国際プロレス時代
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東京都文京区本郷で生まれ、同青梅市に疎開し、終戦後もそのまま同地で育った。中学時代に相撲部屋からスカウトが来たが断り、東京都立農林高等学校卒業後、国鉄に就職し、稲城長沼駅に勤務。父も国鉄に勤務していた。勤務の傍ら、プロレスラー力道山の逆三角形の肉体に憧れてボディビルに打ち込む。1966年10月、友人が出場したボディビル大会の会場で、国際プロレス社長・吉原功と出会い、その場で吉原とマティ鈴木にスカウトされ、団体旗揚げ間近の同年11月1日に入門。プロレスラー転向に関しては、家族からプロレスラーになるために国鉄を退職するのを反対され、最終的に親戚まで呼んで説得したという。ヒロ・マツダの付き人として全国巡業に同行。翌1967年7月27日、マスクマンの「覆面太郎」として大磯武を相手にデビュー。日本でデビューした覆面レスラー第1号となるが、1968年1月3日、TBSによる国際プロレスのテレビ放映開始と同時に素顔になった。 当時のブッカーだったグレート東郷が国際プロレスと決別して帰国する際、東郷からアメリカ行きを打診されたが、その誘いを断り、1968年10月にヨーロッパへの初の海外修行へ出発。その後、帰国と遠征を繰り返す中で実力を上げ、パリでのIWA世界タッグ王座奪取(1969年5月18日、豊登と組んでモンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフに勝利)、東京でのUSAヘビー級王座獲得(1969年10月14日、バディ・コルトから奪取)、アメリカ合衆国ミネソタ州ダルースでのIWA世界ヘビー級王座戴冠(1971年6月19日、前王者はビル・ミラー)、1972年の第4回IWAワールド・シリーズ優勝(決勝の相手はロシモフ)などの実績を築き、国際プロレスのエースに君臨する。当時の国際プロレスの提携団体だったAWAの総帥バーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座にも、1970年2月に大阪と東京で連続挑戦。1971年のアメリカ遠征においても、ミネアポリス、シカゴ、デンバー、ウィニペグ、ミルウォーキーなど各地で再三挑戦した。IWA世界ヘビー級王者として凱旋帰国する際も、ガニアからはアメリカに残るよう慰留されたという。 IWA世界ヘビー級王座は1971年6月の獲得からワフー・マクダニエルに敗れる1973年11月9日まで2年6か月間保持、ブラックジャック・ランザ、レッド・バスチェン、バロン・フォン・ラシク、ジェリー・ブラウン、ダスティ・ローデス、ダン・ミラー、カーティス・イヤウケア、ビル・ロビンソン、クラッシャー・リソワスキー、ホースト・ホフマン、マッドドッグ・バション、エドワード・カーペンティア、イワン・コロフ、ディック・マードック、前王者ミラー、そして同門のラッシャー木村などの強豪を挑戦者に、25回の防衛を記録している。この記録は、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座21回連続防衛を破る当時の日本人新記録であった(後に馬場がPWFヘビー級王座の38回連続防衛を達成し抜き返した)。 その間の1972年7月7日には、木村の返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座決定戦において、グレート草津との新コンビでミラー&バロン・シクルナを破り、同王座への2度目の戴冠を果たす。以後、シングルとタッグのIWA2冠王として、1973年4月18日にバション&コロフに敗れるまで、バディ・オースチン&ビル・ドロモ、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャーなどのチームを相手に6回の防衛戦を行った。 国際プロレスの象徴でもあった金網デスマッチには、1971年10月26日のダニー・リンチ戦で初挑戦(国際所属選手では木村とサンダー杉山に次いで3人目)。以降、IWA世界ヘビー級王座の防衛戦では1972年1月27日のイヤウケア戦、同年11月28日のクラッシャー戦、1973年1月16日のザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)戦、同年3月16日のバション戦の4試合は金網デスマッチで行われた。ノンタイトル戦でもオースチン、ドロモ、ベンジー・ラミレス、バスチェン、ターザン・タイラー、ラーズ・アンダーソン、ローデス、スカンドル・アクバ、マードック、ブラックジャック・マリガンなどと金網デスマッチで対戦した。
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国際プロレス時代
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大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団。1965年4月2日、リキ・スポーツパレスに於いて、高崎山猿吉戦でデビューする。 豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。同年4月20日、サンダー杉山と組んでスタン・スタージャック&タンク・モーガンを破り、TWWA世界タッグ王座を獲得、初戴冠を果たす。以降、ドリー・ディクソン&モーガン、ジャン・ウィルキンス&チーフ・ダニー・リトルベア、スタン・ザ・ムース&ニキタ・マルコビッチなどのチームと防衛戦を行った後、8月に王座を返上して渡米した。 アメリカでは中西部のカンザスおよびミズーリを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に、後に日本で流血の抗争を展開することになるキラー・トーア・カマタとタッグを組み、ロニー・エチソン、モンゴリアン・ストンパー、アーニー・ラッド、KO・コックス、ボブ・ガイゲルなどと対戦。1970年2月21日には当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアにも挑戦した。覆面を被り、シャチ横内とジ・インベーダーズ(The Invaders)なるタッグチームを結成していたこともある。 1970年8月に凱旋帰国し、10月8日には大阪府立体育館にてドクター・デスを相手に、日本初の金網デスマッチを行う。同デスマッチ第2戦となる12月12日のオックス・ベーカー戦で左足を複雑骨折する重傷を負うも、第3戦となる1971年3月2日のザ・クエッション戦はギプスを装着して強行出場した。以降もバスター・マシューズ、ダニー・リンチ、カーティス・イヤウケア、バロン・シクルナ、バディ・オースチン、ラーズ・アンダーソン、スカンドル・アクバ、リック・フレアー、オレイ・アンダーソン、ザ・ブルート、レネ・グレイ、セーラー・ホワイト、バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンス、マッドドッグ・バション、カマタ、ブッチャー・ブラニガン、ジプシー・ジョー、ピエール・マーチン、ギル・ヘイズ、リッパー・コリンズらに連勝。金網デスマッチでは不敗を誇り、「金網の鬼」の異名が定着した。1974年6月5日には米沢にて、ホワイトと日本初の金網チェーン・デスマッチを行っている。 タッグでは1971年9月、TWWA世界タッグ王座戴冠時のパートナーだった杉山と組み、グレート草津の海外遠征による返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座をレッド・バスチェン&ビル・ハワードと争う。9月7日の新王者チーム決定戦では敗退するも、9月23日に再び杉山と組み、新王者チームのバスチェン&ハワードを破ってIWA世界タッグ王座を初奪取。以降、1972年の木村の再渡米に伴う王座返上まで、リンチ&ラシク、ブロンド・ボンバーズ、ダン・ミラー&イヤウケア、モンスター・ロシモフ&イワン・バイテンなどを相手に7回防衛した。 帰国後の1973年4月30日には、グレート草津を新パートナーにバション&イワン・コロフが保持するIWA世界タッグ王座に挑戦。敗退したものの、5月14日の再戦で勝利し同王座を再び奪取。草津とのコンビでは、1975年4月にタイトルを返上するまで、テキサス・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)、ミネソタ・レッキング・クルー(オレイ&ジン・アンダーソン)、ハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、ザ・キウィズ(ニック・カーター&スウィート・ウィリアムス)、スーパースター・ビリー・グラハム&ラシク、ワフー・マクダニエル&バスチェン、AWA世界タッグ王者チームのニック・ボックウィンクル&スティーブンスなど、当時のアメリカでもトップクラスの強豪チームを相手に11回の防衛に成功した。このうち、1974年3月31日に釧路市厚生年金体育館で行われたジム・ブランゼル&ブルートとの防衛戦は、木村初の金網タッグ・デスマッチとなった。 1973年6月19日、茨城県笠間大会にて、国際のエースだったストロング小林がローデスを下しIWA世界ヘビー級王座を防衛した直後、小林に挑戦状を突きつけ、同年7月9日の大阪府立体育会館で小林VS木村の同門対決となるIWA世界ヘビー級王座戦が実現、1954年12月22日の力道山VS木村政彦戦以来となる大物日本人選手同士のタイトルマッチとなった(小林が勝利し王座防衛)。同年10月には『IWAワールド・シリーズ』第5回大会の決勝戦でブラックジャック・マリガンを破り、シリーズ初優勝を果たしている。 1974年の小林離脱後は、一度はマイティ井上に先を越されるも、1975年4月19日にバションを金網デスマッチで破りIWA世界ヘビー級王座を獲得(これに伴い、IWA世界タッグ王座を返上)、以後、国際プロレスが消滅する1981年夏まで、6年間に渡ってエースとして活躍した。1975年6月6日にはアントニオ猪木に挑戦状を突きつけ、同年12月20日にはジャイアント馬場にも挑戦を表明。全日本プロレスとの交流戦では馬場やジャンボ鶴田と対戦、1976年3月28日の蔵前国技館における鶴田戦は、東京スポーツ新聞社のプロレス大賞において年間最高試合に選定されている。1977年3月には、4年ぶりに開催された『IWAワールド・シリーズ』第6回大会の決勝戦でバションに勝利、シリーズ連覇を果たした。1978年11月には、鶴田、草津、井上、アニマル浜口、キム・ドク、ミスター・サクラダ、ミスター・ヒト、ディーン・ホーらが参加した『日本リーグ争覇戦』において、決勝戦でプロフェッサー・タナカを破り優勝。1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』では、セミファイナルで因縁の小林と対戦、リングアウト勝ちを収めた。 IWA世界ヘビー級王者としても、前王者バションをはじめ、カマタ、ジョー、ホワイト、ワイルド・アンガス、リップ・タイラー、アレックス・スミルノフ、キラー・ブルックス、ベーカー、ジョン・トロス、ジョー・ルダック、ストンパー、上田馬之助などのラフファイターを挑戦者に流血戦を繰り広げる一方、ビッグ・ジョン・クインやマイク・ジョージと正攻法のパワーレスリングを展開した。1979年10月5日には後楽園ホールにてAWA世界ヘビー級王者ボックウィンクルとのIWAとAWAのダブル・タイトルマッチを行い、反則勝ちを収めている(反則勝ちのためAWA王座は移動せず)。同年は7月にアンドレ・ザ・ジャイアント、11月にバーン・ガニアとのIWA王座戦もそれぞれ行われた。1980年12月13日には新日本プロレスのリングで、7年前とは逆に小林を挑戦者に迎えての防衛戦が実現、小林から初のフォール勝ちを収めた。 このほか、得意技ブルドッギング・ヘッドロックの開発者であるカウボーイ・ボブ・エリス、前WWWFヘビー級王者として久々に国際プロレスに参戦したビリー・グラハム、東京プロレス以来の対戦となるジョニー・パワーズ、後にNWAの主要テリトリーで活躍するロン・バス、他団体から移籍してきたキラー・カール・クラップやレイ・キャンディ、当時の米マット界における成長株だったランディ・タイラーやスティーブ・オルソノスキーらの挑戦も退けた。途中、上田、スミルノフ、ガニアに王座を奪われるも、いずれも短期間で奪還。1976年から1979年にかけては、元王者の小林が記録していた25回を上回る26回の連続防衛に成功している。1981年8月6日、室蘭で行われたジ・エンフォーサー戦が最後の防衛戦であり、最後の金網デスマッチでもあった。
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国際プロレス時代
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父親は板前であったが、母親が家出して消息不明となり、妹たちに楽をさせたいと、中学卒業を待たずに上京。日本プロレスに数ヶ月練習生として通っていたが、デビューはできなかった。その理由として「日本プロレス関係者に『中学を卒業してから来るように』と言われたから」とも、「先輩レスラーに無理やり飲酒させられ身体を壊したから」とも言われる。また日本プロレス時代、同じ新弟子として藤波辰爾と出会う。 その後1971年の国際プロレス第1回新人選手公募から選出され入団。1972年9月9日に群馬県藤岡市立体育館の米村勉戦でデビュー。 1973年になると全日本プロレスとの対抗戦にも出場した他、遅れて入団した大卒新人の鶴見五郎と共に清美川梅之預かりの海外武者修行に出され、カナダで一緒になった吉田光雄と3、4ヶ月間タッグを組んだこともある。しかし、遠征先ではパスポートの提示を求められることが少なくなく、18歳未満という理由で試合に出場できないこともあったという。1976年7月に凱旋帰国し、国プロと東京12チャンネル主催のファン投票によって新リングネームを『剛竜馬』と決定する。葉書に目を通していた菊池孝によれば、リングネームは、遠征先であったフランスが開発した超音速旅客機コンコルドにあやかった「コンコルド八木」が一番多く、ヒロ・マツダの名を取った「ヒロ・八木」のリングネームもあったという。後に剛と同様にリングネームを公募した長州は、「『剛竜馬』のような格好いい名前にしてくれ」と関係者に懇願したという。若く容姿にも恵まれた人気者で、次代の国プロを背負う期待の星と目されていた。当時の髪型は後にトレードマークになる角刈りではなく、七三分けだった。また、別の時期には長髪にもしていた。 1976年11月25日には、初の金網デスマッチに挑戦し(対ジプシー・ジョー)、1977年には「第6回IWAワールド・シリーズ」並びにIWAワールド・シリーズと同時開催されたIWA世界タッグ王座争奪トーナメントに出場。IWAワールド・シリーズはBブロック6位に終わり、IWA世界タッグ王座争奪トーナメントはサンダー杉山とのコンビで出場したものの、準決勝でビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスに敗退している(トーナメントはクイン&ヘスが優勝)。 その一方で、試合運びが単調で、技を失敗することも少なくなかった。それ故に、マッチメーカーであったグレート草津によるマッチメイクにより、前座に甘んじることが多くなった。剛は原進入団直後から、国際退団をほのめかすようになり、1978年に予定されていたカナダ・マリタイム地区遠征も拒否した。マイティ井上が慰留したものの、剛は受け入れるつもりはなかった。
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国際プロレス時代
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1964年に、17歳でボディビルを始め、1969年にミスター兵庫コンテスト準優勝を受賞。同年8月にボディビル界との繋がりが強かった国際プロレスに入団、プロレスラーに転向する。デビュー戦は同年9月20日の岡山県高梁市民会館における対本郷清吉戦で、反則負けを喫している。後にパートナーとなるマイティ井上も、同じボディビルジムに通っていた。入門と同時にグレート草津の付き人を務める。 浜口には格闘技の経験がなく、身長も180cm未満でレスラーとしてはけっして恵まれた体格とは言えなかった。だが当時の国際プロレスにはカール・ゴッチやビル・ロビンソンといった、後に名コーチとしても名を馳せるレスラーが出入りしており、彼らから基礎を教わることでレスラーとしての礎を築く。またテクニシャンで知られる同門の寺西勇や井上の動きを見習い、頭脳的(ときに狡猾)なプレーを自らのものとする。 1970年には1964年東京オリンピックレスリング金メダリストの渡辺長武から渡辺自身の代名詞であった「アニマル」を授けられ、吉原功が命名する形でリングネームをアニマル浜口に改める。 1972年に海外修行で渡米し、ディック・ザ・ブルーザーが主宰するインディアナ州インディアナポリスのWWAへ遠征。ヒゴ・ハマグチ (Higo Hamaguchi) のリングネームでミツ荒川のパートナーとなり、膝下までの田吾作タイツに下駄ばきの日本人ヒールとして、ブルーザー、ウイルバー・スナイダー、カウボーイ・ボブ・エリス、ムース・ショーラック、セーラー・アート・トーマスなどのトップスターと対戦した。 1973年の帰国後は国際プロレスのメインイベンターの1人となり、同年7月9日には大阪府立体育館にてバディ・ウォルフを相手に金網デスマッチに初挑戦。以降、ディック・マードック、ブラックジャック・マリガン、ビル・ワット、スーパースター・ビリー・グラハム、バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンスなどの大物外国人ともシングルマッチで対戦したが、しばらくタイトルには恵まれず、1976年に2度目の海外修行に出発。カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングではリッパー・コリンズをマネージャーに迎え、ミスター・ヒトと組んでインターナショナル・タッグ王座を獲得。プエルトリコのWWCではゴードン・ネルソンをパートナーに、アントニオ・ロッカ&ミゲル・ペレスから北米タッグ王座を奪取した。 1977年、IWAワールド・シリーズの第6回大会に合わせて帰国したと同時に、心機一転コスチュームをワンショルダータイツに変更。ワールド・シリーズと同時開催となったIWA世界タッグ王座争奪トーナメントでは寺西とのコンビで出場して決勝まで進出。3月25日に行われた決勝でビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスに敗れたものの、翌3月26日、草津との新コンビでクイン&ヘスを破りIWA世界タッグ王座を獲得。以降、ワイルド・アンガス&マスクド・インベーダー(プリティボーイ・アンソニー)、ジプシー・ジョー&キラー・トーア・カマタ、エリス&ザ・キラーなどのチームを下して王座を防衛し、末期国際プロレスの中心選手として活躍した。 1978年1月5日にザ・サモアンズ(アファ&シカ)に王座を奪われるが、3週間後の1月20日に草津とのコンビで奪回。以後、1979年1月21日に新日本プロレスのヤマハ・ブラザーズ(山本小鉄&星野勘太郎)に敗れるまで、アレックス・スミルノフ&ヒト、スミルノフ&ジ・アトミックなどを相手に4回防衛した。1979年2月23日に同郷の井上との新コンビでヤマハ・ブラザーズから王座を奪回。井上とのチームでは、これ以前に全日本プロレスとの交流戦でアジアタッグ王座も獲得しており、和製ハイ・フライヤーズ(オリジナルのハイ・フライヤーズはAWAのグレッグ・ガニアとジム・ブランゼル)、浪速ブラザーズなどと呼ばれた名コンビだった。このコンビではサモアンズ、上田馬之助&マサ斎藤、大木金太郎&上田、ジョー&キラー・ブルックス、ジョー&キラー・カール・クラップ、マイク・ジョージ&ボブ・スウィータンら強豪チームを退けて王座を防衛している。1979年11月14日の上田&ヤス・フジイや1980年7月25日のスパイク・ヒューバー&ロッキー・ブリューワーとの防衛戦は、金網タッグ・デスマッチで行われた。 その間、1979年8月26日のプロレス夢のオールスター戦では、後の盟友長州力とコンビを結成し全日本プロレスの極道コンビ(グレート小鹿&大熊元司)と対戦した。1980年3月31日、後楽園ホールでの新日本プロレスとの対抗戦で、井上と組んで木村健吾&永源遥を相手にIWA世界タッグ王座の防衛戦を行ったが、木村のプランチャを浴びた際、観客がこぼしたビールで足を滑らせて後頭部を床に打って失神、右足首も捻挫して長期欠場するとともに(試合は井上&浜口の反則勝ち)、井上とのコンビで保持していたIWA世界タッグ王座を返上した。翌1981年4月には肝臓疾患のため欠場し、前年7月15日に井上と組んで新日本(ストロング小林&永源)から奪還したIWA世界タッグ王座をまたも返上してしまう。国際プロレスが活動を停止した同年8月も欠場中のまま迎えた(欠場中のシリーズのポスターにおいても浜口の写真が掲載されていた)。
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国際プロレス時代
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「ジェリー・モロー」の記事における「国際プロレス時代」の解説
ジャック・クレインボーンことエドワルド・エティフィア(エディ・モロー)の実弟。パリのレスリング・ジムを経て、1971年に兄が日本での主戦場としていた国際プロレスに留学入門し、同年7月6日の『ビッグ・サマー・シリーズ』開幕戦において、エティフィア・ジェラールの名で佐野浅太郎を相手にデビュー。続く『ダイナマイト・シリーズ』より、トリニダード・トバゴ出身の黒潮太郎(テディ・ハーバード)に次ぐ留学生第2号であることから、稲妻二郎のリングネームが与えられた。 以降は日本人陣営の一員としてミッドカード戦線で活動したが、「正体不明の黒人覆面レスラー」という触れ込みのもと、ザ・ワイルド・ヌウやザ・キラーなどのマスクマンに変身し、外国人陣営としてシリーズに参戦したこともある。1974年6月に変身したワイルド・ヌウとしては、7月13日に気仙沼にてラッシャー木村と金網デスマッチを行っている。この変身は一時的なもので、ほどなくして素顔に戻り、1975年1月には寺西勇とIWA世界ミッドヘビー級王座を争った。 1975年4月よりカナダに遠征し、マッドドッグ・バションが主宰していたモントリオールのグランプリ・レスリングにて、本名のジェラルド・エティフィアとして兄のエドワルド・エティフィアとのタッグチームで活動。日本同様にベビーフェイスのポジションで、クルト・フォン・ヘス&セーラー・ホワイトや、メキシコから来たビジャノ1号&2号などのチームと対戦した。11月からはエドワルドはエディ・モロー、ジェラルドはジェリー・モローと名乗り、スチュ・ハートが主宰していたカルガリーのスタンピード・レスリングに参戦。11月7日のタワーリング・インフェルノ戦で現地デビューした後、12月26日にエディとのコンビでミスター・ヒト&ギル・ヘイズからインターナショナル・タッグ王座を奪取、翌1976年2月20日にリッパー・コリンズ&ドン・ガニアに敗れるまで戴冠した。 タイトル陥落後は日本に一時戻り、1976年3月28日に蔵前国技館で行われた全日本プロレスとの対抗戦にも出場、園田一治から勝利を収めている。5月開幕のシリーズでは、フリーとして日本に逆上陸してきた上田馬之助とも対戦した。同年8月より再びカルガリーに渡ってエディとのモロー・ブラザーズを再結成し、ヒト&ヒゴ・ハマグチの悪党日本人コンビやコリンズ&ラリー・シャープのボディシャス・ブロンズとインターナショナル・タッグ王座を争っている。 以降も日本とカナダの両国での活動を続け、1977年2月開幕の『第6回IWAワールド・シリーズ』では、同時開催されたIWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにも兄と組んで出場したが、1回戦でサンダー杉山&剛竜馬に敗退、日本での王座戴冠は果たせなかった。4月からはジン・キニスキーが主宰していたバンクーバーのNWAオールスター・レスリングに登場し、シングルではジョン・アンソンやマイク・シャープ・ジュニアと対戦。エディ・モローとのコンビでは7月11日にNWAカナディアン・タッグ王座を獲得したが、8月22日にブラック・アベンジャー&テキサス・アウトロー(ボビー・バス)に敗れて陥落、この日が兄との最後のタッグとなったという。 1977年9月にバンクーバーを離れて西ドイツに遠征し、ミスター・ヒト、ビッグ・ジョン・クイン、イワン・ストロゴフ、パット・ローチなどが参加したハノーバー・トーナメントに出場。翌1978年はカルガリーに戻り、CFL出身の黒人選手ジョージ・ウェルズを新パートナーに、2月17日にヒト&ミシェル・マーテルからインターナショナル・タッグ王座を奪取、ヒト&ミスター・サクラダの日本人チームとも抗争を展開した。 1978年7月には国際プロレスの韓国遠征に参加。最終戦の7月28日、ソウルにて当時大木金太郎が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。その後もカナダと日本を行き来し、売り出し中だった阿修羅・原の教育係も吉原功社長から任されている。1979年11月からは鶴見五郎&大位山勝三の独立愚連隊との抗争が勃発、11月7日の弘前大会では鶴見との髪切りマッチに勝利し、鶴見を坊主頭にした。 1980年はバンクーバーにてスタン・スタージャックらと対戦した後、マイク・ジョージやジョー・ルダックが来日した4月開幕の『ビッグ・チャレンジ・シリーズ』に出場、5月16日の厚木大会での、原と組んでの独立愚連隊とのタッグマッチが国際プロレスにおける最後の試合となった。
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