警察官僚から防衛官僚へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 05:09 UTC 版)
兵庫県武庫郡(後の神戸市)出身。1938年旧制灘中学、1941年に第三高等学校文科乙類、1943年9月に東京帝国大学法学部政治学科をそれぞれ卒業。内務省入省(大臣官房属)と同時に海軍経理学校に入校し、軍令部第3部所属の海軍主計大尉として終戦を迎える。 復員後は長崎県庁、大分・熊本両県警察での勤務を経て、内務省解体後の1948年に国家地方警察本部に異動。神奈川県警察本部警備部長などを経て、1952年に保安庁保安局に出向する。防衛研修所の内局研修生を経て警察に戻り、警視庁警備課長、第1方面本部長を歴任。砂川事件の鎮圧を担当した。さらに警察庁交通局長として「交通戦争」時代の交通行政に対処し、スクランブル交差点、歩行者天国などを導入した。 防衛官僚としては一次から四次までの長期防衛力整備計画の策定に何らかの形ですべて関与し、1972年の第4次防衛力整備計画策定時には防衛局長を務めた。また、局長時代には沖縄返還後の沖縄の防衛責任分担についてウォルター・L・カーティス2世駐日大使館軍事問題上級代表(海軍中将)と交渉を行なっている。 カーティスとの交渉では沖縄の地上防衛・防空・海上防衛、哨戒および捜索、救難を自衛隊が引受けることが合意された。合意内容は1971年6月29日の日米安保協議委員会(SCC)で承認を受け、「沖縄の直接防衛責任の日本国による引受けに関する取決め(久保・カーティス協定)」という日米の政府間合意に結実することとなる。
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