新日本プロレス退団以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 19:48 UTC 版)
「エル・サムライ」の記事における「新日本プロレス退団以降」の解説
欠場中であった翌2008年2月、サムライは新日本プロレスを退団しフリーへ転向する。同月、サムライは全日本プロレスに登場し、NOSAWA論外、MAZADAから襲撃を受けていたカズ・ハヤシを救済、3月にはカズをパートナーにジュニアタッグリーグに出場。膝のケガは完治しておらず、ほぼ毎回のようにマスク剥ぎに遭うものの、なんとか決勝まで持ち越し、優勝決定戦で土方隆司&中嶋勝彦組と対戦。準優勝という結果に終わった。 同年6月10日、「武藤祭」へ素顔の松田納として登場する。木戸修、西村とのユニットである「オサム軍団」を結成し、NOSAWA、MAZADA、TAKEMURAの東京愚連隊と対戦。自らNOSAWAを下すとマスクを被り、土方の持つ世界ジュニア王座への挑戦を表明した。 同年6月、リアルジャパンプロレスに登場、グラン浜田と対戦して勝利すると勢いに乗り、表明通り土方へ挑戦するが、敗れて王座戴冠には至らなかった。試合後、GURENTAIが乱入し正規軍ともども混戦する中、ジュニアヘビー級リーグの開催が決定し7月、同大会三回目にして初参戦。結局2勝2敗・勝ち点4という結果に終わった。 同年8月、新日本プロレスの興行でもある「PREMIUM」の第3回大会に登場し、欠場中から数えて約1年1ヶ月ぶりに新日本関連のリングに姿を表した。さらに10月の第4回、12月の第5回にも連続出場。 2009年4月、メビウスに参戦。大原はじめを下し、第3代エル・メホール・デ・マスカラード王座を獲得する。9月にはプロレスリングFREEDOMSに参戦し、GENTAROの持つインディペンデントワールド世界ジュニア王座・VKF KING of WRESTLE NANIWAに挑戦するも、敗れる。 2010年1月、アメトーーク「俺達のゴールデンプロレスオールスター戦」(2010年1月7日放送)において、ザ・コブラ、スーパー・ストロング・マシンに続く悲劇のマスクマン第3弾として紹介され、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア決勝における二度に渡るマスク剥ぎによる素顔公開、大谷晋二郎からIWGPジュニアタッグベルトを強奪するも当時、現場監督であった長州に怒られてあっさり返してしまうエピソードなどが紹介された。この時、同番組に出演していたくりぃむしちゅーの有田哲平は、上記の長州に怒られて消沈した所でCMに行ったシーンについて「哀愁の漂い方が中間管理職レベル」とコメントしている。以降、ワールドプロレスリングでは哀愁のマスクマンと呼ばれるようになるに至った。リング上では同年5月、金本をパートナーに第一回スーパーJタッグに出場し優勝、同リーグ戦では第25代IWGPジュニアタッグ王者決定戦も兼ねており、同時に戴冠。しかし、7月前王者であった田口&プリンス・デヴィットのApollo 55に敗れ、王座から陥落した。 2011年7月、「流星仮面FIESTA」の「エル・サムライ25周年記念試合」にてNOSAWAを下し、第2代X-LAWインターナショナル王座を獲得する。 同年12月、スポルティーバエンターテイメント主催、「エル・サムライ、負けたらスポルティーバと契約」にて試合を行いクボタブラザーズに敗戦したため、同団体所属となった。以降は名古屋地区を中心に活動も、前述の怪我の影響から試合出場は限定的となる。
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