内務省に戻り、書記官、石川県令、岡山県令、貴族院議員を歴任
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明治11年3月勧農局事務取扱を命じられ大久保利通の内旨により士族授産の計画に参画。 明治13年2月24日 石川県令 (第三代)に就任(明治16年1月19日退任)。石川県令時代には、日本初の銅像であるヤマトタケル像を兼六園に建立。また、地元藩士の飛鳥井清に官金を授けて九谷焼の復興に協力するなどした。 明治16年 石川県令退任後、内務大書記官として戸籍局長 明治17年12月22日 岡山県令(第四代)に就任(明治19年7月19日初代知事)岡山県知事時代には、児島湾干拓事業を一方的に藤田伝三郎に許可したことで地元から猛反発を受け、10年以上に渡る紛糾を引き起こした。また、受洗した娘つる(千坂光子)のためにミッション系女学校(現・ノートルダム清心女子大学)の設立に協力する一方、婦人運動家として知られる福田英子(当時は景山英子)が設立した私塾「蒸紅学舎」を集会条例を使って一方的に閉校させるなどした。 明治27年9月19日 貴族院議員に勅選 明治27年9月21日 岡山県知事退任 実業界では両羽銀行、宇治川水電、横浜倉庫などの重役を務めた。横浜市神奈川区の千若町は、埋立事業者であった横浜倉庫初代代表取締役社長の千坂と同社専務の若尾幾造の頭文字から名付けられた。 明治31年(1898年)4月11日、錦鶏間祗候に任じられた。 明治31年8月「米沢有為会」初代会長に就任。 大正元年12月3日に死去、享年72。墓所は山形県米沢市の日朝寺と大田区の池上本門寺。 池上本門寺に埋葬。
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