閣の時点で入閣の打診があったが、田中派の有力議員から後藤田が初当選であることを理由に辞退を求められて応じたところ、その議員に閣僚ポストを取られている[84]。
- ^ 中曽根は平沢勝栄に「なぜ後藤田さんのような一言居士で口うるさく、使いにくい、煙たい人物を官房長官に起用したのか」と問われた時、「理由は二つ。一つは行政改革を断行するには、てきぱきと判断できて官僚を抑えられる人物が必要なこと。もう一つは、関東大震災級の震災が起きた場合の危機管理ができる政治家は後藤田さん以外にいないと考えたからだ」と答えている[86][87]。
- ^ この事件への対応で後藤田は自衛隊の機密情報であったソ連軍通信の傍受記録を公表する決断を下すとともに、航路を逸脱して事件を誘発し日本人の犠牲者を出した大韓航空の責任を追及している[88]。
- ^ 70歳を間近にしたころ総理の座に挑戦しないか問われたときに、「もっと若ければ、総理をめざすさ。しかし、いまからだと相当無理をしなければならん、無理はよくない。だから、参謀ということでいいじゃないか。刀を持ってやあやあと人前出るのは好きじゃない」と答えている[92]。
- ^ 坂本敏夫は、後藤田が死刑執行再開に踏み切るきっかけとなった可能性がある事件として、その約1年前(1992年3月)に発生した市川一家4人殺害事件を挙げている[95]。
- ^ 政界進出後の後藤田は「そんなことしたら、票が減る」と"カミソリ"と呼ばれるのを嫌い、「ワシは女性票が取れなくてね」とかつての峻厳なイメージが残っていることを気にかけていた[97]。
- ^ ただし、大甥の後藤田正純は"二世ではない"として選挙支援をしている[99]。
- ^ 後藤田の死後、当時民主党代表の前原誠司は国会質問でこの発言を引用した[101]。
- ^ 保阪正康は、ソ連側に寝返ったエリート軍人の姿を、当時の若手官僚たちに見せつけようとしたGHQの意向によるものだろうとしている[121]。
- ^ 災害派遣については、後藤田は国民の理解を得ることを企図して警察予備隊発足当初から構想していた。自衛隊による積極的な奉仕活動についても、民間の職場を奪わないことと市町村の負担軽減及び部隊の練度向上のバランスを図りながら推進した[131]。
- ^ 2017年に朝日新聞は「『憲法9条の改正は不要』とのちに語っていた」と後藤田の写真に説明文をつけた憲法の特集記事を掲載しているが[134]、「賞味期限」発言は晩年にあたる2004年に沖縄での講演においてなされたものであり、矛盾する[135]。
- ^ 清華大学での講演で「台湾人は台湾人であっても、心はそれぞれ福建人、広東人、客家人、であり、それはつまり中国人だということである。台湾人の心は、自分は中国人であり、自分の祖国は中国であり、中国はひとつの国家だということである」と述べている[26]。
- ^ 後藤田曰く「田舎のオッサン風でよく面倒を見てくれた。頭のクリアーな人だった」[162]。
- ^ 町村の後藤田への人物評は「一級の人物であることは間違いないよ。(中略)ただ、政界で大将といえば、総理だろう。それほどの人物かどうか……。オレには判断しかねる」というものだった[92]。
- ^ 羽田孜農林水産大臣を「はだしゅう」、鈴木省吾法務大臣を「すずきしょうご」、河野洋平科学技術庁長官を「かわのようへい」、江﨑真澄総務庁長官を「えざきますみ」[202]。
- ^ 後藤田自身は自分のことを「両生動物」と呼んでいた[211]。岡崎英城や丹羽喬四郎との繋がりがあったことから、「特高系統」と目されることも多かった[212]。
- ^ 第39回衆議院議員総選挙のときには、「仙谷に負けたくない」と言って佐々に依頼して選挙区での応援演説をさせている[99]。
- ^ 帰師勿遏、囲師必闕、窮寇勿追
出典
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