エピソード、その他
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「陽あたり良好!」の記事における「エピソード、その他」の解説
放送されていた日本テレビ系日曜20時台は、『青春とはなんだ』に始まる「青春シリーズ」の枠であり、日曜20時台における学園青春ドラマは「(1978年の『青春ド真中!』以来)4年ぶりに復活」とも紹介されている。プロデューサーは「内容的にもこれまで手掛けた『青春シリーズ』の延長線にある作品で、“夢よもう一度”で決まった企画」であると話していたことがある。 高杉勇作、岸本かすみと村木克彦の三者の関係がストーリーの軸の一つであるが、最終話において原作やアニメ版よりも三角関係の明確な答えを出している。 原作では語られることが少なかった相戸誠と水沢千草であったが、彼らがクローズアップされる話もある。 原作では「明条高校まで徒歩5分」ということ以外はわからない下宿であるが、ドラマ版では第1話から「ひだまり荘」と名付けられており、住所は「東京都大田区玉川田園調布」と表記されている。田園調布駅周辺を舞台にしたストーリーも進行した。 高杉勇作と美樹本伸の部屋は第2話から交代になる。その理由は美樹本伸の特殊な趣味のためである。 原作、アニメでは制服がある「県立明条高校」であるが、ドラマ版では私服の「明条大学附属明条高校」である。 岸本かすみ役は当初は違う女性アイドル(沢村美奈子)が起用されていて、それで製作発表、および第一話の撮影もされ始めていたが撮影中に所属のレインボー側スタッフが撮影スタッフとトラブルを起こして降板。急遽、伊藤さやかが抜擢された。伊藤の述懐によれば、出演依頼のあった翌日には彼女の撮影がもう始まったらしい。 主人公・勇作は、長崎出身(主演の竹本孝之の出身でもある)で兄・晋作(高杉晋作に引っ掛けた名前)がいるというものや、原作ではただ暗いだけで謎のキャラクターだった相戸誠が、こちらでは医学部を目指す秀才で皆の知恵袋として描かれているなどかなりドラマ独自の設定がなされている(このうち、勇作が九州に関係している設定はアニメにも引き継がれ、祖父が九州にいることが語られている)。 1980年代には全国でたびたび再放送が行われていたが、日本テレビ(関東地区)では、大韓航空機撃墜事件(1983年9月1日)、日本航空123便墜落事故(1985年8月12日)の日に、同じ回の再放送が予定されていた(前者は報道特番のため順延、後者は事故発生前だったため予定通りに放送された)。 坂本の名前は「まさお」(第9話本編より)、中村の名前は「とおる」(第12話本編より)、野球部監督は「さかい」(第13話本編より)であるが、漢字表記は不明。 2020年6月19日より毎週金曜12:00から2話連続で日テレプラスで再放送された。 2021年現在動画配信サイトの配信は今のところ予定はない。
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エピソード、その他
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2019年4月26日放送のフジテレビ「ノンストップ」にて最新のユニーク就活サービスとして社長メシが紹介された際に、社長メシの落とし穴として「緊張からお酒を飲みすぎて陽気になりすぎる」という点が挙げられた。 2019年8月17日 京セラドーム大阪にて元高校球児を中心とした社長メシチームと、試合前のスピードガンコンテストで最速の球速を出した1チームで親善試合が行われた。 学生が社長から食事代を支払ってもらった際の金額やサービスにおける売り上げの5%を「社長メシ基金」とし、高校生や児童施設に通う子どもたちなどに経営者が語る場を設ける「社長塾」開催の実現を目指している。 2019年9月20日放送のNHK「おはよう日本」にて社長メシが取り上げられた際には「社長に会って話聞けます」というサブタイトルがついた。社長は学生の本音に触れる事ができ、学生はビジネスのノウハウを聞ける学びの場所となっていると、実際に食事会をしている現場の取材映像とともに紹介された。 2019年10月4日放送TOKYO MX「モーニングクロス」の特集では恵比寿で開催された食事会が取り上げられた。食事会を開催した社長がインタビューにて「人材を確保するためだけにやると考えたら非効率な部分もあると思うが、就活生がどういう感覚を持っているか人生の先輩である経営者が少ししゃがんだ目線で聞いて得るものがある。そのおまけとして採用ができるのであれば尚良い。」と語った。 2019年11月26日 自治体が地域の魅力を就活生に直接伝えるイベント「市長メシ」を初開催した。第1回の自治体のトップとして「市長メシ」に参加したのは、岡山県笠岡市の小林嘉文市長である。
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エピソード、その他
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「アンドレ・ザ・ジャイアント」の記事における「エピソード、その他」の解説
その巨体ゆえに投げ技をかけられることはほとんど無かったが、ハルク・ホーガンやスタン・ハンセン、ハーリー・レイス、ローラン・ボック、カネック、ブラックジャック・マリガンなどのレスラーによってボディスラムで投げられている(マリガンは日本では報じられることはなかったが、1982年9月18日、WWFのフィラデルフィア大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている)。日本人で成功したのはアントニオ猪木、長州力、ストロング小林の3人のみである。アンドレをボディスラムで投げることがレスラーのステイタスだった時期もあった。ブルーザー・ブロディもオーストラリアで投げたというが、これは非公式記録となっている。カール・ゴッチはモンスター・ロシモフ時代のアンドレをジャーマン・スープレックスで投げ切っており、これがスープレックス技でアンドレを投げた唯一の記録とされている。なお、アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、ハーリー・レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと坂口憲二に語っていた。新間寿の回想によると、猪木に投げられた時は「私はそこにはアンドレの思いやりがあったと思っている」とのこと。これらの証言から踏ん張った状態のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明。 ベースボール・マガジン社発行の『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』の「外国人係は見ていた」の項にてインタビューを受けたタイガー服部によると、アンドレはヒッププッシュを繰り出す際に放屁していたそうで、その臭いはリング内の選手やレフェリーはおろか、リング外にいるカメラマンや若手選手、リング最前列から10番目くらいの観客にまで届いたという。これについては、朝日新聞2015年(平成27年)5月2日土曜日 beランキング、記憶に残る昭和の外国人レスラーの人気アンケートでアンドレは5位に入り、プロレス取材歴が半世紀におよぶ門馬忠雄が「外国人レスラーの最高峰に推しているが、彼には異界から来た者のオーラがありました。驚いたのは来日するたび、身長も体重もでかくなっていたことです。 晩年の体重は280(キロ)を超えていたでしょう。ワインをケースごと飲み干しというエピソードと共にゆで卵は一度に20個も食べるので、出す方も怪物じみていて、おならは鼻がひん曲がるほど臭かった」と語る。記事は「時には試合中でも暴音とともに放たれた悪臭は、リングサイドをも阿鼻叫喚の地獄に一変させる、凶器の最臭兵器となった」と締めくくっている。 キラー・カーンによれば、引退したのちにスタン・ハンセンやハルク・ホーガンと話した際、双方がアンドレは彼らをうまく持ち上げてくれたと証言し、アンドレには感謝しており、「あれほどのレスラーはもう出てこないだろう」と発言していた、とされる。カーン自身は「相手のいいところを出させてあげて試合を盛り上げる。一流中の一流」とコメントしている。 マネージャーを務めたアーノルド・スコーランによるとかなりのアイデアマンで、日本で大巨人伝説がマンネリ化し始めて来た頃、レスラー以外の人間を襲撃するというアイデアを自ら猪木に提案した。その際に襲撃されたのは気心の知れたレフェリーのミスター高橋やリングアナウンサーの田中秀和ら新日プロのスタッフであり、決してファンや一般人には手を出さなかった。ただし、花道以外の通路から不意を突く形で入場し、観客を驚かせるといった少々悪戯めいたムーブはしばしば見られた。 マイティ井上とは若手時代から親友の間柄であった。アンドレは生涯独身を貫いたと言われているが、井上はアンドレに内縁の妻がいたこと、娘も一人いたことを明言している。本名については、井上が見たアンドレのパスポートには「アンドレ・レネ・ロシモフ」と書かれていたというが「アンドレの本名はジャン・フェレだ」と雑誌インタビューでは答えている。井上はフランス語が分からなかったが、アンドレの言うことは理解していた。アンドレが新日本と提携していたWWFに転戦した後も親交は続き、国際へ特別参加した際も、井上は「WWFは大丈夫なのか? 怒られるだろ? ギャラも高いだろ?」と問い正したが、アンドレは「マクマホン・シニアの許可はもらった。ギャラはいくらでもいい」と答え、国際への特別参戦が実現した(新間寿によれば、新日本に対してマクマホン・シニアから新間に電話があり、「アンドレが国際に恩返しをしたいと言っている」と説明して了解を求めてきたため、新間は猪木と坂口に相談し新日本としては黙認することにしたという)。井上と国際の吉原功社長がモントリオールを訪れた際には、日本での恩返しとして、アンドレが井上と吉原の食事代を負担したという。 国際プロレス時代の縁から若松市政がジャイアント・マシーンのマネージャーに起用された。アンドレは若松に恩義感じており、若松がニューヨークを訪問した際、高級レストランに招待し、さらにWWFでマネージャーとして登場するつもりはないか、と勧誘した。 現役時代からカーリーヘアのカツラを着用し、リングに上がっていた。これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。ただし後年はカーリーヘアーのカツラを外し、地毛のパーマヘアーで闘っている。 アンドレは弁護士に渡してあった遺書の中で「死後48時間以内の火葬」を希望していたが、パリには彼の巨体に対応できる施設がなく、結局そのままアメリカへ移送された。 レスラー、プロレス記者、団体バス運転手など、アンドレには日本人の友人知人が多くいたが、黒人に対しては嫌悪感を隠さなかったと言われる。バッドニュース・アレンがアンドレの差別発言に激怒し、ホテルの屋上にアンドレを呼び出し「謝らなければここから突き落としてやる」と言って謝罪させたという逸話がある。しかし、黒人レスラーのアーニー・ラッドとは親友同士で、両者は北米各地で抗争を展開できる気心の知れた仲だった。同じくMSWA、WCCW、WWFなど各団体で抗争を繰り広げたカマラもアンドレのことを称えている(カマラのWWF入りはアンドレの仲介によるものだったという)。また、アイスマン・キング・パーソンズ、S・D・ジョーンズ、ジャンクヤード・ドッグ、トニー・アトラスなど、WWFや南部エリアでアンドレのタッグ・パートナーを務めた黒人選手は数多い。ロッキー・ジョンソンの息子のザ・ロックも、子供の頃にアンドレに可愛がってもらっていたという(ロックの自著『The Rock Says』には、アンドレに抱き上げられた少年時代のロックの写真が掲載されている)。 1984年12月19日、ハワイNBCアリーナにおける興行の第8試合で、レフェリーを務めたことがある。シバ・アフィ(英語版)&ラーズ・アンダーソンvsマーク・ルーイン&ケビン・サリバンの試合を裁くも、敗れたルーイン組が判定への不服からアンドレに食って掛かり、乱闘寸前になったという。それ以前の1978年にも、NWAのリッキー・スティムボートvsリック・フレアー、WWWFのダスティ・ローデスvsスーパースター・ビリー・グラハムなどの試合でスペシャル・レフェリーを担当した。 当時外国人レスラーの相談役も務めていた新日本プロレスのレフェリー、ミスター高橋がアンドレが宿泊していたホテルへ出向き「実は覆面を被ってほしいんだ」とおそるおそる切り出した。その際、差し出したのがジャイアント・マシーンのマスクである。そのマスクを見たアンドレは大喜びし、早速その場で着けてみせ「どうかな、(高橋のニックネーム)ピーター。似合うかい?」と満足気にポーズをとったという。高橋はプライドが高いアンドレは絶対に断るだろうと思っていたため、この反応は全く意外だったと後に述懐している。なお、この時のマスクは当然、アンドレ自身から採寸したものではなく(バイク用のフルフェイスのヘルメットに合わせて作成したと言われる)、そのためジャイアント・マシーン登場当時はマスクがアンドレの頭にはフィットしていなかった。後期には改めて新しいマスクが制作されている。 スタン・ハンセンはアンドレを先輩として尊敬し続け、両者は新日本プロレスを去った後、全日本プロレスでほぼ10年ぶりの同行を喜び、試合後はよく二人で飲食に出かけた。その際、よく話題になったのが既述の田園コロシアムの一戦で、互いに相手を称え飽きることなく語り合ったという。 WWFに参戦したキラー・カーンとアンドレが対戦した際、アンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンは機転をきかせトップロープからニー・ドロップを見舞った。後日カーンは通訳を連れてアンドレの入院先へ見舞いに出向き、前述した試合の件について謝罪。しかしそれを聞いたアンドレは大声で笑いのけ、「気にするな、あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだった」と逆に励ましの言葉をかけたという。さらにアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』ということにしよう。俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。このアングルは新日本プロレスに凱旋帰国したカーンの株を急上昇させ、彼を瞬く間にメインイベンターへ昇格させた原動力となった。この頃の新日本プロレスは全日本プロレスとの外国人選手引き抜き合戦の挙句、スター選手を失ったのと同時に猪木とタイガーマスクが怪我で休場と痛手を被った時期でもあるが、代わってメインに上った「あのアンドレの足を骨折させた大型日本人レスラー」とアンドレとの対戦は興行を大いに盛り上げた。 巨体ながら運動神経にも優れており、クロールで泳ぐこともできる。 2017年にプロレスデビューしたアンドレザ・ジャイアントパンダは、アンドレにちなんで名付けられた。 1987年に脳腫瘍で死去したスコット・アーウィンは、1980年代前半にフロリダやジョージアなどアメリカ南部でアンドレと抗争を繰り広げていたが、余命いくばくもないと診断された際、かつての仲間やライバル達の家を最期の別れと感謝のために訪ねて周り、アンドレの家にも訪れた。その時アンドレは、アーウィンを抱きしめて号泣したという。
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エピソード、その他
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「エリック・ビショフ」の記事における「エピソード、その他」の解説
現場においてはハルク・ホーガン、ケビン・ナッシュ、DDPなど自分と仲のいい選手をプッシュし、また彼等が望めば簡単に高額の契約金を払ったことから「ATMエリック」と陰口を叩かれた。一方でリック・フレアーの派閥とは非常に仲が悪かった。 かつてはビル・ゴールドバーグと共に絶対にWWEには登場しないであろう人物の筆頭に挙げられていた。ビンス・マクマホンは宿敵であった彼を雇った理由を「自分の部下として働かせるなんて最高の復讐だ」と語っている。 夫人のローリー・ビショフは「全米で最もセクシーな女性」の一人に選ばれたほどの美人である。 WCWのエグゼグティブ時代に、K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦の日本武道館大会に来場し、リング上でアンディ・フグに花束を渡したことがある。 ワイオミング州コーディ在住の彼は、2011年に彼のビール好きから、醸造会社を始めた。彼はコーディ市の英雄であるガンマン、バッファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショーを特徴にした「バッファロー・ビル・コーディ・ビール」と言うビールを作り出した。
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エピソード、その他
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2016年9月20日放送(シーズン6・第15回)にて、広島風お好み焼きを「広島焼き」とテロップ表示して放送したことから、広島県県民の多数から抗議が相次ぎ、この週の再放送(9月22日昼)では「お好み焼き」と表示を修正した。 サッカーチームのFC琉球(2013年3月4日放送分)とソニー仙台FC(2015年3月9日放送分)を取材したことがある(放送時はどちらもJFL所属。なお前者は現在Jリーグに所属)。 鳥取放送局の県域ニュース番組『いちおしNEWSとっとり』 2・4火曜日の企画として、本番組の鳥取県版として同局ディレクターの剣持幸恵が鳥取県民のお昼ご飯="とりめし"に直撃する『ケンモチのとりめし80』があった。なお、2016年11月27日に同放送局から生放送された『今夜も生でさだまさし〜鳥取は左島根の右兵庫!砂丘!〜』でも取り上げられた。 NHKの政治ニュースサイトでは「永田町・霞が関のサラメシ」として主に国会議員や官僚らのランチを取材している特集記事がある。 2019年4月23日放送分では、駐日アメリカ合衆国大使館を取材、当時の駐日アメリカ合衆国大使ウィリアム・F・ハガティとの"サシメシ"となり、スタッフも正装で取材に臨んだ。
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エピソード、その他
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旧NWAの世界タイトルマッチでは3本勝負のうち1本は必ず相手に取らせ、チャンピオンとしての器の大きさを示していた。大木金太郎と戦ったタイトルマッチでも1本目を取らせ、あまりに簡単に一本取れたことでこれならチャンピオンになれるのではないかと勘違いしたため2本目で大木は頭突きを積極的に仕掛けたが、これに怒ったテーズはパンチで滅多打ちにしてからバックドロップで仕留めた。 テーズのプロレス観の基本はレスリング技術を要する、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンであるため度々ショー的になったプロレスに対し苦言を呈している。ドロップキックなどのリアルでない技もあまり好まないが時流に乗るために仕方なく使用していたと言う。地味でもレスリングのできる選手を高評価し、ブルーノ・サンマルチノ、アントニオ・ロッカ、プリモ・カルネラらを毛嫌いした。大技中心の攻防が主となってきた日本のプロレス界については「タフマンコンテストになりつつある」、近年のWWEに関しては「あれはカートゥーン(漫画)だ」と批判をしていた。 その一方で、自著内では、ショーマンシップに長けたゴージャス・ジョージを絶賛している。 テーズはセントルイスのプロモーター、サム・マソニックと関係が深く、マソニックがNWAを設立すると、テーズは正統なレスリングのチャンピオンと認定された。その後もマソニックは常にテーズをレスリングの権威の象徴として扱い、一方、テーズも数多くのタイトルマッチを行って、NWAの勢力拡大に貢献した。 アメリカにおいては、テーズは1930年代から1990年代に及ぶ現役生活と6度の世界王座獲得により、別格のチャンピオンと認知されている。ただし、人気の面ではゴージャス・ジョージ、バディ・ロジャース、アントニオ・ロッカといった各時代の人気レスラーには及ばなかった(逆にこの三人は多忙だったため全盛時代の来日は無く、日本での認知度はテーズより低い)。 日本においては、テーズは力道山との2度にわたるNWA世界ヘビー級選手権試合で注目され、外国人プロレスラーの多くが悪役であった時代に、正統派レスラーとして戦うことで強い印象を残した。また、日本では、937連勝という記録でも知られている(アメリカでは、この記録について語られることはほとんどない)。しかし、力道山の死後にグレート東郷と組んで日本のプロレスを乗っ取ろうと試みたり(テーズは「力道山の死後、困難な状況にあった日本のプロレスを助けたいと考えていたところ、その想いを東郷に悪用された」と釈明している)、新日本プロレスの長州力をグレーテスト18クラブ王者に認定する一方で、UWFインターナショナルの高田延彦をプロレスリング世界ヘビー級王者に認定して新日本プロレスを激怒させておきながら(その後も「日本におけるプロレスの発展を願うがための行動」として弟子である新日本プロレスの蝶野正洋と高田を戦わせよう画策した)、UWFインターナショナルの経営が傾くと早々に縁を切るなど(テーズによると「レスリングのできない大男でしかないベイダーを重用した時点で、UWFインターナショナルに失望していた」とのこと)、金銭面にシビアな行動もあった。 アントニオ猪木対モハメド・アリに際し猪木にレフェリーを要請されていたがアリ陣営側から却下された。自身もプロボクサーとの対戦経験があるのでプロレスラーVSプロボクサーには非常に興味があったと言う。 1981年1月31日、国際プロレスの招きで来日していたテーズは、東急町田店スポーツ館の1日館長を務めた。その際のファン・インタビューで、「猪木、馬場、ラッシャー木村で誰が一番強いか?」という質問に対し、「相撲とレスリングをマスターしている木村だ」と、自分に対してお金を積んでいる人達に対して率直に高評価を下した。 引退試合の蝶野正洋戦でも鮮やかなバックドロップ(ヘソ投げ式バックドロップ)を決め、観客から「テーズ」コールが起きた。 1991年には、『第15回アメリカ横断ウルトラクイズ』準決勝ヨークタウンでの罰ゲームにゲストとして登場、敗者2人の相手をしている。この時テーズ自身は75歳であったが、2人を圧倒してしまった。途中で一度ダウンを取られ、それからは本気を出してレフェリーストップを掛けられている。 テレビアニメ『タイガーマスク』には「ルー・ケーズ」というテーズをモデルにしたレスラーが登場する。どちらかというと「日本人レスラーの敵=悪役」というイメージであり、テーズスペシャルスマッシュ(拳によるパンチ)を多用している。ちなみに、ルー・ケーズ(Lou Kesz)というリングネームのプロレスラーが、かつて実在した。 よく、強さではカール・ゴッチと並び称されるが、ゴッチがひたすらに強さのみを求め、プロレス界から干されようともその考えを曲げなかったのに対し、テーズは自分の強さをアピールしつつ、あえて対戦相手に花を持たせるバランス感覚も持っていた。アントニオ猪木は「ゴッチは厳格な師匠、テーズは親しみが持てる親父さん」と評している。 テーズはカール・ゴッチをレスラーとして高く評価し、また、ゴッチがテーズと同じくハンガリー人とドイツ人の血を引いていることから、一時はゴッチとテーズはテーズの両親も含めて非常に親しい関係であった。しかし、テーズはレスラーとしてのゴッチは生涯高く評価し続けたが、後年にはゴッチと個人的な付き合いをすることはなくなった。テーズの伝記の著者、キット・バウマンによると、生前のテーズはゴッチについては語りたがらず、ゴッチと疎遠になった理由も明言しなかったが、不和の原因はレスリングの能力に対するテーズとゴッチのプライドから生じたとされる。また、テーズの未亡人チャーリーは、テーズはゴッチに自分と同じ才能を感じ、プロレスの将来のためにゴッチをチャンピオンにしようとしたが、プロレス観の違いからゴッチに拒絶されたため、テーズはゴッチに失望したのではないかと語っている。 1990年3月、バージニア州ノーフォークで功績を認められて永久保持となっていたNWA世界ヘビー級王座ベルトをインターナショナルワールドヘビー級王座の名称で復活させ、トーナメント決勝でブラックジャック・マリガンを破ったマーク・フレミングが新王者となり、その後約2年間保持するも、1992年、テーズとUWFインターナショナルのビジネスにより、UWFインターナショナルのリングでプロレスリング世界ヘビー級王座として再復活し、高田延彦がチャンピオンとなり、フレミングはUインターの常連外人選手となる。そこには複雑なビジネス、人間関係があった。その後、1997年初頭、地元バージニア州ノーフォークのラジオ番組でベルトを50万ドル(当時のレートで約6000万円)で売りに出す。(売却できたかは不明) 体調管理は徹底しており、目に悪いので特に写真を撮る時にフラッシュを焚かれることを嫌っていた。
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エピソード ・その他
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「イクノディクタス」の記事における「エピソード ・その他」の解説
全9勝の内8勝が5月から9月の夏場に勝ったものであり、このことから夏女という異名もあった。
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エピソードその他
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「アラン・ホールズワース」の記事における「エピソードその他」の解説
アランが推奨していた機材はしばしば、(Hughes & Kettner以外の)ほとんどが生産中止になってしまった。アラン自身もこのことをジョークにしている。 かなりの酒豪で、特にビールが好き。不遇時代にはビールの醸造所でアルバイトしていたことがある(離婚時、元妻に財産分与のかたに取られたスタジオはブリュワリー〈ビール醸造所〉スタジオという名前だった)。また来日時に休憩時間を利用してはホテルや会場の付近を一人で出歩き、日本側の関係者ですら知らないようなバーを見つけてはそこに入りびたるという事もあった。来日時にも六本木の店のカウンターに一人でぶらりと訪れていた。しかし酔いつぶれてしまうというような事も無かったという。 ファースト・アルバム『ベルベット・ダークネス』のジャケットに映っている白いギブソン・SGは、ニュー・ライフ・タイム時代、当時のマネージャーが、アランに相談なしに売り払ってしまった。そのSG事件以来、ギター本体に思い入れするのをやめたという。 離婚時に、それまで所有していた自分のスタジオを、前妻への財産分与のかたに機材ごと取られてしまい、レコーディングにも事欠くようになった為、アルバム『フラット・タイア』のレコーディングはやむなく前妻からスタジオを借りてレコーディングしたという。その際、スタジオは貸すけれど家には入らないようにと言われ、仕方なくスタジオの床で寝泊りして作業をしたと語っている。そのために「FlatTire」=「床の上でへとへと」という皮肉を込めたタイトルにしている。 生活費のために自身のギター等の機材を売却する事も多々あり、日本のギターショップで彼の使用していたギターが販売されていた事もある。自分の手元に自分のギターが1本もない時期があり、その頃のインタビューでは「5万円のギャラをくれるなら日本でもどこでも演奏に行く」と言っている。エドワード・ヴァン・ヘイレンが不遇をかこっていた彼に協力を申し出て、レコード契約に漕ぎ着けたのは、アランが機材を全て手放してしまったという話を聞いたからだと言われている。2008年に来日した際のビル・ディラップ製のギターやアンプ等ほとんどの機材をレンタルで賄った。ギターはディラップ本人所有の物を借り入れ、アンプは国内でレンタルして調達した(使用したギターもその一本のみで通した)。 本人の完璧主義に近い音へのこだわりから、ライブ音源が極端に少ない。ライブ・アルバム『All Night Wrong』を六本木PIT-INNで収録した際には、前日に本人が適切にセッティングしておいたマイクを、翌日位置はおろかマイク自体まで勝手に変えられてしまい、関係者曰く「今まで見たことが無いほど」激昂したという。その時には「本当に音楽界から引退してやろうかと思った」と語っている。その皮肉を込めてタイトルを"All Night Long(一晩中)"を引っ掛けた"All Night Wrong(夜通し間違っている)"としている。 セッションやソロアルバムでの音源にかなり好き嫌いが出ているようで、アランのオフィシャルウェブサイトには「参加しなければよかったセッションリスト」が存在する。本人のアルバムで一番好きでは無いと語るアルバムはソロ・デビューとなった『ベルベット・ダークネス』で、「私の意向を全く無視して完全に違法に製作された」とインタビューで述べている。逆に気に入っているアルバムは『I.O.U.』と『シークレッツ』、『ザ・シックスティーン・メン・オブ・テイン』。「I.O.U」とは「I owe you」、つまり「借用証書」の意味。 エフェクターを床に置くのが嫌いなため、基本的にヴォリュームペダル以外のエフェクトはアンプの上かラックの上に置き手で操作する。演奏中にエフェクターのパラメーターを調整して音色を変えることもしばしばある。 ギターのみならず、時折、ヴァイオリンもプレイしている。テンペストやソロ・アルバム『ベルベット・ダークネス』でその腕を披露している他、ソフト・マシーンでのライブでヴァイオリンを弾いている映像も残っている。しかし、実際にヴァイオリンを弾くようになったのはギターが弾けるようになってからだと語っている。 彼のアルバムにはSEがジョークとして時折挟み込まれる事がある。アルバム『シークレッツ』ではビールを注ぐ音やトイレを流す音が入っている。また『ウォーデンクリフ・タワー』には、「I hate Jazz!(俺はジャズが嫌いだ)」と騒いでいる男の声が入っている。アランいわく「たまたまスタジオに居たジャズが嫌いな男の声を使った(笑)。勿論、僕等はジャズが大好きだけどね」との事。 趣味はパーツから集めて自作する自転車。ゴードン・ベックとの共演盤『ザ・シングス・ユー・シー』のジャケット写真で彼が手にしているのは自転車のカタログ。またソロ・アルバムのジャケットや、彼のロゴなどに自転車の歯車を元にした形状のものが頻繁に使われているのも、彼のその趣味に由来している。 ライブの前にはほとんどといっていいほどリハーサルを行わない事でも知られている。機材の動作確認や音色、PAの調整を行ういわゆる「サウンドチェック」程度で、その他はメンバーと曲の構成や進行などについて確認を行う程度で、楽曲を丸々通して演奏することはほとんど無かった。時折お遊び程度でブルースのジャムセッションを行うこともあったらしい。また、ライブの前にお湯に手を浸して、指が動きやすくするように温めながらストレッチを行うといったことをよく行っていた。 身長190cmを超える長身で、ビール党であり喫煙者。盟友であるベーシストのジェフ・バーリンと並んで「Two titan」とファンの間からは呼ばれており、両者共に大きな手と柔軟に広げられる指を駆使して万人には演奏できない奇抜なコードや奏法をいくつも編み出している。
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エピソード・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 16:18 UTC 版)
「エドウィン・バレロ」の記事における「エピソード・その他」の解説
反米主義で知られるベネズエラ第53代大統領ウゴ・チャベスの熱烈な信奉者で友人でもあり、帝拳時代はチャベス大統領の肖像が描かれたトランクスでのプロモーション写真を撮ろうとして、アメリカ進出を企図していた帝拳・本田会長にたしなめられた一幕も。帝拳離脱後は胸にベネズエラ国旗と共にチャベス大統領のタトゥーを彫った。ゆえに米国コミッションに疎まれていたという説もある。 弟にプロボクサーのルイス・バレロがいる。
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エピソード・その他
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「Aftertalk」の記事における「エピソード・その他」の解説
バンド名の由来は練習後のミーティングが、練習そのものよりも長い時間にわたる事が多かった事から。 同名義のバンドで活動をしていたが解散しており、特段の連続性はない。
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エピソード・その他
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「ザ・プレデター (映画)」の記事における「エピソード・その他」の解説
秘密研究所についたばかりのケイシー博士が館内を案内されている最中に見かける「過去にスターゲイザーが入手したプレデターの遺物」の展示物の中に、『AVP』で登場した「エイリアンの尻尾のついた槍」がある。 本作では、映像作品として初めて、プレデターが地球製銃器を強奪し使用するシーンがある。 一作目以降、本シリーズの宇宙人の名称としてプレデターの名称が使われてきたが、これまでのシリーズ作中においてプレデターの名称が用いられたことはなく、宇宙人の名称として「プレデター」の名称が登場するのは本作が初。ただし「プレデター」とは、本来「捕食者」という意味であり、作中のプレデターのように捕食目的ではない狩りをしているのであれば「プレデター」という名称は不適切である。本作でもケイシーらが「プレデター」ではなく「ハンター」であると指摘するシーンがある。 元々「プレデター」が対象を殺害してその頭骨を持ち帰るのは、「トロフィー」としてであり、本作のように「プレデター種の改造による強化」という目的では無い。 本作に登場するショーン・キースを演じたジェイク・ビジーは、『プレデター2』に登場したピーター・キースを演じたゲイリー・ビジーの実の息子で、親子二代に渡って同じキース姓を持つキャラクターとしてのシリーズ出演となった。
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「涙のリクエスト」の記事における「エピソード・その他」の解説
「ザ・トップテン」でこの曲が1位にランクインした際、ボーカルの藤井郁弥が大嫌いな食べ物である椎茸を食べさせられ、冒頭部分の歌詞を「最後の〜椎茸〜」と変えて歌った。これは、同番組初登場の際、各メンバーの今後の抱負を挙げさせられ、郁弥は「1位になったら椎茸を食べる」としていたため。 1986年4月14日、月曜ドラマランドでこの曲をモチーフにした『チェッカーズin涙のリクエスト』が放送されチェッカーズも出演している。前述の映画「アメリカン・グラフィティ」を意識した作品で数多くのオールディーズが使われていた。 1984年に漫画雑誌「週刊ヤングマガジン」が漫画家が歌謡曲をリスペクトして漫画化する『歌謡マンガ』シリーズを企画。漫画家の楠みちはるによって、同曲のタイトルで読み切り漫画が発表された(1985年 No.7に掲載。『歌謡漫画大全集 1』に収録され1988年11月17日にリリースされた)。その後、同作品は1986年から連載された漫画「シャコタン☆ブギ」の第1話の原型となり、10年に及ぶ長期連載となった。 1996年には東武百貨店がCMソングに使用し、出演者が歌唱した。 1997年9月27日から2000年12月31日まで、西鉄大牟田線の特急列車で西鉄久留米駅到着時の車内チャイムとして使用されていた。 2004年のドラマ、プライドにて木村拓哉演じる里中ハルが、失恋リサイタルと称した宴で歌うシーンがある。 連続テレビ小説『ふたりっ子』(1996年)と『あまちゃん』(2013年)において使用されているシーンがある(異なる作品で同じ楽曲が使用されるのは異例)。 2010年10月27日に福岡県のガールズユニット「CQC's(シーキューシーズ)」がカバー、シングルを発売した。 2016年9月28日発売されたカントリー・ガールズの4枚目のシングル『どーだっていいの/涙のリクエスト』の2曲目にカバーバージョンが収録されている。
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エピソード・その他
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本作は麻薬カルテルの犯罪が多発するカリフォルニア州ロサンゼルス市を舞台としておりギャングと警察の銃撃、及びプレデター・ハンターが跋扈する最中に市長は休暇で不在という設定になっている。前作との関連性は薄いものの、前作のシュワルツェネッガー演じるシェイファー少佐とプレデターとの戦いが、過去にあった事が映像で語られ、同一の世界観である事が示唆されている。 なお、ダークホースコミック社から1989年から1990年に描かれたコミックと小説の『プレデター: コンクリート・ジャングル』は『プレデター2』が製作される前に出版されているが、映画の前作『プレデター』の続編として描かれたものである。最初はニューヨーク市を舞台にアーノルド・シュワルツェネッガーのダッチ・シェイファーがプレデターと対決するという内容で描こうと計画していた。しかし、アーノルド・シュワルツェネッガーが続編企画の段階で映画の脚本を提示された段階で2の出演に難色を示した為、『プレデター』の続編企画は停止状態になり、映画の続編企画が遅れているその間に、ダークホースコミック社は主人公をダッチからダッチの弟に変更して、続編という位置づけで『プレデター2』が製作される前に『プレデター: コンクリート・ジャングル』を出版した。『プレデター: コンクリート・ジャングル』を描いたダークホースコミックの漫画家クリス・ワーナーは映画『プレデター2』は『プレデター: コンクリート・ジャングル』とプロットがほとんど同一で、少なからずとも影響が絶対にあるとインタビューで述べている。 本作に登場するプレデターの宇宙船内にはエイリアンの頭骨が飾られており、後年製作された『エイリアンVSプレデター』の監督、脚本を務めたポール・W・S・アンダーソンは「あの船内の頭骨が重要なヒントだった」と発言している。 終盤、プレデターの長老がハリガン刑事に1715年製の初期火打銃・フリントロック式銃を渡すが、これは凶悪で野蛮な海賊として恐れられ、1718年にバミューダ海域で失踪したラファエル・アドリーニが持っていた銃であることが判明した。このシーンを元にダークホースコミック社(en:Dark Horse Comics)から『プレデター: 1718』というコミック(1996年)と短編小説(1997年)のスピンアウト作品が出版されている。 終盤に出現するプレデター集団のスーツアクターとして当時のロサンゼルス・レイカーズの選手がサプライズとして登場していることがメイキング映像で語られている。 劇中、麻薬売買組織「ジャマイカ・ブードゥー団」の名が字幕スーパーでは登場するが、DVD/BD吹き替え版では「ジャマイカ」の部分がカットされている。またプレデターが、ジャマイカ・ブードゥー団のボス=キング・ウイリーの首を狩り獲った後、その頭部から皮と肉・内容物を除去し、頭蓋骨をグラインダーのような器具で磨き上げるシーンがあるが、地上波放送ではこの箇所はカットされている(例外有)。序盤には全裸の女性が逃げ惑うシーンがあるものの、こちらは下半身に映像処理を施した形で放映された。 ダニー・グローヴァーとゲイリー・ビジーは『リーサル・ウェポン』以来の共演である。
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エピソード・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 07:39 UTC 版)
当初のタイトルは『행복이 가득한 집』(意味:幸せいっぱいの家)だったが、2016年2月に現在のタイトルへの変更が発表された。
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エピソード・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 22:17 UTC 版)
子供の頃の夢は、電車の運転手・天文学者、その後プロボウラー(「マイボール」を持っていた)。 『雨ニモマケズ』の曲が完成したのは2002年で、その後新潟の被災地や 愛知万博で絶賛され、2005年の自費発売を経て、2006年9月6日に11枚目のシングル『雨ニモマケズ』を日本クラウンレコードからメジャー発売することとなった。2008年10月7日に日本テレビ系全国ネット「誰も知らない泣ける歌」で、『雨ニモマケズ』が制作秘話と共に取り上られ、2万枚を超えるヒットとなった。 また、『雨ニモマケズ』は2012年5月12日より公開の映画『一遍上人』(主演ウド鈴木)のエンディングテーマソングおよび2014年11月からスパークス・アセット・マネジメント(株)の企業CM曲となった。 1986年1月5日 芸能プロモーターの鈴置雄三(→ハイヤングKYOTO)によって、コンサート会場の穴埋めのために急遽結成したソロ歌手3人組ユニットのパフォーマンスが好評となり、「GAN-BA-RUNDA CLUB」名義でのレコードリリースも行った。 かつてあった原宿のライブハウス「ペニーレイン」で「Friday Night Live」というタイトルで、宇佐元恭一が即興で弾くピアノ演奏に小堺一機と 関根勤の二人が即興でコントを作るという、ピアノとコントを合わせるライブを行なっていた。その様子は、1985年10月7日 にフジテレビ系列番組の「冗談画報」じょうだんがほう)で放送された。 個人のコンサートでは、1984年9月23日 京都府円山野外音楽堂にて「夢IN円山」と題したワンマンコンサートを行い、3000人の動員を集めた。また、個人のコンサートとは別に数多くのイベントにも出演している。 1984年8月4日 - 8月5日 福岡県「恋の浦」で行われた「第4回サマーピクニック」出演 1989年3月28日-「渋谷公会堂」で行われた「アコースティック‐ ムープメント '89」出演 1990年8月11日 - 8月12日 福岡県「シーサイドももち」で行われた「第10回サマーピクニック」出演 1990年8月19日 第1回あづみ野池田音楽祭(長野県北安曇郡池田町)出演 2005年8月3日 - 8月5日 愛知万博では、九州・沖縄の日in EXPO Dome「伝わる、九州・沖縄の熱き鼓動」のステージを総合演出。宇佐元恭一率いる、愛・地球博スペシャルユニット「鼓動楽房」として出演し、九州・沖縄各県自慢の芸能とコラボするステージを作り上げた。 2006年4月29日 日比谷野外音楽堂で行われた「第15回グリーンパラダイス」出演 2007年5月4日 日比谷野外音楽堂で行われた「第16回グリーンパラダイス」出演 2008年7月20日 「第6回 湯沢フィールド音楽祭2008」出演
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エピソード・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 00:51 UTC 版)
芸名の柳家金語楼は元より、自分の顔まで商標登録していた。 前掲の2代目三遊亭金馬一座は、落語家のみの一座というわけでなく、芸を売るというより見世物小屋としての色彩が強かった。その中に凄惨な事件の被害者として知られた芸者妻吉がいた。1905年、中川万次郎が発狂し愛人芸者6人を日本刀で斬りつけた「堀江六人斬り」で,両腕を切断されながらもただ一人生き残った。金馬に請われて旅回りの芸人となっていた。その後一念発起して口で筆を使い遂には住職となり、名を大石順教と改めた。一座に所属していた妻吉は、その一座での柳家金語楼のデビュー高座を見て、「私、坊やのこと大好きよ」と褒めちぎった。少年にとって何よりの喜びであったろう。 戦前は吉本興業(東京吉本)に所属し、横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家三亀松・川田義雄と共に吉本の五大スターと称された。因みに、戦前の吉本で最も高給を取っていたのが金語楼である。日中戦争開始後、吉本が戦地慰問のために中国大陸に派遣したわらわし隊にも参加し、敵襲に晒されかねない危険な状況下で、旅順・天津・北京等を慰問して回った。戦前に吉本が東宝と提携して製作した数多くの喜劇映画でも主演を務めており、現在でもビデオ等で見ることが出来る。こうしたこともあって、現在でも吉本の社内では金語楼の功績は高く評価されており、大阪・難波にある吉本直営の演芸場・なんばグランド花月では、正面入り口に横山エンタツ・花菱アチャコ、あきれたぼういずらと共に、金語楼の大きな肖像画が掲げられていた。 落語家を廃業したのは戦時下のことであり、二足のわらじを当局が許さなかったため、やむを得ず行ったもの。従って、戦後も落語と縁が切れたわけではなく、有崎勉のペンネームで新作落語を毎月発表。5代目古今亭今輔、5代目春風亭柳昇らがこれを演じた。また、自身も無所属ながら機会があるたびに高座に上がっていた。主な作品は、古典の改作物「きゃいのう」・新作では「酒は乱れ飛ぶ」「笑いの先生」「アドバルーン」人情噺風の「ラーメン屋」など数五百あまりの作品がある。SPレコードも多数吹き込んでいる。 発明家としても著名。学童が体育の授業時に被る「赤白帽」や、(爪楊枝の頭に折り取り用の切り込みを設け箸置きのようにして使うアイデア:ウソ)を実用新案登録し、莫大な副収入を得た。 大阪の横山エンタツ・花菱アチャコが新しい形の漫才を演じると、これに触発され、一門の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。なお、梧楼・緑朗はのちにリーガル千太・万吉と改称。今日の東京漫才の元祖とされた。 父は三遊亭金勝。三遊亭金時(山下市郎)(山下武の著書では本名を「一郎」、三遊亭千馬)、先代昔々亭桃太郎(山下喜久雄)は実弟。また実子は以下の通り。嫡子としてテレビ朝日で『大正テレビ寄席』のディレクターから小説研究・大学講師に転じた、山下武がいる。また愛人(事実上の妻)の子としてロカビリー歌手の山下敬二郎と女優・声優の有崎由見子。 金語楼は、本妻・愛人を含めて5人の妻がいた。ギャラを受け取ると、それをきっちり5等分にし、5人に分け隔てなく渡したという。ただし、このことは子供たちには知らされていないこともあり、息子の山下敬二郎は、金語楼の葬儀の際にこの事実を知り、驚愕したという。 若い頃はモテモテで、女相場師の愛人だったことがある。手当も弾まれ、ご馳走も出るという厚遇っぷりだったが、お勤めがハードで、半年で10キロも痩せるほどだった。友人から、「お前、殺されるぞ」と言われ、泣く泣く手を切ったという。 姪の小桜京子は女優で、駅前シリーズなどの映画に出演した。1964年に初代引田天功と結婚し、一人娘の引田有美(声優)をもうけている。(京子は1970年に離婚)。 金語楼の演じていた兵隊落語は、上方落語の噺家である桂三八や8代目朝寝坊むらくの影響である。前者の三八は金語楼と共通点が多く、100キログラム以上の禿頭の巨漢で、兵隊出身であり、兵隊落語で人気を博していた。金語楼はこの三八の枕を東京に持ち込みアレンジしていた。後者の朝寝坊むらくは日露戦争に従軍していてその時の体験談を落語に取り入れてた。 過去に金語楼の名を名乗った人物は確認出来ていないが、2代目小さんの亭号が禽語楼(きんごろう)であり、一時期柳家禽語楼を名乗っていた。そこで金語楼を名乗る際に、遺族と3代目柳家小さんに許可を貰っている。 将棋、麻雀が好きで紫綬褒章を受章した際には同じ紫綬褒章受章者の塚田正夫永世9段から初段の免状を受けた。また戦前は久能山長五郎という十両の力士のタニマチをしていた。またギャンブルは苦手であった。
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エピソード・その他
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「キャセイパシフィック航空」の記事における「エピソード・その他」の解説
BBCワールドニュースで放送している「アジア・ビジネスレポート」のスポンサーである。 CIは、アメリカ合衆国の大手デザイン事務所ランドーアソシエイツの手によるものである。コーポレートカラーは翡翠色とも呼ばれる深い緑色である。 現拠点空港であるチェク・ラップ・コク空港が開港するまでは、世界で最も着陸が難しい空港と謳われた啓徳空港(閉港)を拠点空港で使用していた為、香港カーブにより訓練されたパイロットの技術レベルは他社と比較して高いと言われる。 コーポレートイメージソングとして「愛のテーマ」(作曲:バリー・ホワイト、演奏:ラブ・アンリミテッド・オーケストラ)があり、テレビコマーシャルなどで使用されていた。 1998年に同社の機内で泥酔して暴言を吐く、喫煙するなどしたオアシスのボーカル、リアム・ギャラガーを永久利用禁止にしている。 2011年、機内で乗務員が猥褻な行為に及んでいるとされる写真が流出、同社が始める予定だったキャンペーンが延期となった。 2012年、客室乗務員組合が労使交渉が妥結しない場合、乗客に「笑顔」でのサービスを拒否すると通告した。 2018年9月19日、B777-300型機(B-HNO)の塗装を新塗装に変更した際に、本来なら「CATHAY PACIFIC」であるはずの社名の塗装が「CATHAY PACIIC」と「F」が抜けているという重大なスペルミスが発覚。その後同社はこのハプニングを公式Twitterで自虐ネタにしたところ、大きな反響を呼んだ。
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エピソード・その他
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「シンディ・ローパー」の記事における「エピソード・その他」の解説
1991年の誕生日に恋人兼マネージャーのデビッド・ウルフら数人のグループでNYマンハッタンのイーストビレッジにあるCANDYB1を数時間貸し切り誕生パーティーを行った。CANDYB1は本店が福岡にある日本人経営の生バンド・カラオケバーで、この店を選択したのはシンディ本人だったと言われている。 2011年3月4日アルゼンチンのブエノス・アイレス空港で、フライト遅延や欠航が続出し、空港側に抗議が殺到。暴動にもなりかねない状況の中、たまたまその場にいたシンディはその状況をみかね、空港のアナウンスマイクを使い「Girls Just Wanna Have Fun」 をアカペラで歌い出した。突然の空港ライヴにその場の乗客や乗務員も大喜びし、大合唱となり、みんなの表情は一変して歓喜の笑顔になり乗客たちの怒りを収め楽しませた。続いて「True Colors」もアカペラで歌っている。歌っている際に周囲にいた乗客たちが一斉に携帯電話やデジカメで撮影をしたが、シンディは気にも止めず、リズムをとりながら歌っていた。この動画は撮影した乗客がYouTubeにアップし、世界中に広まった。 TBS『王様のブランチ』のゲストに迎えられた際に、彼女に歌ってもらう交換条件として森山愛子が目の前で童謡『赤とんぼ』を披露し、そのズバ抜けた歌唱力と完成度に感涙したことがある。
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エピソード・その他
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少年時代から野球好きで、高校時代途中まで野球部に所属していた。ポジションは投手(左投げ)で、1年時からレギュラーを獲得したほどだった。しかし、それを快く思わなかった同級生からは白い目で見られ、病を患い退部。後に通っていた高校も中退し、以降は定時制高校に編入して通っていた。その後、渋谷で見たタケノコ族に出会い加入し、美少年を求めていた劇男零心会からスカウトされ入団。劇団員としての厳しい稽古と並行して、番組オーディションでは不合格の日々が続く。その中で、いいとも青年隊のオーディションに合格し、芸能界入りを果たす。C-C-Bの渡辺英樹とは家も近く、幼馴染である。また双方の実家が商売をしていたこともあり(渡辺家は米販売店)、父親同士も親しかった。野々村も渡辺も芸能界で名をあげようと奮闘していた時期が重なっていたこともあり、父親同士で「どちらの息子が先に有名になるか」という賭けをした。結果は野々村の方がいいとも青年隊で先に有名になったため、負けを認めた渡辺家から米が届けられたというエピソードがある。 小学生の頃に通っていた塾の講師は歌手の安部恭弘であり、後に安部が夜のヒットスタジオに出演した際には野々村が応援に駆けつけることとなった。 恐妻家としても知られ、ドッキリ番組では俊恵夫人も仕掛け人側に回る事も多い。私生活では亭主関白な面も持っているらしく、『まさかのホントバラエティー イカさまタコさま』に愛娘が出演した際に「テレビでは弱いキャラだけど家では滅茶苦茶怖い」と暴露していた。一方で、芸能界きってのおしどり夫婦でもあり、俊恵夫人とは野々村が売れない時代からの付き合いという事もあり、エピソードも数多い。1997年1月18日、サイパンのカラオケバーで佐々木主浩と俊恵夫人ともに日本人の一般客と喧嘩になり、佐々木が額を11針縫う傷を負った。後に、喧嘩相手が週刊誌などに喧嘩の経緯を告発したため、ワイドショーの取材攻勢を受ける騒動となった。 初代いいとも青年隊として『笑っていいとも!』出演期間に、大学受験を経験した。第一志望だった青山学院大学のみに絞っての受験という気迫の選択だった。その際は『笑っていいとも!』番組放送中に合否発表を受けるという演出がなされたが、結果は不合格だった。その後野々村は大学入学を諦め、それ以降は芸能活動に専念した。 1999年4月6日からは、朝日放送テレビで放送されている『おはよう朝日です』に2020年9月28日まで曜日コメンテーターとして出演しており、月曜日のコメンテーターとしてレギュラー出演し、同番組に曜日別コメンテーターの制度が設けられてからは、井上公造に次いで出演期間が2番目に長いコメンテーターであったが前述のとおり2020年9月28日放送分をもって番組リニューアルを機に卒業した。 2014年4月からはフジテレビ系列の生放送番組『バイキング』の月曜レギュラーに就任。そのため2020年9月28日までは日曜夜に大阪入りし、翌朝『おはよう朝日です』に出演。おは朝放送終了後すぐに東京に戻り、昼から『バイキング』に出演するというハードスケジュールをこなしていた。この関係から交通機関のアクシデントにより『バイキング』を欠席した事が何度かある(実例は、2014年10月6日の放送など)。 「世界・ふしぎ発見」に長年レギュラー出演している縁から、毎年8月15日に徳島市阿波おどりの『日立連』として10年以上に渡って参加している。 2020年4月6日放送からの『バイキング』はリモート出演を含めた必要最小限の出演者の進行になり、野々村真はこの日以降、スタジオ及びリモート出演機会が皆無となった。6月22日、フジテレビ局内にある別スタジオからのリモート出演で12週ぶりに番組出演した。 2021年7月31日、新型コロナウイルスへの感染を所属事務所が公表。自宅療養していたが症状が悪化し、8月5日に保健所の指示で入院した。8月25日、退院を報告。
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エピソード・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:52 UTC 版)
「瀬戸内少年野球団」の記事における「エピソード・その他」の解説
二宮菜木役の鷲尾いさ子の抜擢は、監督の三村晴彦が寝転がってテレビを見ていたら、『野ゆき山ゆき海べゆき』の鷲尾のスチル写真が映って飛び起き、すぐにプロデューサーに連絡を取り、鷲尾と会って、菜木のイメージにピッタリと起用を決めた。 若手時代の松本人志がオーディションを受けている。
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エピソード・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 07:42 UTC 版)
もともと東京に進出する予定はなく、フリーとなった後も地元・岩手県に骨を埋めるつもりだった。『ズームイン!!朝!』初代総監督の齋藤太朗からたびたび東京進出のオファーを受けていたが、固辞し続けていた。泰葉の後任として『おもいッきりテレビ』アシスタントの依頼を受けた時も半年の出稼ぎのつもりで受諾したという。齋藤によれば「女性の敵は女性」という定説があった中で、高橋が女性に好かれるタイプのタレントであったことが『おもいッきりテレビ』の視聴ターゲットであった女性視聴者の支持につながったと述懐している。以上の経緯から『おもいッきりテレビ』以外の仕事は積極的に受けていなかった。 『おもいッきりテレビ』放送終了後、2007年12月16日、日本テレビで午後2時から3時半まで放送された『日本全国お取り寄せお歳暮スペシャル』で2ヶ月半ぶりにテレビ出演。その後は出身地である東北ローカルの番組(下記「外部リンク」参照)に準レギュラーとして出演している。 2008年1月27日、テレビ朝日『旅の香り』に出演(日本テレビ系列以外の番組初出演)。 2008年から2009年にかけて、アデランスの女性用ウィッグのCMに出演。 2009年3月5日、『ズームイン!!SUPER』の天気リレーでテレビ岩手の後任のキャスター達とともに出演。
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エピソード・その他
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1992年バルセロナオリンピック(女子10000m)と1996年アトランタオリンピック(女子マラソン)の日本代表選手だった、真木和(現姓:山岡)が所属するワコールに入社。現在の真木は現役引退後、結婚して一児の母となったが、時折野口の出走するレースの応援に駆けつける事があった。 2004年アテネオリンピックの優勝決定の後、野口は右足のマラソンシューズを脱ぎ、右靴にキスをしていた。それは野口のシューズを製作した、当時アシックス所属の三村仁司に対するお礼と感謝の意味だった、と野口自ら説明している。それでもその靴にキスをしたシーンは、「靴の中の匂いを嗅いでいたのか?」と誤解される事も多かったという。 しかしその直後野口は、気温35度前後の猛暑と五輪史上最難関コースの呼び声の高い、アテネ五輪の女子マラソンを戦ったダメージからか、軽い熱中症と嘔吐症状により、医務室へ運ばれた(ほか銀メダルのヌデレバをはじめ、医務室へ運ばれた選手が多く出た)。それから数分後回復してからの五輪優勝インタビューでは、前回シドニー五輪金メダリストの高橋尚子は「凄く楽しい42キロでした」と笑顔で締め括ったが、野口は対照的に時折声を詰まらせながら「もう…幸せです…有り難う御座います…」と、嬉し涙を流しながらコメントしていた。 名前の由来は落葉高木の「ハナミズキ」から。2004年年末恒例のの第55回NHK紅白歌合戦では特別審査員として出演(一青窈が『ハナミズキ』を歌う際、紅組司会の小野文惠アナウンサーは曲紹介で、野口の名前の由来である事については一言も述べなかったが、間奏部分では画面に野口のアップが映された)。 2008年4月26日に長野市で行われた、日本における北京オリンピック聖火リレーの最終走者をつとめた。 北京オリンピック後の2008年10月11日、新潟県佐渡市でトークショーに出席した(公の場に登場したのは北京五輪前の7月4日にスイス合宿への出発以来3か月ぶり)。トークショーの司会者は北京五輪の話題を避けようとしたが、その後野口自らあえて五輪欠場の話題を口にする。その席で野口は「北京五輪を故障で欠場してしまい、申し訳無い気持ちで一杯です。藤田監督と広瀬(永和)コーチが批判されていたが、それでも私を守ってくれました。故障の原因はやっぱり自分だったので…」と語ると、思わず涙で言葉を詰まらせた。それでも最後は笑顔で「次の大きな目標は2012年のロンドンオリンピックですが、今は早く故障を治して、次のレースで元気な姿を見せられるように頑張ります」と気丈に語っていた。 2016年3月の名古屋ウィメンズマラソンで23位で完走した野口は、ゴール後に同大会のゲスト解説者だった高橋尚子と対面。高橋が涙しながら野口を「よく最後まで頑張ったね」と称えつつ抱擁した際に、野口からは「今まで言えなかったんですけど、私ずっと高橋さんが憧れでした。金メダルを獲れたのも日本記録を出せたのも、ずっと追いつけない存在があったから。今の私があるのは高橋さんのおかげです」等と高橋に対し全ての思いを明かし、二人で号泣したという。それから1か月後の同年4月、野口が現役引退表明した後の高橋は「お疲れ様でした。常に全力で走り続ける姿は、多くの人達に刺激や感動を与えてくれました。長い間マラソン界を率いてくれて有難う。マラソン界に刻まれた功績は輝き続けるでしょうし、みずきちゃんの今後の人生も金メダル同様輝く事を願っています」と労いの言葉を贈っていた。 2019年4月24日、女子マラソン種目でシドニー五輪・金メダリストの高橋を始め、バルセロナ五輪銀・アトランタ銅メダリストの有森裕子、1997年世界陸上アテネ大会で優勝した鈴木博美、2003年世界陸上パリ大会で3位の千葉真子など、数々の日本女子ランナーを育てた小出義雄が肺炎により80歳で死去。小出の訃報に野口は「最後に小出監督と会ったのは、2019年の3月の名古屋ウィメンズマラソンです。その時有森さんと高橋さんが、小出監督の身体を気遣う様子を見ていて、家族みたいで温かい光景だなと。競技を離れてもこんな関係をずっと続けられるのは良いなあ、と思いました」「その時も小出監督は冗談を言って私達を笑わせてくれて、まだまだ元気だなと思っていたので、まさかあの時が最後に成るとは…」と言葉を詰まらせつつ、「私は小出さんがご指導された高橋さんに憧れて、後を追いました。一時代を一緒に戦えた事に感謝しています。心よりご冥福をお祈り致します」と追悼した。 大のマグロ好きとして知られる(三重県伊勢市のマグロ業者より1年分のマグロをプレゼントされた)。 座右の銘 「走った距離は裏切らない」 野口を記念して命名された場所みずきロード - 高校時代の練習コース(三重県伊勢市) 野口みずきクロカンコース - 国内練習拠点として使用する菅平高原クロスカントリーコース(長野県上田市) 金メダルロード - 雨天時に早朝練習を行う京都三条会商店街アーケード(三条通、京都府京都市) 所属はシスメックス、履いているシューズはASICS(アシックス)、掛けているサングラスはSWANS(山本光学)、そしてスペシャルドリンクを入れているボトルはZOJIRUSHI(象印マホービン)。 「野口みずき杯 中日三重お伊勢さんマラソン」が、毎年12月、三重県営サンアリーナをメイン会場に開かれている。
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ナムコのゲーム『イシターの復活』のルームNo.89「DEAD END(行き止まり)」にて、デスクの前で倒れている姿で登場。これは「死んだ(DEAD)遠藤(END)」とかけた洒落である。因みに、この部屋は一本道の行き止まりである。 アルバム『ハドソン・ゲーム・ミュージック』の収録曲「バイナリィランド」において、3歳から始めたピアノの腕前を披露している。楽器はピアノの他に、中学からトランペット、高校ではジャズ・コンボを作ったり、シンセサイザーやベースギターも経験する。 自身がゲームデザインを手がけた『Bビーダマン爆外伝』のカードゲームでは、CMソング「いくぜ!キラカード!!(ダークビーダ編、ビーダマン編)」の作詞も手がけている。 多忙な身であるがサイトを運営するファンのインタビューに応じたり2ちゃんねる等のインターネットを中心として行われるOFF会等、遠藤が誘われた際は都合があう場合に限り出席する事もある。インタビュー・OFFの様子は、多くのサイト・ブログに記されている。ファンとの集いで判明した事実・裏話もかなり多い。 ウィキペディアに対しては批判的立場を示しており、ブログや雑誌上で度々、「自身についての項目は嘘ばかりである」と述べている。
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「小林弥生 (お天気キャスター)」の記事における「エピソード・その他」の解説
6月6日放送の関西テレビ系列のバラエティ番組「たかじん胸いっぱい」の番組内のコーナーである、『松本人志結婚記念特別企画「全国のお天気お姉さん大紹介」』にパネルで出演した。 しかし、司会のやしきたかじんからは「(結婚相手の理想としては)遠い!!」と言われた。 2002年、短大時代に福岡にいた頃に現在でも放送されているKBC九州朝日放送「 ドォーモ」のコーナーであった 西鉄大橋駅前で、九州各地から福岡10代の女の子の成長を追っていくさなぎちゃんに出演の経験があり、2009年10月27日火曜日深夜OAの「ドォーモ」20周年として過去のコーナーが取り上げられ、その日1日だけ初代・さなぎちゃんハンターこと秋山仁志元・KBCアナウンサー(現・KBCラジオ制作部)が出演し、秋山仁志 元・アナが福岡からはるばるとテレビ大分までその後の成長ぶりを見に来た。
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1975年、第3回(本選)の生放送開始直前、超満員の観客が見守る中でナイフを持った34歳(当時)の男がステージに向かい、司会の吉永小百合を襲うというハプニングが起きた。会場は一時騒然となったが、男はその場で取り押さえられ、吉永にも怪我はなかった。 1985年、中森明菜がグランプリを受賞した際はトロフィーと花束で両手が塞がりマイクが持てなくなる一幕があった。中森はそのことを口にせず周囲は対応を取ろうとしなかったが、候補者として同じステージにいたアン・ルイス、岩崎良美が中森から花束を受け取ってさりげなくフォローしたため、スムーズに歌唱へと移った。 美空ひばりは芸能生活30周年を迎えた1976年に特別賞を受賞し、1度だけ出演したことがあり、「雑草の歌」を歌唱した。1989年、ひばりの死去に伴って特別賞が授与された(死後追贈)。 日本国外からジャッキー・チェン(1984年)、ケニー・ロギンス(1984年)、フィンツィ・コンティーニー(1986年)、a-ha(1987年)、マライア・キャリー(1994年。ニューヨークからの衛星中継)、スティング(2001年)、デスティニーズ・チャイルド(2004年)、ダニエル・パウター(2006年)、シェネル(2012年)などが出演している。 コンサート形式に変更されてからの数年間は、「ベストヒットセレクション」として1990年代のみの形式変更後の曲しか放送されていなかった。その後「秘蔵VTR感動の名曲集」(第1回からの名場面ピックアップ映像集)は、2002年に初めて放送された。 2001年は「2001 FNS歌謡祭・放送10周年記念」と題して行ったが、これはコンテスト時代の年数を勘定に含まない形で「10周年」としていたためであった。2004年は第1回(1974年)から通算した年数により「30周年記念・2004FNS歌謡祭」と題して行った。なおコンテスト形式時代には、1984年7月19日に『FNS歌謡祭10周年記念特別企画 栄光のビッグスター 想い出のシーン 涙の感動編』が『木曜おもしろバラエティ』で放送された事があった。 2005年(第34回)では男性司会者の草彅がSMAPとしても出演しトップバッターと大トリで歌唱し、女性司会者の黒木も歌手としても出演(芸能生活25周年記念)し、「すみれの花咲く頃」、「運命〜ぐうぜん〜」の2曲を歌唱したため、司会が双方とも歌手としても出演する初の形となった。以降、草彅が司会の常連になる(2014年まで。2008年を除く)と同時にSMAPがトップバッター(2014年まで。2011年を除く)と大トリで歌唱するのが恒例となっている。2007年には黒木と彼女がかつて在籍していた宝塚歌劇団のメンバーで『すみれの花咲く頃』を歌唱した。 2008年の放送(第37回)では、番組開始35周年と開局50周年を記念して「フジテレビ音楽番組50年秘蔵映像」を放送。過去の本番組からはもちろんのこと、『夜のヒットスタジオ』、『ミュージックフェア』、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』、『僕らの音楽』、『ヒットパレード90's』、『G-STAGE』、『SOUND ARENA』『日本歌謡大賞』などの歴代フジテレビ系列音楽番組からの秘蔵映像が紹介された。また『情報プレゼンター とくダネ!』(当時、木曜日に「朝のヒットスタジオ」という歌のコーナーを放送)司会の小倉智昭・菊川怜が会場出演。以後小倉の出演が恒例化している(小倉は翌朝の『とくダネ!』で後日談を語るのも恒例)。 2020年の放送(第49回)では、第1夜でトリを務める予定だったNEWSに加え、第2夜に出演予定だったAKB48も別の仕事での共演者が新型コロナウイルスに感染した関係で出演を見合わせ、代わりに過去の出演シーンの名場面集が急遽放送された。 客席にフジテレビの若手女性アナウンサーが映ることがしばしばあるが、これは港曰く「見切れてもいいAD」なのだそうで、彼女達は出演者誘導などの裏方仕事に従事している。 2011年の放送(第40回)からは番組の放送中にインターネットの連動で、番組公式のTwitterで出番前や出番後のアーティストや番組の裏側を紹介するツイートが投稿されている。以降、毎年行われている。
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エピソード・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 02:40 UTC 版)
渡辺貞夫からのグループ加入の誘いを断ったことがある。この時、代わりに加入したのが増尾好秋。 渡辺香津美が弟子入りを志願したが、多忙を極めていた時期と重なり断ったのは有名な話。 ギタリスト直居隆雄、岩見淳三、水口昌昭らは高校生のころから杉本の追っかけをやっていた。 エレキベーシストのグレッグ・リーの仲人は杉本喜代志。 筒美京平のファーストコールミュージシャンであり、お気に入りのプレイヤーの一人であった。 フランク・ウエスは“ゴキゲン”と称した。 作家の村上春樹とは、若いころに交流の経験があり、村上の著書『職業としての小説家』において記載がある。 甥には、教育哲学者、福祉心理学者、経営倫理学者の望月雅和がいる。 旭川 LIVE JAM には、`86・88・89・91・92年に出場。`86は ルー・ドナルドソン・カルテット の一員として参加。
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2011年1月8日の朝日新聞「マイタウン 岩手」にてインタビューが掲載され、そこで歌の歌詞の中の「君」を指す人物との結婚を公表。2010年10月22日に行われた、活動休止前ラストライブのMC中でも、「長年好きだった人と結婚する道を選び、岩手に帰る」旨を発表していた。(なお、相手は中学時代の同級生であることがマイタウンに掲載されている)2012年10月に第一子(長男)を出産した。
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エピソード・その他
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「闇の列車、光の旅」の記事における「エピソード・その他」の解説
ホンジュラスの少女、サイラを演じたパウリナ・ガイタンはメキシコ人であり、この役のためにホンジュラスで話されているスペイン語のアクセントを習った。一方、カスペルを演じたエドガル・フローレスはホンジュラス人である。フクナガはキャスティングメンバーとともにホンジュラスへ渡り、現地でオーディションを行い、サイラ候補の役者、500人前後をオーディションしたが、ピンとくる役者が見つからなかったため、キャスティングの初期段階ですでに顔合わせをしていたガイタンに決定したという。キャスティングには1年間かけたという。 フクナガは、ホンジュラスやメキシコ南部に数回行き、実際、危険な貨物列車の上にのったりして現地での聞き込み調査をおこなった。移民たちと一緒に過ごしていたある夜、「泥棒!泥棒!」という叫び声とともに、近くから銃声がきこえてきたという。そして翌朝、現金を持っていた移民が、ギャングに襲われ、現金を渡さなかったために撃たれて貨物列車から突き落とされて死亡したということを知らされた。現地での調査中は、目立たないようにするために坊主にしたという。 脚本はフィクションだが、北(el norte)へ向かう途中の移民や、危険な移動で米国にたどり着いた経験をもつ移民たちからおこなった聞き込み調査の総括と、現地の元・ギャングメンバー、そして現役のギャングメンバーからも話を聞き、それを忠実にまとめたものだという。ギャングの実態を知るために、地元の刑務所にも足を運んだ。取材に協力してくれたギャングメンバーに完成した映画をみせたところ、「よくもわるくもない。公平な仕上がりだな」と言われたという。この脚本に対して「もしぼくに怒りを覚える人がいたとするなら、それは18ストリートくらいじゃないかな?」といっている。映画の中で唯一いれたジョークが「18ストリートのメンバーはまっすぐ撃てない(へたくそ)」くらいだから、とのこと。 撮影終了後は必ず、ギャングメンバー役のエキストラ達につけたフェイク・タトゥーがきちんと落ちているかのボディ・チェックを丹念にしたという。これは、落とすのを忘れてそのまま家に帰してしまって、帰宅中にギャングと勘違いされて殺されたりしないように、という配慮からだった。
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