教育・製塩技法改良への情熱
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「小野友五郎」の記事における「教育・製塩技法改良への情熱」の解説
出獄後はしばらく自宅謹慎となるが、製塩技術の改良に興味を抱き、研究を行っている。明治3年(1870年)正月、海軍省から出仕要請を受けるが、固辞。同年4月、民部省への出仕に応じ、准十二等。翌月准十等に任用。同省が手がけていた鉄道建設のための測量業務に佐藤政養と共に従事。以後は海軍畑から離れ、民生方面へ業務に情熱を注ぐ。工部省発足後は同省へ移り、引きつづき鉄道業務に携わった。 数学教育にも熱心で、明治6年(1873年)には文部卿大木喬任に、前年の学制発布で廃止された珠算の復活を建言し、実現する。洋算を教えられる教師が少なかったため、教育現場が混乱していたためである。洋式数学の教師が育成されるまで当分の間珠算を教えることとなった。一方で西洋式数学の普及にも努めた。 明治9年(1876年)には、国土測量と観測事業を担う内務省地理寮量地課を縮小廃止しようという内務卿大久保利通に対し、天文観象台を充実するように建言。明治10年(1877年)1月退官し、家督を養子熊次郎に譲って隠居となる。千葉県周淮郡大堀村(現:君津市)の塩田跡地を借り受け、官許の下製塩事業を開始、明治12年(1879年)竣工、翌年から試験操業を開始した。 明治23年(1890年)には旧幕臣栗本鋤雲らとともに、文部大臣芳川顕正に対し、漢字制限の提案を行っている。明治26年(1893年)には尋常小学校用の教科書『新撰洋算初歩』を編纂。 明治31年(1898年)8月、82歳の高齢ながら兵庫県印南郡大塩村で炎天下で、天日製塩の実地講習を行っている最中に病に倒れ、帰京後没する。法名観月院殿塩翁広胖居士、墓は茨城県笠間市。 大正7年(1918年)、正五位を追贈された。
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