砂防の始まりから江戸時代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:04 UTC 版)
「庄内砂丘」の記事における「砂防の始まりから江戸時代中期」の解説
1000年以上前から飛砂防止のための施策が行われていたといわれている。中世ころまでこの砂丘は広葉樹が生い茂る森林で覆われていたが、戦国時代から江戸時代初期にかけての兵火や、製塩の薪材などとして無計画な乱伐が繰り返され、伐り尽くされてしまったといわれている。当時、庄内藩が沿岸集落に塩を現物税として課したため、庄内の沿岸各集落では製塩が盛んに行われていた。当時の製塩法は、海水を煮詰めるために大量の薪を必要とし、流木の他に、砂丘にあった自然植生の樹木が伐採され使用された。やがて樹木は枯渇し、上流から製塩用の薪が水運で運ばれるようになり、この薪は「塩木」と呼ばれた。江戸時代中期ころその荒廃は極に達し、植生を失った砂丘は砂を吹き上げ、飛砂によって田畑や溝堰は埋まり、河口の埋没による連年の洪水で人々の生活は困窮し、家屋の移転を余儀なくされて廃村となるものもあったと言い伝えられている。
※この「砂防の始まりから江戸時代中期」の解説は、「庄内砂丘」の解説の一部です。
「砂防の始まりから江戸時代中期」を含む「庄内砂丘」の記事については、「庄内砂丘」の概要を参照ください。
- 砂防の始まりから江戸時代中期のページへのリンク