新潟県第3区 (中選挙区)
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新潟県第3区(にいがたけんだい3く)は、かつて存在した衆議院の選挙区。1947年の第23回衆議院議員総選挙から設置された。廃止時の定数は5。
- ^ 同市は北朝鮮による日本人拉致事件の発生現場であるが、当時はこの問題が選挙の争点になる事はなかった。
- ^ 1976年にロッキード事件で逮捕された際に離党して無所属となったが、その影響力は脳梗塞発症まで自民党内・党外に広く及んだ。
- ^ この地区は1950年制定の国土総合開発法で只見特定地域総合開発計画の対象地区となった。国土総合開発法の制定に田中は深く関与している。
- ^ 位置的には戦後の新潟3区と新潟2区の一部が版図。
- ^ 1949年の第24回総選挙で、新潟2区から当選していた。
- ^ 同じ右派でも、三宅が戦前からの農民運動家で右派社会党に籍を置き続けた一方で、小林は平野力三系で社会革新党から右派社会党へと入党した。
- ^ この時は稲村順三が告示直前に急死し、実兄の隆一が立候補。トップ当選を果たした。
- ^ この時三宅が落選し、これ以降社会党は当選者が1人にとどまる。
- ^ a b c 池田信夫『「強すぎる自民党」の病理 老人支配と日本型ポピュリズム』(PHP新書)「第4章 田中角栄の生んだバラマキ福祉」「田中の「超自然的な強さ」の源泉」
- ^ a b 蒲島郁夫『戦後政治の軌跡――自民党システムの形成と変容』 (岩波人文書)
- ^ 父・相如は、戦前に官選で任命された新潟県副知事を務めていた。
- ^ 2位の社会党の坂上富男が7万2千票、最下位当選の村山が5万票弱。
- ^ “衆議院トップページ >立法情報 >制定法律情報 >第007回国会 制定法律の一覧 >公職選挙法 法律第百号(昭二五・四・一五)”. 衆議院 (1950年4月15日). 2022年1月23日閲覧。地名は1950年(昭和25年)当時のものである。
- ^ 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第27回』衆議院事務局、1955年、231頁。『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年、170頁では下条恭平。
- 1 新潟県第3区 (中選挙区)とは
- 2 新潟県第3区 (中選挙区)の概要
- 3 選出議員
- 4 選挙結果
- 5 脚注
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