田中米太郎とは? わかりやすく解説

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田中米太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 13:08 UTC 版)

田中米太郎
プロフィール
リングネーム 桂浜
身長 176cm
体重 100kg
誕生日 1928年1月2日
死亡日 (1995-08-31) 1995年8月31日(67歳没)
出身地 高知県
所属 日本プロレス
新日本プロレス
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 力道山
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田中米太郎(たなか よねたろう、1928年1月2日 - 1995年8月31日)は、日本プロレスラー。元二所ノ関部屋力士。プロレス時代には桂浜のリングネームを名乗っていた。

人物

高知県の出身。大相撲二所ノ関部屋では「桂浜」の四股名で土俵に上がっており、力道山の付き人をしていた[1]序二段まで昇進したのちに廃業し、力道山率いる日本プロレスへ入門する。巨人軍から入団した馬場正平(ジャイアント馬場)のデビュー第1戦の対戦相手としても知られている。ちなみに試合は馬場に敗戦した[1]。また、アントニオ猪木のデビュー第3戦目で相手を務めて初白星を献上している。猪木は自身の著書で田中について「道場では一番弱かった」と回想している[1]

力道山とは親交が深く、大相撲時代を含めてプロレスラーになってからも側近(付き人頭[2])として知られた。

力道山が東京都中央区日本橋浪花町(現在の日本橋富沢町)に道場を開設した際に、田中はちゃんこ番を務めている。菊池孝によると「ちゃんこの腕前は日本マット界随一だった」と言われており、田中がちゃんこを作った際に力道山は、わざわざ道場に出向いて来るほどであったという[2]。その後1961年(昭和36年)春に、港区赤坂台町(現在の赤坂)へ合宿所が移転した際、田中は寮長に就任している[2]

力道山が逝去した後にレフェリーへ転向し、ジョー樋口と共に日本プロレスの前座試合を裁いていた。

1973年4月1日坂口征二小沢正志木村たかし・大城大五郎と共に新日本プロレスへ移籍する。そのまま引き継いでレフェリーを務めた。

関連人物

脚注

  1. ^ a b c アントニオ猪木自伝(新潮文庫)
  2. ^ a b c ベースボール・マガジン社「週刊プロレス」 2003年12月19日号 P78より



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