砂防技術の普及
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大学卒業と同時に、内務省入省、大阪土木出張所管内にある滋賀県田上山の山腹工事に従事、その後、吉野川の砂防工事に携わるが、現場の経験を通して日本の砂防技術を発展させる必要性を痛感し自費で1923年(大正12年)オーストリアのウィーン農科大学に留学する。2年間の留学期間中水理実験や欧州各国の砂防現場で学んだ成果を得て1925年(大正14年)に帰国する。 帰国後内務省に復帰し、全国の砂防事業を統括する立場となるとともに、初代立山砂防工事事務所長として、常願寺川の白岩砂防堰堤(重要文化財)の建設を指揮する。また山腹工に渓流砂防を取り込んだ流域全体での砂防計画を確立し、砂防事業を計画的に実施するため1927年(昭和2年)に砂防工事計画書を統一、さらに1936年(昭和11年)には日本で初めての砂防工事全体計画書を策定するなど日本の砂防の基礎を築いた。 その一方で、1926年(大正15年)から1945年(昭和20年)まで京都帝国大学農学部、1929年(昭和4年)からは日本大学工学部において、講師として砂防工学の講義を行い、若き砂防技術者の育成にも力を尽くした。 1935年(昭和10年)京都大学より農学博士号を得る。論文の題は「我国の砂防工法に就て」。
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