砂防事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:37 UTC 版)
利根川流域では浅間山、赤城山、榛名山、男体山など多くの火山が存在し、これらが活発な火山活動を繰り返すことで火山灰などの堆積物や風化しやすい花崗岩、安山岩などの地質を形成している。また褶曲(しゅうきょく)や断層などが複雑に入り組み、河川による侵食もあって堅固とはいえない状態である。このため崩壊、禿(とく)しょ(はげ山のこと)地、滑落崖地の増大といった山地の荒廃が進んでおり、利根川水系では谷川岳周辺、男体山・赤城山・足尾、浅間・草津白根一帯が「重荒廃地域」 に、日光・上信越、多野・秩父地域が「一般荒廃地域」 として国土交通省砂防部より指定されている。 利根川流域の土砂災害で顕著なものとしては1783年(天明3年)の浅間山大噴火による吾妻川火山泥流災害(死者1,500人以上)、1910年の明治43年8月洪水による吾妻川・烏川流域の土石流災害(死者212人)、1935年(昭和10年)9月の烏川土石流災害(死者51人)、カスリーン台風による赤城山土石流災害(死者420人)が挙げられる。また渡良瀬川流域では足尾銅山から排出される亜硫酸ガスによる煙害や鉱石巻上げの動力源として薪炭を使用するための森林乱伐、さらに1887年(明治20年)4月8日の松木大火 によって源流部は草木が全く生育しない禿しょ地になっていた。このため洪水による土砂被害は著しく現在の渡良瀬遊水地付近にあった赤麻沼は堆砂が激しくなった。日光の大谷川流域では稲荷川を中心とした男体山系の崩壊が著しく、1902年(明治35年)には足尾台風による大谷川・稲荷川の土砂災害や洪水で死者156人を出し、日光東照宮の神橋が流失した。以後も大雨による土砂災害が反復して襲ったほか、1949年(昭和24年)12月には直下型の今市地震が発生し思川上流域で425箇所におよぶ土砂崩落が発生した。そして鬼怒川上流部では現在の五十里ダム上流部に当たる海尻付近で1683年(天和3年)10月20日に発生した南会津地震 により、男鹿川右岸の葛老山が380万m3に及ぶ量の地滑りを起こし、高さ70mの天然ダムが誕生。ダムは40年にわたり男鹿川を堰き止めその総貯水容量は6400万m3と現在の五十里ダムよりも大きい貯水池を形成し、付近の五十里集落が水没する被害を出したほか1723年(享保8年)9月9日集中豪雨によってダムが決壊、現在の宇都宮市にまで濁流が押し寄せる被害を与えている。 こうした土砂災害を防ぐべく、明治時代より国主導による砂防事業が利根川流域でも実施された。記録上では1882年(明治12年)に内務省土木寮利根川出張所が榛名山で行ったのが初出だが、1897年(明治30年)3月砂防法が施行されると本格的な事業となった。その端緒となったのが栃木県営で実施された日光の稲荷川砂防事業が1899年(明治32年)より3年間継続実施され、巨石積の砂防堰堤が建設されている。しかし1902年(明治35年)の台風で砂防ダムはことごとく破壊され、日露戦争もあって中断を余儀なくされた。1919年(大正8年)には同じ稲荷川で利根川水系初となるコンクリート製の砂防ダム、稲荷川第二砂防ダムが建設された。また1937年(昭和12年)には日向砂防ダムが完成するが、戦後2度にわたるかさ上げを行い高さ46m、計画貯砂量150万m3の巨大砂防ダムとなった。また大谷川本流には床固工54基に及ぶ大谷川中流流路工を1971年(昭和46年)に建設。蛇行した流路の直線化も行い大谷川下流の土砂災害を防いでいる。さらに男体山には大薙山腹工を建設し男体山東南斜面の地滑りを防ぐ工事を行っている。 足尾銅山周辺の渡良瀬川上流域では足尾鉱毒事件の社会問題化もあり政府は古河鉱業に対し鉱毒予防命令を出し、1897年(明治30年)から9ヵ年にわたる土砂災害防止対策を行わせた。しかし植林は全て失敗し禿しょ地は改善されない傾向が続き根本的な砂防対策が求められ、1936年(昭和11年)足尾砂防ダム計画が立案された。高さ37m、計画貯砂量500万m3という日本最大級の砂防ダム計画は1950年(昭和25年)に着工され、1967年(昭和42年)に完成する。この他烏川、神流川、片品川、赤城山渓流などで国土交通省や流域自治体による砂防事業が継続的に実施されている。これにより大規模な土砂災害は減少したものの、足尾銅山の煙害などによる渡良瀬川上流の植生は未だ完全な回復を見ていない。
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