新日本プロレス時代とは? わかりやすく解説

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新日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:19 UTC 版)

ストロング小林」の記事における「新日本プロレス時代」の解説

1973年11月30日マクダニエルからIWA世界ヘビー級王座奪還し1974年1月14日1月19日カウボーイ・ビル・ワット相手2度防衛成功団体屋台骨として順調に活躍していた矢先、『'74パイオニア・シリーズ最終戦当日である1974年2月1日国際プロレス辞表提出同年2月13日小林フリー宣言してジャイアント馬場アントニオ猪木への挑戦表明しIWA王座返上して国際プロレス退団した。この事件小林引き抜き画策していた新日本プロレス仕組んだシナリオであった目されているが、離脱背景にはマッチメーカーグレート草津との確執があり、小林自身も「誰か横槍吉原社長に冷遇されるようになり、以前から離脱考えていた」などと語っている。小林国際プロレス退団直後新日本プロレスすぐさま動き新間寿小林との極秘交渉開始した一方で全日本プロレスも『月刊プロレス編集長であった藤澤久雄依頼して新日本参戦阻止するよう依頼した。これを受けて同年3月8日には吉原社長会見上で小林契約違反主張し国際プロレス小林対し移籍金要求するという事態に発展したが、東京スポーツ新聞社仲介入り東京スポーツ1000万円を国際プロレス支払うことで和解一時的に小林東京スポーツ所属レスラーとなる。小林国際プロレス退団後、TBSTWWAプロレス中継』における小林出場試合中継問題なく同年2月16日3月9日3月16日それぞれ放送された。 同年3月19日蔵前国技館において猪木とのシングルマッチが行われ、猪木保持するNWF世界ヘビー級王座挑戦日本人選手同士団体エース同士タイトルマッチとして、大きな話題呼んだ同門対決タイトルマッチとしては、小林1973年7月9日大阪府立体育館においてラッシャー木村相手IWA世界ヘビー級王座防衛戦行っている)。結果猪木ジャーマン・スープレックス・ホールド敗れる。なおこのときのジャーマン猪木ブリッジの際に首だけで二人分体重支え猪木レスラー人生の中で最も危険かつ美し角度決まったといわれている。試合当日は、新間同伴の上会場入りしたという。その後WWWFなどへの海外遠征経て同年12月12日同じく蔵前国技館再戦が行われたがまたもや敗退1975年5月敗戦後公約どおり新日本へ正式入団した。 なお、WWWFではフレッド・ブラッシーマネージャーヒールとして活動し1974年9月21日フィラデルフィアにてブルーノ・サンマルチノWWWFヘビー級王座挑戦ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦では、10月7日キラー・コワルスキー組んでアンドレ・ザ・ジャイアント&ビクター・リベラ対戦11月18日にはペドロ・モラレスとのシングルマッチ組まれた。WWWF入りする前の1974年5月から7月にかけてはNWAフロリダ地区エディ・グラハム主宰チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)を短期間サーキットし、韓国人選手パク・ソンタッグパートナーとして覆面レスラーの「コリアン・アサシン(The Korean Assassin)」に変身覆面太郎以来となるマスクマン扮した(マネージャーゲーリー・ハート)。同時期、フロリダ遠征してきた馬場とも邂逅しており、その際全日本プロレス入り打診されたという。しかし、前述経緯から小林東京スポーツ恩義感じており、新日本プロレスリング上がることにした。 新日本プロレス入団後坂口征二タッグ組み1976年2月5日NWA北米タッグ王座獲得以後3年2か月渡りモラレス&リベラコロフ&スーパースター・ビリー・グラハムパット・パターソン&ラリー・ヘニングスタン・ハンセン&ザ・ハングマンブルート・バーナード&キラー・カール・クラップピーター・メイビア&ヘイスタック・カルホーンボブ・ループ&クルト・フォン・ヘスなどの強豪チーム相手防衛タイガー・ジェット・シン&上田馬之助とも同王座巡り抗争繰り広げ新日本プロレスにおいて猪木坂口に次ぐ主力レスラーとして人気博した当時キャッチフレーズは「怒濤怪力」。しかし、腰痛悪化もあって1979年には坂口パートナーの座を長州力に譲るなど、徐々にトップグループから退いていった。なお、1978年以降新日本プロレス国際プロレス対抗戦に際して新日本一員として国際勢と戦っており、1979年8月26日プロレス夢のオールスター戦では、当時国際エースだった木村との久々対戦実現1980年6月29日には、アニマル浜口返上して空位となっていたIWA世界タッグ王座の新王者チーム決定戦永源遙組んで出場ジプシー・ジョー外国人選手乱入マイティ井上&寺西勇下し8年ぶりに同王座返り咲いたが、半月後の7月15日井上&浜口奪還された。 新日本プロレスでは役員にも就任するが、1981年10月16日大分県立総合体育館での試合星野勘太郎組んでアブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレン戦)を最後に腰痛理由長期欠場し、レスラー活動セミリタイア態となる。同時に俳優・タレントとして活動始め1982年映画伊賀忍法帖』に出演した際、役名が「金剛坊であったことから「ストロング金剛」に改名しスキンヘッドとなる。以降試合出場することはなかったが、同年9月21日大阪府立体育館における猪木vs木村髪切りデスマッチにおいて観客席から国際軍団加勢し場外乱闘の際にセコンド浜口ハサミ渡して観客ヒート買ったその後復帰期待されたものの、参戦果たされぬまま1984年8月26日福生大会にて引退興行が行なわれ、正式に引退した

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新日本プロレス時代

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石澤常光」の記事における「新日本プロレス時代」の解説

1992年4月正式に新日本プロレスに正式入団9月21日石沢常光("ざわ"は新字体)の名で、金本浩二戦でデビューコーチ務めた馳浩からは「全く運動神経のない男」と表現される反面同期の中では受身習得早く[要出典]、「筋肉反射神経は、プロレスラー限らず色んなスポーツ選手見てきた中で抜群」と評価している。 1996年3月第7回ヤングライオン杯にて優勝このさい優勝賞金としてセレモニー手渡され小切手型のボード半分折り決勝で敗った永田裕志片方渡して健闘称えるという、後のカシンの姿からは想像できない振る舞い見せている。

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新日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 19:13 UTC 版)

ケンドー・カシン」の記事における「新日本プロレス時代」の解説

1992年4月正式に新日本プロレスに正式入団9月21日石沢常光("ざわ"は新字体)の名で、金本浩二戦でデビューコーチ務めた馳浩からは「全く運動神経のない男」と表現される反面同期の中では受身習得早く[要出典]、「筋肉反射神経は、プロレスラー限らず色んなスポーツ選手見てきた中で抜群」と評価している。 1996年3月第7回ヤングライオン杯にて優勝このさい優勝賞金としてセレモニー手渡され小切手型のボード半分折り決勝で敗った永田裕志片方渡して健闘称えるという、後のカシンの姿からは想像できない振る舞い見せている。

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新日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 21:03 UTC 版)

剛竜馬」の記事における「新日本プロレス時代」の解説

「'78スーパー・ファイト・シリーズ」開催中1978年4月16日行われた広島県東広島市大会にて、選手会長ラッシャー木村に対して国際プロレス退団申し出たが、木村からこの話を聞いた吉原功は、4月18日東京から巡業が行われていた長崎県島原市向かい、剛と話し合いの席を持つことになった。その席で吉原は、「剛が国際退団し新日本プロレスに行くという噂が出ている」と選手に対して発言したその後、剛と吉原並びに選手会との話し合いが行われ、剛は国際退団するつもりはないと弁明したが、草津井上寺西勇激怒し井上は「新日本行った暁にはぶっ殺す」と発言したという。剛は当日島原市体育館大会カードから外され国際から逃げかのように5月3日シリーズ最終戦千葉県君津駅前広大会まで、そのままシリーズ欠場した。剛は、高杉正彦若松市政別れ挨拶行い高杉若松は、島原市内のバス停留所で、長崎空港行きバス乗車した剛を見送ったその後東京へ戻らずに、兵庫県西宮市実家身を寄せ1978年5月5日、剛は国際プロレス退団5月11日全日本プロレス「'78スーパー・パワー・シリーズ」大阪府立体育館大会突如現れフリー宣言行った。翌5月12日ジャイアント馬場吉原連絡入れたために、国際は剛がなぜ全日本大阪大会出現したのか、説明求められることになった。 剛は1978年5月18日マツダ在住しているフロリダ州タンパ渡った当時売り出し中の藤波辰巳中心にジュニアブームを起こしていた新日本プロレスに、藤波とのシングルマッチ直訴同年6月16日放送テレビ朝日ワールドプロレスリング』に剛がマツダとともに登場しテロップには「剛竜馬藤波挑戦!」と流れた。これを見ていた吉原激怒し同年6月28日高田馬場にあった国際プロレス事務所にて記者会見行い、「剛の出場停止仮処分申請東京地裁提出する」と発表した(後に仮処分申請却下)。剛も同年6月30日東京スポーツ対しタンパから国際電話にて反論声明出しその中で契約書には1回しかサインしておらず、国際との契約無効である」「国際給料遅配がすでに発生しており、父と妹2人生活費仕送りする身において厳しい状況置かれていた」「父が国際幹部大阪同年6月26日開催の「'78ビッグ・サマー・シリーズ」大阪府立体育館大会当日とされる)で話し合いの席を持とうとしたが無視された」などと、国際内部事情暴露した内容となった国際にとっては、1974年発生したストロング小林離脱劇の再現となった同年7月27日日本武道館11月30日広島県立体育館において、藤波保持するWWFジュニアヘビー級王座2度挑戦した11月にはマツダ率いる『軍団』の一員としてプレ日本選手権にも出場し杉山上田馬之助マサ斎藤共闘予選リーグ戦では長州からリングアウト勝ちを収めている。 その後タンパマツダのもとで再修行積み1979年10月2日大阪府立体育館での3度目挑戦ではコーナーポスト上からの場外プランチャ・スイシーダ放ち逆さ押さえ込み藤波に初勝利弱冠23歳WWFジュニアヘビー級王座奪取するも、蔵前国技館でのリターン・マッチ敗れ2日天下終わった。これにより、剛は藤波生涯ライバル定め新日本に正式入団する1980年3月31日には古巣である国際プロレス後楽園ホール大会逆上陸して阿修羅・原保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座挑戦同年の「MSGシリーズ」では予選トーナメント長州敗れるも、敗者復活戦木戸修破って決勝リーグ進出スタン・ハンセンアンドレ・ザ・ジャイアントダスティ・ローデスとも対戦したが、無得点最下位終わっている。 1981年テレビ朝日系列連続ドラマ警視庁殺人課』に菅原文太鶴田浩二梅宮辰夫東映配役と共に刑事役で第13話までレギュラー出演したが剛のみ途中降板し、俳優業はこの1作のみに留まった。 1981年8月国際プロレス崩壊し木村アニマル浜口寺西の3人は『国際軍団』として新日本参戦した同年9月23日木村浜口新日本田園コロシアムでの興行に姿を現し上で決意表明したと同時に、剛は浜口発した挑発最初ターゲットとされた。1982年5月には木村渡米帯同し、ロサンゼルス地区で『ライジング・サンズ』(ミスター・トヨ&ミスター・ゴー)を結成7月ラスベガスブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスからNWAアメリカス・タッグ王座奪取し同月9日ロサンゼルスヘクター・ゲレロ&マンド・ゲレロ敗れるまで戴冠した帰国後も精彩欠いて軍団入り認められず、同世代長州藤波谷津嘉章らから大きく後れを取りタイトルに絡むこともなく新日本前座戦線定着してしまう。一方で新人高田伸彦山崎一夫らを道場でしごき、鬼教官として怖れられていたという。 1984年の「'84新春黄金シリーズ」では、1月26日滋賀県大津市皇子山体育館大会でアブドーラ・ザ・ブッチャーにわずか46秒で地獄突き一発敗れたその後1月30日函館市民体育館大会からシリーズ最終戦である2月9日大阪府立体育館大会まで欠場したまま、5年9か月参戦していた新日本退団

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新日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:18 UTC 版)

ハルク・ホーガン」の記事における「新日本プロレス時代」の解説

1980年から1983年にかけて、日本では当時WWF提携していた新日本プロレス主戦場とする。初来日1980年5月の『第3回MSGシリーズ』。アメリカでスケジュール都合のためリーグ戦には参加せず初来日ながらシリーズ後半戦への特別参加という扱いで、ストロング小林から勝利を収めアントニオ猪木とのシングルマッチテレビ中継組まれた。当時1955年生まれ称しており、金色マントをまとい背中には黒い剛毛生やしていた。 2度目来日となる1980年10月には、タイガー・ジェット・シンに次ぐ外国人陣営の準エース格として、猪木保持していたNWFヘビー級王座挑戦スタン・ハンセンタッグパートナーとしても活躍し同年11月開幕の『第1回MSGタッグ・リーグ戦』では猪木&ボブ・バックランドチーム決勝争った1981年には、アブドーラ・ザ・ブッチャー新日本プロレス引き抜かれ全日本プロレスと『全日本プロレス中継』の放映局であった日本テレビによる外国人引き抜き工作ターゲットにされたことがあり、同年9月には全日本プロレスへの移籍が一旦発表された。実際に同年5月ボビー・ダンカン経由テリー・ファンク仲介契約書を交わす段階にまで至った。しかしホーガンはそれを新日本見せギャラ吊り上げ交渉使ったためご破算となったといわれている。和田京平によればその後テリー引き抜きターゲットホーガンからハンセン変更したという。その行動怒ったテリー京王プラザホテルホーガン殴り倒したとされているが、テリー自著否定している。 ハンセン全日本プロレス移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアット模したアックスボンバー右腕L字型曲げラリアットのように肘を相手叩きつける技)をフィニッシャー使用出演映画ロッキー3』の公開もあって本国同様に日本でも大ブレイクし、ハンセン代わる新日本看板外国人選手となる。外国人ベビーフェイスとして日本人陣営にも加わり猪木とのタッグブッチャーとの対戦実現した坂口征二とのタッグチームでは、キラー・カーン&ブラックジャック・マリガンとの日米混合スーパーヘビー級タッグマッチ行われた1983年開催された『IWGP決勝リーグ戦』にはアメリカ代表として参加し6月2日蔵前国技館行われた決勝戦では猪木アックスボンバーKOして優勝果たした1981年から始めた右手人差し指高々上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズ話題になり、リングコスチュームも黒のショートパンツ白字で「一番」と書いたものにする。「一番」と書かれたタンクトップTシャツハッピ発売された。以降 "ICHIBAN" はNo.1意味する語としてアメリカで有名な日本語1つとなった

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新日本プロレス時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 06:23 UTC 版)

金本浩二」の記事における「新日本プロレス時代」の解説

小学6年から柔道経験し大阪芸術大学芸術学部環境計画学科2004年度より環境デザイン学科)を卒業学生時代大阪芸術大学 柔道部所属)よりプロレスラー憧れて栗栖正伸トレーニングジム半年トレーニング積んで1990年6月新日本プロレス入門する11月7日和歌山岩出町立町総合体育館での小原道由戦でデビューした当初から「生涯ジュニアヘビー級)」を宣言する1991年メキシコ武者修行行き1992年帰国後「3代目タイガーマスク」に抜擢されるが、自身スタイルアクロバット主体とするタイガーマスクとのギャップ悩み1年もしないうちに覆面脱いだその後アメリカ遠征経て心機一転タイガーマスク時代磨き掛けた蹴り空中殺法ラフ殺法織り交ぜ開花1995年にはIWGPジュニアUWAジュニアの2冠王者となった1997年頃になると髪を茶髪染め上げ、よりハードヒット打撃ラフ殺法といったケンカファイトに磨き掛け始める。特にBEST OF THE SUPER Jr. などでインディーなどの他団体選手当たった際にはより怖さ見せ打撃危険な投げ技相手真っ向から叩き潰すようなスタイル多く選手金本との試合後、病院送りにあっている。対立関係にあった獣神サンダー・ライガーが「新日Jr象徴」であるなら、金本は「新日Jr強さ怖さ象徴」的存在であり、新日上がった団体ジュニア選手から試合で当たるのを恐れられた。 1998年BEST OF THE SUPER Jr.初戦でいきなり金本当てられWAR安良岡裕二試合開始からツバ吐きかけて奇襲仕掛けるなどの金本傍若無人なケンカファイトに圧倒され金本放ったフライング・ニールキックで右アゴ骨折その後泣き叫びながら立ち向かってくるボロボロの安良岡に対し金本は、雪崩式タイガースープレックスといった受け身取れない荒技繰り出すなど情け容赦なくいたぶり続けた試合は安良岡に一瞬の隙をつかれスクールボーイ大金星奪われるも、安良岡は金本からの一勝と引き換えに右アゴ骨折肩の負傷などで長期欠場追い込まれるあまりにも凄惨な試合内容激怒した安良岡のファン試合後、後楽園ホール駐車場向かい金本愛車を傷つけるなどの行為起こしている)。安良岡は一時復帰するも、怪我影響翌年引退した。 (後に自身YouTubeにて試合振り返り怪我をさせるつもりは無かった雪崩式タイガースープレックスも肩からでなく、回転してうつ伏せ受け身をとってくれれば思っていた。もし自分と試合引退繋がったとしたら、安良岡君に謝りたい語っている。) 同じく金本当たった南条隼人2011年自身ブログ当時金本との試合振り返っており「この試合映像は家にあるけどいまだに見れないよね…」、「絶対にいけないことなんだけど、情けない試合をした事よりも、とりあえず(金本さんとの試合が)終わった事への安堵感の方が大きかった…」と当時試合後の気持ち語っている。この金本一貫した激しファイトスタイル試合内容新日ファン支持集めていき、1999年頃になるとジュニアという飛び越え新日レスラー中でも屈指の会場人気を誇るようになるこの頃には金本入場時女性ファンから多く花束を貰うのが定番になっていた。 2000年5月5日新日本プロレス福岡ドーム大会でライガー計らいにより闘龍門JAPAN新日初参戦。"ライガー田中稔CIMA、スモー・ダンディ・フジ2000 vs 金本大谷晋二郎高岩竜一ケンドー・カシン" という豪華な8人タッグマッチ組まれた。ライガーとは対照的に金本当時空飛ぶホストクラブ」等と称されていた闘龍門勢の新日Jr参戦納得せず試合前から「病院送り宣言するなど怒り露わにした。試合ではCIMAらが真っ向から闘おうとせず金本がリングインすると下がって挑発するなどの行為繰り返した試合後の会見金本は、「実際試合やってみて、想像以下!実力クソも無いやつらが試合中ぺちゃくちゃ喋ってるだけ!ボケみたいな選手に、ボケみたいなファンがよ!」などと闘龍門勢を酷評した

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