日本プロレス時代とは? わかりやすく解説

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日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:31 UTC 版)

ジョー樋口」の記事における「日本プロレス時代」の解説

少年時代から柔道の道に進み終戦後進駐軍柔道教えていた。後に日本プロレス入ってから外国人係(外国人選手世話担当するになったのは、この時期に身に着け英語力が元となった1955年よりプロレス転向し山口利夫らが立ち上げた全日本プロレス協会活動する団体崩壊後は、吉村道明とともに日本プロレス移り選手として活動し1960年引退したその後はいったんプロレス業界から離れるが、1963年から外国人係兼通訳としてプロ就職する当時外食産業洋食店がまだ普及していなかった頃で、料理好きを生かして遠征中に選手滞在する旅館では無理を言って厨房借りステーキサラダスープなど洋食作って来日外国人選手喜ばれた(家業卸問屋海外とも取引していたため、幼い頃から当時としては珍しい西洋文化接していた)。その評判は日プロ総帥力道山の耳にも入り「わしにも食わせろ」と言わしめたほどで、興行中にもかかわらず会場出て準備始めていたという。 また、大食漢のバロン・ガトニに「腹が減ったなんとかしてくれ」と深夜叩き起こされコンビニエンスストアファミリーレストランもない1960年代の頃のこと、食事出来る場所を探して2人夜の街さまよい歩いたこともあったという。 1966年より沖識名らを継いでレフェリー兼務する。沖がトラブル巻き込まれたため、代役として上がったのが理由だった。 1967年12月6日東京体育館ジャイアント馬場クラッシャー・リソワスキーインターナショナル・ヘビー級選手権試合が行われ、両者血だるま壮絶な死闘の末2-13本目は反則)で馬場勝利するが、その東京体育館での試合後とその翌年1968年1月3日蔵前国技館での馬場対リソワスキーの再戦インターナショナル・ヘビー級王座決定戦)の後、クラッシャー・リソワスキー当時プロレス実況アナウンサー務めていた日本テレビ徳光和夫インタビュー行った際、樋口がリソワスキーの通訳務めた映像それぞれ現存する日本プロレス当時には、海外遠征する所属日本人選手世話役として同道することもあった。アントニオ猪木1971年ロサンゼルスジョン・トロス勝利してユナイテッド・ナショナルヘビー級選手権獲得した試合猪木セコンド務めたのも樋口であった

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日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 08:10 UTC 版)

アジアヘビー級王座」の記事における「日本プロレス時代」の解説

1955年11月22日日本プロレス開催したアジア選手権大会優勝者である力道山初代王者として誕生したアジアタッグ王座同じくアジア選手権優勝者初代王者として誕生している。力道山1958年8月インターナショナル・ヘビー級王座獲得しルー・テーズ初代王者とする同王座の方を格上したためアジア王座はラッキー・シモノビッチ、ダン・ミラーロニー・エチソンなどを相手に8回防衛したとどまった1963年力道山死後、いったん空位となる。 1968年11月9日力道山同じく朝鮮半島出身(ただし力道山については当時公表されていなかった)の大木金太郎が、韓国ソウル奨忠体育館行われた王座決定戦バディ・オースチン破り第2代王者となる。大木ビル・ドロモ敗れて転落したのをはさみ、1972年10月ジョー・ハミルトン戦まで23回の防衛果たした大木戴冠当時は、ジャイアント馬場インターナショナル王座に次ぐ二番手のシングルタイトルであり、防衛戦相手にはクラッシャー・リソワスキードン・レオ・ジョナサンキング・イヤウケアブルート・バーナードといった大物もいるが、概して馬場インターナショナル王座アントニオ猪木UNヘビー級王座比べれば一段落ちる顔触れであった同年12月大木インターナショナル王座獲得すると、インターナショナル王座防衛戦優先されアジア王座の防衛戦行われなくなった1973年4月日本プロレス崩壊および大木らの全日本プロレス入団王座はしばらく休眠態となる。その後全日本離脱した大木韓国インターナショナル王座防衛戦を行うようになるが、アジア王座は依然休眠状態が続いた

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日本プロレス時代(新人時代 - 全盛期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:57 UTC 版)

ジャイアント馬場」の記事における「日本プロレス時代(新人時代 - 全盛期)」の解説

1960年9月30日金曜日)、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし股裂きギブアップ勝ち。なお、同日猪木デビュー戦行っているが、猪木大木金太郎頭突き連打をくらいフォール負けしている。デビュー直後芳の里が苦手であり、同年18勝7敗を記録しているが、そのうち5敗は芳の里からである。 1961年には、ワールドリーグ力道山優勝争ったミスターXビル・ミラー)ら、強豪外国人レスラー連との試合組まれいずれも勝利することは出来なかったものの、試合内容評価した力道山により渡米して武者修行を命ぜられ、同年7月芳の里マンモス鈴木らとアメリカに渡る。短期間メジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し数々タイトル挑戦したアメリカ時代リングネームは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババ、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアント。 とある試合戦ったアート・トーマスマネージャーフレッド・アトキンスグレート東郷馬場元に引き抜きアメリカで師匠とした。馬場アトキンスの元で多くを学ぶことになった1962年6月シカゴにおいて、NWA世界ヘビー級王者だったバディ・ロジャース勝利し、一旦NWA世界ヘビー級ベルトを腰に巻きその後連戦(5連戦組まれていた)で防衛を果たすも、第4戦目で観客リング乱入する騒ぎ起こりその日試合全てコミッショナー預かりになり、また、第5戦目の試合前の控室で、ビル・ミラーカール・ゴッチが、バディ・ロジャース急襲して外傷を負わせたため、第5戦目は行われず結局、このときは正式にNWA世界ヘビー級王者として記録されなかった。 1963年2月にはロサンゼルスにて、WWA世界ヘビー級王者だったザ・デストロイヤータイトルマッチ行いデストロイヤー勝利したものの、反則勝ちであったため、規定によりタイトル移動しなかった。 この遠征時代馬場は、飲み屋ジュークボックス唯一入っていた日本の楽曲だった、坂本九の『SUKIYAKI上を向いて歩こう)』を流していたという。後年全日本プロレス試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する第五回ワールドリーグ戦出場外人レスラー招聘交渉主目的渡米していた力道山とともに1963年3月凱旋帰国この際新聞社アメリカ時代リングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する馬場は、それまで日本人レスラーにはみられなかったスケール大きアメリカンプロレススタイルで、キラー・コワルスキーパット・オコーナーなど当時超一流外国人レスラー名勝負演じまた、師匠力道山との師弟タッグ等で活躍して初めて正式出場したワールドリーグ戦でも好成績を残すなど、初渡米武者修行成果ファンマスコミ強烈にアピールし人気博した同年10月に再びアメリカ遠征同年12月力道山死去し遠征中のアメリカから帰国する帰国の際にグレート東郷から、「力道山死後の日プロ先行き怪しい、高額年俸当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカ定住するように」と勧められたが、金銭問題ではないからと断り帰国している。アメリカでの生活売れっ子だったレスラー怪我をして試合出来なくなり何の保障もないまま生活苦陥る姿も見ているので、いくら高額年俸稼いで同じようになったときのことを考えて断ったという理由もあった。 1964年には、アメリカでNWAルー・テーズ)、WWWFブルーノ・サンマルチノ)、WWAフレッド・ブラッシー)の当時三大世界タイトル連続挑戦した。これは世界強豪レスラー誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、馬場世界的名声基盤形成した同年4月凱旋帰国し、翌月には豊登とのタッグで第11アジアタッグ王座獲得力道山亡き後の日プロ豊登馬場二枚看板支えることになった1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザー反則勝ちし、力道山以来エース象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座獲得した初代ルー・テーズ二代目力道山三代目馬場)。ベルトそのもの馬場王者戴冠機に新調され力道山所有していたベルトは、後の全日本プロレス旗揚げ時に馬場寄贈されるまで、力道山家により保管された。ブルーザー相手に、1-1ドローながら初防衛果たし名実ともにプロエースとなる。同年12月豊登放漫経営責任取りプロ社長辞任し日本プロレスから去った1966年2月ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターヘビー級王座防衛し馬場実力はさらに高く評価された。また、同年11月5日には、吉村道明とのコンビで、フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組を破り、後に、日本マット界を代表する看板タッグ王座となるインターナショナル・タッグ王座獲得している。以後馬場は、当時世界超一流強豪レスラー相手に、インターヘビー級王座守り抜き力道山のインターヘビー級連続防衛記録更新しエースとして君臨し続ける。ワールドリーグ戦においても通算6回の優勝果たし力道山記録更新している。馬場とともにプロ黄金期支えた猪木は、両者実力比較ファンマスコミの間で取り沙汰されることが顕著となった1971年ワールドリーグ戦決勝戦中、インターヘビー級への挑戦表明したが、時期尚早として却下された。 1966年ハワイで、豊登猪木を「馬場がいる限り日本プロレスエースはなれないと」口説いて東京プロレス引き抜く猪木略奪事件起こり猪木東京プロレス引き抜かれるものの、短期東京プロレス内部分裂起こしたため、猪木は翌1967年5月に日プロ復帰復帰の際には「猪木豊登騙された」からと寛大な措置取られたことから、猪木本格的にタッグを組むようになり、1967年10月インターナショナル・タッグ王座獲得した際にBI砲という呼称定着したBI砲当時プロレス史上最強タッグ一つ称えられ圧倒的な勝率誇り、インタータッグ王者チームとして看板タッグとなった。その他、この時期馬場組んだタッグチームとしては、坂口征二組んだ東京タワーズなどがある。 日本テレビ実況アナウンサー清水一郎は、1970年頃までは馬場を「ジャイアントゥ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった

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日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 08:36 UTC 版)

豊登道春」の記事における「日本プロレス時代」の解説

1954年10月大相撲先輩力道山率い日本プロレス入団11月千葉県茂原市にて宮島富雄相手デビュー1956年10月全日本ウェート別選出場し準決勝進出頭角を現すその後力道山タッグパートナーとして海外遠征同行したことで実力をあげ、1960年6月7日力道山組んでダン・ミラー&フランク・バロアを破り第3アジアタッグ王者となる。同王座力道山死後も、吉村道明ジャイアント馬場パートナー3回獲得した1963年力道山の死を受け、1965年には日本プロレス2代目社長に就任ポスト力道山エースとして1964年ジン・キニスキー1965年フレッド・ブラッシー破り、春のワールドリーグ戦連覇果たした1964年12月4日東京都体育館にてザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級王座奪取したが、デストロイヤー帰国後も王者として防衛戦続け日米2つWWA王座混在する事態となった飛行機嫌いの豊登渡米渋りWWA本拠地ロサンゼルスでの防衛戦行おうとしなかったため、WWA本部豊登王座奪取無効にしたとされる)。以降アメリカではペドロ・モラレス経てルーク・グラハムタイトル渡り最終的に1965年9月20日ロサンゼルス遠征してきた豊登グラハム下して統一王者となったが、豊登王座戴冠WWAタイトル史には記録されていない生涯シングル王座戴冠はこのWWA世界ヘビー級王座のみである。 1965年末、生来ギャンブル好きから来る数々横領発覚して吉村道明幹部から非難を受け、ジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級王座獲得力道山死後封印されていたのが馬場シングル王座与えるために復活)によりエース地位危うくなったこともあって社長退任日本プロレスからも退社することになった

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