砂防として確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 07:15 UTC 版)
明治30年(1897年)砂防法施行に伴い山地そのものの防護を重視し、明治35年(1902年)からの積苗工・谷留石積などの山腹工事、加えて新たな砂防堰堤が施工された。こうして、江戸時代の砂留と近代以降の砂防施策が複合的に機能することでこの地域の土砂災害対策が実現した。 なお日本の土木史ではこの時期、お雇い外国人のジョージ・アーノルド・エッセルやヨハニス・デ・レーケが来日し特にデ・レーケの指導によって、あるいは海外で学んで帰国した田辺義三郎ら日本人技師によって、各地に砂防堰堤が整備されている。例えば、京都府木津川市のデ・レーケ堰堤・滋賀県大津市の鎧ダムおよびオランダ堰堤あたりがそれにあたる。これら近代に海外からの技術導入により作られた砂防堰堤と福山の砂留は構造に共通点があるため、これらの堰堤のルーツは福山の砂留にあるという説もあるが、両者を関連付ける資料は存在していない。それどころか福山の砂留は戦後になるまで砂防学会で全く取り上げられておらずこの地域以外では存在すら知られていなかった。したがって福山の砂留は、中世から続いた日本の石垣積の技術から試行錯誤を繰り返し独自に進化していった砂防堰堤であり、近代において海外からの技術導入によって造られたものとは別の歴史を歩んできた砂防堰堤である。 これら砂留は嵩上・増築しながらも現在立派に機能している。近年でいえば2016年平成28年6月梅雨前線豪雨において備後地方を記録的な豪雨が襲ったが、土砂災害が発生することなく砂防堰堤として機能を果たしている。
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