新日本プロレス退団後
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2006年の契約更改でフロントから引退とコーチ就任を要請されるが、後藤がこれを拒否したため。1月27日、新日本プロレスを退団し、フリーランスとなる。退団に際し後藤は、「オファーがくればハッスルでもPRIDEでも出る覚悟である」と語った。ハッスルへは8月9日に「TG」のリングネームで参戦している。 後藤のフリー転向後の初参戦団体はキングスロードで、2月28日の後楽園ホール興行に登場した。ビッグマウス・ラウドに参加した時はリングネームを「マッド後藤」とし、ドッグ小原(小原道由)と「マッドドッグス」を名乗り、村上和成と手を組んだエンセンと抗争を繰り広げた。 5月4日には、DDTプロレスリングへ長井満也のタッグパートナーとして登場。新日入門当時の同期であったポイズン澤田JULIEと闘いを繰り広げた。澤田とは後にタッグを組み、「蛇界転生」した「後藤蛇つ俊」として参戦を続けた。 5月19日のZERO-ONE MAX大阪大会では、大森隆男の持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦した。プロ23年目にして初めてのシングル王座挑戦であり、大森を流血させて追い込んだが敗れた。 7月12日に藤波辰爾らが旗揚げした無我ワールド・プロレスリングへ参戦。9月15日に正式入団した。ただしこのとき、後藤は所属契約は交わしていない。以後、後藤は無我のリングを中心に活動する。 9月18日、無我ワールド・プロレスリング大阪ABCホール大会において大矢剛功とのバックドロップ同士の対決を行い、勝利した。 2007年11月、藤波が「無我にヒールは要らない」と発言したことに対する反論を11月22日付東京スポーツに掲載。11月29日、無我は「会社にとって不利益となりうる新聞記事掲載、発言、その他問題があった」として後藤との参戦を今後見送るというコメントを出したため、以後後藤の無我への参戦が消滅、後藤は事実上の追放となった。 その後、後藤は地元の愛知を中心に活動するDEPのほか、大分のFTO(ダークサイドFTO最高顧問)などローカル団体のリングを主戦場として上がっている。2008年には、小原とともに健介オフィスへ乱入したが、抗争へ発展する前にフェードアウトしている。 2010年に旗揚げされた天龍プロジェクトにも参戦している。 以後、2011年頃を最後にプロレスの試合を行っておらず、後藤も事実上の引退状態となっている。
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