内務省入省
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)
1938年4月10日、当時一流官庁とされていた内務省に入省。なお、内務省入省同期には同郷の海原治(後に防衛官僚の事実上トップに君臨し「海原天皇」と呼ばれる)と平井学(後に建設省官房長)がおり、将来を嘱望されて「徳島三羽ガラス」と呼ばれた。 内務省の振出し配属は、土木局道路課兼港湾課見習いであった。このときの直属の課長は灘尾弘吉で、後藤田の教育役となったのは内務事務官の細田徳寿であった。1940年1月31日に細田の招きで富山県警察部労政課長に出向。労務報国会の組織や労働災害の認定などを担当した。
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