新日本プロレス若手時代
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豊浦小学校時代に沢村忠の影響で格闘技を志し、乃木道場(山口県下関市長府)で柔道を始める。その後レスリングにも手を広げる。山口県立水産高等学校に入学するが、1年で中退。広島電通大付属高校3年生時に三重国体に75KG級の広島代表で出場。3回戦で福岡県代表の三井選手(後に福岡大学主将)に判定負け。三井選手は準々決勝で兵庫県代表の矢野伸一郎選手(関西学院高等部。後に関西学院大学主将)に敗れた。1975年7月に新日本プロレスに入門。入門の前に一度新日本を訪れているが、その時は新間寿から、身長が170cmを超えて体重が70kgになったら連絡するように促され、実際に身長が172cm、体重が72kgになってから再訪、そこで後楽園ホールで行われた試合に連れて行ってもらった。新間が新日本の弟子を独断で採用したのは佐山の時が初めてであり、アントニオ猪木からは最初「あんなちっこいの」呼ばわりされたが、その練習熱心さから次第に猪木も佐山を認めるようになった。1976年5月28日に魁勝司戦でデビュー。デビューしてからしばらくは連敗を重ねていたが、試合内容は良かったと言われている。入門2年目からは猪木の付き人になった。 1977年11月14日に行われた梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、全米プロ空手ミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下で対戦した。目白ジムで打撃トレーニングを積んで試合に挑んだ佐山だったが、リーチの差と寝技無しのルールに苦戦し、1Rこそ果敢にバックドロップや反り投げなどの投げ技を繰り出すが(ただし反則)、コステロにアマレスの経験があり受け身がとれた事と、ボクシンググローブ着用のためロックが甘く技が決まらず、2R以降はパンチ・キック・膝蹴りと一方的に攻めまくられ、毎ラウンド「ダウンしては立ち上がる」の繰り返しとなった。プロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの、6R終了まで良いところなく屈辱的な判定負けを喫した。 リング下ではアントニオ猪木、ストロング小林、ウィレム・ルスカらが観戦し、セコンドでは山本小鉄が鼓舞激励するというプロレスの威信をかけた試合だった。なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた(そんなところからこの試合に抜擢された)。 1978年にはEMLLを主催するサルバドール・ルテロの救援要請を受けたロスのプロモーター、マイク・ラベールから新日本プロレスに要請が届き、抜擢を受けキャリア2年でメキシコ・EMLLに派遣され、「サトル・サヤマ」のリングネームで活動。慣れない環境や食生活で、体重が20kg近く減るなどの苦労をしつつも、同団体ではNWA世界ミドル級王座を獲得し、一時期所属したUWAではグラン浜田とのタッグでも活躍した。フロリダのカール・ゴッチ道場を経由して1980年にはイギリスへ渡りブルース・リーの従弟こと「サミー・リー」のリングネームで東洋武術を彷彿とさせるスタイルのプロレスラーとして大活躍、立場は完全なベビーフェイスで決め技は日本とは違い風車式のバックブリーカーを多用した。後にイギリスへ渡った前田日明は、「サミー・リー」の弟というギミックで「クイックキック・リー」のリングネームで活躍したことからも明らかであるように、この「サミー・リー」の当地における人気は日本における「タイガーマスク」の人気に匹敵するものであった。 なお、漫画『プロレススーパースター列伝』にて描かれていた、メキシコ遠征時に名乗ったとされる、覆面レスラー「ティグレ・エン・マスカラド」や、目の回りに隈取りを施したペイントレスラー「ミスター・カンフー」はフィクションであり、実際はこれらのリングネームは使われておらず、一貫して素顔で試合を行っている。
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