国際プロレス時代とは? わかりやすく解説

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国際プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:19 UTC 版)

ストロング小林」の記事における「国際プロレス時代」の解説

東京都文京区本郷生まれ、同青梅市疎開し、終戦後そのまま同地育った中学時代相撲部屋からスカウトが来たが断り東京都立農林高等学校卒業後、国鉄就職し稲城長沼駅勤務。父も国鉄勤務していた。勤務傍らプロレスラー力道山逆三角形肉体憧れてボディビル打ち込む1966年10月友人出場したボディビル大会の会場で、国際プロレス社長吉原功出会いその場吉原マティ鈴木スカウトされ団体旗揚げ間近同年11月1日入門プロレスラー転向に関しては、家族からプロレスラーになるために国鉄退職するのを反対され、最終的に親戚まで呼んで説得したという。ヒロ・マツダ付き人として全国巡業同行。翌1967年7月27日マスクマンの「覆面太郎」として大磯武相手デビュー日本デビューした覆面レスラー第1号となるが、1968年1月3日TBSによる国際プロレステレビ放映開始同時に素顔になった当時ブッカーだったグレート東郷国際プロレス決別して帰国する際、東郷からアメリカ行き打診されたが、その誘い断り1968年10月ヨーロッパへの初の海外修行出発その後帰国遠征繰り返す中で実力上げパリでのIWA世界タッグ王座奪取1969年5月18日豊登組んでモンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフ勝利)、東京でのUSAヘビー級王座獲得1969年10月14日バディ・コルトから奪取)、アメリカ合衆国ミネソタ州ダルースでのIWA世界ヘビー級王座戴冠1971年6月19日前王者はビル・ミラー)、1972年第4回IWAワールド・シリーズ優勝決勝相手ロシモフ)などの実績築き国際プロレスエース君臨する当時国際プロレス提携団体だったAWA総帥バーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座にも、1970年2月大阪東京連続挑戦1971年アメリカ遠征においても、ミネアポリスシカゴデンバーウィニペグミルウォーキーなど各地再三挑戦したIWA世界ヘビー級王者として凱旋帰国する際も、ガニアからはアメリカに残るよう慰留されたという。 IWA世界ヘビー級王座1971年6月獲得からワフー・マクダニエル敗れ1973年11月9日まで2年6か月保持ブラックジャック・ランザレッド・バスチェンバロン・フォン・ラシクジェリー・ブラウンダスティ・ローデスダン・ミラーカーティス・イヤウケアビル・ロビンソンクラッシャー・リソワスキーホースト・ホフマンマッドドッグ・バションエドワード・カーペンティアイワン・コロフディック・マードック前王ミラー、そして同門ラッシャー木村などの強豪挑戦者に、25回の防衛記録している。この記録は、ジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級王座21連続防衛を破る当時日本人新記録であった(後に馬場PWFヘビー級王座38連続防衛達成し抜き返した)。 その間1972年7月7日には、木村返上空位となっていたIWA世界タッグ王座決定戦において、グレート草津との新コンビミラー&バロン・シクルナ破り、同王座への2度目戴冠を果たす。以後シングルタッグのIWA2冠王として1973年4月18日にバション&コロフ敗れるまで、バディ・オースチン&ビル・ドロモディック・ザ・ブルーザー&クラッシャーなどのチーム相手に6回の防衛戦行った国際プロレス象徴でもあった金網デスマッチには、1971年10月26日ダニー・リンチ戦で初挑戦国際所属選手では木村サンダー杉山次いで3人目)。以降IWA世界ヘビー級王座防衛戦では1972年1月27日のイヤウケア戦、同年11月28日クラッシャー戦、1973年1月16日ザ・プロフェッショナルダグ・ギルバート)戦、同年3月16日のバション戦の4試合金網デスマッチ行われたノンタイトル戦でもオースチン、ドロモ、ベンジー・ラミレス、バスチェン、ターザン・タイラーラーズ・アンダーソンローデススカンドル・アクバマードックブラックジャック・マリガンなどと金デスマッチ対戦した

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国際プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 07:46 UTC 版)

ラッシャー木村」の記事における「国際プロレス時代」の解説

大相撲廃業後1964年10月日本プロレス入団1965年4月2日リキ・スポーツパレスに於いて高崎山猿吉戦でデビューする豊登付き人をしていた関係から、翌1966年豊登興した東京プロレス旗揚げ参加し1967年東京プロレス崩壊後吉原功口説かれ国際プロレス移籍1969年1月1日リングネームラッシャー木村改名同年4月20日サンダー杉山組んでスタン・スタージャック&タンク・モーガンを破りTWWA世界タッグ王座獲得、初戴冠を果たす。以降ドリー・ディクソン&モーガンジャン・ウィルキンス&チーフ・ダニー・リトルベアスタン・ザ・ムース&ニキタ・マルコビッチなどのチーム防衛戦行った後、8月王座返上して渡米したアメリカでは中西部カンザスおよびミズーリ拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区主戦場に、後に日本流血の抗争展開することになるキラー・トーア・カマタタッグ組みロニー・エチソンモンゴリアン・ストンパーアーニー・ラッドKO・コックスボブ・ガイゲルなどと対戦1970年2月21日には当時NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアにも挑戦した覆面被りシャチ横内とジ・インベーダーズ(The Invaders)なるタッグチーム結成していたこともある。 1970年8月凱旋帰国し、10月8日には大阪府立体育館にてドクター・デス相手に、日本初金網デスマッチを行う。同デスマッチ第2戦となる12月12日オックス・ベーカー戦で左足複雑骨折する重傷を負うも、第3戦となる1971年3月2日のザ・クエッション戦はギプス装着して強行出場した以降バスター・マシューズダニー・リンチカーティス・イヤウケアバロン・シクルナバディ・オースチンラーズ・アンダーソンスカンドル・アクバリック・フレアーオレイ・アンダーソンザ・ブルートレネ・グレイセーラー・ホワイトバロン・フォン・ラシクレイ・スティーブンスマッドドッグ・バションカマタブッチャー・ブラニガンジプシー・ジョーピエール・マーチンギル・ヘイズリッパー・コリンズらに連勝金網デスマッチでは不敗誇り、「金網の鬼」の異名定着した1974年6月5日には米沢にて、ホワイト日本初金網チェーン・デスマッチを行っている。 タッグでは1971年9月TWWA世界タッグ王座戴冠時のパートナーだった杉山組みグレート草津海外遠征による返上空位となっていたIWA世界タッグ王座レッド・バスチェン&ビル・ハワードと争う。9月7日の新王者チーム決定戦では敗退するも、9月23日に再び杉山組み、新王者チームのバスチェン&ハワード破ってIWA世界タッグ王座を初奪取以降1972年木村再渡米に伴う王座返上まで、リンチ&ラシク、ブロンド・ボンバーズ、ダン・ミラー&イヤウケア、モンスター・ロシモフ&イワン・バイテンなどを相手に7回防衛した帰国後の1973年4月30日には、グレート草津を新パートナーにバション&イワン・コロフ保持するIWA世界タッグ王座挑戦敗退したものの、5月14日再戦勝利し王座を再び奪取草津とのコンビでは、1975年4月タイトル返上するまで、テキサス・アウトローズダスティ・ローデス&ディック・マードック)、ミネソタ・レッキング・クルーオレイ&ジン・アンダーソン)、ハリウッド・ブロンズジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、ザ・キウィズニック・カーター&スウィート・ウィリアムス)、スーパースター・ビリー・グラハム&ラシク、ワフー・マクダニエル&バスチェン、AWA世界タッグ王者チームニック・ボックウィンクル&スティーブンスなど、当時アメリカでトップクラス強豪チーム相手11回の防衛成功したこのうち1974年3月31日釧路市厚生年金体育館行われたジム・ブランゼル&ブルートとの防衛戦は、木村初金網タッグ・デスマッチとなった1973年6月19日茨城県笠間大会にて、国際エースだったストロング小林ローデス下しIWA世界ヘビー級王座防衛した直後小林挑戦状突きつけ同年7月9日大阪府立体育会館小林VS木村同門対決となるIWA世界ヘビー級王座戦が実現1954年12月22日力道山VS木村政彦以来となる大物日本人選手同士タイトルマッチとなった小林勝利し王座防衛)。同年10月には『IWAワールド・シリーズ第5回大会決勝戦ブラックジャック・マリガン破りシリーズ初優勝果たしている。 1974年小林離脱後は、一度マイティ井上先を越されるも、1975年4月19日にバションを金網デスマッチ破りIWA世界ヘビー級王座獲得これに伴いIWA世界タッグ王座返上)、以後国際プロレス消滅する1981年夏まで、6年間に渡ってエースとして活躍した1975年6月6日にはアントニオ猪木挑戦状突きつけ同年12月20日にはジャイアント馬場にも挑戦表明全日本プロレスとの交流戦では馬場ジャンボ鶴田対戦1976年3月28日蔵前国技館における鶴田戦は、東京スポーツ新聞社プロレス大賞において年間最高試合選定されている。1977年3月には、4年ぶりに開催された『IWAワールド・シリーズ第6回大会決勝戦でバションに勝利シリーズ連覇果たした1978年11月には、鶴田草津井上アニマル浜口キム・ドクミスター・サクラダミスター・ヒトディーン・ホーらが参加した日本リーグ争覇戦』において、決勝戦プロフェッサー・タナカ破り優勝1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』では、セミファイナル因縁小林対戦リングアウト勝ちを収めたIWA世界ヘビー級王者としても、前王者バションをはじめ、カマタジョーホワイトワイルド・アンガスリップ・タイラーアレックス・スミルノフキラー・ブルックスベーカージョン・トロスジョー・ルダックストンパー上田馬之助などのラフファイターを挑戦者流血戦を繰り広げる一方ビッグ・ジョン・クインマイク・ジョージ正攻法のパワーレスリングを展開した1979年10月5日には後楽園ホールにてAWA世界ヘビー級王者ボックウィンクルとのIWAAWAのダブル・タイトルマッチを行い反則勝ち収めている(反則勝ちのためAWA王座移動せず)。同年7月アンドレ・ザ・ジャイアント11月バーン・ガニアとのIWA王座戦それぞれ行われた1980年12月13日には新日本プロレスリングで、7年前とは逆に小林挑戦者迎えて防衛戦実現小林から初のフォール勝ちを収めた。 このほか、得意技ブルドッギング・ヘッドロック開発者であるカウボーイ・ボブ・エリス、前WWWFヘビー級王者として久々に国際プロレス参戦したビリー・グラハム東京プロレス以来対戦となるジョニー・パワーズ、後にNWAの主要テリトリー活躍するロン・バス、他団体から移籍してきたキラー・カール・クラップレイ・キャンディ当時の米マット界における成長株だったランディ・タイラースティーブ・オルソノスキーらの挑戦退けた途中上田スミルノフ、ガニアに王座奪われるも、いずれも短期間奪還1976年から1979年にかけては、元王者の小林記録していた25回を上回る26回の連続防衛成功している。1981年8月6日室蘭行われたジ・エンフォーサー戦が最後防衛戦であり、最後金網デスマッチでもあった。

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国際プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 21:03 UTC 版)

剛竜馬」の記事における「国際プロレス時代」の解説

父親板前であったが、母親家出して消息不明となり、妹たちに楽をさせたいと、中学卒業待たず上京日本プロレス数ヶ月練習生として通っていたが、デビューはできなかった。その理由として「日本プロレス関係者に『中学卒業してから来るように』と言われたから」とも、「先輩レスラー無理やり飲酒させられ身体壊したから」とも言われる。また日本プロレス時代、同じ新弟子として藤波辰爾出会うその後1971年国際プロレス第1回新人選手公募から選出され入団1972年9月9日群馬県藤岡市立体育館の米村勉戦でデビュー1973年になると全日本プロレスとの対抗戦にも出場した他、遅れて入団した大卒新人鶴見五郎と共に清美川梅之預かり海外武者修行出されカナダ一緒になった吉田光雄3、4ヶ月タッグ組んだこともある。しかし、遠征先ではパスポート提示求められることが少なくなく、18歳未満という理由試合出場できないこともあったという。1976年7月凱旋帰国し、国プロ東京12チャンネル主催ファン投票によって新リングネームを『剛竜馬』と決定する葉書目を通していた菊池孝によればリングネームは、遠征であったフランス開発した超音速旅客機コンコルドにあやかった「コンコルド八木」が一番多くヒロ・マツダ名を取ったヒロ八木」のリングネームもあったという。後に剛と同様にリングネーム公募した長州は、「『剛竜馬のような格好いい前にしてくれ」と関係者懇願したという。若く容姿にも恵まれた人気者で、次代の国プロ背負期待の星と目されていた。当時髪型は後にトレードマークになる角刈りではなく七三分けだった。また、別の時期には長髪にもしていた。 1976年11月25日には、初の金網デスマッチ挑戦し(対ジプシー・ジョー)、1977年には「第6回IWAワールド・シリーズ並びにIWAワールド・シリーズ同時開催されIWA世界タッグ王座争奪トーナメント出場IWAワールド・シリーズBブロック6位に終わりIWA世界タッグ王座争奪トーナメントサンダー杉山とのコンビ出場したものの、準決勝ビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘス敗退している(トーナメントクイン&ヘス優勝)。 その一方で試合運び単調で、技を失敗することも少なくなかったそれ故に、マッチメーカーであったグレート草津によるマッチメイクにより、前座甘んじることが多くなった。剛は原進入団直後から、国際退団ほのめかすようになり、1978年予定されていたカナダ・マリタイム地区遠征拒否したマイティ井上慰留したものの、剛は受け入れるつもりはなかった。

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国際プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:52 UTC 版)

アニマル浜口」の記事における「国際プロレス時代」の解説

1964年に、17歳ボディビル始め1969年ミスター兵庫コンテスト準優勝受賞同年8月ボディビル界との繋がり強かった国際プロレス入団プロレスラー転向するデビュー戦同年9月20日岡山県高梁市民会館における対本郷清吉戦で、反則負け喫している。後にパートナーとなるマイティ井上も、同じボディビルジムに通っていた。入門同時にグレート草津付き人務める。 浜口には格闘技経験がなく、身長も180cm未満レスラーとしてはけっして恵まれた体格とは言えなかった。だが当時国際プロレスにはカール・ゴッチビル・ロビンソンといった、後に名コーチとしても名を馳せるレスラー出入りしており、彼らから基礎を教わることでレスラーとしての礎を築く。またテクニシャン知られる同門寺西勇井上動き見習い頭脳的(ときに狡猾)なプレーを自らのものとする1970年には1964年東京オリンピックレスリング金メダリスト渡辺長武から渡辺自身代名詞であったアニマル」を授けられ吉原功命名する形でリングネームアニマル浜口改める。 1972年海外修行渡米しディック・ザ・ブルーザー主宰するインディアナ州インディアナポリスWWA遠征。ヒゴ・ハマグチ (Higo Hamaguchi) のリングネームミツ荒川パートナーとなり、膝下までの田吾作タイツ下駄ばきの日本人ヒールとしてブルーザーウイルバー・スナイダーカウボーイ・ボブ・エリスムース・ショーラックセーラー・アート・トーマスなどのトップスター対戦した1973年帰国後は国際プロレスメインイベンター1人となり、同年7月9日には大阪府立体育館にてバディ・ウォルフ相手金網デスマッチ初挑戦以降ディック・マードックブラックジャック・マリガンビル・ワットスーパースター・ビリー・グラハムバロン・フォン・ラシクレイ・スティーブンスなどの大物外国人ともシングルマッチ対戦したが、しばらくタイトルには恵まれず1976年2度目海外修行出発。カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングではリッパー・コリンズマネージャー迎えミスター・ヒト組んでインターナショナル・タッグ王座獲得プエルトリコWWCではゴードン・ネルソンパートナーに、アントニオ・ロッカ&ミゲル・ペレスから北米タッグ王座奪取した1977年IWAワールド・シリーズ第6回大会合わせて帰国した同時に心機一転コスチュームをワンショルダータイツに変更ワールド・シリーズ同時開催となったIWA世界タッグ王座争奪トーナメントでは寺西とのコンビ出場して決勝まで進出3月25日行われた決勝ビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘス敗れたものの、翌3月26日草津との新コンビクイン&ヘス破りIWA世界タッグ王座獲得以降ワイルド・アンガス&マスクド・インベーダー(プリティボーイ・アンソニー)、ジプシー・ジョー&キラー・トーア・カマタエリス&ザ・キラーなどのチーム下して王座防衛し末期国際プロレス中心選手として活躍した。 1978年1月5日にザ・サモアンズ(アファ&シカ)に王座奪われるが、3週間後の1月20日草津とのコンビ奪回以後1979年1月21日新日本プロレスヤマハ・ブラザーズ山本小鉄&星野勘太郎)に敗れるまで、アレックス・スミルノフ&ヒトスミルノフ&ジ・アトミックなどを相手に4回防衛した1979年2月23日同郷井上との新コンビヤマハ・ブラザーズから王座奪回井上とのチームでは、これ以前全日本プロレスとの交流戦アジアタッグ王座獲得しており、和製ハイ・フライヤーズオリジナルハイ・フライヤーズAWAグレッグ・ガニアジム・ブランゼル)、浪速ブラザーズなどと呼ばれた名コンビだった。このコンビではサモアンズ、上田馬之助&マサ斎藤大木金太郎&上田ジョー&キラー・ブルックスジョー&キラー・カール・クラップマイク・ジョージ&ボブ・スウィータン強豪チーム退けて王座防衛している。1979年11月14日の上田&ヤス・フジイ1980年7月25日スパイク・ヒューバー&ロッキー・ブリューワーとの防衛戦は、金網タッグ・デスマッチで行われたその間1979年8月26日プロレス夢のオールスター戦では、後の盟友長州力コンビ結成し全日本プロレス極道コンビグレート小鹿&大熊元司)と対戦した1980年3月31日後楽園ホールでの新日本プロレスとの対抗戦で、井上組んで木村健吾&永源遥相手IWA世界タッグ王座防衛戦行ったが、木村プランチャ浴びた際、観客こぼしたビールで足を滑らせ後頭部を床に打って失神右足首も捻挫して長期欠場するとともに試合井上&浜口反則勝ち)、井上とのコンビ保持していたIWA世界タッグ王座返上した。翌1981年4月には肝臓疾患のため欠場し前年7月15日井上組んで新日本ストロング小林&永源)から奪還したIWA世界タッグ王座をまたも返上してしまう。国際プロレス活動停止した同年8月欠場中のまま迎えた欠場中のシリーズポスターにおいても浜口写真掲載されていた)。

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国際プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 10:17 UTC 版)

ジェリー・モロー」の記事における「国際プロレス時代」の解説

ジャック・クレインボーンことエドワルド・エティフィア(エディ・モロー)の実弟パリのレスリング・ジムを経て1971年に兄が日本での主戦場としていた国際プロレス留学入門し同年7月6日の『ビッグ・サマー・シリーズ』開幕戦において、エティフィア・ジェラールの名で佐野浅太郎相手デビュー。続く『ダイナマイト・シリーズ』より、トリニダード・トバゴ出身黒潮太郎(テディ・ハーバード)に次ぐ留学生第2号であることから、稲妻二郎リングネーム与えられた。 以降日本人陣営一員としてミッドカード戦線活動したが、「正体不明黒人覆面レスラー」という触込みのもと、ザ・ワイルド・ヌウザ・キラーなどのマスクマン変身し外国人陣営としてシリーズ参戦したこともある。1974年6月変身したワイルド・ヌウとしては、7月13日気仙沼にてラッシャー木村と金デスマッチ行っている。この変身一時的なもので、ほどなくして素顔戻り1975年1月には寺西勇IWA世界ミッドヘビー級王座争った1975年4月よりカナダ遠征しマッドドッグ・バション主宰していたモントリオールのグランプリ・レスリングにて、本名のジェラルド・エティフィアとして兄のエドワルド・エティフィアとのタッグチーム活動日本同様にベビーフェイスポジションで、クルト・フォン・ヘス&セーラー・ホワイトや、メキシコから来たビジャノ1号&2号などのチーム対戦した11月からはエドワルドはエディ・モロー、ジェラルドジェリー・モロー名乗りスチュ・ハート主宰していたカルガリースタンピード・レスリング参戦11月7日タワーリング・インフェルノ戦で現地デビューした後、12月26日エディとのコンビミスター・ヒト&ギル・ヘイズからインターナショナル・タッグ王座奪取、翌1976年2月20日リッパー・コリンズ&ドン・ガニアに敗れるまで戴冠したタイトル陥落後は日本一時戻り1976年3月28日蔵前国技館行われた全日本プロレスとの対抗戦にも出場園田一治から勝利を収めている。5月開幕シリーズでは、フリーとして日本逆上陸してきた上田馬之助とも対戦した同年8月より再びカルガリー渡ってエディとのモロー・ブラザーズを再結成し、ヒト&ヒゴ・ハマグチの悪党日本人コンビコリンズ&ラリー・シャープのボディシャス・ブロンズとインターナショナル・タッグ王座争っている。 以降日本カナダ両国での活動続け1977年2月開幕の『第6回IWAワールド・シリーズ』では、同時開催されIWA世界タッグ王座争奪トーナメントにも兄と組んで出場したが、1回戦サンダー杉山&剛竜馬敗退日本での王座戴冠果たせなかった。4月からはジン・キニスキー主宰していたバンクーバーNWAオールスター・レスリング登場しシングルではジョン・アンソンマイク・シャープ・ジュニア対戦。エディ・モローとのコンビでは7月11日NWAカナディアン・タッグ王座獲得したが、8月22日にブラック・アベンジャー&テキサス・アウトロー(ボビー・バス)に敗れて陥落、この日が兄との最後タッグとなったという。 1977年9月バンクーバー離れて西ドイツ遠征しミスター・ヒトビッグ・ジョン・クインイワン・ストロゴフパット・ローチなどが参加したハノーバー・トーナメントに出場。翌1978年カルガリー戻りCFL出身黒人選手ジョージ・ウェルズを新パートナーに、2月17日ヒト&ミシェル・マーテルからインターナショナル・タッグ王座奪取ヒト&ミスター・サクラダ日本人チームとも抗争展開した1978年7月には国際プロレス韓国遠征参加最終戦7月28日ソウルにて当時大木金太郎保持していたインターナショナル・ヘビー級王座挑戦したその後カナダ日本行き来し売り出し中だった阿修羅・原教育係吉原功社長から任されている。1979年11月からは鶴見五郎&大位山勝三独立愚連隊との抗争勃発11月7日弘前大会で鶴見との髪切りマッチ勝利し鶴見坊主頭にした。 1980年バンクーバーにてスタン・スタージャックらと対戦した後、マイク・ジョージジョー・ルダック来日した4月開幕の『ビッグ・チャレンジ・シリーズ』に出場5月16日厚木大会での、原と組んで独立愚連隊とのタッグマッチ国際プロレスにおける最後試合となった

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