内務省地理寮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 23:31 UTC 版)
「コリン・アレクサンダー・マクヴェイン」の記事における「内務省地理寮」の解説
マクヴェインは人員と器機装置が揃ったところで、自らの指揮の下にシャボーを測量担当、ジョイナーを気象担当、ライマー・ジョンズを学校担当にしよう想定していた。 マクヴェインが一時帰国している最中に、測量司は内務省に移管され、そこには旧大蔵省土木寮から新たな職員が加わっていた。河野に5ヵ月遅れてマクヴェインが1874年5月に帰任すると、内務省測量司は混乱を極めていた。河野の辞職、工部省測量司以来の職員と新たに加わった旧幕臣技官との対立、旧幕臣技官による御雇い外国人排斥運動、それにハーディの職務怠慢事件が重なり、改組の中で村田とジョイナーは局内を統率できずにいた。 1874年5月24日にイギリスで購入した各種機材が横浜港に到着し、また同年7月1日にシャボーが来日したが、内務卿大久保利通は全国測量事業に消極的で、測量司を地理寮の量地課に縮小改組し、また課内の指示系統は混乱した。そのような中で、徐々に関東地方の三角測量、神戸-大阪-京都測量、気象観測、金星の太陽面通過観測の準備を始めた。 内務省地理寮量地課の金星日面通過観測は、太陽光記録計(サーモグラフ)の発明で知られるジョン・フランシス・キャンベル (John Francis Campbell) の指揮により成功した。キャンベルはマクヴェイン夫妻と旧知の間柄であったことから、1874年11月に世界旅行の途中に日本に立ち寄った。自ら観測器機装置を持参し、足りないものは急場しのぎで作製しマクヴェインとともに御殿山に観測所及び撮影所(カメラ・オブスキュラ)を設営した。 気象観測は、1875年5月、チャレンジャー号(海洋探検)のチャールズ・ワイヴィル・トムソン (Charles Wyville Thomson) 隊長他の指導により公式に実施できるようになった。トムソンはマクヴェインの妻のメアリの兄姉と大変親しくしており、大和屋敷のマクヴェイン家に1週間にわたり滞在し、副隊長のトマス・ティザード (Thomas Henry Tizard) とともにマクヴェインらの気象観測に助言した。。そして、マクヴェインは半年後の同年12月2日付で最初の気象観測レジスターを公表した 。 1875年5月、佐賀の乱を鎮圧し、西南戦争に備える内務卿大久保利通は省内各署の予算削減をめざし、全国測地測量を諦めて要地測量に重点を移すことに、また、外国人職員の雇用契約を更新しないことに決めた。マクヴェインは、1875年の暮れに満期を迎える部下たちの一年延長を大久保に訴えたが翻意はなく、自分だけ残ることはせずに早期退職をした。 1875年7月に内務省庁舎と地理寮建物が全焼し、測量野帳や地図原本、さらに測量観測器機も失ってしまった。気象観測器機は大和屋敷の旧官舎に設置してあったため、無事であった。工部省測量司(建築営繕を含む)時代からの文書が焼失したため、マクヴェインの業績が顧みられることはなかった。 鳥類学者ヘンリー・イールス・ドレッサー (Henry Eeles Dresser) から日本の野鳥標本を頼まれ、数十種類を送った。
※この「内務省地理寮」の解説は、「コリン・アレクサンダー・マクヴェイン」の解説の一部です。
「内務省地理寮」を含む「コリン・アレクサンダー・マクヴェイン」の記事については、「コリン・アレクサンダー・マクヴェイン」の概要を参照ください。
- 内務省地理寮のページへのリンク